因島フェリー

今回は本州と因島を結んでいた航路の一つ、木原-重井東航路を運航していた因島フェリーを紹介しよう。
とにかくここは1983年12月の因島大橋開通による廃止まで、儲けて儲けて儲けまくっていた航路という印象が強い。
しかし、日本有数と言えるほどのドル箱航路でありながら、フェリーてんりゅう的には今ひとつマイナーな感が強い航路でもある。
恐らく、因島側、本州側双方の発着地が繁華な地区から離れた場所であり、徒歩客があまり利用しない自動車専門みたいな航路だったからだろうね。
現に、20分に1便という密度の高いダイヤを基本とし、その殆どの便が満載に近い状態という、ハイパーな盛況ぶりであったにもかかわらず、客室はいつもガラガラだったもん。
同社は、村上海運という会社を始めとした海運会社5社が出資設立した会社だったのだが、ガンガン儲けていた会社なのに、出資各社が儲けをみんな持ち去ってしまうので、因島フェリーという会社そのものには殆どお金が残らない、なんてことを書いてある新聞記事を、子供の頃フェリーとねから見せられたのを印象深く、今も記憶している。
まあ、いずれにしても、弓削島に住んでいた俺たちにとっては「乗りに行くことを目的として」出かけない限り、普通に生活してて乗船する機会は殆どなかったと言ってよい。
何よりも走っていた船が両頭だったということで、イマイチ趣味的に食指が動かなかったことも、頭の中に何となく、縁遠いイメージを形成してしまった理由になっていると思う。。
弓削から愛媛汽船フェリーなどに乗って、尾道に行く際に、デッキから走っている姿を見かけるだけのヨソの船、そんな感じだった。
だから当然、残っている写真も極端に少ないんだ。
だが、芸予諸島因島と本州を結ぶ航路として、まさに動脈と呼べるほどの存在であったことも事実であり、今回遅ればせながら、ここに紹介させて貰うに至った次第だ。
因島島内には、航路の廃止から30年を迎えようとしている現在も、因島フェリーの名前が入った小さな看板が残っており、この地に因島フェリーというものが明らかに存在していたという事実を、俺たちがそこを通りかかるたびに、静かに語りかけてくるようである。
                                           2013年3月23日

【第七重井丸】
俺たちが因島フェリーに関心を持った頃には既に、1983年12月の廃止の日を迎えることになる3隻の陣営となっており、その中で最古参だったのがこの「第七重井丸」だ。見ての通りレーダーも装備されていない。本船は航路の廃止後、因島市に買船され「第八いんのしま」と改名し、因島市営金山-赤崎航路の主船「第七いんのしま」を補完する船となった。唯一地元因島での再就職を果たした本船であったが1991年の生口橋開通時、因島市が航路から撤退すると同時にどこかに消えてしまった。後の足取りはわからない。生まれは尾道の神原造船で、この写真の撮影は1981年である。

【第十一重井丸】
見ての通り、外観的には「第七」と比較してレーダーの装備されたマストを始めとした軽微な差異しかないが、内面的には主機出力の向上などが見られる。本船は航路の廃止後、山陽商船に移籍し「第二たるみ」と改名の上、同社の竹原-垂水航路などに就航した。その後、安芸津フェリーの安芸津-大西航路に移り「第八やえしま」と改名。しかし、船の所有者は安芸津フェリーではなく、他所有者からの同社への裸用船という形になっていた。やがてここも追われた後はフィリピンへと流れ、近年は長期間廃船みたいにボロボロで放置されていたが、最近になって整備され再稼動を果たしたようだ。生まれは1973年尾道の神原造船。この写真の撮影は1981年である。

【第十二重井丸】
因島フェリー歴代フリートの最終船である。基本的には先述の「第七」「第十一」の準兄弟シップと呼べるものだが、これらと比較して大幅な上部構造の形状変更が見られる。航路の廃止後は「第十一」と同様に山陽商船に移籍し「たるみ」と改名の上、竹原-垂水航路や明石-大長航路で働いていたが、1990年代の半ばにフィリピンへと売却された。生まれはもちろん尾道神原造船だ。この写真の撮影は1980年であるが、本船の後方には建設途中の因島大橋の主塔が写っているのがわかる。そう、この時既に運命のカウントダウンは始まっていたのだ。

