わ が 町
分岐点 | 細井の松原跡 | 辻町交差点から 北街道方向 |
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この辺りには以前、うっ蒼とした松並木が続き東海道の名所の一つに数えられていました。旅人にとって絶好の休息地でもありましたが、今ではその面影はなく一本の松が植えてあるだけです。「細井の松」の碑が、かつてここに東海道の松並木があったことを伝えています。
慶長9年(1604)2代将軍徳川秀忠が街道の両側に松を植えさせ、1612年に完成しました。松原の全長約360メートルに松が1106本あったという記録が残されており、ここには五軒の茶店がありそこでは“松風せんべい”が売られていたそうです。これらの松は残念な事に、昭和19年太平洋戦争で松根油(航空機燃料)の原料としてすべて伐採されました。現在の松は平成6年に植樹されたものです。
その先の信号が辻町交差点です。右方向を見ますと、いにしえに云う辻村の眞土山、後年清水秋葉山と呼ばれる山が見えます(この道は明治時代に出来た道です)。
秋葉道 | 辻町商店街 | 一里塚跡 | 東木戸跡 |
本郷町 | JR清水駅 | 鍛冶町 | 鋳物師町 |
その先へ進むと「本郷町」に入ります、ここ本郷には清水の御三家といわれる大地主が住んでいました。次の信号のある交差点から左方向を見ると「JR清水駅」が見えます。しばらくは静かな所「鍛冶町」、「鋳物師町」を進みます。
江尻宿は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっていました。これは万一の場合の軍事上の警備のためであったそうです。
江浄寺 | 旧傳馬町 | 七軒町手前信号 | 清水銀座・志茂町 |
そんな旧道を行きますと、すこし先の右側奥まった所に「市中山長光院江浄寺」(徳川家康の長男で、信長の命により悲劇の一生を終えた松平信康の遺髪を葬る墓所)があります。 このあたりが江尻東三丁目「旧傳馬町」です。まっすぐ進むと巴川で、東海道は一つ「手前の信号」を右折します。ここがかっての宿場で、現在の「清水銀座通り」です。川に平行な400メートルほどの道には志茂町、仲町、魚町があり、本陣、脇本陣、旅篭等が並び、賑っていました。
元大ひさし屋旅館 | 仲 町 | 魚 町 | 魚町稲荷手前 |
稚児橋 | 三叉路 | いちろんさん | 法岸寺 |
巴川にかかる「稚児橋」(河童橋)を渡り、次の信号を直進するとその先に「三叉路」があります。左は久能山(徳川家康の墓所)への参詣道で、“ちびまるこちゃん”の作者さくらももこさんの家(八百屋さん)は角から5軒先の左側にありました。東海道は右に曲がります、角にある「いちろんさん」の店を曲がると左側に「紫雲山江照院法岸寺」と言うお寺があり、ここには歌舞伎では“生写朝顔日記”、浄瑠璃では“けいせい筑後つまごと”として演じられている「深雪」の墓があります。
東明禅院 | 滋雲寺 | 江尻宿西木戸跡 | 木戸より西方向 |
すぐ先の向側に江尻城の裏門が山門(復元)になった「東明禅院」があり、その先に食料に困っていた三保の農民に“さつま芋”を普及させた長泉和尚さんの「慈雲寺」があります。ここ入江町は桶屋、刀剣屋、畳屋、ほうき屋と職人の町でした。慈雲寺の並びに西の「江尻宿木戸跡」の石碑があります。
追分羊羹 | 道 標 | |
さらに800メートルほど行くと左側に、真っ赤な暖簾を垂らした街道名物の「追分羊羹」があり、その店の角の十字路には「是より志三づ(しみず)道」と彫られた高さ約1.5メートルの古い「道標」があります。ここが清水湊への道(写真左)と東海道府中方面(写真右)との追分になります。その先は、平川地から上原、草薙、国吉田、古庄、柚木、横田町を過ぎて府中(静岡)に至ります。
古 代 の 東 海 道
大化の改新(645年)の後、中央政府による地方の直接支配が図られ、都(京都)から東国に通ずる古代東海道が設置されました。「大宝令」では驛制が定められ、蒲原、息津(おきつ)、横田などに驛馬(はゆま)が、各郡ごとには傳馬(てんま)が配置されました。
その道筋は、興津宿から清見関、横砂を右に尾羽、廬原郡衙から山添いを飯田に通じ、能島付近で巴川を渡り、有度山北麓を通り、横田(駿府)に至るルートだと推定されます。
