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 少女の名は岩崎きみ
きみちゃんの秘話は名もなき人々の歴史の一ページに過ぎないかもしれません。しかし、父なし子として静岡市清水区に生まれ、三歳で母と離れて異人さんにもらわれた娘の幸福を祈りながら開拓に挑んだ母の心は、童謡赤い靴とともに世代をこえて語り継がれていくことと思います。


明治三十八年、幼子を抱き抱えた母親が、木枯らしに追われるようにして、函館桟橋に到着しました。母親の名は
岩崎かよ
故郷清水不二見村で娘きみを出産しましたが、父親の名を明かせない私生児ということから世間の風当たりは厳しく、逃げるようにして村を飛び出し、娘ともども遠い北海道の地へたどり着きました。
北海道留寿都村の「母思像」
当時、北海道留寿都村では、平民新聞の同志など社会主義を理想とする仲間によって平民者農場が開設されており、ユートピアを目指す人々が入植していました。岩崎かよが函館で出会った鈴木志郎もその一人で、その情熱と誠実さに心引かれたかよは、彼に人生を託し、留寿都村(旧真狩村八ノ原番外地)への入植を決意します。しかし、明治時代の北海道開拓は、自然と人間との命がけの戦いで、幼い子供を連れて行くことなど考えられませんでした。かよは苦悩の末、子供に恵まれないアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻の養女としてきみ
を函館に残し、母娘がそれぞれ違う人生で生きる道を選択したのでした。一方、ヒュエット夫妻の養女となったきみは、渡米を目前にした六歳の時に、不治の病と言われていた結核性肋膜炎に感染。身体の衰弱が激しく、長い船旅には耐えられないということから、東京の鳥居坂にある孤児院に預けられ、三年間の闘病生活の末、九歳というあまりにも短い生涯を終えました。
東京麻布十番商店街の「きみちゃん」
志郎と結婚し、希望に燃えて留寿都に入植したかよでしたが、秋の実りは乏しく、仲間の病死や火災によってわずか2年で農場は解散、2人の間に生まれた娘そのを連れて親子三人、札幌へ出ることとなりました。その後、志郎は札幌の新聞社に入社、そこで同僚として知り合ったのが、若き放浪詩人として名を知られていた野口雨情でした。ほぼ同期の入社、同世代、そして子供一人という同じ家族構成ということもあって、両家族は急速に親しくなり、一軒の家を二家族で借りて共同生活を始めます。
 横浜山下公園の「赤い靴をはいてる少女」
そんな時、かよは片時も忘れたことのない、きみへの思いを雨情に打ち明けました。死と隣り合わせの開拓地に連れて行かなくて良かったという気持ちと、我が子を手放してしまった後悔、そしてあたらしい両親のもとで、幸福になってほしいという願いが交錯した母の愛は雨情の心を打ち、彼はその感動を詩に綴りました。それは詩人の感性による希望にみちた幻想であったのでしたがそして本居長世が曲をつけて完成したのが童謡「赤い靴」です。かよは、きみがアメリカで幸福に暮らしている事を祈りながら口ずさみ、留寿都で生まれた妹そのは、母の歌を聞きながら、会うことのない姉を慕い、思いを馳せていたそうです。

静岡市日本平の「母子像」
少女の前に着物姿の母親が座る。一見ほほえましい姿ですが、2人は追われるように故郷を出たのでした。薄幸の少女と母親の再会を、という祈るような思いが伝わってきます。「離ればなれになってしまった母と子を故郷であるこの清水で再会させてあげよう」という市民の声と全国からの協力により、昭和61年3月清水を見下ろす日本平山頂に母子像は建立されました

真実のきみちゃん
函館でヒュエット牧師夫妻の養女となったきみは留寿都村には行ってません。事実は3年間の闘病生活の末、明治44年の秋、東京・鳥居坂教会(日本メソジスト麻布教会)の孤児院で9歳という短い生涯を終えていました。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう、温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもかなわぬまま秋の夜、きみは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。
その後、かよは雨情に娘のことを打ち明け、新らしい両親のもとで幸福になってほしいという願いが雨情の心を打ち、詩が出来上がりました。ですからかよは、きみはアメリカに渡り牧師夫妻と幸福に暮らしていると思っていたようです。きみは横浜にも行ってません、その事を知らず「横浜の埠頭(はとば)から船に乗って」は雨情のかよから聞いた話の上の作詩です。

ヒュエット夫妻
優しそうな牧師夫婦の写真が残っています。ただ、私がどうしても理解できないのは「病気の子供(本当の自分の子)を孤児院に預けて、夫妻だけでアメリカに帰れるか?」ということです
日本人の養女だから孤児院に残して
行ってし
まったのではないのか。私なら、いくら不治の病気であっても縁あっていったん自分の養女となった子供を置いて、自分たちだけ母国へ帰ることなど絶対に出来ないからです。親として子供の最後を看取るのが人の道なのではないのでしょうか、今更いっても仕方がない事ですが、これが私の素朴な疑問点です。


童謡「赤い靴」

♪♪ 赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられて行っちゃった
♪♪ 横浜の埠頭(はとば)から船に乗って、異人さんにつれられて行っちゃった。
♪♪ 今では青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるんだろう。
♪♪ 赤い靴
見るたび考える、異人さんに逢うたびに考える
残念なことに、現在この歌は「外国人への差別ニュアンスがある」という理由で教科書から外されています。
1978年に発見された草稿には以下の5番の歌詞もあったそうです。
♪♪ 生まれた日本が恋しくば、青い海眺めているんだろう。異人さんにたのんで帰って来(こ)。♪♪


エピローグ、麻布十番の奇跡!!
それは麻布十番にきみの像が完成してから始まりました。像が出来たその日の夕方、誰かがきみの像の足元に18円を置いたそうです。それがチャリティーの始まりでした。その後、1日として途絶えることもなくきみの足元には幾らかのお金が置かれるようになりました。
多くの人々に支えられたチャリティーの輪は途絶えることなく続き、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の積み立ては毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されています。その浄財はきょうも途絶えることなくチャリティーは続いており、その浄財の総額が1000万円をこえたそうです。
明治44年9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、今も9歳のまま私たちの心の中に生き続け、世界の恵まれない子ども達のために歩きつづけているのです。


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