★オリジナル因島フェリーフリートの姿

★因島フェリーフリートのその後など

【第二いんのしま】
因島フェリー時代の船名は「第八重井丸」で1971年12月に竣工したものだが、なぜか兄貴の「第七」を差し置いて、さっさと売却されてしまった。売却先は宮島の松大観光船であり、そこで「第二いつくしま」と改名される。そこで宮島口-宮島航路に就航していたが、1995年に旧因島市の三光汽船に再売却され、奇跡的に因島エリアに舞い戻ってきたという経歴を持っている。因島エリア復帰後は三光汽船の金山-洲江-小漕航路に就航していたが、現在は予備船、チャーター用船として三光汽船に所有され続けている。そう、こいつこそ歴代因島フェリーフリートの中で唯一の国内現存船であり、まさにプレミアバリューシップと呼ぶに相応しい一隻と言えよう。なお、「第七重井丸」とはツインズに等しい存在である。しかも、現在では「第七」が「第八いんのしま」となってから1991年まで活躍した金山-赤崎航路を代船として走ることもあり、まさに「運命」を感じずにはおれない。しかも「第七重井丸」が「第八いんのしま」となったように、本船もワンクッションあるものの「第八重井丸」から「第二いんのしま」へと改名されるに至っており、後に同じ「いんのしま」を名乗るようになったこの事実も「運命」を感じずにはおれない、燃え燃えのフェリーてんりゅうであった。

この運命に燃えるぜぇ!

第八やえしま】
「第十一重井丸」の安芸津フェリー時代の姿である。先述の通り、本船は山陽商船での「第二たるみ」時代を経て、その後の安芸津フェリー時代はこのような姿で同社の安芸津-大西航路に就航していた。なお塗装は山陽商船時代と同じであるが、客室部分が改造されており、片舷につきサイドのピラーが2本ずつ増加している関係で、結構外観的な印象が変わっているぞ。興味のある人は上の「第十一重井丸」時代の写真と見比べてみるのも一興だろう(写真の角度がちがうけど)。この「第八やえしま」を撮影したのは1991年で、この当時は元「ななくに丸」の「第十やえしま」とペアを組んで活躍していた。そして、その「第十やえしま」も現在はフィリピンにおり、遥か南の海で二隻が老体に鞭打ち活躍を続けている。

【たるみ】
先述の通り「第十二重井丸」の山陽商船時代の船名であり、写真は1995年長崎において売却先であるフィリピンへの旅立ちの時を待っている姿である。手前のランプの上に見える赤いものはフィリピンの国旗であり、この時既に本船は「外国船」となっていたのである。同じくランプはアングル材で固定されており、外洋を越えるための回航準備工事も開始されていた。「たるみ」という船名も既に塗りつぶされており、ブリッジ下方には本船が最後に就航していた山陽商船の明石-大長航路の「明石」という看板の文字が見えている。それから写真の右端にちょっとだけ見えている「日の字窓」は元愛媛汽船の「第一愛媛」であり、「たるみ」同様に旅立ちの時を待っていたものである。ちなみにこの当時ボロボロのスクラップ然とした船体だった「第一愛媛」だが、フィリピンに到着後大規模な改修工事が行われ、古いながらも美しい姿となって後輩の二代目「第二愛媛」と同じ会社で活躍を続けている。あのボロボロの船にそこまで手を加える。スゴイぞ、フィリピン!

さて、今回紹介したフリートが生まれる前には1965年建造の「第十五重井丸」や1970年建造の「第五重井丸」(だったと思う・・・・汗)なるものも存在していた。
前者は後に、尾道-向島航路を運航していた宮本汽船の「第十七天神丸」となった船であり、124総トンという小さなものであった。
「第十五重井丸」の「第十五」というナンバーだが、これはあくまでフェリーてんりゅうの推測なのだが、因島フェリーが「一時的に」木原-重井東航路の予備船として所有していたのではないかと考えている。
だからこそ1965年の建造でありながら最新の「第十二重井丸」の次のナンバーになったのではないかということだ。
その昔フェリーてんりゅうは、その「第十五重井丸」と思われる小型の両頭フェリーが、重井東港の桟橋に繋がれていたのを尾道からの帰りか何かに、愛媛汽船フェリー上から目撃したことを記憶している。
そして、少なからず「どうしてあんなところにあんな小さな船がいるのだろう?」と疑問に感じたことも覚えている。
しかし、この船は一連の「重井丸」たちと比較して船体が小さいこともさることながら、それ以上に航海速力が最高でも5.8ノットしか出ない著しい低速船であり、予備船といえども、木原-重井東航路で本当に通用したのであろうかと疑念も捨てきれないでいた。
まあ、今となっては永遠の時の彼方の謎でしかないのだが・・・。
ちなみに、この船の建造は尾道の神原造船となっている。
次に後者の「第五重井丸」だが、本船は一連のフリートが神原造船建造であるのに対し、あの伝説の備南船舶工業で建造された船であり、後に、契島-竹原航路に移り「ちぎり」と改名されたものである。
その後「とうほう」という大型後継船の新造に伴い、伯方フェリーへと再売却され「はかた2」という船名に改めた上で、北浦-宮原航路にしまなみ海道が開通するまで就航していた。
伯方フェリー引退後はフィリピンに売却され、何かとんでもない改造を受けながらも、現在も元気に走っているようである。