僕たちの凶弾

八猛馬


1
今日しか吹かない風に吹かれ明日はどこへ行こうかな
――― 
THE BLUE HEARTS


 気持ちのよい秋の早朝、石神真一は窓を開けて新鮮な空気を部屋の中に呼び込んだ。

 目覚し時計のデジタル表示は木曜日の五時四十五分を示している。

 爽快な夜明けになりそうだった。そして、ちょっとだけ厳粛な。

 短パンをはいてTシャツを着ると、真一は自分の部屋を出た。

 板張りの廊下の上にはまだ夜が色濃く漂っている。

 石神家の朝はきっかり六時に訪れる。まず母親が、お湯を沸かすために一階へ降りてゆく。次に父親がジョン・レノンを大音量で響かせながら夜着を着替える。それから新聞を取りに庭へ出て、犬に話しかける。

 だが時刻はまだ五時四十五分過ぎ。出勤前の狂騒曲がおっ始まるまで十分以上の余裕がある。

 夜が蠢く階段を下りて、真一は一階の台所に入った。蛍光灯をつけると、白けた光が部屋の隅々を照らし出した。

 冷蔵庫を開けて烏龍茶のペットボトルを引き出し、マグカップに注いで居間に移動する。

 静かな朝だった。

 嵐の前の静けさだな、と真一は考えた。

 運命は扉を叩くが、それまでは物音一つ立てずに、そっと忍び寄るのだ。B級のホラー映画で怪物たちがそうするように。

 居間の壁掛け時計を見ると、五時五十分だった。

 烏龍茶の味が、いつになく苦かった。

 ぐいっとそれを飲み干す。

 両親が起きてくるまで残り十分弱。

 誰も僕たちの計画を知らない。僕たちが声をあげるまでは誰も知らない。

 けれどそれが明らかになった時、僕の両親はどういう反応を示すだろう。

 おそらく激しい衝撃を受けるだろう。そしてとても悲しむだろう。

 それを思うと少し胸が痛んだ。かといって、もう後戻りはできないのだけれど。

 今日という日が始まり、通り過ぎ、終わる頃には全てが変わってしまうだろう。僕と父さんと母さんの関係ばかりではなく。

 変化が訪れるのだ。僕たちは声をあげ、大人たちは嫌でもそれを聞かなければならない。

 何ものも変わらずにいられない。

 僕たちがそれをするんだ。

 真一はマグカップをテーブルに置いた。

 廊下を降りてくる足音が聞こえる。

 スリッパを突っかけた両足が、やや不規則なリズムで板の上を移動する。ぱたっぺたっぺたっすーぺたっ。

「おはよう、父さん」

「ああ、おはよう」

 居間に入ってきた父親は、ぼさぼさの頭に右手を突っ込んだまま、真一にうなずいた。

 真一の父親は市内の建築事務所に勤める建築士で、いつもは冷たい感じのする細いフレームの眼鏡をかけている。仕事は有能にこなし、家族サービスも満点。そして、時々事務所の女の人とセックスをする。それは父親の秘密だったが、真一は知っていた。母親は知らない。父親は妻と息子に自分の浮気がばれているとは考えていない。だから、それは真一の秘密でもあった。

 今日は順番が逆だった。真一は思った。いつもなら母さんが先に下りてくる。父さんはもっと後のはずだ。

 パターン化された生活も、完全であるとは限らない。

 思いがけないことだってちょくちょく起きる。それは、人生においてはどんな場合でも一緒なんだ。

 真一は階段を登って自分の部屋に入った。

 今日は甘ったるいジョン・レノンが聞こえない。

 扉を閉めると、ふと泣きたい気持ちに襲われた。

 弱々しく黄ばんだ朝日が、窓からほのかに差し込んでいる。

 机の前に座り、最近お気に入りのフェイス・ヒルのCDをかけた。父さんは音楽には思想がなければいけないと考えている。父さんの部屋にあるCDやレコードはほとんどが洋楽、それも大体アメリカのミュージシャンのものだ。時々は邦楽も聴く。古い時代の井上陽水や、さだまさし。フォーク以外の日本人の楽曲はあまり聴かない。

 母さんは音楽に必要なのは教養だと信じている。教養と、ほんの少しのメロドラマ。母さんのクラシックコレクションはちょっとしたものだ。お気に入りの作曲家は崇高なるバッハだけど、スメタナやストラヴィンスキーも好みらしい。真一の意見としては、クラシックはみんなモーツァルトに聴こえると思っているのだが。

 当り障りのない感傷的な旋律を浴びながら両掌で額を押さえた真一の目に、机の右隅に置かれた写真立てが映った。

 セピア色の写真とはいかないが、そろそろ色が褪せてきている。

 写真の中には、最上級の笑顔を浮かべた可愛らしい女の子と、あまり冴えない顔色の男の子が、肩を寄せ合って写っている。

 一年前の中学二年生の夏に、福島での野外活動で撮った写真だ。

 女の子は二年六組の浅見美紗で、男の子はもちろん真一自身だ。仙台から福島までの一時間ちょっとのバス移動のおかげで、真一の体調は最悪だった。胃はむかむかするどころの騒ぎではなく、頭の中では、ナポレオン帽を被った小男の一小隊がラ・マルセイエーズから星条旗よ永遠なれまでの名曲集を、ぶっ飛んだ音程でかき鳴らしていた。

 昼食休憩のためにバスを降りた時、自分の表情はまるでベトコンの便所を一週間も這いずり回った新兵のように見えただろうと真一は思う。

 地獄のようなだだっ広い牧場を、美しい草むらの濃緑が見渡す限り埋め尽くしていた。空の上では嫌味ったらしい太陽が、激しくも心地良い鮮烈な光を地上に投げかけていた。

 いけすかない自分のツラが史上最低のスコアを叩き出している写真でも、どうにか机の上に飾っておく気になれたのは、写真の中心にこれ以上ない完璧さで写っている美紗がいたからだろう。

 美紗は完璧な女の子だった。

 真一はそう思っている。恋焦がれる気持ちとか、そんな思い入れは一切なく。

 彼女は完璧だった。デパートの商品棚に陳列されている品物が冷徹な計算によって精確に演出されているのと同じ意味において。

 自分がどれくらい可愛らしく他人の目に映るのかを心得ていて、それでいて傲慢になることなく、しかも男の子には決して恥をかかせないタイプ。

 げんなりしてバスを降りた真一に、美紗は嫌な顔一つせず言ってみせた。あの木の陰なら休めると思うの。一時間も休めば、きっとよくなるわよ。

 あの時、美紗が、他の友達と昼食を食べるとか、あるいは他の男子の誘いにのってくれれば良かったのに、と真一は思う。

 けれど美紗はそうしなかった。彼女がしたことといえば、昼食休憩の一時間、真一の隣にじっと座っていたことだけ。

 僕はいいから、頼むからどっかに行ってくれよ、よほどそう言おうかと真一は思ったが、結局その言葉は一度も食道から上に上がることはなかった。心のどこかでは一緒にいて欲しかったのだ。誰も、年に一度の野外活動で、独りぼっちの昼休みを過ごしたくはない。

 最低の昼食休憩はその場限りで忘れ去られた。少なくとも、真一はそのように思い込んだ。美紗もそのことを口にすることはなかった。

 写真だけが残っている。完璧な少女と、欠陥を抱えた少年。

 真一は写真立てをそっと倒した。

 三年に上がる少し前に美紗は転校した。どこかの銀行に勤めている母親が、札幌に転勤になったそうだ。

 現在でもメールのやり取りは続いている。それさえも、美紗の完全性に対する奉仕でしかないんじゃないかと、そう考えることがある。

 真一には、美紗が彼のどの部分を引っ張り出して自分との釣り合いを量っているのか、わからない。けれどおそらく、彼女の頭の中では真一はフィフティ・フィフティの取引相手なのだろう。そう得でもないが、自分の商品に傷をつけることはない相手。上手く扱えば満足な輝きを引き出せる研磨剤。

 時計を見た。六時半だった。流れてくる歌は八曲目だ。

 立ち上がってクローゼットを開いた。

 両開きのクローゼットの扉の裏側に、学校の年間行事予定表が張ってある。四月、五月、六月。七月に定期テスト。八月、九月、十月。十一月に定期テスト。それだけの予定表。余白の多い予定表。修学旅行はなし。体育祭もなし。文化祭もなし。

 冷たい視線でそれを一瞥して、真一はハンガーに手を伸ばした。

 濃紺のジャケットに、チェックの入った灰色のズボン。ネクタイの色は青。ワイシャツはもちろん、白。

 制服一式を手に取って、ベッドの上に投げ出した。

 体育教師の荏田の口癖が思い浮かぶ。制服は、集団生活の中での自律性と協同性を養う。だから歪んだ着こなしは、歪んだ人間しか作り出さない。

 違うね。学校なんていう集団生活そのものこそ、捻じ曲げられ、歪曲された人間を作る工場なんだ。

 荏田先生はホブズボームを読んだことがあるのだろうか。あるいはヤーン批判の文献を。

 多分ないだろうと真一は思う。

 だから臆面もなくそんな台詞を吐くことだってできるんだ。

 人間は知らない時にだけ、知っていると言うことができる。そうだろ?

 制服を、荏田先生の言い分に従うなら集団生活の自立と協同の精神を、一枚ずつまとっていく。

 ワイシャツに袖を通し、ボタンを下からとめる。ネクタイは最後。普段ならして行かないが、今日は特別な日だ。ミック・ジャガーさえバッキンガム宮殿によじ登った日にはジャケットを着たんだ。

 ズボンをはき、きちんとワイシャツの裾を入れる。ベルトはちゃんとした革のものを選んだ。

 後は朝食を食べ、糞をして、歯を磨いて、ばいばいするだけ。

 真一はCDを止め、開けっ放しの窓を閉めた。

 部屋を出ると、毎朝おなじみになった喧騒が彼を迎えた。

 愛とその変化形を百近く並べて歌い上げるジョン・レノン、居間でかかっている日テレの朝番組の音声、脱衣所でフル回転している洗濯機の音。

 それらはいつも通り。

 真一は静かに階段を下りて居間に入った。

「おはよう、真一」

 母親は背中を向けたまま言った。流しからガス台までの間を忙しく動き回るその姿は、どこか指揮者を連想させる。

「おはよう、母さん」

 真一は冷蔵庫まで行って牛乳パックを取り出し、放り出しておいたマグカップに注いだ。

「今朝は早いのね。何かあるの」

「そんなとこだよ」

 軽く答えて、食卓に着く。トースターの口にパンを二枚押し込む。

 テレビではまた、ごきげんなかばん屋がイスラエルの路線バスで開店したニュースを伝えている。

 新聞を開けば、政府の首切り奨励政策が一面に陣取り、ずっと隅っこの、虫眼鏡でなければ見分けられないような場所には、学校帰りの小学生が真っ裸になって森の中から掘り出された事件が報じられている。

 世の中は危険に満ちている。

 パンが焼けた。

「真一、母さん今日遅くなるかもしれないから」

 母親が言った。相変わらず指揮棒を振り続けている。

 真一の母親は専業主婦だが、町内会やら何やらで家を空けることが多い。その内の何回かは夫以外の男と会うためだということを、真一は知っている。

「僕も多分遅くなるよ」

「ああそう。夕飯は」

「家では食べないんじゃないかな」

「あらら。なるべく早く帰ってきなさいよ」

 真一はパンを噛んだ。かりっと音がして、小麦が弾けた。

 母親がサラダを持ってきた。

「どんな用事なの」

「勉強することになると思う」

「雨が降るわね」

 またすたすたと指揮台に戻っていく。

 雨が降るわねは傑作だな、と真一は思った。ちょっぴり悲壮だけど。

 パンとサラダをあらかた平らげた頃、父親が下りてきた。

「今朝は早出か」

 席に座りながら言う。

「学校は上手くやってるか」

「まあまあね」

「そうか」

 どうということのない親子の会話だ。日本全国の中産階級の家庭で繰り返される質問と回答。

 父親が、上手くやってるかと息子に尋ねれば、息子は、まあまあだよ、とか、もう少し気を利かせて、捕まらない程度にはね、というように答える。

 この種類の親子の会話で、うん、父さん、これから先生の頭をブチ抜きに出かけるところなんだ、と答える奴はいない。

 真一は食器を流しに運んだ。

 窓から差し込む朝日はそろそろ力強さを取り戻しつつある。

2
旅人よ傾いたこの世界から転げ落ちそう
――― THE BLUE HEARTS


 通学路の空気は肌寒かった。

 真一が通う仙台市立向山中学校までは、自宅がある八木山香澄町から徒歩で二十分強の道程だ。

 崖をほとんど垂直に近い角度で貫いている石段を登り、神社の裏手に出る。この石段は日陰にあるおかげで年がら年中じめじめしていて、朝見かけるにはあまりありがたくない虫が星の数ほど生息している。

