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清 水 の 次 郎 長 

幕末維新期の侠客で明治期には実業家、本名は山本長五郎。
駿河国清水湊で薪炭を商い船持船頭だった商人雲不見三右衛門の次男として誕生。母方の叔父の甲田屋次郎八という米穀商の養子となりました。次郎八のところの長五郎ということで、次郎長と呼ばれるようになったそうです。養父から村塾や寺子屋に学ばせてもらいましたが、わんぱく・粗暴で、長続きはしませんでした。
悪さと無学の15歳の時、江戸にどうしても行きたくなり養父に江戸行きをせがみましたが、養父は許しません。我慢できない悪ガキ次郎長は、店のカネ百両ほどを持ち出して勝手に出奔してしまいました。次郎長は江戸には行かずに浜松に行き、そこで持ち出したカネを投資して米相場で荒稼ぎを果たし、大金を清水に持ち帰って家出を許してもらいました。破天荒だが実利にも聡い、という彼のひとつの側面を現すエピソードです。
次郎長生家
天保10年(1839)、旅の僧から「命数25歳を出ず」と言われて、「じゃあ太く短く生きる」とヤクザになりました。江尻で芝居見物の後、酔って帰路につく途中で闇討ちに会い瀕死の重傷を負い、これを機に生涯酒は飲まなかったそうです。
23歳の時喧嘩で相手を殺したと思い込み、家業の甲田屋を姉夫婦に譲り無宿者となり、遊び仲間の江尻の大熊、庵原の広吉と一緒に清水港を後にして上方へ旅に出ました。三河の寺津の治助の元で世話になりながら、吉良の小川武一親分をたより、剣豪で侠客の武一のもと、朝は稽古で柳剛流の剣術を学び、夜は賭博の毎日をおくったようです。
弘化2(1845)、甲斐の紬文吉と駿河の和田島太右衛門の喧嘩を庵原川で仲裁し売り出しました。
28歳のとき江尻大熊の妹「おちょう」を娶ります。
30代半ばの次郎長は危機の時代で、安政5年(1858)甲斐の祐典仙之助と不和になり、次郎長と大熊は祐天の親分である甲府の隠居を斬りました。この為役人に追われた次郎長はお蝶・子分と共に瀬戸の岡一の家に身を寄せますが、お蝶が病に倒れ移った先の名古屋の長兵衛の家でお蝶は帰らぬ人となります。
次郎長は尾張で相撲取りで侠客の八尾ケ嶽の宗七一行の窮状に出会い、相撲好きだった次郎長は救いの手を差し伸べました。その宗七は嘉永3年には子分の相撲取り十数人をつれて次郎長を頼って来ております。名を保下田の久六と改めた後、安政2年に次郎長に喧嘩の助っ人を依頼したりもしました。
かつて次郎長が親身になって世話をしたことのある保下田の久六の密告により捕吏が名古屋の長兵衛宅に踏み込み、次郎長は逃げきりましたが長兵衛は捕われ牢死します。その後、大政・石松等を連れ金毘羅参拝後に久六を斬り、長兵衛の怨を晴らしました。
万延1年(1860)、久六制裁の願果たしに、森の石松を金毘羅神社へ代参に向けますが、その帰路の道中で都田一家に石松が殺されます(都田の吉兵衛は江尻の大熊の弟分で次郎長の家で世話になったこともあります)。結局吉兵衛は次郎長に追分の宿で討ち果たされます。石松の仇を討ち吉兵衛を倒すことにより次郎長は三河も勢力圏に収めました。

