沖縄戦没者慰霊行脚


 平成20623日は第63回目の太平洋戦争沖縄陥落の日です。
この日の戦没者慰霊行脚に参加しました。
私は30年前宗門の沖縄戦没者慰霊の
33回忌法要に参列しました。
まだ結婚する前でした。

 まだ摩文仁が丘に何もなくて、宗門の偉い方々はたぶんテントがあったのでしょうが、
我々一般は芝生か地べたにすわって、
4月だったのですがすごく日差しが強くて暑い。
法要中ものすごい暑さでした。
ひめゆりの塔や海軍壕などお参りし
,20万とも言われる人々が儀牲になった
沖縄戦の最後の激戦地摩文仁が丘へ。
人々が火炎放射器で焼かれたのです。
お経の間中じりじりと暑くてまるで火炎放射器で焼かれているかの如くでした。
でも法要が終わると一陣の涼風が・・・
それまであんなに暑かったのが嘘のように、
法華経で戦没者の魂が浄化されたかの如く感じられたのでした。

 それからもう30年。今年その沖縄に行脚に行くことになりました。
623日と言えばもう夏です。10キロの行脚、大丈夫か心配でもありましたが、
何とか出来るのではないか、行ってみたいと言う思いから参加しました。


Eシュガーローフ(@〜Dは下です)

24日、帰りの朝法華経寺さんにAさんにお線香を上げに行きお経を挙げました。

とても綺麗なお顔でした。
住職さんにお茶をごちそうになりお話を伺って、
この地がシュガーローフと呼ばれる激戦地であることを初めて知りました。
沖縄南部はどこも激戦地で島民、米兵、日本兵を併せて20万人も亡くなった所です。
昨日我々が行脚した道にも死体があふれ、処置しようもなくて
そのままコンクリートに埋めたと聞きました。


今は那覇新都心と呼ばれ、デューティーフリーのブランド店や夜中まで営業している巨大マーケットがあり
外国のように美しい町に生まれ変わっています。
つい63年前は、戦争で米兵と激戦を交わした土地、シュガーローフヒルは
米兵にとっても苦戦した最強陣地でした。
ちょうど硫黄島のように、日本軍は壕に潜んでどこから撃ってくるかわからない
進めば撃たれる地獄のような死闘が、昭和20年5月12日から18日の一週間にわたって
繰り広げられたのでした。


シュガーローフ戦跡と現在の那覇新都心おもろ町
鉄壁のトライアングル=シュガーローフ、ホースシュア、ハーフムーン

しかし最後は馬乗り作戦と言われる、壕への爆撃により壊滅、日本軍は摩文仁の丘へ撤退したのです。
この戦いの生き残りの人たちから聞き書きした『沖縄シュガーローフの戦い』
(光人社/ジェームス・H・ハラス著)に米軍兵の体験談が生々しく載っています。
負けた日本はもちろんのこと勝った米兵も悲惨です。
生き残っても精神的障害が大きい事は現代のベトナム戦争やイラク戦争も同じです。
過去の過ちを繰り返さないようにしなければならないのに、世界のどこかで起きている戦争。
犠牲になるのは人間であり、地球です。
戦争犠牲者の方々への鎭魂と平和への祈りを込めて、この行脚がずっと続くことを願います。



C行脚 


先頭を行く日蓮宗青年会のお坊さんたち
僧俗併せて80余名が沖縄南部戦跡を唱題行脚しました



いよいよ最大目的の行脚です。
6月23日朝6時45分に法華経寺さんに集合。そこからバスで糸満ロータリーまで行きます。
糸満ロータリー〜ひめゆりの塔〜摩文仁の丘〜平和記念公園〜バス移動にて〜法華経寺
約10キロの行脚です。伴走車が付いて途中4カ所で休憩、水分を補給します。
やはり青年会のペースだと歩く歩幅が違うので、時々駆けないと遅れてしまいます。
でも思っていたより暑くなく(もっともっと暑いと思っていました。)
大変だったけれど思っていたよりも大変ではありませんでした。
(もっともっと大変だと思っていました。)
でも歩きだしたら直に、今まで行脚で足が痛くなったことなど無かったのに
左の足の指の付け根が痛くなってきてどうしようかと思いましたが、
少したつと治って来たのでそのまま歩きました。
普段の運動不足のせいか、足は時々痛くなったり治ったりでした。

