第 3 章 聴牌型小符
現在の日本麻雀では、聴牌型による小符は次の様な数字となっている。
表6 聴牌型小符表
種類 |
数牌 |
無翻 |
有翻 |
単騎 |
2 |
2 |
2 |
嵌張 |
2 |
−− |
−− |
辺張 |
2 |
−− |
−− |
聴牌型小符も、中国古典麻雀と現代麻雀ではいろいろ異なっている。たとえばでののアガリ、でののアガリは、いずれも現代麻雀では嵌張に取る。しかし19世紀中葉時代の中国古典麻雀では、でとのマチという、待ち牌が2種ある型は両門張とされた。そこで または、いずれでアガっても嵌張または単騎にならなかった。これは という形でも同様である。とうぜん とか という延べ単型も0符であった。しかしやがて における のアガリは嵌張に、 のアガリは単騎として2符が加算されるようになった。
また現代麻雀では双ポンマチは0符であるが、逆に中国古典麻雀では嵌張・辺張と同じく2符が与えられていた。これを双ポン符という。双ポン聴が2符取得の対象であったのは、アガリ牌の残枚数が辺張・嵌張と同じ4枚である事による。そこでこれものようなマチ、あるいはで待ちというように、待ちが3種以上あるものは双ポン聴と認められなかった。
しかしこの双ポン符は20世紀にはいると影が薄くなり、日本伝来当時にはまったく消滅していた。双ポンでアガればアガリ面子が刻子となり、自動的に面子小符を取得する。これが双ポン符消滅の理由と推測される。
第 4 章 自摸符
自摸符は1850年前後(江戸時代末期)の清麻雀発生当初より存在する小符である。現代麻雀では和了法による小符はこの1種類しか存在しない。しかし中国古典麻雀ではこのほか海底符、嶺上符、搶槓符などがそれぞれ4符として採用されていた。もちろん海底符は海底自摸和した時、嶺上符は嶺上開花した時に取得したのである。
この海底符や嶺上符の4符は自摸の2符を含んでいた。したがって海底自摸和や嶺上開花したとき、海底符・嶺上符のほかに自摸符を取得することはなかった。しかし1880年頃から1900年にかけた役の昇格機運にともない、海底自摸和・嶺上開花・搶槓が加4符役から加10符役に、さらには一翻役に昇格した。
加4符役・加10符役が一翻に変化・昇格したものであるから、たとえば海底自摸和の場合、一翻とは別に海底符の4符も取得することはない。そして前述のように、加4符は自摸の2符を踏まえているので、当然、自摸の2符も取得できない*13。しかし日本に伝来後、「自摸アガリであるならツモ2符を加算するべき」という風潮が高まり、これを認めるルールが採用され始めた。
13:中村徳三郎「麻雀疑問解答『海底撈月や嶺上開花の時は二符加へるか』」(S3/9/1文芸春秋社)
昭和5年、読売新聞社の後援のもと、当時の日本麻雀を代表する先人(菊池寛・久米正雄・佐々木茂索・麻生雀仙・国米藤吉・前島吾郎・榛原茂樹・林茂光・高橋緑鳳・川崎備寛・菅野容夫etc)と日本在住の中国人実業家(いわゆる華僑)との間に「日華麻雀争覇戦」が大々的に開催された。
この「日華麻雀争覇戦」のルールは、当時の日本ルールに準拠したが、嶺上開花にはわざわざ「自摸有点」というコメントがついている。これにより、恐らくこの前後から嶺上開花にツモ2符を加算するようになったのではないかと推測される*14。
14:当時のルールでは、四暗刻のとき、暗槓子があると四暗刻とは認められなかった。そこで仕方なしに4枚目を切ったら放銃となった、というエピソー ドが伝わっている。
当時の日雀連は雀界の中心的存在でもあり、そのルールも指標的役割を果たしていた。そこで日雀連ルールである嶺上開花、海底自摸和のツモ2符加算ルールも序々に普及し、現在では殆どのルールで認められている。しかし現在でも一部で「海底自摸和や嶺上開花のとき、自摸符はつかない」というルールが採用されているのは、このような経過がある為である*15。
15:S40年頃、静岡県三島市の某雀荘においては、まだこのルールが採用されていた(嶺上開花して喜びながら点数計算するσ(-_-)に、自営業風のオジサンが渋い声で「学生さん、嶺上開花の場合はツモ2符はツカないんだよ」。「ええっ!」と驚く私を尻目に、対面のオジサンまで「ああ、嶺上と海底はね」。
#日本麻雀協会・S55年改正ルールでは、嶺上開花のみ2符無加算となっている。しかし現時点では、どうなっているか不明(というより、この団体、存続しているのか....)。
なお現代の関東系の一般立直麻雀においては、門前での平和自摸和に際しては自摸八計算と称し自摸符を算入しない。ただしこの自摸八計算は門前加符と平和の絡みから登場したものであり、海底自摸和や嶺上開花とは別問題である。(第三編 平和論にて詳述する)
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