僕たちの凶弾(後編)

八猛馬


6
幻なんかじゃない 人生は夢じゃない
僕達ははっきりと生きてるんだ
――― THE BLUE HEARTS


「授業だと」

 生徒たちに取り囲まれた座席の上で、柴田先生が吐き捨てた。

「武器で他人を脅して偉くなったつもりか。つけあがるのもいい加減にしろ」

「うるさいってば」

 柴田先生の担任である一班の大庭弥生がぴしゃりと言った。

「確かに、唐突な話に聞こえるでしょうね」

 教壇の上で尚が言う。

「子どもが先生方に向かって何の授業をするつもりだ。お笑い種だな」

 荏田先生が嘲りの調子も毒々しく呟いた。

「多分、先生が考えておられるほど馬鹿馬鹿しくもないはずですよ。これから、実際に体験していただけばね」

「授業、って」

 後藤先生が、ほとんど悲鳴に近い声で言った。理知的で比較的ほっそりとした顔立ちだったのが、短い間にげっそりという線までやつれている。

 真一はそれを少し悲しく思った。結構後藤先生が好きだったのだ。

「何の授業なの?私たち、須田先生みたいに殺されるの?」

 尚は首を振った。

「何の授業なのか、についてはすぐにわかります。俺たちには先生方を傷つけるつもりはありません」

「じゃあすぐにここから出して」

「それはできない相談です」

 後藤先生は青白い顔を両手で覆って絶望の深い溜息を吐き出した。

「いったい、あなたたちは何をどうしたいのよ。何が目的なの。何が不満なの。どうしてこんなことをするの」

「質問が多過ぎますね」

「訊くなって言う方が無理よ!」

 後藤先生は金切り声で叫んだ。

「あなたたちは須田先生を殺したじゃないの。あんな、酷い方法で。それなのに、怯えるなとでも言いたいの?怖がらなくていいとでも?」

「怖いですか?」

「怖いわよ!こんな状況で怖がらない人間がいると?私は怖いの。須田先生をあんなに残酷に殺した人間たちに囲まれて、ちびりそうなくらい怖いわよ!」

 後藤先生はすすり泣いた。

 他の先生方は一様に不安そうな面持ちで彼女の様子を見守っている。ただ一人、教壇の生徒たちを睨みつけている佐々木校長を除いて。

 夕貴が言った。

「残酷な殺し方」

 少し考え込むようなその口調は、背筋を撫で上げる冷たい指先を秘めている。

「残酷な殺し方。優しい殺し方。あるとお思いですか?」

 後藤先生がのろのろした動作で夕貴の顔を見る。

「人道的な殺し方が。あるとお思いですか」

 後藤先生が瞳を大きく見開く。

「死は死ではありませんか。他の何ものかであるということがありうるとお思いですか」

 夕貴は不気味に冷たい声で続ける。

「小学校五年生の秋でした。お父さんと一緒に、区の保健所に行きました。犬が欲しかったんです。可愛い犬が。私が檻の中の犬を見て回っている間、お父さんは係りの人と話をしていました。お父さんが、キゲンが過ぎた動物はドウナルノカと係りの人に訊ねました。係りの人は、ガスを嗅がせてショブンしますと答えました。クルシミますかとお父さんが訊き、係りの人は、イイエソンナコトハアリマセントテモジンドウテキナホウホウデスと答えました」

 夕貴はそれまでずっと右手にぶら下げていた物を教卓の上に乗せた。

 夕貴が持ってきた凶器は包丁だった。

「あああああああ!」

 後藤先生が激しく首を左右に振りながら立ち上がった。

「私は、コリーと柴の雑種の仔犬を一頭選んで、帰りました。檻の中にはまだ数十頭の犬たちがいました。保健所の扉が背後でしまった時、私がどんな気分になったか、先生にはおわかりですか」

「あああああああ!」

 後藤先生が走り出す。走り出そうとする。だがそれは不可能な話だ。四班の女子が即座に後藤先生を連れ戻す。

 後藤先生は叫ぶ。泣く。

 それはちょっと聞いていられないような響きの叫びだ。

「怖いですか」

 夕貴の半身に陽が当たっている。

「怖いですよね」

 それは夢幻の配色だ。とても美しい。そしてとても恐ろしい。

「人間は、怖いですよね」

 そこにいるのは人間だ。

 そして、視聴覚室のほぼ半分の面積を埋めている者たち、それらは全て人間だ。

 夕貴が美しい声音で陰鬱に告げた。

「授業に移りましょう」

 まず一班が立ち上がった。

「どこに連れて行くつもりだ!」

 両脇を二人の生徒に抱え上げられながら柴田先生が言った。

「音楽準備室ですよ、柴田先生。そこがこの時間のあなたの教室になる。そしてあなたの周りにいる一班のみんなが教師になります」

 柴田先生は生徒たちの腕の中でもがいた。

「嫌だ、行きたくない!」

「授業とはそういうものでしょ」

 一班班長の大庭弥生が冷たく言い放った。

 柴田先生は口の中にタオルを突っ込まれ、視聴覚室から廊下に連れ出されて行った。音楽室は廊下を挟んで視聴覚室の真向かいに、音楽準備室はそのさらに隣にある。この時間、四階の教室は視聴覚室を除いて使われていない。

「鍵はどうしたんだ?」

 柴田先生がそうされたように両脇を生徒二人に抱え上げられた姿勢で、横山先生が尚に訊いた。

 使用時間外の教室は全て施錠するのが学校の原則だ。生徒が勝手に鍵を持ち出すことはできない。

「マスターキーで合鍵を作りました。簡単でしたよ」

「悪党が」

 横山先生は疲れ切ったように頭を振った。

「何がお前たちにそこまでさせたんだ?お前たちを悪魔に変えてしまったものは何だ?」

「それがわかったところで、あなたの行く場所に変わりはありませんよ、横山先生。さあ、音楽室へ。そこがあなたの教室です」

「こいつが夢であってくれたらと思うよ」

 横山先生は生徒の手を払いのけ、自ら歩き出した。

「ところが夢じゃない。須田先生の頭の半分は黒板にべっとり塗りたくられて、俺はといえば凶器を持った生徒たちに地獄に連れ出されかけてる。おい、鈴来、俺が今何を一番願っているかわかるか」

「いいえ、わかりませんね」

「これが終わったら、終わったらというのはお前たちが警察にしょっ引かれるか全員射殺されるか、とにかく俺が五体満足でお前たちの監禁から逃れられた時の話だがな。キリンのラガーを二ケース買い込んで気を失うまで飲みまくる。ビールがなくなったら次は焼酎、ウイスキー、ジン、何だっていい。とにかくこの世の終わりまで飲みまくってやる」

 横山先生は視聴覚室の扉の前で立ち止まった。前髪がほつれ、脂ぎった額の上に二三本がだらしなく垂れている。

「だから何だって言いたそうな顔だな、鈴来よ。だがそれだけだ。俺は酒を飲みたい。たまらなく飲みたい。飲んで飲んで、この現実から逃げ出してしまいたい。俺はそれだけの人間だ。腰抜け野郎と呼ばれればその通りだ」

「そうですか」

 尚は幾分曖昧な調子で言った。やりとりを見守る生徒たちの顔にも当惑の表情が表れている。

「一口に大人っていってもな、俺みたいな奴もたくさんいる。大人のほとんどは俺みたいな奴だといってもいいかもしれない。いや、要するに、お前たちは誰を相手にするつもりで、実際には誰を取り囲んでしまったのか、わかってるのかと思ってね」

「おっしゃることがよくわかりませんが」

「だろうとも」

 力なく横山先生は笑った。そして音楽室へと出て行った。

 生徒たちは横山先生の後姿を指して、薄く笑いあった。横山先生はその程度の人間だった。だらしがない。授業の進行はおよそ計画性に欠ける。だがそれでも横山先生は教師であり、それゆえに大人だった。大人であるということは、『子ども』からすればたいしたことなのだ。

「次は田中先生ですね。先生の教室は隣の放送室です」

 田中春江先生は眼鏡の下で丸い目を大きく膨れ上がらせていた。その様子はどこか蛙に似ていないでもなかった。

「鈴来君、私には子どもが二人いるのよ」

「そうですか。さ、放送室に」

「どっちもまだ小学生なのよ!」

 田中先生は身悶えして哀願した。

「先生のお子さんが小学生だろうがどんなに憎たらしい子どもだろうが、今は全く関係ありません。放送室へどうぞ」

「許して、解放して!」

「田中先生」

 尚は厄介な子どもに手を焼く保育士のような表情を見せた。

「これは授業です。鐘はもう鳴りました。あなたは席に着かなければならない。授業中に生徒を座席に縛りつけておけるのは教師の特権の一つです。あなたはその特権を長い間行使し続けてきた。たまたま今日だけ、たった一時間足らずの間、その特権を行使される側に回るだけの話じゃないですか」

「授業なんて認めた覚えはないわ!」

「俺たちも、中学校に入学した日にあなた方を選挙した覚えはありません。なら、そういうものだと諦めもつくんじゃないですか」

「あなたが言ってることは無茶苦茶よ」

 田中先生は泣かなかった。後藤先生のようには振る舞わなかった。

 それは立派なことだった。

 真一はつと視線を移した。

 八木山の枯れゆく緑が遠くに見える。

 田中先生には子どもがいる。離婚の後、親権を巡る壮絶な争いの末に勝ちとった子どもたちだ。

 人間は一生の内にどれだけの荷物を背負い込むのだろう。生きていくために。どれだけ背負えば満足するのだろう。

 向山の丘に朝の時間が流れゆく。

 真一は手中にある鉄の塊が重過ぎると思った。

 穏やかな朝のひと時を握りしめて過ごすには重過ぎる。

 こんなちっぽけな鉄の塊にさえ耐えられないのに、どうしてもっと重い荷物を背負うことができると信じられるだろうか。

 真一は急に、たまらなく美紗に会いたいと思った。懐かしさとか恋しさといった感情のためにではなく。

 美紗に教えてやりたいと思った。美紗はまだ間に合うかもしれないからだ。

 世界に敵対する必要はないのだ。自ら病を呼び込む必要はないのだと。

 そうやって、僕は完璧に取り繕われた美紗の外壁にひびをいれることができるだろうか。

 君は自分が生まれてきたのには理由があると思うかい。

 知ってるかな、理由がなくても案外上手くやれるんだってこと。

 ほら、僕は病んでいる。僕の根っこはあらかた腐ってしまっている。

 田中先生はぐったりうなだれて、放送室へ連れ出されて行った。

「次は後藤先生ですね」

 名前を言われて後藤先生は肩を震わせた。

「後藤先生には少々不便を我慢していただかなければなりません。というのは、つまり、ええと」

「後藤先生の教室はこの階の女子トイレなんです」

 言いにくそうな尚に代わって、夕貴があっさり言った。

 後藤先生は恐怖と驚きがないまぜになった表情で夕貴を見返した。

「あいにく、空いている教室が他にないので。申し訳ないですけど」

「まあ、先生の担任の四班は女子だけですから」

 尚の補足はあまり慰めにならなかっただろうが、もとから後藤先生は覚悟を決めていたようだった。

「どこで殺されようと同じだわ」

 誰も何も言わなかった。

 後藤先生はすっと立ち上がり、四班の女子に周りを囲まれて歩み去った。

「さて、と。次は荏田先生の番なのですが」

 尚はちらりと時計をのぞいた。

「時間がありますから、少しだけお話をしましょうか」

 二十人の生徒が出て行ったため、教室はがらんとしている。

 荏田先生の少し薄くなりかけた頭髪が脂汗に濡れている。青と白色のアディダスのジャージは、襟がよれ、幾分汚れて見える。

 生徒指導のプロ、荏田光彦は分別臭い仕草で椅子にふんぞり返った。その堂々たる様だけは佐々木校長に匹敵するといってよかった。

「何の話をするのも勝手だが、鈴来、俺は聞くつもりはないからな」

「それなら、荏田先生は他人の話を聞くことができるんですね、その気になれば。それはちょっと驚きです」

 尚はおどけたように笑った。

「荏田先生が生徒の話を聞いてくれたことはありませんでした。三年のお付き合いになりますが、残念ながらその内の一度も」

「誰かに話を聞いて欲しいと思ったら、まず相手の話を聞くことだ。中学三年にもなって会話のしかたも知らんのか」

 荏田先生は太い腕を胸前でがっちりと組んだ。

「そうだろうとも。礼儀も知らない。我慢も知らない。十五年も生きてきて人生について何一つ学んじゃいない。学んだことといえばゲームのやり方か?親の金の使い方か?人生を暇つぶしに浪費しながら心の中ではこんなはずじゃない、毎日つまらない、学校が憎い、そんな不平不満をうじうじうじうじ心の中でいじくり回しているんだろうさ。そんな奴らのやりそうなことだ。いきなり先生を、バン!はっ、立派な子どもたちだ!」