ひめゆりの塔で休憩できると思っていたら、お経を読んですぐ出発だったので
すごくショックでした!えーー、休憩ナシなの!?
でも大丈夫。ひめゆりの塔のところではお参りのテントが貼られて休むスペースがないので
少し離れたところで休憩できたのでした。良かったです。
ひめゆりの塔を過ぎて、いよいよ南部に入り、海と摩文仁の丘の森が見えてきたら、
声が出なくなって、お題目が唱えられなってしまいました。
ここで亡くなられた人たちのことが可哀想でたまらなくなってしまったからです。
そして、何か、お前たちは行脚で亡くなった人たちの魂を慰めるつもりなのだろうが、
そんなに簡単には慰められないんだぞ、もっともっと苦しくて惨めで恐ろしかったんだぞと、
言われているような気さえしたのです。



あと、どれくらいなのだろうか?
最後の休憩の時木陰で座っていて、あと2キロだと聞いたら俄然嬉しくなって
あと2キロだ、頑張ろう!と思いました。
途中の道の草原に山羊がいて、私たちのお題目にめえめえと応えているようでした。
もう少しで公園につく頃、カーブを曲がったら、少し前を歩いていたAさんが俯せに倒れていました。
青年会のお坊さん方が起こそうとしたら腕も身体もまっすぐ、かちかちでした。
とても気になったけれど、救護の車に任せて行脚を進めました。
平和記念公園では、12時に全国から集まった人たちと黙祷を捧げ、
福田首相も来て式典があるのでしょうが、私たちはバスで法華経寺に戻って
慰霊法要を行いました。バスの中でもAさんのことが気になって、
あれは救護の車なんかじゃ足りない、救急車だなとか考えていました。
法華経寺で法要のあとにAさんの名前を読み上げるので
戦没者のお塔婆に俗名で書いてあるのがあったので、Aさんと同じ名前の方がいるのかな、
と思っていたら、そうではなかったのです。あのAさんのことだったのです。
Aさんが亡くなられたと青年会会長さんがおっしゃいました。
一瞬信じられない気持ちでしたが、事実なのです。
行脚が終わったら泡盛を呑むのを楽しみにしていたAさん。
その夜は、私たち千葉南部のIさんとSさんが病院や現場検証で居ないので、
法華経寺の紹介で行くお料理やさんもキャンセルしようとしたのですが、
お寺さんからせっかくだから行って欲しいと言われて、EさんRさん私の3人で出かけました。


  

               ゴーヤと角煮                               タイモの揚げ物           

夜中にIさんとSさんが帰ってきて話を聞きました。
Aさんは笑顔だったと聞きちょっとほっとした思い。
Eさんたちともずっと話していたのですが、行脚をしていて
お題目を唱えながら亡くなるなんてすごいことだと思います。
亡くなるのはそれはとても残念なことなのですが、
運命だとしたら天命というか、何か人智でははかれない
すごいものが働いたのではないでしょうか。
奥様が夕方見えて、ご遺体は法華経寺さんにひとまず預けられたとのこと。
わたしもAさんにお経を挙げたいと思っていたので、
明日朝Eさんたちと3人でお寺に行くことにしました。
3日目は、予定では観光だったのですがこんなことになってしまいどうしようかと考えましたが
Eさんたちと予定通り玉泉洞に行くことにしました。



D玉泉洞

      