 しかし今日のような爽やかな秋晴れの朝には、なめくじやムカデが人間の視界を這いずり回らなくてもすむように、神様はしっかり仕事をしているらしかった。

 制服を着込んだ真一は、少し息を切らせて石段を登りきった。

 神社の裏門をくぐると、境内には三人の友達が彼を待ち構えていた。

「よう、真一」

 狛犬に背をもたれている、明るい髪の少年が言った。

「おはよう、鉄兵」

 真一も挨拶を返した。

 池田鉄兵は、中総体が終わって引退するまでは、向山中の野球部で四番だった。既に推薦で私立の帝栄高校へ進学することが決まっている。受験はまだだが、期待されている競走馬には早くから買い手がつくものだ。

「眠れたか、真一」

 声をかけてきたのは槌谷智紀。部活は鉄兵と同じ野球部で、セカンドを守り、打順は一番。背は小さいがガッツがある。荏田先生からはそう評価されている。部活を引退してからは、受験勉強よりも八組の小柄な彼女の尻を追うのに忙しい。

「もちろん。ノリ、お前の方こそ眠れたのかい」

「バカ、俺なんて、他の奴らがビビって寝しょんべんしていませんようにって、夢の中で祈ってたさ」

「つまりは余裕しゃくしゃくってわけ」

 智紀の隣でのんびりとうなずいているのは、向山中バスケ部のパワーフォワード、高橋友宏で、そろそろ校舎を越えてしまうんじゃないかと心配されるほどの長身だ。智紀とは特に仲がいい。バカがつくほどのジャズマニアで自宅に呆れる数のブルーノートのコレクションを抱えている。

「友宏は眠れたかい」

「そんなにぐっすりってわけじゃなかった」

 友宏は青い頬を右手でこすって言った。

 真一は友宏が髭をきれいに剃っていることに気づいた。そこは年中手入れの悪い芝生のように薄く固い髭におおわれているのだが、今朝だけは芝刈り機を入れるつもりになったらしい。

 やはりみんなにとっても今日はちょっぴり厳粛な日なのだ。

 真一は下腹に冷たくて熱い、奇妙なわだかまりがこみ上げてくるのを感じた。

「七時ちょい過ぎ。ぼちぼちの時間かな」

 カシオの腕時計をのぞいて鉄兵が言った。

「ちょっとだけ待っててくれないか。買い忘れたものがあるんだ」

 真一は急いで言った。

 鉄兵は怪訝そうな表情を浅黒い顔に浮かべたが、待ってるよ、とうなずいた。

「でらぴんか真一」

「そうさ。なんせ、文科省ご推薦の副読本だぜ」

 からかうように言った智紀に軽口を叩いて、神社の境内を左手に横切る。しばらく行くとセブン=イレブンがある。

 両開きの扉を押して入ると、朝っぱらからサザンオールスターズが鳴り響いていた。朝に聴く桑田圭祐は、神様が創世の際に忘れたまま世界のどこかにほったらかしてしまったジューク・ボックスのようだ。

 客はまばらで、二人いる店員の片方は、朝の品出しに忙しい。

 二十代の大半をこの消費文化の堅牢な拠点の防衛に埋もれさせつつある、アーノルド・パーマーの銀縁をひっかけた青年がじっと真一を見つめて、いらっしゃいませ、と呟いた。

 真一はその時にはもうお目当てのものを見つけていた。プラス社謹製ミスター・シザーズ、全長170o、刃渡り75o、五百円。群雄割拠のはさみ業界でも逸品の名が高い。

 自宅を出るまでははさみのことなど考えもしなかった。

 ところが神社の裏手の石段を駆け上がる途中、なぜかはさみを買わなければならないという強迫観念に襲われたのだ。

 正確にははさみでなくともよかった。銀色をしていて適当な長さがあり、闇の中で陽光に当たってきらりと鋭い光を閃かせるような何かであればよかった。

 とっさの思いつきだったが、真一はその直感に従うことにしたのだった。後でこいつは絶対に必要になる。どんな形で、かはわからないが、とにかくこいつがなかったら絶対に困ってしまうだろう。

 レジの銀縁にそれを渡し、会計を済ませた。

 あんたは竜殺しの凶器を売ったのかもしれないぞ、アーノルド。よぉく覚えておくこった。

 真一は千円札を出し、お釣りが右手に落とされた時、にこりと笑った。

 銀縁は眉根を寄せて真一を見返した。笑顔が一つの罪悪で、その汚い粘着質の物質で自分の人生を汚されたくない、と考えているように。

 真一は入ってきたのと同じ扉から出ていこうとして、ふとその足を止めた。

 毎日六回、アルバイトのシフトが入れ替わるたびに丁寧な洗浄を施されているガラスのドアを透かして、真一の全身に朝日が降り注いでいる。

 こいつはきれいだ、と真一は思った。

 たとえ、ガラスを隔てた向こうには薄汚れた空ビルが立ち並び、冴えない表情を浮かべたカローラやシビックが、直腸から押し出される大便のように細い道路を街中のオフィスへ向かって駆け落ちてゆこうとも。

 毎日は退屈だ、というのは全ての中学生に共通した見解だと真一は思う。けれど、ごくたまに、フェリックスガムの包装の裏に当たりの三文字を見出すのとほぼ同じ確率で、日常の中にささやかな美を見出すことがある。その瞬間は、日曜の後に月曜日が、優等生特有の律儀さでやってくることを嘆きながら、『ガキの使いやあらへんで』を眺めている時に訪れたり、森の中に捨てられているエロ本を息を詰めて一枚一枚めくっている時にやってきたりする。それはそんなにちょくちょくあるわけではないし、ある期間は全く訪れないこともある。しかし重要なのは、それがいつかは必ずやってくる、という点だ。思春期独特の嵐の中で、日々が砂を噛むように感じられ、くだらない授業中や夢精してじっとりと目覚めた夜などは特に、人生なんかこのまま放り投げてしまおうかと思うことがある。そんな考えが煮詰まってくると、ある日突然人生がバラ色に感じられる瞬間がやってくるのだ。悪意さえ感じる絶妙のタイミングで。

 真一は、どちらかというと呆然として、降り注ぐ朝日を見上げた。

 こいつはきれいだ。

 事実、それはきれいだった。

 なんてセンチメンタルで湿っぽい感覚なんだろう。そしてそれは、なんて心地良いものなんだろう。

 ここでやめる手もある。

 真一はそう思った。

 このまま交番へ駆け込んで、泣き喚きながら全てを洗いざらいぶちまける道もある。

 真一はその欲望がガソリンの上を走る焔のように燃え広がるのを感じた。だが同時に、自分が本当にそうしたいと願っているのか、その欲望は本物なのか、冷静に疑っている自分をも感じていた。

 ずっと欲しかったゲームがあったとする。ようやく小遣いを貯めて、街中のヨドバシカメラに買いに行く。ソフトを手にするまでは、そのゲームのことしか頭にない。一刻も早く平置きの棚からかっさらって、家まで持って帰り、人生の終わりまでやり続けたいと思う。だが実際に会計を済ませ、人生をそいつと添い遂げるために自転車に乗って国道沿いを走っている内に、だんだんやる気が薄れていく。あれほどやりたかったゲームなのに、いったん手に入ったそれは何となく味気なく、パッケージも色あせ気味で、それほど面白そうには見えなくなる。というよりも、面白くないのだと思えてくる。

 今、真一は、その感覚を味わっていた。

 ただの弱気だ、と首を振る。

 一度、ゲームを始めてしまえば、息つく間もなくエンディング。今まではそうだった。これからもそうだろう。

 真一は直線的な動作で扉を開け、セブン=イレブンを出た。

 全速力で突っ走り、鉄兵たちのところに戻った。

「五分きっかり。何を買ってきたんだ、真一」

「別にどうってほどのものじゃないよ。でらぴんほどわくわくしないのは間違いない」

 時計をちらりと見た鉄兵に、真一はちょっとカバンを持ち上げてみせた。はさみはもうその中に収まっている。

「それじゃあ、行くか。今からだと、ちょうど間に合うくらいかな」

「のんびり行っても七時半ってところだろ」

 智紀が言った。

「でも、なるべく待ち合わせ時間前には着きたい」

 鉄兵はもう歩き出している。粗い生地で作られた布製のバッグに、ジャイアンツの仁岡のキーホルダーが揺れている。それにはなんと、仁岡直筆のサインが、フィギュアの寸法に合わせて、小さく小さく書き込まれている。鉄兵のポジションはファーストだったが、彼の憧れは稀代のショートストップに向けられている。

「五分前行動が集団行動の原則ってわけね」

 智紀も歩き出しながら言う。

「佐々木武実校長先生いわく、五分前行動すれば飯の喰いっぱぐれはありえない」

 神社の境内を真っ直ぐ抜けると、交通量の多い市道に出る。三つ又の交差点に横断歩道があり、そこを渡って、市の緑地帯沿いに下り坂を降りていくのが、向山中への通常の通学路だ。

 交差点で信号待ちをしている間、真一は思った。彼らは悩んだだろうかと。

 鉄兵の顔を見た。普段通りの、日に焼けた精悍な顔立ち。

 智紀の顔を見た。こちらも普段通り、どことなく悪戯っぽい猿を思わせる表情を浮かべている。

 友宏の顔を見た。のんびりした表情からは、その下の葛藤をうかがい知ることはできない。

 それでも彼らは悩んだだろうと真一は思う。今でさえ、踏み出す一歩ごとに迷い、怯え、逃げ出したい欲求と戦っている。

 僕たちは友達だ。

 真一はそう実感した。

 歩行者用の信号が青に変わり、四人はまた歩き出した。

「昨日のワンナイが傑作でさ」

 真一の後ろで、智紀が友宏にテレビ番組のネタについてしゃべっている。

 真一は鉄兵と並んだ。

「晴れてよかった」

 鉄兵が言い、真一はうなずいた。

「そうだな」

 朝七時過ぎ、シャッターを下ろしたままの八百屋の前を通って、道は徐々に急な下り坂になりつつある。少し先には、鬱蒼と茂る杉と広葉樹の森が、ぼろぼろのフェンスの直前まで押し寄せて枝葉を伸ばし、道を陽光からさえぎっている様子が見える。それは仙台市の森林保全区域で、立ち入りは禁止されていたが、子供たちはたびたびその中に入って遊んでいる。真一も小学校の頃にそこを探検したことがあった。

「昨日、一応、六時に家に帰ってから晩飯食って、二時間くらい勉強しようと思ったんだけどさ。結局、手につかなかった」

 鉄兵が言った。

「どうせ推薦で入れるんだからいいじゃないか」

「俺はスポーツだけのあっぱらぱーになるつもりはないよ、真一」

 鉄兵は真面目な顔で言った。

 真一はどう答えていいかわからず、曖昧に笑った。

「多分、俺は推薦を受けて帝栄高にいくんだろう。やっぱり野球が好きだし、俺と同じくらい野球が好きな奴らと同じグラウンドでやってみたいから。でも俺は高校のリーグでの打率と引き換えに、成績の評定を上げてもらうような奴にはなりたくないんだ」

 鉄兵はゆっくりしゃべった。自分の中にある何を言葉にするべきか、考えながら話しているようだった。

「親父やおふくろは、俺は野球だけやっていればいいと思ってる。勉強なんて、授業中に椅子から滑り落ちない程度にやっておけばいいってさ。それはそれで、親父なりおふくろなりの優しさなんだろう。勉強しろだとか、小言の類いは全然言われたことがないから。俺には野球だけしかない。他には何にも束縛はない」

 道は右手の森の木々の影に入り、湿った落ち葉の匂いが鼻についた。

「実をいうと、昨日、中学三年間で初めて素振りを休んだ。その時間を勉強に当てようと思ったんだ。分詞、二次関数、天体、やるべきことはたくさんあった。実際、あんなにたくさんあるなんて驚いたくらいさ。でも、全然手につかなかった」

 鉄兵は真一に笑ってみせた。

「俺がその間、何を考えていたと思う」

「さあ。今日のことかな」

「残念、違うよ。俺が机に向かったままぼんやりと考えていたのは、これから死ぬまでに何回糞をするんだろうってこと」

 真一は面食らって、鉄兵の顔をただ見ているしかなかった。

「俺は机に向かったまま、これから死ぬまでに何億キロカロリーの飯を食って、何キログラム、いや、何トンかな、とにかく大量の糞を垂れなきゃならないのかってこと、そんなことをぼんやり考えていたんだ。二時間もだぜ」

 鉄兵は右手で頭をかき回した。

「その後は行儀良くベッドに入って、おめめを閉じて、朝までぐっすりだった。それが不思議でならないんだ。正直、俺は昨日まではめちゃくちゃビビってた。今日、これから起きること、自分たちがするだろうことに対してだ。前日は眠れっこない、一晩中寝返りうって、いざって時に睡眠不足でゲロでも吐くのが関の山だと思ってた。それなのに、今ここにいる俺は睡眠バッチリ、食欲バッチリ、体調は絶好調だ。あんなにビビってた昨日までの俺は、いったいどこにいっちまったんだろう」

 真一は黙っているしかなかった。

 こう言ってやりたかった。鉄兵、お前は乗り越えたんだ。全てはまだ終わっていない、それどころかまだ始まってすらいないが、お前は今日を乗り越え、明日に行ける切符を手に入れたんだ。

 鉄兵は上手くやるだろう。鉄兵だけではない。智紀も、友宏も、三年二組の全員が、今日という日を乗り越え、明日に進むだろう。困難はもちろんあるだろうが、全員が乗り越えることは確実だ。そのために真一は行動してきた。