 荏田先生は冷笑したが口調は激昂していた。

 尚は視線を床に落とした。

「それがあなたの見解ですか」

 尚の後ろで夕貴は相変わらず夢を見るような表情をしている。聖美の頬はほんのり赤く染まっている。怒っているようだ。

 だが発言の順番は彼女たちのものではない。

「どう思う、泰徳」

 尚の呼びかけは空振りに終わったように見えた。

 金本泰徳は座っている。

 涙は乾いている。

 しかしその目は死んではいない。

 泰徳はこの先、いくら歳を重ねようと従順な羊にはならないだろう。その点だけは賞賛すべき美質であるかもしれない。

 泰徳は凶暴な目をただ空中に光らせている。

 尚は床に投げ出された窓枠の長い影に目を落としたまま、待った。

「人の話を聞けだと?」

 金本泰徳はそう言って戦線に復帰した。

「今年の体育祭は中止だった」

 その声は低くかすれていたが十分に明瞭だった。

「修学旅行もなかった。文化祭もなかった」

 泰徳は不機嫌にそう言って机を叩いた。

「俺たちは三年間、ことあるごとにあんたらのお説教を聞いてきた。授業、朝礼、学年集会、生徒総会、その他諸々、名前は違っても全部お説教だ。俺たちはそれを聞いてきた。それでも足りねえのか。それでも俺らはあんたらに話を聞いてもらえねえのか」

「不満があったらその場その場できちんと言えばいい。突然先生を撃ち殺すようなことをせずにな」

「あんたらに聞く気があったってのか!」

 泰徳は吼えた。

 荏田先生は冷笑的な態度を崩さずに、泰徳に顔を向けた。

「つまりお前らの言いたいのはそのことか?今年度の学校行事の中止が不満だと。それだけのことか?」

「それだけのこと!?」

 教壇で、聖美が叫んだ。

「よくそんな言葉が使えるわね。一方的に一年間の行事を全部中止された生徒の気持ちを考えたことはあるの?」

「今年度の行事の中止は指導計画の都合でどうしようもないことだった。そのことは十分説明してみんな納得したんだ」

「みんなって誰のことよ。先生方?PTA?少なくとも生徒たちはその中には入ってないわね。だって職員室に詰めかけた私たちの話を先生方は誰も聞いてくれなかったんだから」

「それならお前らは一単元分の授業をすっ飛ばしても良かったというのか。三平方の定理は受験にはいらないか?関係代名詞は?財政と金融をやらなくても合格できるか?修学旅行もいいだろう。体育祭も結構だ。やりたけりゃ文化祭もやるがいい。指導計画が中途半端で終わろうが入試に失敗しようが俺の知ったことか。お前らが自分勝手に好きなことをやったツケだからな。だがもし仮にそうなった場合、お前らは誰に文句を言うだろうな?自分自身にか。それとも親たちにか。あるいは塾の講師に。それならいい。しかしそうじゃないだろうよ。お前らが文句を言うのは常に先生方に対してだ。俺が落ちたのは社会科のあの教師の授業のせい。私が不等式ができないのも、僕が球技を嫌いになったのも、全部先生のせい。悪いのは全部学校。それがお前らだよ。常に文句。文句。文句。文句。文句ばっかり。責任は他になすりつけて、文句を言うだけ。それがお前らガキってもんさ。いい気なもんだと思うよ、まったくな」

 聖美に対して噛みつくような口調で、荏田先生はまくしたてた。

「じゃあ対話があったって言うの?先生方と生徒の間でお互いが納得するまでの話し合いがあったとでも?私たちが問題にしているのは、先生方がその努力をしたかどうかってことで、行事と授業の進行のどちらが大事かなんてことじゃないわ」

 聖美の反論に、荏田先生は不快そうに手を振った。目の前の蝿か何かを追い払うような仕草だった。

「お前らが何を問題にしてるかなんてのはどうでもいいことだ。いやはや、しかしそれだけのことで須田先生をズドンとやるとはな。お前らの下劣さには呆れてものも言えないよ」

「そんな風に言って欲しくない!」

 聖美が怒りを込めて叫んだ。その様子は普段の聖美からはちょっと想像できないくらい、恐かった。

「それだけのこと、なんて言葉で片づけないで。私たちにとってはとても大事な問題なのよ」

「須田先生を殺さなければならないほど大事な問題だったってのか!」

 荏田先生は怒鳴った。

 聖美は怒りのためか、それとも興奮のためか、目の端に少し涙をためている。

 荏田先生は猛る雄牛さながらに首を巡らせて、取り囲む生徒たちを睨んだ。

「そこが重要な点ですね」

 冷静な口調で尚が割って入る。

「須田先生は死ななければならなかった。でも、なぜ。そう、そこが重要な点です。須田先生はなぜ死ななければならなかったのでしょう」

「死ななければならなかったなどとふざけたことを口にするな!」

 荏田先生は額を濡らして怒鳴る。

「自分たちの手を血で汚しておいてその罪の重さを省みることがないなら、お前らこそ正真正銘の狂人だ」

「今更気づいたんですか。確かに俺たちは狂ってる。でもその狂気を育んだのはあなたたちなんですよ、荏田先生」

 尚は微笑みの消えた顔で言った。

「俺たちには先生方に話を聞いてもらう方法がなかった。聞いてもらえないのなら、無理矢理に聞かせるしかないと思った。そのためには誰かを殺す必要があった。俺たちが本気なんだということを示すために。そこで、須田先生を選んだ。須田先生は独身だから、既婚者や子持ちの先生を殺すよりいいだろうと考えた。狂ってますよ。ねえ、荏田先生。狂ってますよね、こんな考えは。俺たちは間違いなくイカれてる。でも俺たちをここに追い込んだのは誰ですか」

 尚はぞっとする無表情で荏田先生に問う。それを見返す荏田先生の表情はあくまでも冷ややかだ。

「誰なんだ、俺たちを狂わせたのは!」

 尚が怒鳴った。両手が教卓を叩き、ばんという大きな音がした。荏田先生の肩がこころもち揺れたように見えた。

「須田先生は死んだ。俺たちが殺したんだ。それでもあんたはまだその糞ったれな教師面を続けるつもりか?いい加減に認めたらどうなんだ、この場ではあんたと俺たちの立場は対等なんだと。俺たちがあんたを引きずりおろしたんだ。教員免許が今、この場であんたを守ってくれるか。大学の教職科目の講師が教えてくれたか、生徒がある日突然手に手に武器を持って向かってきたらどうすればいいかを。あんたを守ってくれるものはここには何もないんだ。あんたは、日々俺たちが学校でそうであるように丸裸にさせられている。あんたと俺たちの間に違いはないんだ。それならお互い人間として話そうじゃないか。対等な人間として話し合おうじゃないか」

 言いながらも、尚の顔色は蒼白といっていいほどに青ざめている。憤りと嘲りが混在する荏田先生のそれとは好対照に。

「尚、時間だ」

 英智が腕時計をのぞいて、告げた。

 五班の生徒がすっと立ち上がる。

「荏田先生の教室は視聴覚準備室です」

 無言の尚に代わって英智が言う。

 荏田先生は立たない。

「立てよ、こら」

 泰徳の口調に、五班と六班の班員に緊張が走る。

 しかし泰徳が余計な暴力を振るうことはなかった。

 泰徳は荏田先生の腕を掴んで引きずり上げる。五班の生徒たちがそれを手伝う。

 荏田先生にとっては辛い授業になるだろう。

 真一は荏田先生の後姿に憐れみを覚えた。

 けれどそれはより辛い通過点を意味するにすぎない。終わらない授業はない。成功するか失敗するかは別として。当然成功するだろうと真一は信じている。そのための計画だ。そのために半年をかけたのだ。

 そしてもちろん、六班、つまり真一、尚、聖美、夕貴、英智が構成するこの班の授業も、成功するだろう。

 真一はゆっくりと視線を移した。

 佐々木武実校長は泰然とそこに座っている。




流れる雲よ 思い出よ
時は過ぎ去って行く
震える心のまんなかに おかしなぼくがいる
――― THE BLUE HEARTS


 佐々木校長は六年間向山中学校に勤務している。校長試験に合格したのが五十歳の時で、以来ずっと向山中学校のドンであり続けている。六年間という数字が平均的な長さなのか、それとも一ヶ所での勤続年数としては異例なのかはわからない。だが生徒たちの間ではそれが短過ぎるという意見は聞かない。

 六年間というのは、新たな事業を始めてそれを軌道に乗せるには十分な長さだ。一つの組織の長として、そこに自らの支配を徹底させるにも、それだけあれば足りるだろう。そして、その支配の腐敗が始まるのも、六年間は十分な数字であるはずだ。

 真一はたった六人だけになった視聴覚室の窓際で、相変わらず拳銃をもてあそんでいる。

 佐々木校長の六年間は、生徒たちにとってだけじゃなく先生方にとっても長過ぎた。

 これまで確信をもってそう考えたことはなかった。しかし、こうして朝の柔らかい陽光を半身に浴びて膝の上に鉄の塊を置きながら、真一はそれを信じた。

 佐々木校長が入り口のドアからこの愉快な笑劇に闖入してきた時、先生方の誰が立ち上がっただろう。生徒たちの監視下にあったとはいえ、声をあげることくらいはできたはずだ。いや、それくらいはすべきだったはずだ。校長先生、逃げてください、とか、警察を呼んでください、とか。だがそうした先生は一人もいなかった。

 校長が尚相手に必死の論戦を挑んだ時も、先生方は黙っていた。おまけに、校長が事態を収拾するために利用しようとしたのは、五人いる先生方の内の誰でもなく、泰徳というできそこないの生徒だった。

 それで不足なら、荏田先生が議論というよりは独白に近い演説をぶち上げている時、佐々木校長は黙ったままだったという事実がある。

 校長と教諭たちの間には信頼関係がない。

 この結論には、たとえ軍用拳銃で先生の頭をぶち抜いた直後の生徒でなくたって、ちょっとしたショックを受けるだろう。特にそれが、実践的な教育手法とやらをあちこちでべた褒めされている偉大な狸と、普段は彼の前では舌も満足に動かせないほど縮み上がっている教員たちの間の話であってみれば。