30万年もの歳月をかけて大自然が作り上げたという鍾乳洞。
30年前に行って感動したので是非また訪れたいと思って行ったのに
汚くなっていました。前はもっともっと綺麗だった、
本当に玉のように乳白色ももっと綺麗で宝石のようだったのに。
前は通路が無くて、地べたを歩いて足下が濡れたりしましたが
水が増えたのか、池のようになっていてそれで通路が出来たのか
その為か、以前の感激はありませんでした。
もっともっと綺麗だったのに〜〜と思うばかりでした。
30年も前ですから、変わってしまっても仕方ありませんけれど。



B琉球山 法華経寺 

夕方、行脚の出発地となる法華経寺さんにお参り、屋外でバーベキューをごちそうになりました。
神奈川、島根、千葉その他から行脚に駆けつけたお坊さんが集まっていました。
法華経寺は、宗門から沖縄開教を委嘱された故鹿糠堯順上人が造られたお寺。
昭和50年、単身渡沖しうちわ太鼓を手に全島を行脚されたという。
昭和53年、那覇市の篤志家より土地の寄進を受け、
沖縄戦最激戦地のひとつ、那覇市安里の地に法華経寺を建立されました。


夜、ライトアップしている首里城に”ゆいレール”に乗って行ってみました。


          


ライトアップはしているが、見学できるのは8時までとは知らず、
行ったら守衛さんに、あと4分だからそこの芝生までです、と言われ苦笑。
瑞泉門の写真だけ撮りました。



「あと4分だからそこの芝生までです。」





@ひめゆりの塔


 行脚は23日朝7時からなので前日から行って前日22日は、ひめゆりの塔の資料館やきゃん岬に行きました。資料館は昔はありませんでした。戦後40年たった昭和60年頃、遺骨収集が行われたのをきっかけに、生き残ったひめゆり部隊の人たちの手で資料館が出来たのです。それまで生き残った人たちは40年近く語ってきませんでしたが、亡くなった友達の朽ちかけた櫛や筆箱や弁当箱を泥の中から拾い上げたときに「ごめんなさい、もっと早く来てあげれば良かった、ごめんなさい。」と言いながら拾い上げたときから「このことを話すのは私たちなんだ」と証言をし資料館を造る仕事に入ったそうです。

 米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945323日、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女子学校の生徒222人、教師18人は那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。326日、米軍は沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは護送されてくる負傷兵の看護や水くみ、炊きあげ、死体埋葬におわれ、仮眠を取る間もなくなっていきます。5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍と共に陸軍病院を出て本当南端部に向かいました。激しい砲撃戦の続く中で、618日に、突然の「解散命令」が出され、学徒たちは絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾でそしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。米軍は沖縄戦を日本本土攻略の最重要作戦と位置づけ物量のある限りを使い、対する日本軍は米軍の本土上陸を一日でも遅らせるために壕に潜んでの防衛・持久作戦をとりました。沖縄を守備するため、軍は県民の根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行しました。持久作戦、根こそぎ動員は12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲を生みました。ひめゆり以外にも数多くの学徒が動員され、1998人の学徒が戦死しました。(参照 ひめゆり平和記念資料館パンフ)

 地下壕の病室が再現されていて、中に板だけの2段ベッドがありました。血と膿みと汚物の悪臭で耐えられなかったそうです。その中で女生徒たちは懸命に看護し、最後は軍からの「解散命令」によって戦地に投げ出され死んだのです。

  


Aきゃん岬(喜屋武岬)

 本島最南端の東シナ海を望むあまりに美しい、悲しい岬。
鎭魂を祈る平和の塔が立つ。
沖縄戦で米軍に追い込まれ逃げ場を失った多くの日本兵や住民、学徒隊らが身投げをしたという。
皆でお題目を三唱しました。


この日のお昼は、沖縄そば(ソーキそば)を頂きました。
       ラーメンと素麺の合いの子のような、ちょっとモソモソしていました。




      作品

琉球ガラス村でガラス作りの体験をしました。と言っても型があってそこに息を吹いて、
あとその口を回しながらヘラみたいなので整えるだけです。係りの人がついていてくれます。


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