 全員が今日を乗り越える。ただ一人を除いて。

 ただ一人を除いて。

 その一節は、ほの暗い夜の湖の水底から立ち昇る気泡のように、真一の心に浮かんだ。

 まだわからないさ。そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。

 真一は溜息をついた。それは最近になって身についた癖だった。

 道は緩やかなカーブを描いて森の影から抜け出し、長い平坦な直線になった。

 空気は少しずつ温もりを帯び始めているが、時折吹きつける風は冷たい。

 真一の後ろでは、智紀が友宏に向けて、地元のサッカーチームのベガルタ仙台についてしゃべり続けている。

 寝ぼけまなこの鳩がどこかでボーボーと鳴いた。

 歩く四人の左手には、バブル以降放置された空き地に、これもどこかの電信柱に激突して以降放置されたままの錆びついたブルーバードが見える。小学校低学年の子供たちは、たいていここで球技をする。サッカーや、ふにゃふにゃのゴムボールを使った野球、ドッジボールなどだ。

「美紗とのメールは続いてるのか」

「何だよいきなり」

 真一は、唐突な鉄兵の言葉に、曖昧に笑った。

「続いてるのか」

「週イチペースだけど」

「そうか。それならいいんだ」

 鉄兵は前を見たまま言った。

「真一、お前は独りじゃない」

 またも真一は返すべき言葉を見失った。

「変なことを言ってると自分でも思うんだけど、やっぱり言っておかなくちゃと思うんだ。最近のお前は、なんていうか、俺たちのずっと遠くにいるみたいだ。それに、時々だけど、俺たちよりずっと歳をとっちまったような話し方や仕草をすることもある。それで、真一、俺は、もしそれが、俺たちが今日のための色々な計画や準備をお前に押しつけたせいなんだとしたら……」

「僕は誰にも押しつけられていないよ」

 真一は快活に笑ってみせた。

「計画を立てるのに一番頭を悩ませたのは鈴来尚だし、必要な道具を調達したのは沢秋成だ。あいつらからしたら、僕は全然仕事をしてないよ」

「違う。尚も秋成も確かに仕事はしたけど、一番重要な部分を背負い込んだのは真一だ。今日が終わって明日になっても、尚や秋成だけじゃなくクラスの大部分は昨日までと同じ生活ができるかもしれない。だけど、お前だけは、今日という日が過ぎた後でもみんなと同じように振舞えるかどうか、俺にはわからない」

 鉄兵はゆっくりとしゃべった。頭が考えて舌に言葉を送るのではなく、もっと別なものが彼の舌を動かしてしゃべらせているように見えた。

「真一」

 その呼びかけに真一はぎくりとした。

 鉄兵がじっと彼を見つめていた。

「俺は後悔してる。凄く後悔してるよ。みんなお前に押しつけたんだ。暗い部分を。お前はそれを背負い込んだ。そして、気を悪くしないでくれよ、なんだかずっと遠くにいってしまった」

 鉄兵の双の目が、真一に据えられている。

「これだけは言っておきたい。お前は独りじゃないってこと。俺がいる。智紀がいる。友宏がいる。クラスのみんながいる。だから、辛くなったら遠慮なく分けてくれ、お前が背負っているものを。多分、本当ならクラスのそれぞれが背負わなきゃならなかった荷物まで、お前に背負わせてしまったんだから」

 鉄兵が真剣なのがわかった。

 真一はこう言おうと思った。おい、鉄兵、僕には随分歳の近い親父がいるんだな。年寄りくさい口調でいったら、僕よりもお前の方がダントツで優勝だぞ。

 しかしそうは言わなかった。軽口を叩くには、鉄兵はあまりにも真剣過ぎた。

「ああ、そう言ってくれて嬉しいよ」

 くそ、こいつも人生の美しい瞬間の一つだってのか。

 真一はふと泣き出したい気持ちに襲われた。

 鉄兵が、この幼稚園から一緒に過ごしてきた親友が、よりによってこの朝に示してくれた友情が、どうしようもなく嬉しかった。そして、同じくらい悲しかった。

 鉄兵、でももう遅いんだ。僕は列車に乗ってしまった。

 真一はぎごちなく笑った。しかし、はた目にはそれほどまずい笑顔には見えないだろうというのがわかっていた。

「次にエロ本を買いに行くときは必ず言うよ、鉄兵」

 鉄兵は声をあげて笑った。

 その後、二人はK-1でのボブ・サップの話に移った。



3
なんだかんだ言われたっていい気になってるんだ
夢がかなうその日まで夢見心地でいるよ
――― THE BLUE HEARTS


 向山中学校から徒歩で二分ほどの場所にある大きな屋敷の離れに真一たちが着いたのは、七時二十分の少し前だった。

 この屋敷、喜多村紘の家はほとんど豪邸といっていいくらいに大きい。約三百坪の敷地に、昭和三十年前後に建てられた純和風の平屋が鎮座ましましている。その母屋からは少し離れた場所に、木造二階建ての建物がある。それが離れで、現在は祖父母と三人で暮らす喜多村紘の私室になっている。

 紘は油っぽい髪を七三に分けた太っちょで、女子からはあまり評判の良くないタイプだ。髪を七三に分けてアニメの話ばかりしているのと関係があるのかどうかはしらないが、紘の両親は彼を置いたまま海外に転勤してしまった。なんでも、政情が芳しくない地域での勤務なので、父親は、まだ爆弾魔とアラブ人の区別もつかないようなお子様は日本に残しておくのが賢明だと判断したらしい。そうはいっても、父親が仕事で海外に去り、母親もそれについていったが、二人の間のこの上もなく大切な宝物であるところの、あるいはそうでなければならないはずの、一粒種の紘だけが置いてけぼりを食わされた。両親がどう理屈をつけようと、祖父母がどんなに慰めようと、それが事実だし、紘の方でもその事実にパパとママの優しさという魔法の味つけをしようとは思わなかったらしい。紘は夏休み明けの志望校調査票に、それまでの仙台愛宕高校の名前は書き入れず、どこぞの妖しげな声優学校の名前を書いた。自分を放り投げた両親へのささやかな復讐というわけだった。

 午前七時三十分、三年二組の生徒たちは続々と、この年中湿った息を吐いているおでぶちゃんの私室に集まりつつあった。

 紘の祖父母がこの秘密の会合に乗り込んでくる心配はなかった。離れは母屋からは完全に独立した造りで、おまけに紘の祖父母の耳が遠いことといったら太鼓判の保証つきだった。何回も実験を繰り返してあったのだ。朝のこの時間、どれだけ騒げば、おじいちゃんとおばあちゃんが自分たちの孫の様子をのぞきにやってくるのかを。

 結論は、離れにある二台のステレオと一台のパソコンのスピーカーの音量を最大に上げて、その全てでブルーハーツを流しても、おじいちゃんとおばあちゃんには聞こえっこないというものだった。実験は最近の一ヶ月で六回ほど繰り返された。参加したのは学級委員長の鈴来尚と副委員長の牧原夕貴、それに紘と真一の四人だった。ブルーハーツのアルバムは真一が提供した。朝っぱらから、いくら実験とはいえ、紘秘蔵のアニメソングを大音量で聴かされるのは願い下げだったからだ。

「おはよう」

 背後から声をかけられて、真一はわけもなくどきりとした。

「おはよう」

 返す挨拶の声が震えないよう押さえるのがやっとだった。

 挨拶をしてきたのは三年二組の学級委員長にして今回の計画の主幹である鈴来尚だった。

 離れの一階にある十五畳の和室に、みんなは集まっていた。

 離れの玄関から入ると、まずコンクリートのたたきがあり、そこから靴を脱いで上がると狭い廊下に出る。右手には二階へ上がる階段があり、左手には簡素な台所がある。和室は入り口から真正面の位置にあった。

 真一は台所の流しの前に立っていた。尚はそこに声をかけてきたのだった。

「みんな集まったかい」

 真一が言うと、尚は首を振った。

「まだ後、二、三人くらいは来ていない。それでも集合時間までにまだ間があるから、集まりとしてはまずまずだと思う」

 尚は髪の毛を品の良い茶色に染めている。尚の母親はマフィンを焼くのが上手かったっけ、と真一は思い出した。

 主に先生方に、とりわけおばさん方に受けが良い尚の面長な顔を、薄く緊張の影が覆っている。

「なあ、真一、眠れたか」

 真一は思わず笑った。

「何かおかしいことを言ったか」

 当惑して尚が訊く。

 真一は笑いながら謝った。

「ごめん、でも今朝、鉄兵たちと会った時も同じことを訊かれたんだ。少しだけ、びっくりして。悪気はないんだ」

「そうか」

 尚はうなずいて納得を示した。

「僕は眠れたよ、尚。これまでにない最高の目覚めだった」

「そう、よかった。俺もぐっすりだった。どうしてこんなに眠れるんだろうと、夢の中で不思議がってたくらい」

 多分それは嘘だろうと真一は思った。眠れはしただろうが、それまでにシーツが擦り切れるほど寝返りを繰り返したに違いない。尚の目の周りに漂う疲労の色がそれを証明している。

 だが真一はそれを口にしようとは思わなかった。

「いよいよ今日だね」

「ああ」

 尚が言い、真一もうなずいた。

「どうなると思う。今日が過ぎてから。俺たちはどうなるんだろう」

 真一は答えを返さなかった。

 鉄兵も同じことを言った。今日が過ぎ、明日が来る。みんなは今日を乗り越える。でも、一人だけは。

「僕にはわからないよ」

 真一はそれだけ言った。こう付け足そうかとも思った。鉄兵も同じことを言ってたよ、委員長。君は彼と話すべきじゃないのかな。

「俺は正直、怖い」

 小声で尚が言った。

 真一は耳を疑った。

 定期テストのたびにいつも学年の上位五パーセント以内に入り、体育祭でも何かしらの種目でリーディングを取る鈴来尚が、怖いって?

「俺はやめてしまいたいんだ。俺にはできっこない。これ以上みんなの前で偉そうにしゃべり続ける役回りはできそうにない。俺は委員長かもしれないけど、大将タイプじゃないんだ」

「ああ、尚、冗談言わないでくれよ」

 真一は尚の肩を掴んだ。

「四月からだぞ。四月から今日まで、半年以上かけて計画し、準備してきたんだ。今更になって、やめます、はいそうですかってわけにはいかないことくらい、知ってるだろ」

「でも、君たちは前に立たなくていいんだ。俺が旗を振るのを待ち、合図があればそれについてくればいいだけだ」

「尚」

「どうして俺じゃなければいけないんだ。なぜ、鉄兵じゃいけない。夕貴じゃいけない。どうして俺以外の奴じゃ駄目なんだ。俺よりもみんなから人気があって、しゃべりの上手い奴はいくらでもいるじゃないか」

「違う。みんなにはそれぞれにやるべきことがある。自分だけがハズレを引かされてるなんて思うな」

 思わず語気が強くなった。

 尚は血の気がひいた顔で真一を見つめた。

「頼むから、自分の責任を思い出してくれ」

 一度、肩を掴む手に力を入れて、それからゆっくりと真一は尚を放した。

「ごめん、真一。俺はどうかしてる」

「いいさ。どうかしない方がおかしいんだ」

 真一は尚に笑いかけた。

 尚はひきつった笑いを返した。

「本当は、別の話をしなければならなかったのにな」

 尚はそこで後ろを振り返った。

 離れの玄関が開き、紺の制服を着た女子が二人、入ってきたからだ。

「おはよう、鈴来君、石神君」

 遅刻ぎりぎりでやって来た二人、西村理奈と長江純子は、流しの前の尚と真一に言って、和室へ入っていった。

 それを見届けて、真一は尚に訊いた。

「別の話だって?」

「うん。そろそろ時間だ。だから手短に言うよ」

 尚がてきぱきとした口調で言った。

 もう落ち着きは取り戻したようだ、と真一は思った。それでいい。頼むよ、委員長。

「君の役回りを肩代わりしてもいいという奴がいるんだ。真一、君はそいつに仕事を任せてただ座っていればいい。どうだい」

「それは誰なんだ」

「俺自身さ」

 言ってから、尚は照れくさそうに笑った。

「本当をいうと、他にも何人か名乗り出てくれた。鉄兵もその中の一人だ」

 尚は低い声で続ける。

「古い言い回しがあるだろ、贖罪の山羊ってのが。俺たちは、このままだと真一にそれを押しつけることになるんじゃないかと思うんだ。でもそれは卑怯だ。そうだろ、君がいなければ今日という日はこなかった。みんな君のやってくれたことに感謝してる。これ以上君が辛い目をみる必要はないんだ。頼むから、任せると言ってくれ。後は俺たちがやる。君はそれを見ているだけでいい」

「駄目だよ」

 真一は決然と拒絶した。

 尚は信じられないという面持ちを真一に向けた。

「駄目だ。僕は決められた仕事をする。それはもう決まったことだ。途中から台本の書き替えはできない。それに、僕はみんなのためにそれをするんじゃない。自分のためにするんだ。だから余計な罪悪感なんかは持たないでくれ」