 僕はまた勉強したわけだ。真一は口の端を皮肉に歪めて考えた。

 横山先生の台詞が思い出される。お前たちは誰を相手にするつもりで、実際には誰を取り囲んでしまったのか。

 校長ですよ、先生。佐々木武実校長を、です。

 真一は、記憶の中のわびしげな横山先生の後ろ姿にささやいた。

 僕は佐々木校長に幻想を抱いていたのだろうか。過剰な評価をしていただろうか。自分の内側にある憎悪の炎を煽るために、対象に過大な評価を与えていたのだろうか。

 佐々木校長は偉大だった。偉大でなければならなかったのだ。そうでなければ、到底こんなことはできなかっただろう。

 忘れてはならない。

 彼らがごく普通の中学生だったということを。三年二組の連中は、ほとんどが、いや、尚や秋成、夕貴といった計画の中核を担った生徒たちでさえ、ごく普通の連中だった。最大の関心事は恋愛や害にならない程度のペッティング、もしくは部活や友達とどうつきあうかといったことにある生徒たち。

 忘れてはいけない。

 そのどこにでもいるような中学生たちを、白昼の学校で手に手に凶器を持って先生方を拘束し、あまつさえ殺してしまうといった行動にまで駆りたてたのは、ある意味で誇張され歪められた教師たちに対する幻想だったということを。たとえ、一年間の行事停止という事情があったにせよ、それどころかもっと酷い状況に置かれたとしても、生徒たちが教師たちを監禁するという行動に及ぶのは異常なことだ。それでも向山中学校三年二組の生徒たちがその異常な行動をあえて選択したのは、彼らの教師たちに対する憎しみを煽り、増幅し、常に操作してきた人間がいたからに他ならない。

 その人間こそが僕だ。

 真一は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

 この計画の目的を完全に把握しているのは僕しかいない。三年二組の生徒全員がそこから飛び立ってしまった今でも、計画は僕の手にある。だからこそ、罪も僕の手にあるのだ。

 そういえば、横山先生がさっきの質問―――お前たちは誰を相手にするつもりで、実際には誰を取り囲んでしまったのか―――を口にした時、尚はどう答えたんだっけ。わかりません、と答えたんじゃなかったか。そう、彼にはわからないだろう。彼だけではない。あの時あそこで横山先生の問いを聞いていた人間は全員、永遠にそれを理解することはないのだ。たった二人だけを除いて。僕と、あの男だけを除いては。

 それが明かされるまでにはまだ時間がある。

 真一は窓の外の太陽を横目で眺めた。

 僕は嘘をついた。

 僕は三年二組の全員をだました。

 僕の言葉は虚飾以外の何ものでもなかった。ごまかしと、まやかしと、いんちき。それが僕の成分表示だ。三年二組の全員がその嘘にはまった。

 見破ってみせたらどうですか、校長。

 窓に映る佐々木校長に、真一は語りかけた。

 この茶番を操作しているのが誰なのか、当ててみせてくださいよ。

 真一は半分本気でそう願った。校長が大教育者としての貫禄を発揮して尚や夕貴の目を醒まさせ、この狂気の一時間に終止符を打ってくれることを。

 校長が本物ならそれができるはずだ。本物の人間なら。ごまかしでも、まやかしでも、いんちきでもない、ホンモノの言葉を語ってきた人間なら。

 確かにあなたは偉大に見えますよ、佐々木校長。

 けれどそれが虚飾でないと、取り繕われたものでないと、誰が判断できますか。

 あなたが歩んできた人生が嘘っぱちだらけのものでなかったと、誰が判断できますか。

 真一は校長の姿に重なって窓に映り込んでいる自分の顔を見た。

 虚飾だらけの顔。

 しかしその表情は、いつかの野外活動の写真に比べればはるかにましなように思えた。ずっと昔、エジプト人たちが偉大な諸王のために巨大な墳墓を建設していたのと同じ時代の野外活動の写真。太陽のような微笑を浮かべた女の子と、ミイラのように生気がない男の子が、フィルムの無機的で均質な枠組みに収まっている写真だ。

 完璧さの極致というものがあるなら、あの写真の美紗がそれなのだろう。同じように、不完全さの極致というものがあるなら、あの写真の真一がそれなのだ。

 問題は、二人の間にあるはずの相違点は何か、ということだ。

 美紗の完璧さは追及されたものだ。恐ろしいほど甚大な努力の末に獲得されたものだ。それは一つの目的であり、その目的は達成され、克服され、過程を完了して結果になった。

 では、僕はどうだろう。

 頭痛の足音を三半規管の奥に聞きながら、真一は考えた。

 僕の不完全さは獲得されたものだろうか。それは目的だっただろうか。美紗の目的が完璧さの追求にあったように、僕の目的は不完全さの追及にあったのだろうか。

 違う、と思う。

 僕も完璧な人間になりたかった。なりたかったけれどなれなかったのだ。冷酷な競馬みたいなものだった。美紗はぶっちぎりの一着でゴールし、僕は他の雑多な馬に紛れて泥だらけのブービーでゴール板を通過した。しかし一着の馬もビリから二番目の馬もスタート地点は一緒なのだし、ゴール板の位置も一緒なのだ。結果の差は運命の差の表れにすぎない。勝つべき運命と負けるべき運命の差だ。

 美紗はこれからどうなるだろうか。完璧さの追求という目的を完遂した後、彼女はどこへ向かえばよいのだろうか。目的のために生きるという、目的的な生の後に、また新たな目的を設定することは可能だろうか。創造の後には破壊の余地しか残されていないというのに。

 真一は、美紗を救いたいと切実に思った。

 しかし美紗は僕の言葉を聞くだろうか。美紗と付き合ってきた数年間で交わした会話の断片が、幾つか頭の中に浮かんでは消えた。

 あれだけ時間をかけて、僕たちはお互いにどれだけのことを伝えられただろう。もしまた同じだけの時間を与えられたとして、僕は美紗にどれだけのことを伝えられるのだろうか。

 今ならできる、と真一は思う。

 メールにうつ一行でいい。それだけあれば、僕は美紗を救えるだろう。

 しかし残念ながら僕にはメールをうつ時間は残されていない。

 そんな時間さえもない。

 コンビニでアーノルド・パーマーの眼鏡をかけた店員から受け取ったミスター・シザーズに、真一は左手で軽く触れた。それは腰のあたりでベルトとズボンの間に挟まれたまま律儀に登場の機会を待っている。

 これ以上高くにはいけないよ。耳の奥でブライアン・アダムズの声が響いた。

 教壇では尚が咳ばらいをした。

 さあ、授業の始まりだ。



8
口笛 吹こうね
――― THE BLUE HEARTS


 英智が机の中から薄いファイルを取り出し、教壇へ運んだ。

 夕貴がそれを受け取り、一ページ目を開いて教卓の上に置いた。

 佐々木校長は貫禄と用心深さが同居した抜け目ない光を両目に浮かべてその様子を見守っていた。その姿は尊大といってもよかった。

「これから授業に入るのですが」

 尚は言った。

「まず授業を定義することから始めましょう。何をすべきで何をすべきでないかがわからなければ、前には進めませんから。授業とは対話だ。そうですね、校長」

 佐々木校長は答えない。

 尚は構わずに続ける。

「もちろん、今のこのような状況で対話を成立させるのは無理な話です。しかし少なくとも出発点に立つことはできる。対話はまず他者の声に耳を傾けることから始まるのですから。耳栓でもしない限り、校長、あなたは俺たちの言葉から逃れられない。そして異なる存在の言葉に耳を傾けた時、あなたの中でどのような変化が起きるか。かたくなな拒絶か、反論か、あるいは同調か。俺たちは、その後にあなたからの発言があると期待してはいません。言葉の介在は対話の必須条件ではないですから。対話とは働きかけと反応です。前者は限定的かつ明確なものである必要があり、従って言葉でなければならないかもしれないが、後者は違う。人間の反応は言葉として具現化されることを前提としてはいません。むしろ言葉はその複雑さと意義を損なうことの方が多い。理解した、ということがいかにやさしく、理解する、ということがいかに難しいかを考えれば自明のことです。だから、俺たちはこの時間で対話を成立させることができると信じています。そして対話が成立するということは授業が成立するということです。何か質問は」

 校長は無表情で黙りこくったまま尚を見返した。

「質問はないようですね。では、授業に入ります」

 尚は手元に開いているファイルに目を落とした。

 1937年ブーヘンヴァルト。1938年ダッハウ。1941年アウシュビッツII。この間に能率化の手本として総統から勲章を受ける。二階級特進。1943年からポーランド解放までトレブリンカ。そしてワルシャワ郊外の森で逮捕され、1945年に赤軍によって処刑される。

 もちろん佐々木校長の話ではない。

 しかし典型的な人間の一生というのはどこかそんな特徴を持っている。

 命令された。だからやった。それが職務というものだ。

 はたして、それはナチの中佐の言い分か、それとも現代日本の校長の言い分か。

「校長は、大学の卒論でコンドルセを取り上げてますね。『革命議会における教育計画』『公教育の本質と目的』。面白い著作です。公教育は国民に対する社会の義務である、でしたっけ。革命期の思想家らしい言葉です。でも、先生の卒論の方は、テキストと比べてさほど面白くないようでしたが」

「読んだのか。バカな。手に入れられるはずがない」

 佐々木校長が言った。

 尚は首を振った。

「読みましたよ。入手方法はいくらでもありますから。でも、いちいち種明かしをする必要はないでしょう。俺たちは学校の全ての鍵を開けることができる。俺たちは拳銃を手に入れることさえできる。それなのに一学生が三十年前に書いた卒論は手に入れることができない?そう考える方がバカげているじゃないですか」

「手に入れたとしても理解できるはずがない」

 佐々木校長は辛辣に嘲った。

 尚はうなずいて言った。

「当然、理解なんてできませんよ。校長は信じているんですか?他人の考えを理解できると。別個の人格に生じた観念を我がものとして同化できると。そんなことはありえない。他者の言葉は砕け散った鏡です。そこに映るのは彼の観念のかけらでしかない。そしてそのかけらをいくら集めても、究極的な原型を再現することは不可能だ。それは言葉を発した本人の中にしか存在していないんです。だから他人を理解することなんてできない。理解というのは全く別次元の問題なんです。それなのに校長は信じるんですか。他者を理解することが可能だと?」

「できるとも。人間はお互いにわかりあうことができるんだ。もっとも、私はお前たちのような人間を理解したいとは思わないし、できるとも思わんがね」

「お互いにわかりあう?俺の話が通じなかったようですね、校長。それは理解じゃなくて同調だ。ある者が甲と言い、ある者がそうだねとうなずく。こんなものが理解だとおっしゃるんですか。だとすればあなたは相当程度の低い環境で生きてこられたことになります」

「本当の愛、友情、信頼、そんな本物の人間関係も知らないお前たちには似合いの台詞だな」

 その佐々木校長の言葉に尚は微笑を返した。

「本当の愛、友情、信頼、そんな人間関係がなくてどうして俺たちがこんな行動を起こせたと思いますか。三年二組には様々な生徒がいます。刹那的な楽しみしか考えない奴もいるし、困難からの逃避しか頭にない奴もいる。他人を貶めることが最大の快感だという奴だっている。お互いに理解なんかできません。それは神の次元ですよ、多分ね。そして神様というのはきっと嫌な奴なんでしょう。俺たちは理解しあおうとはしなかった。そんな押しつけはごめんですから。俺たちがしたのは理解ではなく尊重です。三十二人全員が、お互いに尊重しあうところから始めたんです」