中 世 の 東 海 道「北街道」
鎌倉時代の東海道(北街道)は旧国道一号線を興津清見寺より西に向かい、庵原川橋の先の信号を右に曲がります。その先、旧横砂村の工場街を道なりに進むと東名清水インター取付道路が現われます。そのまま旧袖師村の住宅街を進み、左手に見える矢倉神社の先の信号「箭倉(矢倉)の辻」の五叉路(明治以前は四叉路)の信号を右に曲がります。
その先、秋葉山(眞土山)を右に見ながら旧飯田村高橋に進みます。街道はその先(現在の高部、大内、鳥坂を通り)瀬名川村、沓の谷村に進み国府(駿府)に至ります。
北 街 道 時 代 の 江 尻 宿
鎌倉時代の江尻宿は、矢倉の辻から小字大石を経て眞土山(秋葉山)先の北街道筋、飯田村高橋の小字「中宿」、現在の清水東高校から西よりの秋吉町、八坂西町・八坂南町あたりにありました。後に矢倉の辻から高道・湊道(後の吉添町)に向かう道沿いにある小字元宿「上本宿・下本宿」、現在の大手二丁目・三丁目あたりに移動します。いずれも矢倉の辻の近くにあった多念山稱名寺(江浄寺の末寺)聚落で、ここが後の江尻宿のルーツになります。
安倍郡誌によりますと「江尻は古驛にあらず、遥かに後世に建てられたる驛なれども民部省圖帳既に其驛名のあるを見れば、元享以前辻村に驛家始て立てられしならん」とあります。
駿河記(巻二十二)には「辻村本郷は江尻驛の本處なり、基謂は古より北街道を以って往還と為す。所謂横砂高橋瀬名川等の道筋なり。當村北街道と廬原郡家の湊道と十字街なるを以って辻と云うか。此村舊稱名寺の下に一村あり」とあります。
(参考)辻村本郷とは「元宿」のことで、現在の本郷町とは違います。多念山稱名寺は廃寺となり現在はありません。
矢倉の辻 | 中 宿 | 元 宿 | 稱名寺跡 |
北街道より東海道への道筋の変更
永録11年(1568)に武田信玄が駿河に進出し、この地を支配下に治め江尻城を築城しました。江尻城は三日市場(三の日毎に開く市)に隣接し、矢倉の辻に通ずる高道に面して位置し、大手門の北方面に発達していた元宿(稱名寺聚落)にも大きく影響を与え、築城以後は元宿に住む人々が三日市場付近や鍛冶町・鋳物師町方面に移転し始めました。
巴川を渡った入江町には以前より七日市場が開かれており東西を行き交う人々の流れは、「矢倉の辻」から高道を通り、江尻城下から入江に渡り、元追分に向かうようになります。その道筋は、江尻城北側の小字近習小路から船で城壕を西に江尻川(巴川)に出て対岸海船橋の船着場で下船し、七日市場の幹道を元追分から府中に向かう道筋です。
天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により北街道から後の東海道(庵原川橋より矢倉の辻に向かわず)鈴木島、辻町、本郷町、鍛冶町、鋳物師町、傳馬町から宿場に向かう道に変更になりました。
駿河記に「江尻の驛はその昔辻村本郷をもって驛舎とす、其故は治承頃より文正の末に至迄横砂、高橋の道筋官道也。然るに天正十九年春、摂州大坂より道中奉行下り、駿府城主より小芝城の外郭への驛舎を引き、巴川を船渡して海船橋の西へ出るの處」とあります。
慶長12年(1607)には徳川家康が江尻川(巴川)に江尻川橋(兒橋)を架け魚町から橋を渡り入江町と行き来できるようになり、これにより後の東海道(江尻宿・三日市場から入江町、草薙、古庄、柚木、横田町から府中へ)の道筋が完成しました。
安倍川沿いの薩摩土手
(参考) 慶長11年(1606)徳川家康の命により、薩摩藩主島津忠恒は駿府を安倍川の水害から守るため、井宮妙見下から弥勒まで約4キロの大堤防を築きました。この「薩摩土手」が作られる以前は駿府の西を流れる安倍川はその流れの半分近くを宮ケ崎を通り北川として麻機沼に注ぎ、そこから清水の江尻川(巴川)に流れていました。当時は水量豊富で水深く水運の便頗る良い川でした。その為、入江町(七日市場)の海船橋の船着場には大型船が入港し、そこから川舟で駿府まで物資を運びました。駿府城の堀の石垣も建築材料も清水湊から江尻川を船で運び上たそうです。
薩摩土手完成後は江尻川の水量が減り、大型船の船着場は巴川下流の本町方面に移りました。
お茶へ