「どうして。真一、俺は自分の役回りのことを愚痴ってしまったけど、君の役回りは俺のなんかよりずっと辛いものだ。どうして自分から進んでそれを引き受けたがるんだ」

 真一は首を振った。

「時間だよ、尚。みんなが待ってる。行こう」

 なおも言い募ろうとする尚を置いて、真一は和室の障子を開けた。

 三年二組のみんなは、それぞれ思い思いの位置に座り、あるいは立って、おしゃべりに興じている。その全てが、他愛もない、テレビ番組やミュージシャンやスポーツの話題だった。

 真一は入り口のすぐ脇に座った。

 牧原夕貴や村田聖美、武石英智といった幹事連も同じような位置に座っている。

「昨日は眠れた、石神君」

 隣の村田聖美の問いかけに、笑わずに答えるのに苦労した。ここまでくると、流行のギャグとしか思えなかった。

「爆睡だったよ。最近じゃ珍しいくらいに」

「へえ。私は駄目。興奮して全然眠れなかった」

 興奮か。

 真一は軽いショックを受けた。不安でも、恐怖でも、緊張でもない。聖美はそのいずれでもなく、興奮と言った。

 和室へ差し込む朝日を浴びて、聖美の丸みを帯びた小さな顔は、いつも学校で見ているのより輝いているように見えた。健全そのものの顔。

 聖美の顔から、真一はずっと昔に仙台港で見た帆船の真っ白な帆を連想した。眩しいほどに美しく、それでいて底知れぬ強靭さを感じさせる帆船の帆を。

 まさに嵐を乗り越えるべくして作られた顔。

 健全な日本人の標準的な特徴を全て兼ね備えた顔だ。

 誰かが聖美を好きになるとしたら、それは彼女の可愛らしい造作によるのではなく、その底抜けの健全さによるものなのではないか、と真一は思った。

 その点で聖美は美紗に似ている。美紗のあの自信に満ちた控え目な笑顔。

 尚が和室に入ってきた。

 障子を閉める時に真一はその目をちらりと見た。そこにはまだ幾分かの緊張と不安が見て取れた。だがそれはすでに抑制されつつあった。

 尚はしっかりした足取りで上座に立った。

 三年二組の三十一人全員が話をやめ、尚に注目した。

 和室は静まり返った。

 尚は普段通りの冷静さを保って口を開いた。

「おはよう、みんな」

 真一は次の瞬間尚がこう続けるのではないかと思った。眠れたかい、みんな。

 しかしそうはならなかった。次に口を開いたのは尚ではなく副委員長の牧原夕貴だった。

「出欠を確認します。各班の班長は報告してください」

 一班の大庭弥生が立ち上がった。

「一班は全員います」

 二班の田嶋雄二も立った。

「二班も全員」

 三班の内田綾は座ったまま手を挙げた。

「三班も全員いまーす」

 四班の南井志穂が立ち上がった。

「四班も全員います」

 五班の金本泰徳は、立ったまま壁に背中をもたれた姿勢で言った。

「五班も全員」

 六班の代表は尚自身だった。この班分けは今日のために生徒の間で独自になされたもので、六班はこれからの計画のいわば執行部だった。

「六班も全員います」

 尚の代わりに夕貴が言った。

 尚は報告を受けて、室内の三十一人の顔をぐるりと見回した。

「実をいうと、俺が話さなければならないことは、もう残ってないんだ」

 尚は言った。

 四月から今日までの半年プラス一ヶ月の間に、話し合わなければならないことは話し合い尽くした。決めるべきことは全て決めた。

「それなら何か威勢のいい言葉でも吐けよ」

 五班の班長、金本泰徳がにやにや笑いながら言った。髪を真っ赤に染めて、着崩した制服の腰に鎖をじゃらじゃらいわせている長身の生徒だ。

「ほら、漫画でもあるだろ、決め台詞ってやつ。鈴来のそれを聞かせてくれよ」

 尚はしばし泰徳を見つめた。泰徳はにやにや笑いを一層深めて、尚を睨み返した。口元は笑っているが、目は笑っていなかった。切れ長のそれは凶暴な光を浮かべて尚を睨んでいた。

 やがて尚は泰徳から目を離して、もう一度全員の顔を眺め回した。

「そうだな。でも俺はあんまりそういうのが上手じゃない」

「いいから言えって、尚。リーダーのつもりなんだろ」

 泰徳が言った。

「わかった。俺からみんなに言えるのは、これまで俺が学級委員長としてやってこれたのはみんなのおかげだってこと、そしてそれをとても嬉しく思ってるってこと」

 心なしか尚の頬が赤い。

「ありがとう、みんな」

 尚は頭を下げた。

 誰かが手を叩いた。多分あれは智紀だろうと真一は思った。思いながら、自分でも手を叩いた。夕貴も叩き、聖美もそれに加わった。

 いつの間に智紀は僕からあんな遠く離れてしまったんだろう、と真一は首をかしげた。

 つかの間、和室は拍手に包まれた。

「でも仕事はまだこれからだ」

 両手を上げて拍手を制し、尚は言った。

「後はみんなの力が頼りだ。それぞれが、みんなのために自分のなすべきことをしよう」

 いいぞ、と誰かが叫んだ。泰徳とその取り巻きではないことは確かだった。

 拍手は更に盛り上がった。

「しーっ、静かに」

 今回の計画の幹事の一人である武石英智が立ち上がった。

「外に丸聞こえじゃないか。この期に及んでばれたらどうする」

 和室は再び静まり返った。

 だが真一にはわかった。尚の演説は、確かにたどたどしく、飾り気のないものだったが、みんなを元気づかせることには成功していた。これ以上の成功は望めないくらいだった。

 和室に集まった生徒たち全員の顔が活気に満ち、もはや恐れを知らないように見えた。

 尚は全員の心を掴むのに成功したのだった。

 同時に、真一は、尚があの簡単なスピーチをぶつまで、みんなの表情がいかに不安げで、怖気づきかけていたかを知って慄然となった。計画は崩壊の一歩手前まできていたのだ。尚の演説がなければ、そして泰徳の挑発がなければ、実際に崩壊していたかもしれない。

 この和室に現在集まっている三十二人が、今でもいったいどれだけの不安と緊張を感じているのかを想像して、真一は反吐を吐きたい気持ちに駆られた。

「真っ青な顔してるぞ。大丈夫か、真一」

 いつの間にか尚が隣に座っていた。

 各班内での最終確認が行われていた。一班から五班までが最後の打ち合わせをしている以上、執行部の六班もそれをしなければならいというわけだ。

 確認が終わった後は、二、三人ずつ組になって登校する予定だった。いくらなんでも三十二人の生徒が一団になって学校に現れれば、いらぬ注意を呼び起こすだろう。

「大丈夫。いい演説だった」

「からかうなよ」

 尚は笑った。

「いや、あいつはイカしてたぜ。トラファルガーのネルソンから引用するとはな」

 尚の頭をぽんと叩いて腰を下ろしたのは沢秋成だった。

「ほら、持ってきたぞ」

 派手な紫色のスポーツバッグから、秋成は三越の紙袋を取り出した。

 尚の顔から笑みが消えた。尚だけではなく、円を描くように座っている六班の全員の顔から笑いが消えた。真一だけは笑っていた。笑っていなければならなかった。

 真一は痛いくらいの視線を背後に感じていた。

 振り返っちゃ駄目だ、と自分に言い聞かせた。振り返れば鉄兵と目が合うだろう。そうすれば鉄兵は一生後悔することになるかもしれない。どうしてあの時、僕をぶん殴ってでもこの紙袋を取り上げようとしなかったのか、と。

 真一は秋成の手から紙袋を受け取った。

 中学三年間を陸上競技でこってり肌を焼くことに費やしてきた秋成の真っ黒な顔に、気遣うような表情が浮かんでいた。

「本当にいいのか、真一」

「ああ、もちろん」

 なるべくその目を見ないようにして、真一は紙袋を開けた。

 中身はわかっていた。結果がわかりきっている悪夢を見ている状態に似ていた。後からは六個の頭に六本の腕を生やした怪物が、硫黄の息を吐き散らしながらどんどん迫ってくる。自分はそれから逃げようと必死に走っているが、頭の中ではこの道がすぐそこで途切れており、このまま走れば底知れぬ谷底へまっさかさまに転げ落ちるしかないことを知っている。けれども肉体は走り続け、どうしようもない結末に近づいてゆく。

 紙袋に入っていたのは握りの大きな拳銃と、その実弾が詰まった紙の小箱だった。

 スイスのSIG・P220をミネベアがライセンス生産した九o拳銃。自衛隊でつい最近まで主役を張っていた老雄だ。

 秋成の親父は生ゴミの方がまだしものろくでなしだ。四十に近くなった今でもちんぴら気取りで街をほっつき歩いている。ほっつき歩くだけならまだしも、だいぶ前からあまり真っ当とはいえない副業に手を染めていた。いわば、街の路上調達屋になったのだ。

 秋成のご機嫌な親父の主力商品はクスリだ。覚醒剤からコカイン、ヘロイン、コークの類いまで、実に手広く扱っている。だが時には麻薬以外の商品も扱う。その商品は苦竹の自衛隊の倉庫から横流しされた拳銃の場合もあれば、もっとくだらない物である場合もあった。

 秋成の親父は、卸元から仕入れてきた様々な商品を自宅の物置にしばらく寝かせておく習慣があった。そして彼に気に入られた商品はそのままそこに永久に寝ていることが多々あった。それで上と下に帳尻が合っているのかどうかはわからないが、まだどてっ腹に大穴を開けられて砂利採取場から掘り出されていないところを見ると、ろくでなしはろくでなしなりに上手くやっているらしい。秋成がそれを喜んでいるかどうか真一は知らない。

 この九o拳銃もそのコレクションの一つというわけだった。もっとも、これを隠した本人がこのことをすっかり忘れている可能性は多分にあった。この拳銃についても、実験は繰り返されたのだ。最近一ヶ月の間に秋成は四回物置からこの拳銃を持ち出していたが、そのことで父親にぶん殴られるという事態には至らなかった。

 真一は拳銃を手に取り、弾倉を抜いた。弾丸は全部で九発まで装填できる。グリップは太くてやや握りにくいが、軍用拳銃にしてはスマートで、全体的にとても使いやすい銃だ。

 秋成が銃を持ち出すたびに繰り返した森の中での射撃訓練を、真一は思い出していた。

「本当にいいんだな」

 秋成が念を押した。

「いいんだ」

 真一は九o拳銃をベルトに差した。弾の箱は輪ゴムで止めてブレザーの隠しに入れた。

「準備完了か」

 尚が呟くのが聞こえた。

「そう、準備完了だ」

 真一はなるべく快活に聞こえるように努力して言った。ある程度それは成功したようだった。



4
夜の扉を開けて行こう
支配者たちはイビキをかいてる
――― THE BLUE HEARTS


 社会科の須田鷲朗先生は、VHSのビデオテープと名簿、何冊かのノートとテキストを抱えて視聴覚室へやってきた。

 向山中三年二組の一時間目は総合的学習の時間だった。四月から今日に至るまで、生徒たちは人権を主題にして各自それぞれ学習を続けてきた。今日はその学習結果のいくつかを発表する日だった。

 須田先生は視聴覚室の黒板の前に立った。

 五人の教師が授業を見学するために集まっていた。体育教諭の荏田光彦、英語教諭の田中春江、数学教諭の横山義勝という三学年担任の三人と、学年は違うが社会科の教科主任である柴田嘉人、この学校で最も若い、つまり一番下っ端の、理科教諭の後藤晴香の二人だ。年齢からいえば五十前後の柴田先生が最年長で、それから四十後半の田中先生、四十一歳の荏田先生、三十五歳の横山先生、三十路を越えたばかりの須田先生、二十六歳の後藤先生の順番になる。

 もしも今、おとなしく席についている生徒たちが机の中に隠しているのが発表用のOHPシートとレポートではなく、金鎚から拳銃までのありとあらゆる凶器であると知ったなら、集まった先生たちは逃げ出すだろうか。

 絶対にそうはならないだろうな。

 真一は横目で荏田先生の顔を盗み見て思った。

 先生たちはいつもの持ち物検査でゲームボーイや携帯電話を取り上げるのと同じように、生徒から凶器を取り上げるだろう。そして生徒の内の二、三人を職員室に呼び出すだろう。全員に対してはちょっとした説教を垂れて、それでおしまいになるだろう。

 もしかしたら、この段階では本当にそれですむかもしれなかった。

 真一は徐々に心臓の鼓動が速さを増してくるのを感じていた。

 日常と非日常の境界にいるのだという、どこか船酔いにも似た奇妙な感覚が下腹部に溜まっている。

 真一には、三年二組の三十一人は静かに授業の開始を待っているように思えた。昨日までの学校生活のアルバムのどこにでも転がっているような日常の一コマと同様、生徒たちは整然と机の前に座っている。

 日常から走り出せ。

 真一は制服の上着のボタンをそっと外していった。

 そしてもう二度と帰ってこれない旅に出ろ。

 須田先生が名簿を開いた。

 先生は未婚だったっけ。真一は九o拳銃のグリップを引き出しながら考えた。もちろん未婚だ。未婚でなければならなかった。背負うべき家族がいないからこそ、須田先生を選んだのだ。