 尚は言葉を切るとファイルを閉じた。

「わかりませんか?わからないでしょうね。あなたは今、こいつらは理解できない、こいつらの言うことは理解の範疇外だと考えている。それはもっともな反応です。校長、あなたは理解という言葉を安易に使いすぎたんです。結果として、世界を理解できるものと理解できないものとに二分し、前者には同調し、後者には全否定を与えるという、あまりに単純な二元論の思考に陥ってしまった」

 尚は閉じたファイルを教卓の上に置いたまま、教壇から降りた。

 そして座席に座る佐々木校長に一歩ずつ近寄る。

 窓から差し込む秋の陽光が、暖かい影をその横顔に落す。

「一日に八時間でした」

 尚が言う。

 佐々木校長は黙ってその顔を見上げる。

「この半年、一日に八時間勉強してきました」

 尚は佐々木校長の表情を見て笑う。

「もっとも、受験勉強じゃありませんけどね。四月に班割をして、それからずっと、一日八時間ずつ班単位で勉強してきたんです」

「何を学んだというんだ」

 佐々木校長は聞き返した。その声に、ほんの微かに聞きなれない響きが混ざっているのに真一は気づいた。それは畏怖に近い感情からくるものだと真一にはわかった。なぜなら、真一も同じ感情を抱いていたからだ。笑いながら語る尚に対して。そしてそれをおなじように微笑みながら聞いている教壇の夕貴、英智、聖美に対して。

「何でも、です。恐ろしくたくさんの本を読みました。恐ろしくたくさんの議論をしました。その全てが把握できたわけではありません。把握できないことの方が多かったかもしれません。しかしこれだけはわかったと言えることが一つだけあります」

 尚は佐々木校長の机の前に立ち止まると、校長の方へ少しだけ身をかがめた。

 幽鬼じみた闇が佐々木校長の巨木めいた顔を覆った。

 真一の掌を汗が滑り落ちて拳銃の握りに染み込んだ。

「知りたいですか」

 尚が訊いた。

 佐々木校長は顔を闇の中に失ったまま座っている。

「知りたくはありませんか。俺たちが何を見たのか。そして今何を見ているのか」

 佐々木校長は答えない。

 真一はゆるゆると銃を握った。しかしその銃口を誰に向けるつもりなのかはわからなかった。

 尚は不意に身を引いた。

 佐々木校長は呆然として目を泳がせた。

「あなたの話をしましょう」

 尚は短く言って校長に背を向け、少し離れた机の上に腰をかけた。

「佐々木校長はこの向山中学校に校長として赴任する前、つまり四十九歳の年まで、太白区の荒山南中で教頭として勤務していましたよね」

 返事を待たずに尚は続ける。

「あなたは女子バスケ部の顧問を務めていた。あなたの在任中に荒山南は中体連で二度、全国大会に出場している。たいしたものです。素晴らしい成績です。ところで、それと同じ時期、つまりあなたの在任中に、荒山南中では体育館の女子更衣室が荒らされる事件が何回か起きていますね」

 佐々木校長は二度三度とまばたきを繰り返した。その様子は、短い眠りから引き戻された人間に似ていた。

「何が言いたいんだ」

「別に何も」

「あれは変質者のしわざだった。数ヶ月に渡って何度か侵入があり、最後には更衣室がひどく汚されていた。それで警察に相談した。その結果、特定できない指紋が出た。我々は夜間の警備を強化し、以後事件は起こらなかった。それが事実だ。何をもってお前らが私を貶めようとしているのかは知らんが、無駄なことだ。私は事実を知っている。根も葉もない誹謗中傷で私が傷つけられることはない」

 尚は柔らかくうなずいた。

「もちろんですとも。ところで、更衣室が汚されていた、とおっしゃいましたが、どのように汚されていたんですか」

「ロッカーの物が一面に投げ出されていた。そしてその上に」

「汚物が撒かれていた」

「そうだ」

「具体的には犯人の、あるいは犯人たちの精液ですね」

「知らん」

 しゃべりすぎたと思ったのか、校長は返答を拒否した。

「それを最初に発見したのは誰です」

「朝一番に出勤してきた職員だ。彼女から私に連絡があった」

「現場を見たときの感想は」

「思い出すのも嫌だね。あの時はこの世にこれ以上下劣な光景があるものかと思った。まだお前たちには会っていなかったからな」

「その時の感情は怒りですか」

「そうだ」

「その光景に性的興奮を感じる自分に対して?」

「何のことだ」

「別に何も」

 尚は机の上に腰を下ろしたまま、肩をすくめた。

 佐々木校長は腕組みを解いて座席に座りなおした。

「君たちはどうやら教師と学校を極端に歪曲して考えているようだな」

「そうでしょうか」

「受け持ちの生徒や児童に対して、蔑視したり虐待を加えたりといった教師がいないとはいわない。だがそれはほんの一部だ。子どもたちが担任から差別されていると考えたり、性的な視線を感じたりといったことは、一部では本当に起こりうるかもしれないが、実際は被害妄想であることが多い。特に思春期の子どもにそういった事例はよく見られる。ちょうど君たちの年齢だ」

「しかしマスコミの報道にはしばしば問題のある教師の起こす事件が取り上げられますね」

「社会全体が教育とそれに携わる人間に対して過敏になってるんだ。鈴来君、君が言うようなニュースが毎日報じられているかな。もしそうだったとしても、日本には四十七の都道府県があり、それぞれにどれくらいの数の教員がいると思う。問題のある教師は全体からみればごくごくわずかな割合しかいないんだ。だが現在の教育の現場を眺める社会の目は残念ながら公平ではない。どこそこの何とかという中学校に誰それという問題のある教員がいる、記事の埋め草に困った地方紙の記者がその教員を取り上げる、そうするとその県全体の教員が槍玉にあがる。一つ腐っていればその箱のミカン全てが腐っているというわけだ。するとどうなると思う。各学校ではさっそく研修研修研修だ。会議も増える。PTAと会合も開かなければならん。一般の保護者たちは教師が仕事をしていないと考えている。しかし実際はどうだ。教師は一日八時間、放課後まで授業と生徒指導にかかりっきりだ。それ以外の仕事はいつやればいい。放課後だよ。六時過ぎに生徒が帰る、それから会議会議会議。その後に指導案を練り、教材研究をし、学級運営も考える。いったい、一日に十分な睡眠をとれている教師がどれだけいるだろうな。ところがマスコミはそんな教師たちの実情は取り上げない。彼らは一方的にけなすだけだし、保護者たちはそれを鵜呑みにする。不公平な話だよ。そうは思わないか」

「この期に及んで泣き言ですか」

 尚は冷たい口調で突き放した。

「あなたはまだ現実を見ようとしていない。あなたは自分の話をしようとはしない。全てを一般論に置きかえてしまう。社会が教育現場に対して不公平だと言う。そうかもしれない。マスコミのやり口が汚いと言う。そうかもしれない。教師に苦労が多いと言う。そうかもしれない。だけどそんなことを言って何の意味があるんです。なぜ自分のことを語らないんです。なぜ自分の言葉で語らないんです」

「私には三十年積み上げてきた経験がある。私の言葉はその経験から出ている。それを理解できないなら君たちの程度が低いのだ」

「校長、あなたが持ち出しているのは見識や認識ではなくて単なる知識に過ぎませんよ。あなたの嫌いな新聞記事の一ページを読めば知ることができる知識です。あなたはそんなもののために三十年も時間をかけたんですか」

 佐々木校長は辛抱強い表情を浮かべて尚を見つめた。

「鈴来君、君が振り回しているのは屁理屈だ。君の言葉にこそ何の根拠もないじゃないか」

「俺はサルトルの著作について、お望みなら八時間ぶっ続けで講義することができます」

 脈絡のない尚の言葉に、佐々木校長は口を開けて続きを待つしかない。

「夕貴はワルラスの一般均衡理論に対するシュンペーターの視点を批判的に述べることができる。英智と個人的に話す機会があれば、老荘思想について一昼夜話を聞くことができるでしょう。聖美は丸山真男の要点を簡潔に、あるいは詳細に、ご希望のままに説明してくれるでしょう。多分専門の研究職のようにはいかないでしょうが、それでもそこらの大学の学部生よりはよっぽどましな話ができると思います。ですがそれがどうだっていうんですか。本さえ読めば、誰にだって今お話したようなことが言えます。誰だってね。それだけをやれと言われれば、そして十分な時間を与えられれば、恐らく小学六年生だって老子の原文をそらんじることができるようになるでしょう。知識を得て何になります。誰にだってそれができるとなれば、それを知る意味がどこにあります」

 尚は唖然としたままの佐々木校長に向かって言った。

「校長、あなたがこれまでにおっしゃったことは、誰にでも知ることができる点で俺たちが学習した知識と何ら変わりません。俺たちはあなたの知識の下にある見識が知りたい。それこそが俺たちにはないものです。知識は二次的なものでしかない。あなたは自分の言葉で表現しなければならない。自分の内容物を俺たちの前にさらけ出してください。その勇気はありませんか。それとも、さらけ出すべき見識自体がありませんか。三十年に及ぶあなたの教員生活は、ごまかしと虚飾だけに過ぎなかったんですか」

 校長の額を脂が流れ落ちた。窓から差し込む陽光に強い巻き毛の髪がじっとりと光っている。

「黙れ」

 低く震える声がその咽喉奥から絞り出された。

 尚は冷たい表情を浮かべて佐々木校長を眺めている。

「貴様にそんなことを言われる筋合いはない」

 黒板の脇で英智がこれから面白いテレビ番組でも始まるように目を輝かせている。その足元では須田先生から流れ出した血が黒っぽい赤に凝固しつつある。

「私の人生を、貴様のような人間のクズにけなされる筋合いはない」

 教壇では夕貴が右手の細い人差し指を頬に添えて校長の様子に見入っている。

「貴様はできそこないだ。貴様ら全部できそこないだ」

 真一は聖美に目を向けた。

 軽い感じのする色で染めた短めの髪がちょっとどきっとするような可愛い造作の顔を囲んでいる。

 けれど真一はこの時、聖美を可愛らしいとは考えなかった。聖美は美しかった。妖しいまでの美しさだった。残酷さと優しさが無垢の中に同居している、そしてそれらが危険なまでの完璧さで均衡している、少女ではない人間の容貌。

 頭痛が始まっていたが、真一はその痛みを忘れた。

「自分の言葉で語れだと。ふざけるな。借り物の言葉を騙っているのは貴様の方だ。どれだけ私たちが貴様らの教育に心血を注いでいるか、どれだけの努力をしているか、考えたこともない貴様らに、私の言葉がわかってたまるか」

 佐々木校長の目は大きく開かれ、ぎらぎらと脂ぎった光に濡れている。

「私たちがどれだけの労力を貴様らのために払ってきたのか知らんだろう。いいだろう、それなら教えてやる。今年の二月、幾つかの学校関係者と研究者を招いてこの学校で理科の研究授業があった。貴様らが二年生の冬だ。後藤先生がその授業の担当だった。後藤先生は学級を持っているし、テニス部の顧問もしている。研究授業の準備はそれらが終わり、さらに学年の会議や教科ごとの打ち合わせもすんだ後にやるしかない。ところが県教委も絡んだ研究授業となると大変だ。下手な授業をしてみろ。その学校の教員全体に迷惑がかかる。だから授業の計画は念入りに、準備は慎重にやらなければいかん。当然時間がかかる。取りかかる時間が遅いのだから深夜まで学校に残って準備をしなければならない。研究授業直前の一週間、後藤先生が何時まで学校に残っていたかわかるか」

