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仏 閣



東海道屈指の名刹です。白鳳時代に古代東海道が東国への道として整備された時代、この地に「清見関」が設けられたました、その近くに関所を鎮護する為に建てられた仏堂が「清見寺」の始まりと伝えられております。その後、弘長元1261)年に関聖明元が再興しました。

足利尊氏、豊臣秀吉、など歴史上名高い人々とゆかりが深く特に徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられた時代によく訪れました。家康が愛した「池泉庭園」や梵鐘、自ら接ぎ木したという「臥龍の梅」、「五百羅漢」、琉球王国王子の墓など多くの遺跡、遺構もあります。また本堂の裏に造られた池泉庭園は国の名勝に指定されています。
「清見潟、波ものどかに、晴るヽ日は、関より近き、三保の松原」兼好法師

清見寺、行手にみつる、花の色の、いく程もなく、紅葉しにけり」豊臣秀吉



鉄舟寺はもと久能寺と称し今の久能山山頂にあったのですが、武田信玄の駿河侵攻にあってこの地に移転させられました。
明治初期、廃寺同前だった同寺を、山岡鉄舟と有志の手により再興し、名前も鉄舟寺と改めました。本尊は愛染明王ですが、与謝野晶子の歌にもある如意観音像が有名です。他にも国宝の久能寺経、重要文化財の銭杖、舞楽面陵王、久能寺縁起、宮本武蔵の描いた絵、横笛・薄墨など多彩な寺宝があります。

薄墨の笛」悲劇の武将源義経が牛若丸時代から愛用したといわれる横笛。駿河国新風土記の久能寺の条に「源義経所持薄墨の笛、此笛蝉なし中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置り」とあります。
「泪のみ、かきくらさるる、遊なれや、さやかに見よと、月はすめとも」西行法師。



明応元年(足利時代)東谷和尚授業の天倫道明和尚の開山創建です。とはいえ現在では講談や浪曲、時代劇でおなじみの清水次郎長の墓所として有名です。本名山本長五郎、前半生はケンカとバクチの生活で自慢できるものではありませんでした。しかし、明治維新を前後して、幕臣の山岡鉄舟をはじめ、県令大迫貞清らと出会ってから人生観が一変し、世のため人のために尽くすようになりました。

明治26年74才で大往生をとげた次郎長は大政小政たちと一緒にここ梅蔭寺に眠っています。博打の「お守り」として墓石を砕いて持って行く人が絶えないそうです、境内には次郎長愛用の品々を展示する記念館もあります。
晩年を過ごした復元「船宿」と次郎長が作った咸臨丸の乗組員の墓「壮士の墓」です。




観富山竜華寺。駿河國志云「紀州養珠院殿の取立也。垣こしに向ふを見れば、富士は盆山の如く入海は泉水に似て、三保の松原は屏風を建並べたる如く、伊豆の山々を等、目前に見へて眺望無双の園影也。云々。」
江戸時代の戯作者、滝川馬琴が激賞した眺望をもつ庭園は、須弥山式という珍しい手法で造られており、手入れの行き届いた庭園と芽ぶきの本堂が「観富園」と呼ばれています。また境内には、天然記念物に指定されている日本最大最古の大蘇鉄(根回り6m、枝58本、樹齢1100年)が
あります。




鷲峰山霊山寺は行基により794年(平安時代)に開山されたと伝わる寺です。慶長5(1600)に元識法印が再興しました。寺のある山は帆掛山と呼ばれ、三十三曲がりの急な細い山道は観音三十三身の化現を意味し、途中6基の町石(里程標柱)は六波羅蜜を意味するそうです。そのまま進むと、国の重要文化財の仁王門が聳えるように眼前に現れます。室町後期の永正13(1516)に建立された。間口三間半、奥行二間、単層門で寄棟造萱葺きです。本堂には行基自作という千手観音が納められております。






遠州犬居城主天野景貫の子景直は竹田信玄の家臣として駿河進出に戦功をたて、元亀4(1573)年岡清水の領主に任ぜられ、天野家の守護神秋葉三尺坊大権現をここ真土山(秋葉山)に祭ったと云います。
尊像の秋葉三尺坊大権現は、生前に不動明王の法を修業して空を飛ぶ神通力や鎮火の法を会得した人と伝えられています。秋葉山が火伏せの神として信仰されているのはそのためで、12月の祭典で催される「火渡りの神事」が有名です。
各地に秋葉山がありますが、実は、天野景直がお祭りした清水のこの御尊像が本物の「秋葉三尺坊大権現」だそうです。

●合併した静岡市側



賎機山の麓にある臨済寺は今川義元の父氏親が建立しました。2代目の住職となった太原雪斎は、臨済宗妙心寺派の本山妙心寺の第35世にもなっている名僧でした。義元が、駿河、遠江、三河三国の太守として東海に勇を振るったのも、雪斎の力によるところが大きく、この時代がまた今川氏の最盛期でもありました。雪斎は弘治元年10月、60歳でこの世を去りましたが、雪斎の没後5年の永禄3年5月、桶狭間合戦で義元が敗死すると、今川氏の勢力は急激に衰え、やがて滅亡しました。今川氏は雪斎によって興り、雪斎を失って衰亡したといえなくもありません。徳川家康は、竹千代時代の天文18年、8歳の時から12年間、今川氏の人質として過ごしましたが、その間、この雪斎から史書、兵学を学んだと言われています。



吐月峰柴屋寺は今川義忠と氏親に仕えた連歌師・宗長が永正元(1504)年55歳で草庵を結び余生を送ったところです。禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたといいます。風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」など美しい自然をたくみに取り入れた借景園で、庵の背景となる枯山水の庭園と合わせ、国の名勝・史跡に指定されています。
「柴の屋の、苔の下道、作るなり、けふを我が世の、吉日にして」
宋長法師


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