 ベルトから引き抜いた拳銃の銃身が机のスチール部分に当たって鈍い音を立てた。

 もちろん須田先生は未婚だが、両親はどうなのだろう。須田先生は年老いた親の面倒をみているのだろうか。あるいは、とっくの昔に死んでしまったのだろうか。

 それは重要な問題だな。真一は銃を膝の上に寝かせた。

 須田先生が出席を取り始めている。

 腰に何か硬い物が当たっている。その痛みで、真一はベルトに差しておいた万能ハサミのことを思い出した。しかし彼の出番はまだ先だ。それはまだまだ先といってもいいほど遠い未来のことだ。

 自分の名前が呼ばれても、真一はすぐにはそうと気づかなかった。

「石神、おい、石神」

 今年で三十歳になった須田先生は、肥満気味の顔に訝しげな表情を浮かべて、出席番号二番の石神真一の名前を呼んだ。

「おい、返事しろよ。それともそこにいるのは石神じゃないのか」

 真一ははっとして顔を上げた。

 須田鷲朗の目と石神真一の目が空中でがっちりと出会った。

 真一は相手の背後に多くの幻を見た。それは一人の人間が生きてきた三十年という歴史そのものだった。先生の後ろにはどんどん年老いてゆく両親がおり、不細工で不平屋の妹がおり、同じ中学校を出ておきながら所得水準が全然違う友人たちがいた。未来に出会うだろう素朴だが可愛らしい感じのする奥さんが、県の教職員用のつましいアパートの一室で縫い物をしている姿さえ見えた。

 真一は自分が気を失うだろうと思った。

 僕にはできない。これは誰にもできないことだった。

 これ以上高くにはいけないよ、と頭の中でブライアン・アダムズががなりたてている。

「石神、おい石神」

 先生が僕を呼んでいる。

 だけどこれは須田先生の声じゃない。

 声帯にまでヤニの詰まったダミ声。味気ない日常の一日一日を、体育教官室で煙草を吸いながら灰皿にひねり潰してゆくことに慣れきった男の声。荏田先生の声。

 全てがかちりと音を立ててはまった。

 須田先生の背後に揺れていた幻は消え去った。

 三年二組に対して、己のなすべきことをなせ。

 真一は立ち上がった。

 拳銃のスライドを引き、巨大なグリップを両手でしっかりと構えた。

 須田先生は教壇の上であんぐりと口を開けた。

 あの様子はとても猥褻だな、と真一は思った。

 銃の狙いをぶらすことなく、机の脇の通路に出て、教壇までの距離を詰めた。

 ぱっくり開いた須田先生の口腔内で、のどちんこがぶらぶら揺れている。

 真一はいきなり引き金を引いた。激しい反動があり、発射後に銃口が上にずれた。

 須田先生は後ろにぶっ飛んだ。咽喉仏があった場所に赤い花が咲き、その奥に白いおしべが見えた。

 肉片が飛散し、砕けた骨が大きな穴から露出したが、出血はほとんどなかった。

 先生は銃撃の勢いで黒板に叩きつけられた。

 両目を大きく見開いて真一を見返していた。

 おい、石神、これは何かの冗談か。

 もちろん、先生、クリスマス用にとっておいた冗談ですよ。

 真一は更に距離を詰めながら、もう一度引き金を引いた。

 弾丸は須田鷲朗の額を簡潔にぶちのめした。昆虫標本のように黒板に張りついていた先生の頭蓋の三分の一が吹き飛び、赤い鮮血と白っぽい脳髄が黒板一面に飛び散った。

 死体はついに崩れ落ちた。

 真一は教壇に登り、その死に様を確かめた。

 須田先生は仰向けに倒れていた。かろうじて二つ残された濁った色の眼球が真一を見上げていた。

 真一は死体の上で一度銃を構え、顔だけを視聴覚室にいる他の面々に向けた。

 残された五人の教師たちは一言も発することなく、以前のままの位置に立っている。

 まだ、何が起きたのかを認識できていないようだ。真一は銃の構えを解き、デコッキングレバーを引いた。ヨーロッパの美徳の一つは、起こされた銃の撃鉄を安全に戻せるこの装置を発明したことにある。アメリカ製の銃にはそれがない。文化の差はそういうところに表れるのだ。

 数人の生徒が静かに立ち上がった。

 呆然とする教師たちを尻目に、機敏な動作で入り口をふさぐ。そのいずれの手にも凶器が握られている。包丁やナイフがほとんどだが、中の一人がホッチキスを持っているのを見て、真一は笑い転げそうになった。

 出入り口が封鎖されるのとほぼ時を同じくして、六班の生徒たちがそれぞれの席を離れた。

 真一は教壇を降り、その右手の窓際に椅子を置いて腰を下ろした。

 この段階になってもまだ悲鳴や恐慌の類いの騒ぎは起こらなかった。

 どの先生も信じられないといった面持ちで、教壇奥の黒板にへばりついた須田先生の残滓を見つめている。だがその感情は同僚が生徒に拳銃で射殺されたことへの驚愕や怒りというより、株価がついに一円を割ったとか、政府が急に高速道路を鎌とハンマーで叩き割り始めることを決定したといったような事態に対する感情に似ているようだった。どこか遠い場所で起こっている事件をブラウン管を通して見ている時に感じる感情。

 真一に代わって教壇に立った尚はおもむろに口を開いた。

「荏田先生、田中先生、横山先生、柴田先生、後藤先生、三年二組はあなたがたをこの一時間拘束することを決定しました」

 ここで、教師たちの内の誰かが何か適当な言葉を叫べばよかったのかもしれない。たとえば、何てこった、あいつらは俺たちをリンチするつもりだ、とか、大変だ、須田先生が頭のイカれた生徒に撃ち殺された、とか、ペーパーバックの中でアメリカの偉大な作家たちが量産しているようなありきたりな台詞を。そうすれば、それらの台詞は、まだ日常から走り出す決意を固めていない幾人かの生徒を動かしたかもしれない。三年二組は内部分裂を起こして瓦解し、企みは完全な失敗に終わったかもしれない。

 だが誰もそんな言葉を叫ばなかった。それどころか声をあげる者さえいなかった。

 教師たちは動かず、尚、夕貴、英智、聖美の四人の執行部は依然として教壇にあった。

 真一は窓際で秋の日差しを浴びながら、その光景を眺めていた。

 一人の生徒が封鎖された出入り口からそっと忍び出て、廊下に消えた。

 荏田先生はその生徒の動きにじっと視線を注いでいた。まるっきりバカに見えた。

 あんたはこの時間の二番目の主賓なんだぜ、と真一は腹の中に呟いた。残念ながら第一番目の男ってわけにはいかないけど。まあ、そんなに恨めしげに脱出口を見るなよ、おっつけ主役も到着するさ。

「各班は先生方を所定の位置に誘導してください」

 夕貴が言った。肩まで伸ばした髪が栗色に輝いている。血と脳漿に濡れた黒板の前に立っててきぱきと指示を出すその姿は美しいといってもよかった。冷酷で優しげで、妥協の余地がない美しさがその身体から強烈に放射されている。

 ばらばらに配置されていた生徒たちが班ごとに集まり、立ちつくしている教師たちへ歩み寄っていく。

 理科教諭の後藤晴香は、四班の班長である南井志穂に手をつかまれて小さな悲鳴を発した。しかしそれはどこかお義理な印象しか与えず、後藤先生は叫んだ後は顔を赤らめて志穂の指示に大人しく従った。

 六班以外の五つの班は、事前に定めたとおり、先生を一人ずつ輪の中に囲んで整然と並んでいる。各班の担当は一班から順番に、柴田先生、横山先生、田中先生、後藤先生、荏田先生となっている。

「これからどうするつもりだ」

 五班の六人によって無理矢理椅子に座らせられながら、荏田先生が陰鬱に言った。

「うるせえよ」

 隣に立っている金本泰徳がにやにや笑った。その手には金鎚が握られている。

「お前らは人殺しだ」

 荏田先生は反吐を吐くように顔をしかめて言った。

「黙れって」

 泰徳が金鎚を振って荏田先生の右肩を打った。

 荏田先生はのけぞって熱いうめき声をもらした。

「ああ、くそ」

 横山先生がそれを見て天井を仰いだ。

「こんなことをして、ただではすまんぞ」

 肩を押さえて荏田先生が言った。

 泰徳はそばかすの浮いた酷薄そうな顔に、人を喰ったようなにやにや笑いをますます深めた。

「まじでうるせーよ」

 金鎚がまた振るわれた。

 荏田先生は左肩を押さえて悲鳴をあげた。

「泰徳!」

 教壇の上で尚が叫んだ。

 のけぞって痛みに耐える荏田先生の隣で、泰徳は細い目をますます細めて、もう一度金鎚を振り上げようとした。

「やめろ、泰徳!」

 尚がまた叫んだが、泰徳は無視した。

 泰徳は金鎚を頭上に高く掲げようとした。

 だがそれは一本の手によって阻まれた。

 池田鉄兵の手が、泰徳の金鎚をがっちりと握っていた。

「何だ、こら」

 泰徳はそばかすの浮いた頬に陰険な影を這わせ、鉄兵を睨んだ。

 鉄兵は日に焼けた顔を怒気に赤く染めて言った。

「これはリンチじゃない。勝手なまねをするな」

「偉そうな口きくじゃねえか。おめえもあそこのアタマ気取りのオトモダチか」

 泰徳は顎をしゃくって、教壇にいる尚たちを指した。

「俺たちは全員友達だよ、泰徳」

 鉄兵が根気強く言う。

 教師を囲んで班ごとに座っている生徒のほとんどは、緊張した表情で事のなりゆきを見守っている。

 一人窓辺に座った真一は、注意深く視聴覚室の全体を観察していた。

 教壇に立っている尚、夕貴、聖美、英智の四人に慌てている様子はない。

 泰徳が暴力を逸脱させるだろうということは予想されたことだった。その場合の対応策は事前に練ってあった。あらゆる事態を想定して計画を立ててきたのだ。泰徳は確かに懸案の一つではあったが、最大の懸案ではなかった。それにまだ全ては始まったばかりで、みんなの精神は極限状態にはない。泰徳だって自制できるだろう、少なくとも今は。

 膝の上に置いた九o拳銃に用心深く触りながら、真一は思った。

 山登りはこれからだ。高く、高く登らなければならない。酸素も、地表からの反射熱さえも届かないような場所まで登るんだ。本当の危険はその時にやってくるだろう。試されるのはそこからだ。今起こっていることはほんの序章にすぎない。デパートの屋上で、仮面ライダーショウの前座に出てくる漫才みたいなものだ。そこではなおざりに笑って見ていることもできるだろうが、漫才師が引っ込んだ後で身体中に爆弾を巻きつけてよだれをたらしている男が飛び出してきたら?

 恐怖はそこから始まるんだ。

 泰徳と鉄兵の睨み合いは、視聴覚室のドアが開く音で唐突に終わった。

 あわただしい、しかしどこか歯軋りしたくなるような憎たらしい落ち着きを備えた足音が、生徒のスニーカーの後ろから近づいてくる。

 足音は視聴覚室の前で止まる。

 鉄兵と泰徳はゆっくりと離れ、所定の位置に戻った。

 視聴覚室に入ってくるのが誰なのか、生徒たちは全員知っている。

「いったい何があったんだ、須田先生。この子どもの説明はラチがあかないんで―――」

 威厳と貫禄に満ちた容貌が堂々と突き出された。佐々木武実、向山中学校の校長の職を六年間勤めている男の顔は、教育者としての自信と包容力に彩られている。

「須田先生―――?」

 大村という目立たない生徒の後ろから視聴覚室をのぞき込んだ佐々木校長は、そのでっぷりした体躯をしばし硬直させた。

 さぞかし異様な光景だったろう。突然校長室に現れ、四階の視聴覚室で社会科教諭が呼んでいると告げた生徒の後ろからついてきてみれば、当の教師は黒板一面に脳漿をぶちまけて床に倒れ伏しており、生徒たちが手に手に異様な凶器を持って五人の教師を囲んでいるとなれば。

 佐々木校長は驚愕した様子で教室全体を眺め回した。それほど間抜けな様子には見えなかった。

 佐々木校長が顔を出してそこにある光景を眺めているわずかな時間、真一はその頭の中で計算機が冷徹に動きつつ戦略を練る機械音を聞いたように思った。

 そして次の瞬間、佐々木校長は誰も予想だにしなかった行動に出た。

 視聴覚室に入ると、驚くほどしっかりした足取りで、つかつかと教壇に歩み寄ったのだ。

 その行動に出る前、佐々木校長には三つの選択肢があった。一つは大声で叫ぶこと。これは、視聴覚室がある四階の他の教室がこの時間には使われていないことを考えると、あまり賢い選択ではない。

 二つ目は逃げること。そのままくるりと背を向けて校長室まで逃げ帰り、110番に通報すればいい。しかしドアの両脇には六人の生徒が立っており、校長を拘束しようと待ち構えている。数mは逃げることができるかもしれないが、すぐに捕まえられる。

 生徒たちにとって最も危険な選択肢だったのは三つ目だ。視聴覚室の廊下側の壁にある火災報知器を鳴らす。これなら右手を伸ばせばこと足りるし、あらゆる階のあらゆる教室から授業中の教師たちが出てくるだろう。

 だが佐々木校長はA・B・Cのいずれの選択肢も選ばなかった。

 彼は視聴覚室の中に入り、教壇に立っている『子どもたち』に歩み寄る選択肢を選んだ。

 真一は九o拳銃を手に取った。

 くそ、奴は何を始めようとしているんだ?