 佐々木校長の問いに尚は首を振ってみせた。

 それを校長は鼻で笑った。

「深夜の二時だ。その時間まで学校に残って後藤先生は働いていたんだ」

「超過勤務手当ては?」

 尚が訊き、佐々木校長はまた鼻を鳴らした。

「当然出さなかった」

「当然?教職員の待遇では残業手当は支払わなくていいんですか」

「研究授業は教員にとって勉強だ。やりたいだけ準備をすればいいし、練り込みたいだけ計画を練り込めばいい。だが本人が自主的にやっていることに給料を払う道理はない」

「それはあなたの判断ですね」

「そうだ」

「ずいぶんな吝嗇家ぶりに聞こえますが」

「自分の懐を惜しんだわけではない。公私の区別をつけただけのことだ」

 尚は少し考えに沈むように首を右に傾けた。

「それで?」

「それで、とは?」

 校長は尚に訊き返した。

 尚は首をかしげたまま校長に冷たい視線を注いでいる。

「後藤先生が深夜まで無給で働いていた。だから何です?そのことから何が言いたいんですか?」

「先生方の努力のことだ」

「何のための努力です。あなたは、研究授業は教師としての勉強だとおっしゃった。そうすると、後藤先生は生徒たちのために授業を準備したんじゃない。自分のキャリアのためにそれをしたことになるんじゃないですか」

「何というひねくれた考え方だ」

「俺がそう考えたんじゃありませんよ。あなたの揚げ足を取ればそうなるというだけです」

「後藤先生はな」

 言いかけた校長を、尚は右手で制した。

「後藤先生はああした、こう考えた、そのように見えた。そんなことを幾ら話しても意味はありません。彼女はこの階の女子トイレにいるんだしね。そこでの授業が後藤先生にとって有意義なものとなることを祈ってやみませんが、さて。ここでしなければならないのは、校長先生、あなたの話だったはずです」

 尚はちらりと腕の時計に目を走らせた。

「少し昔の話になります。かなり昔と言った方がいいかもしれません。あなたがまだ二十代を過ぎたばかりの平の教員だった頃の話です。あなたは八木山北中学校に勤めていました」

 佐々木校長は眉を微かにひそめて尚を見やった。

「あなたは三年生のクラスを受け持っていました。校内暴力とは無縁の学校。もちろんあなたが卒論で扱ったコンドルセとも無縁の忙しい日々ではあったけれど、平和で充実した毎日でした。たった一つのことを除いては」

 佐々木校長は尚がこれから何を言い出すのかと不安げに見守る。

 その表情に尚は冷たい視線を返す。

「まとまりがよく、模擬試験でも平均以上の評価を稼ぎ出していたあなたのクラスには、たった一つだけ問題があった。それは些細な問題だったかもしれません。それとも、深刻な問題だったかもしれません。今となってはわかりません。しかし当時の担任だったあなたはその問題を看過できないものだと考えた」

 佐々木校長はいよいよもって不可解だと言いたげな表情で聞いている。

「一人の男子生徒の数々の問題行動があなたを悩ませていました。繰り返される喫煙。飲酒。時々は万引き。およそ集団生活になじまない様々な暴力的な言動。それでもあなたは我慢していた。そのままでもいつかは切れたかもしれないが、とにかく我慢していました。ある事件が起こるまではね」

 理解の色が校長の目に浮かんだ。

 尚は微かな冷たい笑みでそれに応えた。

「その問題行動のある生徒が、同じクラスの女子生徒を殴った。ただ殴っただけじゃない。顔が膨れ上がって変形するまで殴ったんです。あなたはその現場を偶然通りかかり、犯行を目撃した。そして犯行を阻止した。その際にその男子生徒を手酷く殴った」

「行き過ぎた暴力には暴力しか通用しない場合がある。私の判断は正しかった。それはその後の査問会でも証明された」

「そうです。しかしここで重要なのは査問会ではありません。俺たちが問題にしなければならないのはあくまで事実です」

 尚は優雅な仕草で前髪を払った。

 あんな仕草ができるなら、髪を染めるのもあながち悪くはないかもしれないと真一はぼんやり思った。

「あなたに取り押さえられた男子生徒はその後どうなりました」

「長い停学処分を受けたよ。当然の報いだ」

「実際には二週間の停学です。質問はその後です。停学処分の後、その男子生徒はどうなったんですか」

「中学を卒業して就職した。建設関係の企業だったと思う」

「その後は」

「知らん」

「そうですか」

 尚は校長から目を離して天井を見上げた。

「ところで、男子生徒はどこで女子生徒を殴ったんでしたっけね。あれは確か」

「屋上へ通じる階段の踊り場だ」

「そうでした。危ないところでしたね。体育準備室や音楽室、視聴覚室なら放課後も部活やら会議やらで人の出入りがある。でも屋上への階段となると、ひょっとしたら一日中誰も通らない。ひょっとしたらね」

 校長は尚の顔を長い間見上ていた。

「何が言いたいんだ?」

 尚は天井を見上げたまま唇の端をつり上げた。

「先へ進みましょう。あなたは男子生徒を取り押さえ、他の職員に事件を知らせた」

「そうだ」

「しかし警察には通報しなかった。女子生徒は顔の骨を折る大怪我をしていたのに」

「中学生というのは微妙な時期だ。傷害事件を起こしたとはいえ、将来のことを考えてやらなければならん」

「他の先生方もそういう意見だったのですか」

「中には警察に引き渡すべきだという意見もあった」

「でもあなたがそれを制した。なぜです」

「私が担任だったからだ。私の責任で更生させることができると思ったからだ」

 尚は天井を見上げるのをやめて校長を見た。

「被害者の女子生徒は彼と同じクラスだったのに?その後の学校生活について、彼女の気持ちは考えなかったんですか」

「あの女子生徒はすぐに転校した」

「そう。男子生徒の停学が明けるのと同時にね。それもあなたの指示ですか」

「私はアドバイスしただけだ」

「結果として、男子生徒は停学処分ですんだ。普段からの問題行動と事件の重さを考えれば家裁に送られても文句はいえないところを」

「彼にとっては幸運な話だった」

「幸運過ぎます」

 尚はぞっとする明瞭さでそう言った。

 校長の額から顎にかけ、光る筋が一本流れ落ちた。

「見方を変えればどうでしょうか。この事件では二つの暴力が振るわれている。男子生徒による女生徒への暴力と、当時の佐々木教諭による男子生徒への暴力です。前者が後者の引き金になったと当時の記録には残されています。しかし見方を変えればどうでしょう」

 校長は机の上に組んだ掌を固く握り締めている。

「もし、振るわれた暴力が二つではなく、一つしかなかったとしたら。犯人が一人で、被害者が二人いるとしたら」

「やめろ。根拠がない」

 校長はかすれた声で言った。

 尚はその声を無視して続ける。

「傷を受けた者は二人いるが傷を負っていない者は一人しかいない。二人が彼によって傷つけられたのだとしたら」

「事実無根だ!」

 校長は叫んだ。

 尚は頓着しない。

「そもそも人気のない屋上への踊り場で、男子生徒と女子生徒は何をしていたのでしょうか。男子生徒が待ち構えているところに女子生徒が偶然通りかかるというわけにはいかない。その逆もありえないことはないでしょうが、考えにくい。そこに更にあなたが偶然通りかかるとなればね。そうすれば結論は自然に出てくる」

 校長は血の気の引いた顔で尚を仰いでいる。

「二人は呼び出されたんですよ。あなたにね。他ならぬ、当時の佐々木教諭、あなたにです」

「想像だ。全くの想像だ」

「男子生徒と女子生徒の間にはなんらかの関係があったのでしょう。恐らくそれは、校内でキスをしたとかしないとか、あるいはセックスをしたとかしないとか、そんなものだったでしょうが。とにかく、どうやってかあなたは二人のそういう関係を知り、こっそりと呼び出した。最初は軽いお説教ですませるつもりだったのかもしれないが、話をしている内に感情がエスカレートして逸脱した暴行に変わってしまった」

「もし私が制裁を加えるつもりだったなら、男子生徒を殴っただろう。私はどんな理由があろうと女を殴ったりはしない。断じてそんな男ではない」

「そうでしょうか」

 校長の否定に、尚は考え深く言葉を返した。

「その女子生徒はあなたの目には普段から魅力的に映っていた。そうじゃありませんか」

「おい鈴来」

「嫉妬というのは、男女を問わず人間を暴力的に変えてしまう恐ろしい感情です」

 校長は呆れたような笑いを浮かべようと努力した。そしてどうにかそう呼べる代物を口元に貼りつけると、言った。

「貴様は私がたかだか中学三年の女の子に恋していたとでも言いたいのか?」

「違います」

「じゃあ何なんだ」

「あなたとその女子生徒の間にあったのは恋愛感情ではなかった。もっと現実的で唯物的なものでした」

 校長は黙った。貼りつけられた笑みがみるみる枯れていくのが見えた。

「あなたはその女子生徒とかなり以前から性的な関係を持っていた。要するにそれが原因です。男子生徒は手を出してはならないものに手を出した。しかしあなたは彼への憎悪よりも、許してはならないものを許してしまった女子生徒への憎しみに怒り狂った」

「それこそ推論に過ぎん。誹謗中傷もいいところだ。私は私自身に対する侮辱よりも、二十年前の教え子たちに対する侮辱のために、言いようのない怒りを感じている。今、私は本気で貴様らに対して怒りを覚えているぞ」