寺の次郎長像
この頃宿敵の黒駒勝蔵が現れます。山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、次郎長は縄張り外を転戦する戦闘集団「清水二十八衆」を元治1年(1864)につくります。黒駒方の雲風の亀吉との2次にわたる三河の抗争は、平井村の役(1864)と呼ばれ博徒抗争史上かつてない殺戮戦でした。
東海道を名古屋までおさえた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが、慶応2年(1866)の荒神山の喧嘩で、神戸の長吉と穴太徳の縄張り争いで次郎長は長吉方につき、大政の戦闘集団と甲斐信濃制圧に転戦する大瀬の半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ、吉良の仁吉を大将に荒神山に向かわせました。この戦いで穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い穴太徳の弟分角井門之助を倒すも仁吉・法印大五郎が命を落としました。その報復に次郎長は千石船2隻に手勢480人、小銃40丁、槍170本、米90俵を乗せた船団をもって伊勢に上陸し再び挑みました。穴太徳とその後ろ盾の丹波屋伝兵衛は恐れおののき、ひたすら陳謝のみで和議を受け入れたそうです。この時の武器の調達は国定一家3代目の田中敬次郎だったそうです。
この一件以来「清水の次郎長」の貫禄は増し、その名は全国に知られる事となります。その後の次郎長の喧嘩は維新戦争によって止まります。
清水一家
徳川幕府が倒れ駿府には新しい差配役が来ます。浜松藩から来た新差配役の伏谷如水は、混乱や暴動する市中の治安を「毒を持って毒を制する」手法をとり、東海道を仕切る大親分次郎長を抜擢し、その人間性を理解しそれまでの次郎長の諸罪帳消しにし帯刀をゆるしました。国を売り、抗争に明け暮れたそれまでの「裏の人生」から次郎長は50歳を前にしてようやく「表の人生」をどうどうと歩くことを許されました。この処遇に喜びを感じた次郎長は博徒をあらため市中の治安に全力を注いでゆきます。
維新中は志士達に協力していましたが、維新後は実業家になり、清水港の改修工事、富士山麓開墾、静岡茶を横浜に運ぶ蒸気船会社の設立などを始めました。


全国にその名を轟かせた大親分、清水の次郎長の武勇伝は数々の時代劇や映画などで語り継がれていますが、義理人情の代名詞である次郎長の人生は波乱にみちたものでした。刃物も切れれば、頭もきれる。筋も通せば義理も固い。そんな次郎長に惚れてついた者も数知れず、いつしか千人もの乾分を従える東海きっての大親分となっていました。
喧嘩にあけくれた前半生でしたが、彼の人生の前半を「義理の人」、後半は「人情の人」といわれ、人を愛し、人に尽くしました。それがあるからこそ、今も多くの人々に愛され続けています。

次郎長の墓
日清戦争の前年明治26年6月、74歳〔文政3年(1820)〜明治26年(1893)〕で風邪をこじらせて生涯を終えました。墓は清水の梅蔭寺にあり、墓銘は榎本武揚の筆によります。

壮士の墓
明治元年に徳川幕府の軍艦「咸臨丸」が清水港で新政府軍によって攻撃を受け沈没しました。当時賊の幕府兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされるので、誰もおそれて手をくだしませんでした。次郎長は、港内各所に流れついた死体を夜集め、こっそり葬りました。死体収容にあたり「人の世に処る賊となり敵となる悪む所唯其生前の事のみ若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と言ったそうです。後に山岡鉄舟がその志に感じ「壮士墓」と書いて与えました。

富士の開墾
明治8年に次郎長は子分達や、静岡監獄江尻支所の受刑者を正業に就かせようとして、富士山南麓に向かいました。開墾地は標高350メートル付近で当時の富士山南麓畑作地の上限で川のない、水なし地帯でした。水不足の中で荒れ地と格闘する日々が続き、脱走する者が出始めました。これによって子分や受刑者の更正には挫折しますが、かわって地元の人たちが加わるようになると、開墾は順調に進み、明治17年には約76町3反の畑作地が、現在の富士市大渕に完成しました。後にこの一帯は次郎長町と呼ばれました。


宿

「末廣」は次郎長が明治十九年に開業した船宿で、後に日本初の英語塾の舞台になった宿ともいわれています。晩年の住居を、港の中心部の波止場に定め、巴川の浜通りから引越し、この地に2階建の船宿「末廣」を開業しました。船宿の経営は3代目おちょうが切り盛りし、次郎長は「波止場のおじいちゃん」と呼ばれて近所の子供たちを集めて相撲を取らせるのを楽しみとしていたそうです。末廣開業に当っては、山岡鉄舟が一役買って出て、引出物の扇子千本に署名したそうです。船宿末廣は、当時清水港を訪れる人達の迎賓館であり、船客たちはこの船宿を江尻や静岡などへの中継点としていました。次郎長はこの末廣の一室で、明治26年6月、74歳の生涯を終えました。


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