 事務的な手際のよさで教壇へ近づいていく佐々木校長に銃を向け、真一は心の中で叫んだ。

 こんな行動は予想していなかった。何回も演習を重ね、ありとあらゆる可能性を考慮して計画を練ってきたが、それでも予想外の行動は残されていたのだ。

 僕たちは甘かった。

 口の中に金属的な味が広がる。パニックの味だった。

 真一は歩く校長に銃を向け、迷った。撃つべきか、撃たざるべきか。その迷いのために与えられた時間は、校長のどっしりした歩幅で数歩分も残っていない。

 撃ってしまえば計画は終わりだ。しかしこのまま佐々木校長の行動を制止しなければ、もっと酷い結末に終わってしまうかもしれない。

 真一は迷った。

 窓際のその逡巡に気づいている者は、教室には一人もいない。

 誰もが魅せられたように佐々木校長を見守っている。

 校長は攻撃に出たのだ。真一は銃を握る手が震えるのを感じた。

 生徒たちに囲まれて座っている荏田先生や横山先生にはできなかった、生徒たちの企みを攻撃し、瓦解させるための行動を、校長は選択したのだ。彼は教室を一瞥しただけで生徒の中心とその最も脆弱な部分を的確に見抜いた。

 強力な攻撃が振り下ろされる。真一はそれを確信した。あの力強い歩調、顔に浮かぶ威厳と余裕、全身を包む、地位も名誉もある大人としての風格。それら全てが、来るべきその攻撃の大きさを警告している。

 どうして気づかなかったのだろう。これほどの敵を相手にしようとしていることに。

 真一は自分の判断の甘さを呪った。できることなら過去の自分を三千体ほど呼び出して、まとめて火あぶりにしたかった。校長はただのでぶちゃんではなかった。僕はそれを知っていたはずだ。それなのにあえて校長を軽視した。校長は、学校内で噂されているような、単なる威張り屋でも、色情狂でも、守銭奴でもない。それらは全部、生徒たちが勝手に考え出した幻想だ。僕はそれを知悉していたはずなのに、無視したのだ。何のために?

 くだらない憎しみのために、だ。

 真一が引き金に手をかけて迷う内にも、校長は教壇に近づいている。その進路上に立たされた尚は、台風に叩き落されるリンゴの果実をなす術もなく眺める農夫のように、じっと校長を見つめている。その距離は、ほとんど危険なまでに狭まっている。

 教壇の前まで進んだ佐々木校長は、そこで足を止め、脇に崩れ落ちている須田先生の死体にちらりと視線を走らせた。おびただしい血がそこから流れ出て、校長の革靴を濡らしている。

 佐々木校長は大きな溜息をついた。

 生徒たちに緊張が走る。

 だが校長は溜息一つきり、何も言わない。

 生徒たちの緊張は、校長の沈黙が一秒また一秒と長引くにつれて高まる。何でもいいから口にして、この気も狂わんばかりに重い雰囲気を軽くしてくれと、誰もが心の中で願っている。視聴覚室の主導権はいつのまにか佐々木校長に移り、生徒たちはその呪縛に完全にとらえられてしまっている。

 佐々木校長はなおも沈黙を守り、緊張が更に高まるのを待っている。演説を開始する最高のタイミングを計っているのだ。

 だが結局そのタイミングがやってくることはなかった。

「豚面さらして立ってないで、座ったらどう?」

 教壇の上、尚から少し離れた場所に立った村田聖美がそう言った。その口調は、これまでの学校生活で彼女が使ってきたような口調とはまるで違っていた。つまり、今月号のnon-noのモデルが着ている服が可愛いとか、同じ学年の男子生徒からのメールが気持ち悪いとか、そんなことを話す口調とは違っていた、ということだ。それはむしろ、できの悪い生徒に教師が語りかける口調に似ていた。そこにあるのは憐れみと、多分の蔑みだ。

 聖美は恐らくこれまでにそんな口調を使ったことはないだろう。それは、佐々木校長がその長い人生の中で、憐れみと蔑みという感情を向けられたことがないのと同じくらいに確かなことだ。

 佐々木校長は尚の顔を見た。聖美の方は見なかった。意識的に無視したのではなく、誰から何を言われたのかが理解できなかったのだろう。

「早く座ってよ。凄く邪魔」

 聖美の声は落ち着いている。活力に満ちている。真一は聖美の顔をまともに見ることができなかった。他のみんなは見ている。聖美を見ていないのは視聴覚室の中に二人だけだ。佐々木武実と、石神真一。

「何だって?何といったんだ?」

 佐々木校長は聖美を見ずに、まだ尚に顔を向けている。しかしそこからは威厳が剥ぎ取られ、余裕が不安にとってかわられたようだ。

 主導権は校長の手を離れた。

 校長は、特別に隠していた生徒鎮圧用の演説原稿ではなく、憐れっぽく惨めな道化を演じる羽目になった。真一はそのことに多少同情せずにはいられなかった。校長が満を侍してぶちあげようとした今世紀最高のお説教は、スポーツでも、成績でもどうということのない女子生徒によって台無しにされてしまったのだ。生徒の側が校長を甘く見ていたように、校長もまた生徒を甘く見た。その結果、彼が『子供たち』にかけた呪縛はどうということのない生徒のどうということのない言葉によって破られてしまった。

 敵を軽んじるというのは信じられない代償を伴なうもんだな、そう真一は心の中で呟いた。今のあんたは籠の中の鳥だ。本当なら僕たち全員を籠の中にぶち込んでクローゼットの上に置いておくこともできたのに。

「座りなさいって言ったのよ。校長になるための試験に日本語って科目はなかったの?」

「校長先生に向かって何て口をきくんだ」

 佐々木校長はようやく声の主を探り当てたらしい。その顔がはた目にもはっきりと赤く染まっていく。

「君が、このバカげた騒ぎの原因か?君が須田先生を、その、こんな風にした張本人かね?ええと―――」

「村田聖美。ねえ、校長、誰がこれをやったかなんてバカなことを考える前に、自分の立場を考えたらどう?あんたは向山中学の校長かもしれないけど、この教室ではそうじゃないってことを考えてみたら?」

 聖美の顔は窓から差し込む明るい光に照らされて輝いている。その慎ましく盛り上がった胸には校章が光るが、真一にはそれがどこか遠い王国の紋章のようにしか見えなかった。快活で健全な人々だけが暮らすことを許される、光の王国の紋章。聖美だけではない。ここにいる生徒の誰もがその紋章を身につけている。それを与えられていないのは一人だけだ。

「村田聖美か。いいだろう、まだ普通教育を受けたいというのならその口をつぐんでこっちへ来なさい。その他の者たちもだ。事態が今よりも重大で、取り返しがつかなくなるよりも前に、私と一緒に来るんだ」

「俺たちには、あなたと一緒に下りる気はないですよ、校長。それに、事態が今よりも深刻になる前に自分の進退を決めなければならないのは、差し当たって貴方の方だと思います」

 聖美の隣で武石英智が言った。

「脅迫か、それは」

 佐々木校長は怒気をはらんだ声で言った。

「好きなように解釈してくれていいです。首根をつかまれているのは俺たちじゃなくてあなたの方だという事実さえ忘れなければね」

 何かが変わりつつある。真一は九o拳銃を静かに膝の上に戻しながら思った。

 ほんの十分前までは、クラスの全員が怯えていた。認めるのは辛いことだが、計画はほとんど砕け散る一歩手前までいっていた。佐々木校長はその空気を無意識の内に読んだのだ。『子供たち』の中のどれくらいの人数が逃げ腰で、ゲームから下りたがっているかを。その読みは正しかった。ある段階までは。

 そこから変化が始まったのだ。変化は校長の読みの遥か頭上を飛び越して、聖美を変え、英智を変えてしまった。そしてその変化はクラス全体に波及しつつあるように、真一には思える。

「自分たちのしようとしていることがわかっているのか」

「あなたが俺たち以上にわかっているとは思えませんね、校長」

 英智の頬に赤い斑点が浮き上がっている。逆上しているのではない。高揚しているのだと知って、真一は驚いた。人好きのする優等生タイプの英智が、校長先生に対してこんなに遠慮のない言葉を吐き、その上高揚するなんてことが、考えられただろうか。少なくとも僕は考えなかった。

 僕はほとんどビビってるな。真一は素直に認めた。この教室で始まりかけている事態に対して、僕は怖気づいている。僕は高い山に登るつもりでいた。酸素がなくなる高みにまで登るつもりでいた。けれどみんなはそんな場所よりもずっと高く続く道をたどり始めている。

「このバカげた騒ぎのせいで、君たちの一生は台無しになったんだぞ」

 佐々木校長は言ったが、そうあろうと本人が努めているほど重々しくは響かなかった。

「主語が違っているようですね、佐々木校長。あなたの一生が、とした方がしっくりくるんじゃないですか。でも、多分そんなに酷いことにはならないと思いますけど」

 英智は笑っている。

「いいか、この教室にまだ少しでもまともな人生を歩きたいと考えている者がいれば、今から私が言うことを聞くんだ。私はこれを、この教壇にいる生徒たちが私に対してしたような脅迫のつもりで言うのではない。忠告として言うんだ」

 佐々木校長は教壇から向き直って、座席に座っている生徒たちを見た。

「しゃべっていいとはいわなかったけど」

 さえぎろうとする聖美の肩を、牧原夕貴がそっと押さえた。

 佐々木校長の力はもう失われたのだ。教壇の前に立った四人を説得できなかったという事実をもって。校長がこれから何を話そうが、それは塀越しに聞こえる番犬の鳴き声程度の影響力しか持たないだろう。もちろん、凶暴な番犬が二mの塀を飛び越えて通行人を襲うケースもなくはない。だが、仮に塀を乗り越えたとして、全ての番犬が人間の肉にありつけるわけではない。そうしたケースはごくまれだ。通行人には逃げる足があるからだ。噛みつかれるのは、自ら番犬に近づくタイプの人間だ。そうとは知らずに、あるいは、番犬を手なずけて利用しようとして、彼らは番犬に近づく。そして、ガブリ。

「須田先生は死んでしまった。殺された。こんなに無惨に」

 校長はさもおぞましげに須田先生の死体を指し、首を振った。

「誰がこれをしたかなどは今はどうでもいいことだ。私は犯人探しをしようというんじゃない。それは警察の仕事だ。しかし私は君たちにこれだけは訊いておきたいんだ。君たちは自分のしたこともわからないようなバカ者なのか?そしてこの騒ぎの結果がどう自分の身に跳ね返ってくるかさえ想像できないようなバカ者なのか?私はそうは思わんね。この教室にはまだ知性と理性を保っている人間がいると思うし、そういう人間にならば私は、いや、向山中学校の先生方全員を含めて私たちは、手助けができると信じる」

 全員といったってな、真一は苦笑を噛み殺した。須田先生は脳みそを吹っ飛ばされてそこに横たわっているし、荏田先生や横山先生は母親を犯した人間を見るような目で周囲の生徒を睨みつけている。

 佐々木校長は続ける。

「私の背後で教壇に立っている四人の生徒には、恐らく何か言いたいことがあるのかもしれない。だが私にはそれを聞く気は一切ない。彼らは私を武器で脅すことができると考えている。それは間違いだ。私はこれだけしか言わない。まだ自分のこれからの人生を考え、将来の自分のためにより良い選択をしたいと思う者がいるなら、今すぐこの教室を出なさい。そして私と一緒に校長室へ行き、そこで話をしよう」

 誰も席を立たない。

「君たちは受験生なんだぞ!」

 校長は怒鳴った。それはまずい取引のしかただった。

「もちろん俺たちは今日まで受験生でした。そしてこれからも受験生であり続けるでしょう。来年の三月までは。お話はそれでおしまいですか?」

 校長の背後で尚が言った。

「私は、これまでの学校生活で君たち生徒を大人として扱ってきた。だがそれは間違いだったようだ。ここにいるのはどうしようもないクズばかりか」

「あなたはまた間違いましたよ、校長。あなたは俺たちを大人としてではなくクズとして扱ってきた。これまでの学校生活であなたにはフェアなやり方は一度もなかった」

「全員が刑事罰を受けることになるんだぞ、全員が」

「そうなるかもしれない。けれどそうならないかもしれない。いい加減に黙ったらどう?」

 聖美の口調は辛辣だった。十代半ばの女の子のどこからそんな声が出てくるのか、疑いたくなるほどに。

「わからないのか?君たちは教壇に立っているこのクズどものために、一生を棒に振るような悪事に手を染めたんだぞ!」

「誰もあなたの言葉を聞いてませんよ、校長。自分のターンが惨めな失敗に終わったと認めたらどうですか」

「あながちそうでもないんじゃねぇの?」

 座席の中から声があがった。

 注目の焦点がさっと入れ替わった。校長から、その声の主に。見事な素早さで。ということは、みんな心のどこかで予想していたということだ。校長の尻馬に乗るのは誰か。そのでっぷりした尻の上に乗って、曲芸を演じようとするのが誰なのか。