「長町の弁当工場でしたよ」

 校長はまたもやあんぐり口を開けて尚を見返す羽目になった。

「そこで働いておられました。もうすぐ四十歳だそうです。今でもきれいな方でした」

「会ったのか」

 校長は強く殴られた後のような口調で言った。

「会いました」

「県外に出たと聞いた」

「結婚して地元に戻られたそうです」

「会ったのか」

「会いました」

 校長は首を振った。

「どうやって調べたんだ」

「さっきも言ったでしょう。方法は」

「幾らでもある、か。なるほどな」

 校長は両手で顔面を拭った。

「事件の後、彼女が転校してから何度か連絡を取ろうとされたようですね」

「手紙を出した。しかし彼女の両親に私とのことを知らせるわけにはいかないから、当り障りのないつまらない手紙ばかりだったが」

 校長は汗を拭いた手を元のように固く組み合わせ、机の上に置いた。

「そのことで私をどうするつもりだ」

「別に何も。それにちょっと本筋から外れてしまいました」

「本筋だと?」

「そう。重要なのは女子生徒ではありません」

 校長は訝しげに眉根を寄せた。

 尚は続ける。

「重要なのはあなたに停学処分をくらった上最悪の内申書を与えられて社会に放り出された男子生徒の方です」

 校長は両肩の間に首を沈めて考え込んだ。

 尚、夕貴、聖美、英智は思い思いの場所に思い思いの姿勢で立ちつくした。

 昼近い太陽がどうしようもなく和やかな温もりを伝えてくる。

 真一は背中にその日差しを浴びながら秋のことを思った。秋のことを思い、失われつつある様々なもののことを思い、過ぎ去った時間のことを思った。

 五つの影が、教室の中に固まっていた。

「思い出しましたか」

 尚が尋ねた。

「何を思い出せばいいんだ」

 校長はどこか憐れみを感じさせる仕草で首を振った。

「名前」

 尚のものではない、夕貴のものでもない、聖美のものでもない、英智のものでもない、まして真一のものでもない、誰かの声がどこからか響いた。

 校長は声そのものには気づかない。声に載せられた言葉だけがその耳に染み込み、脳へ伝わってゆく。

「名前」

 校長は窮屈そうに目蓋を閉じ、一心に考えている。

 やがてその表情に理解の色が走った。

「沢だ。沢輝秋。そう、あいつの名前は沢輝秋だった」

「思い出しましたね」

 扉が開く音がした。

 教室にいた全員がそちらを振り返った。

「確かにそいつの名前は沢輝秋です。そしてそれは」

 真っ黒な顔がそこにある。それは中学の三年間を陸上競技というオーブントースターで肌を焼き上げることにかけてきた人間の顔だ。

 何のためにだって。

 ただ殴られ、もてあそばれ、嘲笑されるだけの人生から、這い上がるためにだ。

「そいつは俺の親父です」

 クソにも劣る親父というゴミ溜めから脱け出すためにだ。

「沢輝秋は、俺の親父の名前なんですよ、校長」

 校長が息を呑むのが聞こえた。

 沢秋成がそこに立っていた。

 神の碾き臼は回るのは遅いが決して挽き逃すことはない、という古いことわざがある。

 それがようやく回ってきた。

 それだけの話だった。



9
白く雪のように舞い落ちるもの
喫茶店で見た生クリームか
ヨーグルトならば積もればいいのに
――― THE BLUE HEARTS


沢秋成のろくでなしの親父は、中学を卒業して仙台の建設事務所に作業員として雇われた。長続きはしなかった。中学校を出たての少年は勤務先で何度かトラブルを起こし、入社から四ヶ月ほど経ったある日を境にぷっつりと出社しなくなった。

 しかしこれは沢輝秋の、つまり沢秋成のろくでなしの親父の、責任ばかりとはいえない。待遇は劣悪だった。給料は同じ中卒の同僚よりも数千円低かったし、序列も最下位に置かれていた。就職活動の際に十分な交渉がされなかったのだ。沢輝秋の就職活動の担当は担任の佐々木武実だった。佐々木教諭はあえて劣悪な労働条件で沢輝秋を社会に放り出した。

 もし佐々木教諭が契約書をよく検討し、抗議すべきところは会社側に抗議して、沢輝秋の就業環境を適正な条件下に置くよう努力していたとしても、事態は変わらなかったかもしれない。沢輝秋は他の同僚と同じ給料、同じ序列でも社会になじめなかったかもしれない。

 そして毎晩息子を殴るようになったかもしれない。

 殴りながら息子に対して、義務教育期間を過ぎたらお前のために学費を出し続けるつもりはないと言い放ったかもしれない。

 あるいは、そうはならなかったかもしれない。それは沢輝秋の本来の運命ではなかったかもしれない。

 だがそんなことをいっても始まらない。

 沢輝秋は社会に出るための通行許可証を引き裂かれて放り出され、そのおかげで四十の声を聞こうという現在でもろくでなしのままなのだ。

 結果だけがある。競馬の配当表示にレース経過が表示されないのと同じように。

 その結果について責任を取るべきなのは誰だろう。沢秋成でないことは確かだ。

 だが実際はそうではない。秋成は中学生活を通して、いや、産道をくぐり抜けて泣きながらこの世に生まれてきたその時点から、既に負け分を払い続けてきた。彼は、沢輝秋という男の息子として生まれるという、たったそれだけの過ちのために、神様から恐ろしく高い代価を取り立てられてきた。

 沢秋成、つまりろくでなしの親父の息子は、しばらく扉の前から動かなかった。

 その目は真っ直ぐに佐々木校長を捕らえている。

 校長は背中を丸めてその視線から逃れた。

 沢秋成は静かな足取りで視聴覚室に入り、そのまま自分の席に座った。

 尚は腰かけていた机から降り、秋成と視線を交わした後で教壇に戻った。

「私をどうするつもりだ」

 校長は腹の底から搾り出すように言った。

 尚は冷たい目でそれに答えた。

 秋成が戻ってからしばらくして、一班の生徒たちがぞろぞろと視聴覚室に入ってきた。

 柴田先生は一番後ろからとぼとぼと歩いてきた。その顔はぐったりとして青白く、目の焦点は合っていない。

 佐々木校長は驚愕の表情を浮かべて柴田先生を見上げたが、何も言わなかった。言うべきことは何もなかったのだろう。

 だが柴田先生の方は違った。

 佐々木校長の脇を通り抜ける時、柴田先生は上唇をめくれさせ、歯と歯の間から唾を吹きかけた。

 虚脱した焦点の合わない柴田先生の目が佐々木校長のそれと出会った。

 柴田先生はちょっと形容しがたい形に顔を歪ませた。多分あれで笑ったつもりなんだろうと真一は思った。

 柴田先生はキリストが手招きしている岸辺の更に五次元先にある世界の住人のような笑みを浮かべたまま、校長の前を離れた。

 佐々木校長はあまりのことに、顎に滴る液体を拭うのも忘れて柴田先生の後ろ姿を見送った。

 柴田先生は力なく一班に囲まれた席にへたり込んだ。

 次に二班が教室に戻ってきた。

 生徒たちに先導されて歩く横山先生には、外見上はそれほど変化が認められなかった。

 それでも常識からいけばだいぶやつれていることは確かだったが。

 横山先生はしっかりした足取りで通路を歩き、校長の席まで来た。

 校長は緊張した面持ちでくたびれた横山先生を仰いだ。横山先生と過ごした数年間で、校長がこんな表情と姿勢で彼に対面したことはなかっただろう。

 横山先生は例の疲れ切ったような仕草で溜息をついた。

 そして次に恐ろしく邪悪な笑みを浮かべた。

 その直後に巨大な放屁の音が視聴覚室中に鳴り響いた。それはどこか、スコットランドの荒涼としたヒースの荒れ野を風に乗って渡ってゆくバグパイプの音に似ていなくもなかった。そう考えて真一は爆笑したくなった。放屁のリズムにのって雄々しくイングランドに立ち向かう誇り高きケルトの末裔たちの姿が目に浮かんだのだ。

 だが横山先生のこの行動を意外だと、もしくは大人としてあるまじき行為だと感じているのは、真一と佐々木校長しかいないようだった。生徒たちの誰もが、教師が優秀な生徒を見守るような目で、いや、それそのものの目で、横山先生を眺めている。

 横山先生が風格だけなら校長職に相応な貫禄で指定の席に着くと、示し合わせたようなタイミングで三班が現れた。

 田中先生は生徒たちの後ろから妙ちきりんな調子で腰を左右に揺らしながら教室に入ってきた。一般にはあのように脚を交差させながら歩く歩き方をモデル歩きと呼ぶのだろうが、いかんせん、冷蔵庫の上に粘土を塗りたくって仕上げられたような田中先生の図体では、前衛的ちょうちんあんこう歩きとでも呼ぶしかなかった。

 田中先生は校長の前で立ち止まると妙な角度から校長を見つめた。人が変わればあれも色っぽい視線に変わるのだろうが、田中先生がそうする様子はまるで葬式だった。

 しかし本人は四十年間鼻面を突き合わせてきた己の肉体的事情を忘れてしまっているらしく、ねっとりした視線を執拗に校長に絡ませる。

 息が鼻にかかる距離にまで田中先生の顔が迫り、佐々木校長は身をよじらせて逃れようとした。

 だが逃げることはできなかった。

 次の瞬間目の前に展開された光景に、真一は呆れるのを通り越してほとんど感動した。

 田中先生が風雪に長年耐えた巖のような唇を開き、校長の鼻をその間にばくりと挟み込んだのだ。

 う、とも、む、ともつかない声が校長の咽喉から漏れた。

 田中先生はなめるというかねぶるというか、とにかく濃厚な口づけを佐々木校長の鼻に加えていく。ぬめぬめと蠢く白茶けた舌が丹念に校長の左右の鼻腔をほじくり、肥大した上下の唇はぬらぬらと光るよだれの筋を校長の頬から顎にかけて広げてゆく。

 気味が悪いほど静まり返った教室に、田中先生が校長の顔をしゃぶるぴちゃびちゃりという音だけが響く。

 これをキスと呼べるだろうかと真一は思った。

 これをキスと呼ぶのは多分に冒涜的であるように真一は思った。

 これをキスと呼ぶのはどんな人間だろうと真一は思った。

 これをキスと呼ぶのはもちろんああいう人間たちだろう、と真一は今や徐々に教室を埋め始めた人々を見ながら思った。

 真一にはキスはもっと楽しいものであるように思えた。

 美紗としたキスの数を数えてみた。何度数えても、それはたった一回しかなかった。

 二年の冬、美紗が転校する直前のことだった。

 朝から降り続いた雪が日の暮れた街を覆い、街路灯の緑がかった光が点々と道沿いに並んで、滑走路の誘導灯のように帰り道を照らしていた。雪はなおもやまず、車道に車通りは少なくて、耳に痛いくらいの静寂の中に二つの足音だけがやけに大きく聞こえていた。

 美紗がさした赤い傘の上を粉雪が細い筋になって流れ落ちていた。

 会話はまるで雪によって流されるように二人の間に浮かんでは消え、一本の線にならなかった。

 幾つかの小さな坂を越えた。

 これを登れば大通りに出るという階段の前で、ふと美紗の足が止まった。

 真一は半歩先に進んでから彼女を振り返った。

 美紗は歩いてきた道へ目を向けていた。赤い傘越しに彼女の横顔が見えた。

 真一は美紗が見ているものを見ようとして暗い道へと視線を伸ばした。

 二対の足跡が、宵闇の中に時に埋もれ、時に現れして続いていた。

 そしてそこに、真一は美紗が見ているのと同じものを見た。

 それは虚無だった。美紗は自分の背後に自分がいない世界を発見したのだ。雪降る夜、帰り道の通学路に。

 闇の中に続く足跡は、ついさっきまでそこに美紗がいたことを証明してくれてはいなかった。足跡はただの足跡で、靴がそこの雪面に押し当てられたことの印でしかなかった。足跡は靴の存在の証明に過ぎなかった。足跡は人間の存在の証明ではなかった。

 美紗は小さく震えていた。

 彼女の目の前には自分のいない世界が広がっていた。美紗を欠いてもその世界は続いていた。美紗の世界は美紗がいない世界のほんの一部分に過ぎなかった。そして、その美紗がいない世界で、美紗が靴を通して刻んだ存在の一かけらである靴跡は、早くも雪の中に消えようとしていた。

 世界は続く。そこに主演者はいない。美紗でなくてもいい。真一でなくてもいい。誰がいなくなろうが世界は続く。そして、世界がかくのごときものであるなら、僕俺私の欠落を全く問題にしないものであるなら、その世界は虚無以外の何ものでもない。

