研究紹介

                                                       

  漢詩(五言律詩)

(関防印)    匪 薪   ひしん    *たきぎニ あらズ   (薪は火となる、還りて薪にあらず。
                                        灰は後、薪は先と見るべからず・・・。)

         【解釈】 薪の役目は燃えること。燃えたあとは灰になり、薪ではない。灰は薪の結果ではなく、
              其々、その時々の形態である。死は生の結果ではなく、其々の形態の違いだけである。
              だから、生きている形態の時に、生の出来ることをやらねばならないという教え。

  原文解読                     読み                    【解釈】

湖 岸 認 君 宅 湖岸 ニ 君宅 ヲ 認メ こがん ニ くんたく ヲ 認メ   湖岸に 君の家が見えたよ。
白 ホ 維 我 船 白ホ ニ 我船 ヲ 維グ はくほ ニ わがふね ヲ つなグ 日暮れに 私の船をつなぎ止めると
階 除 為 莞 爾 階除 莞爾 ヲ 為シ  かいじょ かんじ ヲ なシ    きざはしでニッコリと君は笑っている。
花 竹 品 キ 然 花竹 キ ヲ 品ス 然ニかちく き ヲ ひんス しかるニ 草花や竹(葦)が背が高く美しい。そうであるが、
玉 膾  呼 鮮 鯉 玉膾 鮮鯉 ヲ 呼ビ ぎょくかい せんり ヲ よビ    見事な「なます料理」は、新鮮な鯉を使っているからだね。
銀 絲 ケツ 嬾 蓴  銀絲 蓴 ヲ ケツ嬾ス  ぎんし ぬなほヲ けつらんス  銀色の糸で面倒くさそうにジュンサイを摘み取っている。
水 雲 中 共 酔 水雲ノ中 共 ニ 酔ウすいうんノ なか ともニ よウ  水や雲が流れるように、素直な気分で酔ってしまったよ。
此 楽 復 何 年 此 何年 モ 復 楽シこれ なんねんモ また たのシ こんなことが何年も続けば楽しいだろうな。
 

壬辰※1)      五月九日      過     禄郎※2)     実契    賦贈    頼 襄※3) 

みずのえたつ    ごがつここのか   すごす   ろくろう    じっけい  ふぞう   らいのぼる

1832年      5月9日に   禄郎と過ごした時の 約束を実行したので 贈り与える   頼 襄
【参考】?: 日暮れ、15時から17時ごろのこと
    維: 綱でつなぎ止めること 
   階除: きざはし、階段のこと
   莞爾: ニッコリ笑うこと
     ?: 背が高くて美しいさま
   玉膾: 見事な「なます」料理のこと
    蓴: ぬなほ、ジュンサイ(食用)
     ?: 摘み採ること、挟むこと
    嬾: 面倒くさそうにすること
※1)壬辰(みずのえ たつ)
*干支は、60年ごとに廻ってくる。
1952年   昭和27年
1892年   明治25年
1832年   天保 3年  5月9日
1772年   安永 1年
1712年   正徳 1年
1652年   承応 1年
1592年   文禄 1年
1532年   天文 1年

 ※2)禄郎(1796年〜1850年)54歳没  中川禄郎 1796年彦根に生まれ、京都にて、頼 山陽に
                   漢学を学ぶ。彦根藩主井伊直弼の時、1842年藩校の儒学教授として、
                   開国方針を幕府に提出した書面の下書きを作成した。鎖国、攘夷の
                   考えを否定した。

 ※3)頼 襄 (らい のぼる)(1780年〜1832年)53歳没 大阪で生まれ、京都で開塾。江戸後期の
                  漢詩人、史家、陽明学者名を襄(のぼる)、字(あざな)を子成、号を山陽、
                  三十六峰賀外史通称を久太郎(ひさたろう)という。
                  父は、広島藩儒の頼 春水。日本の武家の歴史を記した『日本外史』は
                  幕末の志士達に読まれて山陽の名を有名にした。
                  天保3年9月23日、肺結核により、亡くなる。

【解説】この作品の作者は、本名: 頼 襄(らい のぼる)雅号: 頼 山陽 (らい さんよう)  である。
                幾度か修復された絹装の痛み具合から推察しても180年弱の年月を感じさせる。
                落款は私的な消息のようである。
                頼 襄 の署名と頼襄と頼子成の落款印もあり、山陽の真筆とみて間違いない。
                この作品の解読にあたって、揮毫年が壬辰(みずのえ たつ)であったため、山陽
                の生存年から見て、初めは後世の模写かと勘違いしたが、山陽の没年月日
                まで確認して驚いた。この作品の内容の日から、実に4ヶ月後に亡くなっている。
                おそらく作品の揮毫からだと2.3ヶ月後に亡くなったと思われる。
                落款に月日まで書いたものは見慣れないが、これは賦贈先の禄郎と過ごした
                ひと時の月日であると思われる。
                したがって、揮毫されたのはもう少し後日ということになる。

                山陽は、当時の歴史家であり、漢詩人であり、そして文学者であると共に政論家
                であった。
                幕末と言う歴史の大きな転換期に生きた山陽は、歴史叙述に自己の天職を見出し
                て、情熱的な名文によって自己の所信を表現した。

                政治の変化と天皇の君主としての地位を永遠に保障する概念によって、政治を為す
                者の栄枯盛衰、政権交替が不可避であることにもかかわらず、天皇が永遠に変わ
                らない存在であること、そして時勢と時機を知ることの重要性などを力説した。

                武士の歴史と思想、日本の将来を考えていた山陽は病に侵されていたようである
                が、山陽の書風からは健康そのものの勢いとぬくもりを感じる。安定した結構の
                行草体には、筆脈が一貫し、どの文字を観察しても気負いや心の乱れは感じら
                れない。
                結体は正確にして、遅速、文字の大小、太細、潤滑などの変化の美と取り入れ方
                が絶妙である。
                肺結核の重病であれば、揮毫途中に咳き込むこともあっただろうにこんな健康的な
                作品が出来るとは只々感心してしまう。
                山陽は、臨終の前日まで書き続け、死の間際まで筆を放すことはなかったという
                伝説も真実かも知れない。

                漢詩文の内容については、16歳下の弟子でもあり友人(小川禄郎)(当時37歳)の
                ために書かれたものだと落款から推察できる。
                京都を出て琵琶湖の南岸(大津)から東岸(彦根)にある小川禄郎の家に船で向かい、
                笑顔で迎えられて嬉しかった心情。
                美しい自然に囲まれて、琵琶湖で取れた新鮮な「なます料理」を肴にして気の向くまま
                に語り、酒を酌み交わしてるうちに酔ってしまった。
                平和で穏やかな情景が眼に浮かぶようである。
                そして、自分の身体を予期してのことか、このような穏やかな楽しみが何年続くのだろ
                うか、ずっと続いて欲しいなあ、と言う願いと楽しく過ごしたひと時の思いとお礼も含めて
                五言律詩の漢詩文にして書かれたものと思われる。

                                 平成22年7月7日 解読 文責: 尾 臺 成 大