 真一は腕を組んだ。九o拳銃は膝の上だった。

 満場の注目を一身に浴びて、金本泰徳が、生徒たちの頭が作る黒い海の上に立ち上がった。



5
いつかいつでもいいから強い風ならば
僕をかかえて吹き飛ばしてよ
できれば南のほうへ
――― THE BLUE HEARTS


 金本泰徳は、身長が175cmにもう少しで届こうかという長身の生徒だ。腕っぷしの強さは誰もが認めるところで、学校内で彼に歯向かおうとする者はいない。泰徳には和義という歳の一つ離れたできの悪い兄がいて、これが昨年まで学校の番長を気取っていたが、今年になってその座を弟が継承したわけだった。和義はこの春に県内トップクラスの荒廃した公立高校へ進学し、最近では学校にいる時間よりも街中をうろついている時間の方が長いようだ。かといって都市計画学の実地研修をしているわけでもないようだが。

 これまでの十五年間の人生において、常に兄貴にボコボコにされてきた泰徳は、比較的早い時期に、その生年月日の差による神の分配不公平を修正する方法を発見していた。つまり、兄に殴られた分を学校の同級生に払ってもらうやり方だ。泰徳は、ろくでなしの身内を見て自分の血統に嫌悪を抱き、人生を自力で修正しようと努力するタイプの人間ではなかった。兄に殴られれば友人を殴り、兄が煙草を吸えば自分も煙草を吸い、兄が酒を飲めば自分も酒を飲んだ。彼が作る友人も兄弟で似たり寄ったりだった。

 真一は、人間という種が、沢秋成のような人間と金本泰徳のような人間とに分けられているのを不思議に思う。泰徳の家は裕福ではないが、秋成の家よりはましだ。工員の父親は、近所での噂を信じるなら、稼ぎの三分の一程度は家計に入れているそうだし、残った分を全て酒とパチンコにすってしまうにしても、子どもの学費は出しているのだから。

 秋成は違う。彼の義務教育のための学費は、母親が毎日サンマリで打つレジから稼ぎ出されているし、父親はまだ十五歳にもならない息子に対して―――秋成は遅生まれだった―――中学を出たら家から出て行くようにときっぱり宣告していた。両親の結婚生活も秋成が中学を卒業するまでの予定になっている。この決定は秋成の母親の忍耐によるものだった。息子が受ける私立高校のスポーツ特待生推薦のために体裁を取り繕うため、毎晩両頬を五、六発ずつ殴られる生活を延長したのだ。その結果秋成は来年四月から奨学金を受けて寮生活を送ることになった。秋成の中学生活の三年間はそのためだけにあった。信じられるだろうか。入学当時、十三歳にもならない子どもが、これから始まる中学生活の目標を、ただ陸上競技で寮制の高校の奨学金をつかみとることだけに置いたのだ。父親が、無情にも親子の関係は残り半年程度だと宣告する二年も前に。

 小学校の時から、秋成を取り巻く大人たちは、彼の父親だけを除いて、秋成が父親のようになるだろうと確信していた。ろくでなしの親の子はろくでなしだと、口には出さないまでもそう決めつけていた。少なくとも真一にはそう思われる。子どもの感想だが、しかし子どもは大人が考えているよりも多くのことを察するものだ。だがそうはならなかった。秋成は父親のようにはならなかった。彼は必死に授業を受けた。なぜなら秋成は生まれつき勉強ができるわけではなかったから。その成績は小学校の時から中の下より上にいくことはなかったが、そのかわりもっと必死で挑んだ短距離走では学校の誰よりも速くなった。

 秋成は這い上がった。世の中には這い上がれる奴よりも落ちていく奴の方が多い。実際、泰徳はそうなった。そしてそのことを恥じていない。泰徳はこれからもっと落ち続けるのだろうか。多分、そうだろう。

 泰徳は立ち上がると、少し顎を前に突き出して教壇を見た。その唇はいつものにやにや笑いに歪んでいる。

 佐々木校長は用心深くこの新しい登場人物を値踏みしている。校長は泰徳を知っている。学校内の管理ファイルは泰徳のような生徒のために作られている。いつでも泰徳のような生徒は問題になる。だからその名前の上にはオレンジ色のラベルが貼られ、彼が問題を起こすたびに、即座に新しい項目を追加できるようになっている。

 だが佐々木校長は今、悩みの種の厄介な生徒を見る目つきで泰徳を見てはいない。真一にはわかった。校長が考えているのはこの状況下で泰徳がどの程度自分の力になれるかということだけでしかない。この薄ら笑いを浮かべた『子ども』は自分のために利用できるだろうか、教室を占拠している『子どもたち』を解散させるために。

「何か意見があるのか、泰徳」

「あるね」

 教壇の上から尚が訊き、泰徳は軽くうなずいた。

「これは本当の大事件だ。そうだろ?俺たちの一生がかかってるかもしれない」

「そうだ」

「そして俺たちは長い時間を使って準備をしてきた。そうだな?」

「そうだ」

「その間、指図する奴はずっと同じだった。俺たちはその指図に従ってきた。そうだな?」

「なあ泰徳、俺たち執行部は指図したわけじゃない。話し合いで全て決めてきたじゃないか」

「違うね、結局話し合いで通るのはお前らの意見だった。それ以外の奴らの意見は通ったことがないじゃねえか」

 尚は黙った。泰徳は具体的な例を挙げたわけではなく、とどのつまりこう言いたいだけだ。俺の意見は一度も通らなかった、と。

 だがあまりに単純で筋道立っていないだけに、真っ向から泰徳に反論するのは得策ではなかった。議論というのはいかにして正論を通すか、ではなく、いかにして聴衆に聴かせるか、の勝負なのだ。理屈と感情のベクトルは全く違う方向を向いている。

「大体、鈴来よ、お前らが仕切るってのは誰が決めたんだ?全部お前らが勝手に決めて、お前らの好きなようにやってきたんじゃねぇの?俺たちをパシリにしてさ」

「四月に選挙をやったじゃないか。あの時君は立候補しなかったね」

「あの時は何をするかなんてちっともわからなかったからな」

「そうだ。あの時はまだ何も決まっていなかった。そこから少しずつ、計画を練り上げてきたんだ。それは誰にでもできたかもしれない。けれど実際にやったのは俺たちだ」

「他の奴ならもっと上手くやっただろうさ」

 泰徳の言葉に尚は笑った。凍りつくようなその調子に、視聴覚室は静まり返った。

「かもしれないな。鉄兵なら。西村なら。誰か他の奴なら。あるいは、泰徳、君だったら。その機会はあったはずだよ。六月に一度、七月には二度、八月にはもう一度、執行部は再選されている。でも、そのどれにも、君は立候補しなかった」

 泰徳の顔が赤らんだ。貧弱な脳みそが懸命に反論の余地を計算し、答えを探している。彼の頭蓋の中で時代遅れのCPUがたてる騒々しい演算処理の音が教室中に響いているようだ。

 だが結局泰徳は自ら反論を組み立てずにすんだ。

「君たちは彼らを利用したんだな?何も知らない友人をそそのかして、恐ろしい犯罪に、彼らを巻き込んだのだ」

 佐々木校長が静かに言った。その口ぶりはまるでアイヒマンを訴追するイスラエルの検察官のように冷たい怒りに満ちている。

「彼はそれに気づいた。彼だけがこの教室の中で目を醒ましている。だがもうじき全員の目が醒めるだろうな」

 佐々木校長は泰徳を横目で見、座席の方へ手を振り、怒れる言葉を教壇に立つ生徒たちに向けることで、視聴覚室の中に対決の構図を浮き上がらせた。つまり、教壇に立って凶行を煽動している少数の性悪な生徒と、座席に座ってただ事の成り行きを見守っている大多数の無辜の生徒との対決の構図を。そこでは校長自身は後者の庇護者であって、自らの身を危険にさらしつつも、前面に立って対決に臨んでいる。校長の背後に置かれた生徒にとって、これは魅力的な態度だ。校長が無言の内に背中で語りかけているからだ。君たちは無実だ、ただ利用されていただけだ。私はそれを知っている。だからこの教室から出ても君たちを警察に突き出すようなことはせずにすむだろう。もちろん少しだけ事情を聴くことにはなるだろうが、しかし実際に罰を受けるのは教壇にいるあの生徒たちだ。君たちではない。だから、さあ、今すぐゲームから下りなさい。

「恥を知れ、バカ者ども」

 佐々木校長は尚を睨みつけた。

 校長は教室を分断した。あるいは、分断したつもりでいる。校長に必要なのは時間だ。時間が経てば経つほど、その魅力的な誘いを検討しようという生徒は増えていくだろう。

 だが校長が知らないことはたくさんある。たとえば、どれだけ自分が憎まれているのか。

「君たちは多くの友人をだまし、殺人という恐るべき犯罪の共犯者に仕立て上げようとしたんだ。私はその恥ずべき行いに対してはっきりと異議を唱えた彼の勇気を賞賛する」

 佐々木校長は右手の人指し指で泰徳を指した。

「彼のような生徒がいたのは驚きだ。だがそれは私にとって意外ではない。自律ある個人とはまさしくそういうものだからだ」

 その自律ある個人が考えていることが、どうやったら自分の好きなように先生たちを嬲り殺すことができるかってことだと知ったらきっとあなたは驚くでしょうね。真一はそう考えて笑いの発作に捕まりそうになった。

「言いたいことはそれだけですか?」

 尚は佐々木校長ににっこりと微笑んでみせた。

 校長は尚の微笑をただぽかんと見返した。

 その仕草は大人に向かって十四、五歳の子どもがやるような類いのものではなかった。それが、俺とあんたは対等なんだぞわかってんのかこの腐れイカ爺、といったような不遜な底意を表していたのなら、佐々木校長も言葉を返せたに違いない。しかし尚の微笑は不遜ですらなかった。それは長上の者が若輩に向けて浮かべるような微笑だった。そこにあるのは憎しみや悪意といった敵対心ではなく、寛容だった。そしてそれは、校長の立場からすれば、この場に最も相応しくない感情だったといえる。

「さっき、校長先生は俺たち執行部が嘘をついているとおっしゃいましたっけ」

 尚の口調は穏やかだったが、そのことは校長の勢いを取り戻す役には立っていないようだ。

「君たちは恐ろしい犯罪に大切な友人たちを巻き込んで悔やみもしない破廉恥な連中だ」

 破廉恥ときたね。視聴覚室の後ろの方で、誰かがくすりと笑うのが聞こえた。

「佐々木校長のおっしゃったことは確かに重要な問題ですね。泰徳」

「ああ?」

 急に名前を呼ばれ、泰徳は驚いたように身をすくませた。

「泰徳はどう思う?俺たちは嘘をついていただろうか。みんなはだまされてここにいるんだろうか。自分自身の判断に従ってではなく」

「どうして俺に訊くんだ?」

 多少居心地悪そうに周囲を見回して、泰徳は言った。

「校長は君に助け舟を出したからさ。弁護される人間は、事前にその弁護を受け入れるかどうかを選べる。どう思う、泰徳は俺たちがみんなをだましていると思うかい」

「それは」

 泰徳はそれだけ言って鼻を鳴らした。相手をバカにするようなその響きが、返すべき言葉を補ってくれるというように。

 尚は首を振った。

「駄目だよ、泰徳。しゃべらなきゃ駄目だ。鼻を鳴らす、睨みつける、拳で脅す、あるいは殴る、今まではそれで通用したかもしれない。今までは、面倒くさい理屈は一切抜きにして、暴力が絶対だという明解なパワーゲームに持ち込めば、それですんだのかもしれない。でも、ここではそれは通用しない。ここでのルールは暴力じゃなくて言葉だ。俺は泰徳に、俺たちが嘘をついているという校長先生の主張は正しいだろうかと質問した。これには肯定か否定、この二通りの選択肢しかない。さあ、答えるんだ」

 泰徳は反論のために一度口を開いたが、また閉じた。それは、コーナーに追い詰められたボクサーが懸命に逃げ道を探る動作に似ていた。

 真一はその様子をじっと眺めていた。楽な姿勢で椅子に座ったままで。銃は膝の上にあり、陽光は窓を透して背中へと、燦々と降り注いでいる。

 心地良い日和だった。こんな日にはバスケットにサンドイッチやおにぎりを詰め込んで、芝生のある公園に遠出するに限る。太陽は絶え間なく輝き、緑の木々を揺らすそよ風は芳しく爽やかだろう。そこに何も考えずごろりと寝そべったら、どんなに気持ちいいだろう。

 そう、こんな日にはちょっとしたピクニックに出かけるに限る。ほの暗い教室の中で互いに凶器を突きつけ合って殺人の算段をするよりも、その方がずっと楽しいだろう。

 視界の隅で、誰かが立ち上がるのが見えた。緊張は感じなかった。立ち上がったのは津田光か野村賢人か、とにかくそこら辺のグループの中の誰かだろうということはわかっていた。決して目立たない生徒のグループ。気の利いた冗談がいえるわけでも、勉強ができるわけでも、スポーツができるわけでもない。土曜日や日曜日はプレステやX-BOXの前に座って過ごし、夜は暗いマスターベーションに耽るタイプの生徒たち。彼らはたいがい気弱で内気だが、だからといってそれがこの場で発言してはならないという理由にはならない。