 世界は虚無として美紗を襲った。それは突然彼女を捕らえ、絶望によって打ちすえた。

 世界はあまりに巨大で、その前では美紗の存在はあまりにちっぽけだった。

 真一には彼女の畏れが手に取るようにわかった。その瞬間、真一は美紗の体験を生きていた。体験を共有し、分かちあっていた。

 それは美紗と付き合い始めて以来、全く初めての経験だった。

 雪が降っていた。そして美紗は震えていた。

 雪の幕の向こう側で、美紗が小さな息を吐くのが見えた。

 真一は美紗に歩み寄った。半歩の距離はたったそれだけで雪の幕の向こう側に置き捨てられた。

 美紗がこちらを振り返った。

 その双眸には重い憂いがあった。

 その瞳を閉じてくれ、と真一は痛切に願った。

 だが美紗は真一を見つめ返した。憂いに睫毛を震わせて、でもその目を閉ざすことなく、真一の目を見つめ返した。

 だから真一は歯を食いしばった。

 思い切り歯を食いしばって、美紗にキスした。

 キスしながら、これほど近くで美紗の顔を見たことはなかったと思った。

 美紗の背後で、彼女がさしていた傘がゆっくりと舞い落ちていくのが見えた。

 とても短い間のできごとだった。

 真一は唇を離した。

 恋をするとはこういうことなのかと思った。傷つけるというのはこういうことなのかとも思った。

 雪を全身に浴びながら、美紗は微笑んで見せた。

 その瞳からは重苦しい哀しみが少し薄れたように思えた。

 こんな微笑を見ることができるなら自分の全てを投げ出してもいいかもしれない。

 そう思うことには何の理屈もいらなかった。

 そしてそう思うことは楽しかった。

 それも今では遠い。

 田中先生が校長の顔をあさる。

 これはキスだろうか。そうではないと真一は思いたかった。だからそうではないと結論づけることにした。

 校長はのけぞらせた背筋を痙攣させた。

 そしてその頭を田中先生の舌から無理矢理引き離した。

「やめろ!」

 その顔はよだれと脂と汗でぎとぎとに光っている。

「やめろ!」

 校長はもう一度叫んだ。

 田中先生は動きを止め、にたにた笑いを校長に向けた。

「やめてくれ!もうたくさんだ!」

 校長は椅子から立ち上がり、背後の机を飛び越えて田中先生から逃れた。

 田中先生はなおもそれを追おうとしたが、三班の内田綾がそれを押しとどめた。

 綾は先生の背中を優しくなで、座席へと誘導した。

 誰かが素晴らしい、と呟くのが聞こえた。

 素晴らしい、だって?あんたは頭がおかしくなったんじゃないのか。

 真一はよっぽどそいつにそう言ってやろうと思ったが、思い直した。結局これは三班の授業の結果なのであって真一とは無関係だった。この時間そのものが、究極的に真一とは無関係だった。

 田中先生が舞台から退くと、後藤先生を連れて四班がやってきた。

 後藤先生が校長に対して取った行動は簡潔だった。

 棒立ちになったままの校長に歩み寄り、右の掌で思い切り校長の両頬をぶちのめしたのだ。

 もの凄い音とともに校長の首がばね仕掛けの人形のように左右に揺れた。

 強烈なビンタを無防備で受け、校長は朦朧とした目で後藤先生を見た。それはパンチドランカーになったボクサーの目だった。

 後藤先生は校長の視線には答えず、四班が待つ座席へ事務的な足取りで戻った。

 校長は立ったまま焦点の合わない目を宙に漂わせている。

 荏田先生はなかなか現れなかった。

 先生がようやくやって来た時、ある程度予想していたとはいえ、真一はその姿に衝撃を受けずにはいられなかった。

 荏田先生は生徒に囲まれて比較的しゃきっとした姿勢で視聴覚室に現れたが、泣いていた。

 泣き叫ぶという様子ではなかった。ただ涙だけがとめどなくその両目から溢れ出していた。

 その涙には意味がなかった。

 歩くたびに荏田先生は笑った。怒った。喜んだ。悲しんだ。一歩ごとに意味もなく表情が変わった。まなじりから流れ落ちる涙だけが、目まぐるしく変わる表情の中で一貫していた。

 荏田先生は何かをなくしてしまった。

 その何かを名詞に表せといわれれば真一はそれを感情と表すだろう。荏田先生は感情を失ってしまった。そして無意味な涙だけが残った。

 その結果に真一は慄然とした。

 五班はいったいどんな授業をしたのだろう。

 それを知っているのは五班の班員と、荏田先生だけだ。

 真一は人知れず溜息をついた。

 尚が教壇の最前に立った。

「それでは」

 水をうったように教室は静まり返った。

 誰もが座席に着いている中で、一人佐々木校長のみが呆然と立ち尽くしている。

「これで授業を終わります」

 尚が宣言した。

 どこからか、誰の手からか、拍手が起こった。それはあっという間に教室全体に行き渡った。

 生徒たちはお互いにお互いを讃えて拍手を交わしあった。

 それはなかなか鳴りやまなかった。



10
なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう
――― THE BLUE HEARTS


 鉄兵がきた。

 真一は椅子に座ったまま鉄兵を見上げて、やあ、と笑った。

「お疲れさん」

 その鉄兵の台詞に真一は皮肉っぽく唇を曲げた。

「疲れてないのにお疲れさんか。その次には夜なのにおはようございますとでも言い出すんじゃないか」

 鉄兵は少し面食らったような表情を見せたが、すぐににやりと笑った。

「元気そうだな、真一」

 鉄兵の背後では生徒たちが三時間目のために三々五々視聴覚室を後にしつつある。

「朝の話は覚えてるよな」

 鉄兵に言われて、真一は首を振った。

「よせよ。もう僕にはあまり時間がないんだぜ」

「そうだったな」

 鉄兵は眩しそうに目を細めて窓の外を見やった。

「なあ、真一。俺、班の授業をしながら、ずっと考えてたんだが」

「何をだい」

 鉄兵ははにかむように横目で真一を見た。

「忘れた。いや、実は、この時に何を言おうかってことを考えてたんだが。いざ今になってみると、ダメだな。何も思い浮かばないよ」

 鉄兵はもう一度窓の外に目を移した。

「なあ真一」

 真一は黙って鉄兵の次の言葉をうながした。

「俺たちは友達だよな」

 そう言った鉄兵の頬からは笑いが消えていた。

 真一はただうなずいた。

 鉄兵は真一のその動作をちらりと見て言った。

「それなら教えてくれ。俺たちの間にはどんな思い出があるかを。これから先、俺が石神真一という親友を忘れないでいられるために、石神真一を俺の心に繋ぎ止めておくために、どんな思い出をロープにすればいいかを。どんな思い出を錨にすればいいかを。どんな思い出を灯台にすればいいかを」

 鉄兵の目が光っている。

 真一はそっと目をそらした。

「一行だけでいいさ」

 なぜだか胸がつかえて、単語一つ一つを搾り出すのが辛かった。

「たった一行の短文でいいよ、鉄兵」

 ああくそ。

 真一は思った。

 どうして言葉ってのはこうもままならないものなんだろう。どうして日本人は、いや、人類は、この我慢ならないほど不自由な触媒を何千年何万年もの間、お互いの感情を伝えあう手段として使ってきたのだろう。

 それに、ああ、声を出すのが辛い。腹が胸が咽喉が頬が脳みそが、信じられないほど熱い。

 泣いてしまいそうだ。

「僕は、君の友達だった。これだけを、忘れないで」

「違う」

 鉄兵が言った。

 真一は鉄兵の顔を仰いだ。

 鉄兵の目が真っ直ぐにこちらを見ていた。

「違うぞ、真一。友達だった、じゃない。友達だ。昔も今もこれからも、俺たちはずっと友達だ。俺たちが二人ともくたばっちまっても俺たちが友達であることには何の変わりもない」

「でも死んでしまえば」

「死んでしまえばなんて糞くらえだ。ついでに真一、お前のそのどうしようもなく冷笑的な哲学とやらも糞くらえ。俺は信じる。不変なものはある。俺たちの友情は死ぬことなんかじゃ変わらない。それを俺が証明してやる」

 とても泣きたい。

 鉄兵を前に真一は思った。

 泣くかわりに笑ってやろうと思った。

 そして笑った。

 にったり、というかにんこり、というか、とてつもなく奇妙な表情になったが構うもんかと思った。

 鉄兵も笑顔を返した。

 その笑顔もやっぱりにったりしている変てこなものだった。

 それでもまあ今地球上で交わされている笑顔と笑顔ランキングではベストIIIに入るんじゃないだろうか。

「俺は冬休みになったら美紗に会いに行くよ」

「そうか」

「多分、彼女はまだ間に合うかもしれないと思うから」

 鉄兵のその言葉に、真一はついに堤防の決壊を感じた。

 二筋の涙が両頬を伝った。

「鉄兵」

「言うなよ」

「言うもんか」

「それでこそ真一だ」

 鉄兵が右手を差し出した。

 真一はその手を握った。

「お別れだな、真一」

「お別れだ、鉄兵」

「いつか、また、な」

「ああ。いつか、また」

 鉄兵はくるりと踵を返した。

 電灯の落とされた教室を遠ざかるその後ろ姿が、途中で涙を拭うのが見えた。

 真一は近寄ってくる別の影に目を向けた。

 元向山中野球部のセカンドの槌谷智紀と、元向山中バスケ部のパワーフォワードでジャズマニアの高橋友宏だった。

「時間がないから愁嘆場はなしだぜ」

 真一は冗談めかして言った。

 智紀と友宏はちょっと笑った。

 そして二人は右手を差し出した。

 真一は順番にその手を握った。

 短い握手が終わってから、智紀が言った。

「さよならは言わないぜ」

 友宏がそれに調子をあわせた。

「ああ、さよならは言わない」

 真一はうなずいた。うなずくしかなかった。

 智紀は最高に明るい表情で言った。

「また、一緒に旅ができるといいな、真一」

「そうだな、またみんなでな」

「旅なんかしたことあったっけ」

 友宏がとぼけた口調で言い、真一と智紀は吹き出した。

「バカ、比喩だよ、比喩。国語で習っただろ」

「ああ、比喩ね」

 友宏はのんびりと言った。

 智紀は呆れたというように首を振った。

 そして二人も去った。

 最後に尚と夕貴、聖美と英智の四人がやってきた。

「一つだけ、訊きたいことがあるの」

 聖美が言った。

「四月に今回のことが企画されるまで、私は石神君のことを全然知らなかった。鈴来君のことも知らなかったし、武石君のことも知らなかった。今この六班にいるみんなの中で、私が前から知っていたのは夕貴だけ。その夕貴とも、そんなに親しくはなかったし。でも、この半年間で私たちはとてもいい友達になれた。そう考えるのは間違ってないよね」

 真一はうなずいた。

 聖美はそれを見て続けた。

「私たちがお互いに友達になるためには、これしか道がなかったの?私たちはこの授業を計画し、実行した。問題は色々あったけど、結果的には全て上手くいった。とてもいいチームワークを作ることができた。でも、この計画がなければ、私たちにはそれができなかった?今のような友達にはなることができなかった?こうなるのは必然だったの?」

 聖美はとても可愛い。その聖美からこんな質問をされ、しかもそれに答えなければならないのは、やりきれなかった。

「そうだと思う。今この場所に立っているのでなければ、僕たちはお互いにお互いの名前さえ知らなかったかもしれない」

「そんなのっておかしいじゃない!」

 聖美は怒りを込めて叫んだ。

 真一はその怒りをなだめる術を知らなかった。そんな便利な技術も言葉も学んだことはなかった。そしてそれを知りたいとも思わなかった。

 真一はただ黙って聖美の怒りに向きあった。

「それじゃあ私たちが友達になれた意味はどこにあるのよ。私たちはただ別れるために友達になったの?そんなのっておかしい。絶対におかしい。私はそんなの認めない。絶対に認めない」