 さあ、劇の始まりだ。

 のろのろと立ち上がった野村賢人の顔に漂うどこか決然とした表情を見て、真一はぼんやりと考えた。

「金本は、俺から六千円取ったんだ」

 賢人はその小太りの肉体を揺らして、甲高い声を上げた。

 泰徳は明らかにぎょっとして、背後を振り返った。

「金本は俺から六千円取ったんだ」

 賢人はもう一度言った。今度はそれほど上ずった声ではなかった。

 泰徳は当惑を通り越して混乱している。いったいこのみっともないクラスメートの名前が何だったかさえ、思い出せていないのだろう。

「二年生の冬だった。五時間目の休み時間に、三階のトイレで財布ごと取られた」

 賢人は勢い込んだせいで、ほとんどどもりながら言った。

「何で学校に六千円も持ってきたんだよ」

 誰かが面白がる口調で訊いた。

「その日発売のエロゲーを買いたかったんだ」

 むっとして賢人が答える。まるでそれが神様のために宗教戦争を戦うよりも崇高な理由だと信じているように、胸を張って。

「そいつは立派なことで」

 誰かが言い、小さくはない笑いが起こった。

 その笑いから遠ざけられているのは他ならぬ賢人自身と、泰徳だけだ。それから、もちろん佐々木校長も。

「おいこら、俺がお前から何を取ったって?」

 泰徳は笑い声を無視して賢人の方へ一歩踏み出した。普段なら威圧するためにはそれで十分だったろう。しかし今、この場面では二人の間には距離があり過ぎた。

「六千円だ。六千円だ」

 賢人は大声で言った。

「何を買うための金だって?」

「エロゲーだ。わかんないのか。十八禁のゲームだよ」

 教室中はほとんど爆笑だ。女子でさえ笑っている。

 彼らはいったい何を笑っているのだろうかと、真一は笑いながらも不安になった。僕と彼らの間は、もうそんなに離れているのだろうか。もちろん、そうだ。

「お前はそれで何をするつもりだったんだ、ああ?」

「オナニーだよ。決まってるだろ。それとも泰徳、お前、やり方知らないの?」

 爆笑。

 賢人も泰徳も、どちらの顔も赤く染まっている。一方は高揚のため、もう一方は怒りのためだ。

「それ以上なめた口きくんじゃねえぞ。この場でぶち殺してやるからな」

「やめてくれよ。その代わりにやり方教えてあげるからさ」

 賢人は大げさな手振りで右手を上下に動かして見せた。

 泰徳の顔が醜悪に歪む。その引き締められた唇の隙間から細い息が漏れ、脳みそを取り囲む血管が一本一本切れていく。

 もう少し時間があったら泰徳は賢人に飛びかかっていただろう。そうなれば、真一は事態を収拾するために一、ニ発撃たなければならなかっただろうし、撃ったとしても事態が完全に元通りに戻ることはなかっただろう。計画は失敗に終わったはずだ。

 だがその泰徳の背中へ、また別の辛辣な言葉が投げつけられた。その言葉のおかげで真一は膝の上の銃を取らずにすんだのだ。

「金本君はやり方を知らなかったわ」

 その声自体はどこかぼやけた感じだったが、聞く者の耳にはひどく冷たい感じがした。それは自分だけの感想じゃないだろうと真一は思った。

 声の主は教壇の上の牧原夕貴だった。

「もちろん、今、野村君が言ったあれのことじゃなくてね。私、金本君とキスしたの。去年の文化祭の打ち上げのカラオケ店でだった」

 夕貴は起きながら夢を見ているようにぼんやりした口調で語る。

 賢人がすとんと椅子に座る音が聞こえた。

 全員が驚いて夕貴を見つめている。

 キスだって。牧原夕貴と、金本泰徳が。

 夕貴に似合う言葉といえば、今や石原裕次郎のポスターや獣骨製の釣り針と同じく旧石器時代の遺物と見なされるようになってしまった、清楚という言葉くらいのものだ。長い髪を肩下までストレートで伸ばし、制服もきちんと着こなす、遅刻なんかしたことはない。優等生のお手本のような夕貴。その夕貴が、よりによって泰徳とキスだって。

「金本君は上手だった。息が少し煙草くさかったけど、優しかった。それで、私、いいかなって思ったの。だって、ほら、照明は暗かったし、その日は金本君のことが大好きに思えたから」

 夢みるような口調で話す夕貴の横顔に、尚が唖然として見入っている。誰もが尚と夕貴が付き合っていると考えていた。恐らく他の誰よりも尚自身がそれを信じていたはずだ。

 面白い。

 真一は思った。

 本当に面白い。

「続けてよ」

 座席の中から声が飛んだ。内田綾の声だった。彼女は班長の一人だった気がする。三班だったか、四班だったか。

 だがそんなことはあまり重要ではなかった。

「いいわ。でも、もうあまり話すことは残ってないんだけど。私は金本君を迎え入れようとした。金本君は私の下着を下ろしたけど、結局、その……やり方がわからなかった。それでおしまい。足首まで下ろした下着をもう一度はき直した時にはもう最悪に惨めな気分だったわ。でも、ほら、そういう時って男の方がもっとショックなんじゃないかと思って。そのままトイレに駆け込んでげぇげぇ吐きたかったけど、我慢した。その後すぐに店を出て、金本君と別れたわ。そして、それっきり。学園祭の前も、付き合ってたわけじゃないしね」

 しんと静まり返った教室で、夕貴は淡々と言い終えた。

 いつもの牧原夕貴に見えた。だが明らかにいつもの牧原夕貴ではなかった。

 いったいあそこに立っているのは誰ですか。

 真一は夕貴との距離を感じた。その距離は急速に広がりつつあるように思えた。その感覚はどこか恐ろしく、物悲しかった。夕貴だけではなく、教室にいる全員が真一から遠ざかっていく。

「よう、泰徳、どうだったよ、初めての体験は!」

 誰かがはやし立てた。

 泰徳は座席に首を巡らせた。その顔は形容しがたい濃厚な色に覆われている。泰徳は恐ろしく腹を立てているが、同時に混乱してもいる。何が自分の身に起こりつつあるか、理解できていないんじゃないか。

 僕は泰徳に同情している。この教室で何が起こりつつあり、それがどこへ向かいつつあるのかを理解できていないのは、生徒たちの中では僕と泰徳だけだからだ。

 やあ、みんな、ボローニャ・ソーセージのサンドイッチとコーラを持って、これからどこへ行こうってんだい?

「泰徳、タマはどっかに忘れてきちまったのかよ」

 誰かが叫んだ。

 あれは今井範和じゃないだろうか。範和は、生まれてくる前に神様がブルドーザーでその顔を成形したんじゃないかと疑いたくなるほど不細工な生徒だが、泰徳の親友だ。少なくともこの時点までは、ってことになるんだろうけど。

「てめぇらをぶち殺してやる」

 泰徳が唸った。今しゃべったのが誰か、はっきりと判別できていないようだ。

「てめぇらをぶち殺してやるからな」

 泰徳の声は、虫かごの中を憤然と動き回る太ったコオロギを連想させた。

 怒りと困惑と不安。泰徳は怯えている。ただこれまでの人生で、怯えるということがどういうことなのかを経験したことがあまりないから、それを憤りと混同しているのだ。

 泰徳はぐるぐる回る。回しているのは教室にいる生徒たちだ。

「もちろん、誰をぶち殺そうがそれは君の勝手だよ、泰徳」

 尚が言い、泰徳は背後から斬りつけられた人間のように身体を震わせた。

「ただ、実行に移すときは時はそれがどんな結果を招くのか、じっくり考えてからにしたほうがいい」

「俺を脅すのか」

「そうかもしれない。でもこれは忠告でもあるんだ、泰徳。俺たちは一歩踏み出した。ということは君も一歩踏み出したということだ。これまでのように誰かを殴っても、そいつがその後君の歩く道を避けて通るというようなことにはならないだろう。誰かを一発殴れば、殴った奴が今度はその一発に見合う代価がどこで請求されるのかを心配しなければならなくなる。使い古された捨て台詞さ。夜道に気をつけろ!」

 泰徳は甲高く笑った。

「やってみろよ。相手になってやるからよ。ただし、半殺しですむと思うなよ」

「わかっていないようだね。誰も半殺しですむなんて思わない。相手が誰だろうと。そして半殺しですませようとも思わない。それが問題なんだ」

 尚は穏やかに首を振った。

「その気になれば、泰徳は相手を殺すことができる。けれど相手もその気になればそれができるんだということを忘れちゃいけない。腕力がない奴でも、刃物がある。君が誰かに背中を向けて四階のベランダから校庭を眺めていることだってある。チャンスはいくらでもある。ただ、その気になりさえすれば」

 泰徳はひきつった笑い声をあげた。

「このクラスにそんな勇気のある奴はいねぇよ」

「違う。勇気じゃない。それをするのに勇気はいらない」

「じゃあ、何だってんだ!」

 尚は答えなかった。

 泰徳は尚を睨み、英智を睨み、聖美を睨み、座席の生徒たちを睨んだ。

 無数の目が泰徳を見返している。

 答えはそこにあった。

 泰徳は両手で頭を押さえた。

「俺を見るな!」

 それは悲鳴だった。

 真一はその光景を眺め、そして自分は目の前で起こっているこのできごとを本当に理解できているのだろうかと疑った。

 もちろん、単に基本的なルールが確認されただけのことだ。人間は、誰もが暴力とその手段を有している。社会は人間によってではなく、それら暴力によって規定されている。ここでいう暴力とその手段とは、狭義には殴り合いに用いられる拳やナイフを指し、広義には使用者の意思を他人に強制するための力を意味する。暴力を持つのは権利でも義務でもない。人間であるための必然なのだ。だからそれは決して放棄されてはならない。たとえいかなる弱者であっても、暴力に対しては暴力で向き合わなければならない。人間であるためには。

 泰徳のような種類の人間にとって、自分だけが暴力の保持者ではないのだと知らされることは苦痛に違いない。しかし泰徳はまだ幸運だといっていいだろう。彼のような人間の内の多くは、三百六十五日休まずにぶちのめし続けてきた妻にある日突然包丁を突き立てられるとか、あるいは、何か素敵な罪状のおかげで絞首台の上に立たされて、初めてそのことに気づくことになるのだから。この世はありとあらゆる種類の暴力に満ちており、そこで生きるということは火薬樽の上で黄燐マッチを擦って煙草に火をつけるのに等しい行為なのだ。

 泰徳はようやくそれに気づいた。

 少し遅かったかもしれないが、全然気づかないよりはずっとましだ。ケーキを焼いてお祝いしたいくらいだ。

 その他に何かあるのだろうか。

 泰徳を見つめる同級生の視線を注意深く観察しながら、真一は考えた。

 あるのだろう、もちろん。

 泰徳は教育されたのだ。基本的なルールが確認されただけでなく。

 そして泰徳へ向けられている無数の視線は、教育がこれからも続くことを告げている。三年二組はお前を再教育するつもりだぞ。よかったな。

 泰徳が奇妙な声を発した。泣いているのだと理解するまで数秒の時間が必要だった。

「お前ら狂ってるよ。お前らみんな狂ってるよ」

「そうかもしれない。勇気さえもなくなれば、後は狂気だけだ」

 泰徳は咽喉を震わせて甲高い声を絞り出した。

 尚は視線を泰徳からずらした。

 佐々木校長は無言で尚の視線を受け止めた。

「確か、本来の論点は、嘘が、言い換えれば、欺瞞が行われたかどうか、でしたね、校長」

 尚は校長に微笑みかけた。

「もしあなたがその可能性についてまだ真剣に考えておられるとすれば、それはあなたが現実を直視していないということを意味します」

 校長は抜け目のない動作で尚を見、泰徳を見る。そして堂々と教室中を見渡す。

 無数の目が校長を見返す。

 校長は昂然と頭をもたげ、言葉を紡ぐために息を吸い込む。その仕草は老獪な毒蛇が獲物を狙うのに似る。

 巻き返しを図らねばならない。役に立つかと思われた頭の軽そうな生徒は奇怪な嗚咽を繰り返すばかりで、頼りになりそうもない。

 真一は腹の中で校長に言う。

 あんたは一人だけだ。

 ようやくそれが飲み込めてきただろう。

 だとすれば、一通りの下準備はすんだってことになる。

 真一はじっと待つ。待ち続ける。

 論陣の第二戦線を展開しようと慎重に言葉を選ぶ佐々木校長へ、尚が穏やかな、しかし有無をいわさぬ口調で語りかける。

「座りなさい、校長」

 無言の内に尚と校長の間で短い攻防戦が戦われた後、校長は最前列の座席の一つにゆっくりと腰を下ろした。

 尚が顔を上げる。晴れやかなその表情を、真一は忘れないだろうと思う。どこまで。いつまで。それはその時になってみなければわからない。

「さあ、それでは授業を始めよう」

 窓の外では明るい秋の微風にグラウンドを囲む緑のネットが揺れている。

 秋は暮れゆく季節だ。




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