 聖美は真一の両肩を掴んだ。その目尻に涙が光った。

「言ってよ。私たちが友達になれたのには意味があるって。別れるために友達になったんじゃないって。お願いだから言ってよ」

 聖美は真一の体を揺さぶった。

「言ってよ!」

 熱いものが膝に置かれた真一の手に滴り落ちる。

「言ってよ」

 聖美は真一の首を抱いて額に額を寄せた。

 聖美の髪の匂いがする。流れ落ちる涙の、繰り返される呼吸の、言葉にならない言葉の、聖美自体の音が聴こえる。聖美の体温が伝わる。それは何よりも彼女が生きていることの、そして何よりも彼女が感情する動物であることの証だった。

 真一は首に回された聖美の腕を掴んで、そっと引き離した。

 言葉は咽喉の奥で空回りを続けた。

 聖美は真一の両掌をしっかりと握りしめた。

「忘れない!私は忘れない!誰にも文句は言わせない!」

 それから背中を向けてだっと駆け出した。

 聖美の小さな背はあっという間に廊下へ消えた。

 それを見送る真一の視界に、ぬっと手が差し出される。

「残念ながら俺も村田さんと同じ意見だよ、真一」

 英智だった。

「俺たちが出合ったことには意味があるさ。理屈じゃない。今の俺の偽らない感情がそう教えてくれてる。存在の意味だって?事物の意味だって?そんな抹香臭い問題は、十年くらい後に取っておけばいい。いつか定義することが必要になるだろうけど、少なくとも今の俺はそんなごたくを並べる必要は感じない。俺がそう思う。その他に何がいる?」

 握手しながら真一は何度も首を縦に振った。言葉が出なかったからだ。

「私も武石君に同感ね」

 英智が放した真一の掌を次に捕まえて夕貴が言った。

「私は立派なお説教はできないしするつもりもないけど。まあ、いい旅をね、親友」

 夕貴の手はひんやりとして柔らかかった。

「お互いに、親友」

 真一はそれだけ言うのがやっとだった。

 最後に尚が真一の手を握った。

「いい旅をな、真一」

「お互いに、尚」

 生きてきたことには意味がある。

 真一はそれを信じた。

 そして生徒たちはいなくなった。

 先生方もいなくなった。ただ一人を除いて。

 佐々木武実校長は独りぼっちで教室の片隅に腰を下ろしている。

 真一は立ち上がり、椅子を持って教壇の前に移動した。そしてそこに腰を下ろした。

 そして校長に呼びかけた。



11
見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
――― THE BLUE HEARTS


 最初、佐々木校長は誰が誰に話しかけているのか理解できない様子だった。

 真一は三度校長の名を呼ばなければならなかった。

 三度自分の名を呼ばれて、ようやく校長は真一に目を向けることに成功した。

「誰だね、君は」

 校長の口調はぼんやりしていた。

 髪は汗と脂で乱れ、表情は朦朧とし、ネクタイは明後日の方向によじれているその姿には憐れみを禁じえなかった。

 真一は背後に崩れ落ちている須田先生の死体を指した。

 校長の目に理性の光が戻った。

「お前があれをやったのか」

 だがそれは幾分の怯えを含んだ声だった。

 それはそうだろう。生徒たちがいなくなり、自分以外の全ての登場人物が舞台から消えたと思った途端、下手の暗がりからそれまで言葉一つ発しなかった新たな登場人物があらわれたのだ。

「僕ですよ。僕が須田先生を殺しました」

「恥を知らんのか」

 校長は怒りと怯えが混在した口調で言った。

 真一はそれには答えなかった。

 過剰なほどの陽光が窓から差し込んでいた。

 世界は美しい。生きる価値がある。そう信じるのがどれだけ恐ろしかっただろう。だが今はわけなくそれを受け入れている。理由もなく世界に怯え、憎んでいた昔の自分は今から考えれば馬鹿げていた。

「革命のつもりだったんですよ」

 真一は言った。

「これは僕たち生徒が学校に対して起こす革命のつもりでした。それはそれで画期的なことだと思ったんです。生徒が先生を監禁し、ぶち殺す。刺激的でしょ」

「何ということだ」

「でもね」

 真一は校長に向かって言った。

「みんなそれを飛び越えてしまったんです。今日、僕は自分が浅はかだったことに気づかされました。これが革命だなんて、地べたを這いずり回る虫けらの考え方だったんですよ。僕が発案し、計画したこの事件を、うちのクラスのみんなは勝手に再定義し、昇華させ、吸収してしまった。これは字義通りの授業だった。それ以下のものではなかった。それ以上の何かだった」

 真一は校長にちらりと笑いかけた。

「わかります?わかりませんよね。仕方ないですよ。僕にだってわからないんですから。この授業が何だったのか。何が行われ、何が変えられたのか。それを知っているのは、三十一人の生徒たちだけです」

 真一は拳銃を手に立ち上がった。

 校長が身を強張らせるのが見えた。

 校長の不安には頓着せず、真一は窓際へ行った。

「僕には母さんがいましてね」

 始業のチャイムが鳴っている。校庭に、体育の授業に出てきた二年生の姿がちらほらと見えた。

「それだけで幸せなことだと思ってます。母さんはきちんと面倒を見てくれていますし、何よりも僕を愛してくれていますから」

「何を言いたいんだ」

「僕がついた嘘のことですよ」

 校長に答えて、真一は窓のブラインドを下ろした。

 陽光の波が遮断され、教壇は闇に包まれた。

 真一は次のブラインドを下ろすために移動する。

「さっき、これは革命のつもりだったと言ったでしょ」

 二枚目のブラインドを下ろす。

 教室の半分を闇が覆った。

「あれ、嘘なんです」

 三枚目を下ろす。

 校長の脇を通りかかったが、背中を見せても襲われることはなかった。

「嘘、とはどういうことだ」

「嘘は嘘ですよ」

 教室の最後方にあるブラインドを下ろす。

 闇だけ。

 教室に闇だけが残った。

「だって革命なんかじゃなかったんですから。もちろん、尚やその他の生徒があなたに説明したような授業でさえもね」

 もう一度教壇へ戻るために通路を歩く。

 またも、校長は何の行動も取らなかった。

 一枚目のブラインドまで戻った真一は、教壇の部分だけが陽に当たるようにブラインドを開けた。

 堰き止められていた水が堤防の破れ目から奔出するように、陽光が教壇へ向けて流れ込んだ。

 その勢いに、思わず真一は目をつぶった。

「復讐だったんですよ」

「何だと?」

「復讐です。個人的な、ね。僕個人の復讐だったんですよ」

「意味が、わからんが」

「あなたはある意味では正しかったということです。クラスのみんなはだまされていた。ただしだましていたのが尚や夕貴ではなく僕だったというだけのことです」

 真一は校長に向き直った。

 拳銃の弾倉を確認する。そして弾丸を装填する。九発。たくさんあればあるほどいい。

「でもそれほどひどい手口じゃなかったと思いますよ。たとえだましていたにせよね。手を汚したのは僕だけだ。僕が須田先生を殺した。ここで行われた殺人はそれだけです。みんなは泰徳が荏田先生を殺すんじゃないかと心配していたけど、僕にとってそれはもっと深刻な問題でした。だって手を汚すのは僕だけでなければならないんですから。そうでなければ、僕は人殺しの上に他人の人殺しをそそのかした罪まで背負うことになってしまう。そんなのはごめんでした」

 装填を終え、撃鉄を起こす。

「さて、何の話でしたっけ。そうそう、母さんの話ですよ」

 真一は校長に歩み寄った。

 校長の周囲ではとりわけ闇が濃い。校長の席から眺める教壇は上げられたブラインドから差し込む光の洪水のおかげで完全なホワイトアウトの状態だ。あそこでもし誰かが何かをしようとしても、校長の目からはそれがどういう動作なのか全くわからないだろう。

「母さんはね、時々浮気をするんですよ」

 校長が息を呑むのがわかった。

「まあ、父さんも浮気をしてるんで、別に母さんを咎めようとか、そんな風に考えたことはないですけど。呆れた家族でしょ」

 真一はくすくす笑った。

 だが校長は笑うどころではないだろうと思った。

「それでもね、浮気相手に対しては、息子として何か言ってやらなきゃ。そう思ったんですよ」

「君」

 校長はかすれた声で言った。

「君の名前は」

「真一ですよ」

「姓だ」

「男です」

「ファミリーネームのことだ!」

 校長は怒鳴った。

「石神です。石神真一」

 校長が空気を呑みこむひゅうっという音が聞こえた。

「おか、お母さんの名前は」

「石神なんてこの学校には一人しかいないでしょう。それに彼女がPTAで役員をしているとなれば」

「何たることだ」

 校長は力のない口調で呟いた。

「何たることだ」

 真一は佐々木校長の目の前の机の上に九o拳銃を置いた。

「弾丸は九発入っています。撃鉄は起こしてありますから引き金を引けば連射が可能です。反動が強いですから撃つ時は両手を添えて足を踏ん張るように。狙いは的よりも少し上方につけるといいでしょう」

 真一は拳銃を机の上に残して教壇へと戻った。

 そこに置いた椅子に座る。

 今まで何千回と浴びてきた太陽ってこんなに眩しかったっけ。

「おい、校長」

 さっきまでとはうってかわった乱暴な口調で真一は言った。

「聞いてんのかよデブ」

「何だ、何だ」

 校長は驚いたように反問を二回繰り返した。

「お袋はてめえのケツの穴をなめたのかって訊いたんだ」

「あ?何だって」

「てめえはお袋のケツをなめたのか?どんな味がした?」

 ぎらりと闇の中で何かが輝いた。

 校長の両目に光が現れた。それは真一がこれまでどんな人間にも見いだしたことのない光だった。

「言っておくぞ、校長。今、こっちの背中にはもう一本拳銃が差してある。ベレッタM92FSエリート1A、最新のモデルだ。弾の装填は済ましてある」

「こけおどしは止めようじゃないか、石神。話し合おう」

 闇の中に鬼火のように二つの光が浮かんでいる。

 人間はああいう目をすることができる。そう思うと恐かった。

「校長、いっぺんてめえのその役に立たねえ脳みそを吹き飛ばしてみたかったんだ」

「私にも非があったかもしれない。だが私と君のお母さんとの関係は」

「ナニをしゃぶりあう仲なんだろ、校長」

 言いながら真一は心の中で母にわびた。父親にもわびた。それではとても足りないだろうが、だがわびずにはいられなかった。

「吹っ飛ばしてやるよ、てめえのその薄汚ねえエロ脳みそをよ」

 背中のベルトに手を伸ばす。

 ミスターシザーズがそこに鎮座ましましている。

 陽光の中に抜き放てば、校長からは銃口を向けられたとしか映るまい。

 予定していたエンディングではなかった。だが他に終わらせようもなかったから、まあまあ上等な部類のエンディングじゃないんだろうか。

「死ねよ!」

 真一は叫んだ。

 ミスターシザーズは陽光を反射して驚くほどの光を放った。

「死ぬのは貴様の方だ!」

 佐々木武実校長は瞬時に立ち上がり、目の前の九o拳銃を掴むと真一に向けて立て続けに九回、引き金を引いた。





―――終―――



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