reatis 論考

    (10)麻雀点数論 1


大阪商業大学アミューズメント産業研究所機関誌「Gambling & Gaming(2001年版)」麻雀研究特集号掲載論文

序論

 点数計算の歴史は、計算法簡略化の歴史でもある。簡略化の行き着くところ、それは計算式の消滅である。流れには蛇行もあり淀みもある。しかし終着点が符計算消滅の海であることは確定的であり、揺らぐことはない。
 本稿はその原始麻雀から現代麻雀に至るまでの計算法の経過を検証するとともに、現代麻雀の計算法にいかなる問題点があるのか、また未来の麻雀においてはいかなる姿となるか、それを模索せんとするものである*1

*1:このようなルール上の問題等を研究する事を「麻雀学」と称する。これは我が国、麻雀界の泰斗、榛原茂樹氏の命名による。榛原氏はその著「麻雀精通」の中で、「支那には紅学という学問がある。これは紅楼夢に関する考証学で、幾多の大家が輩出している。(中略)雀学というのは私の造語で、支那に発源した世界的遊戯である麻雀に関する考証学のつもりである」と述べている。

第 一 編 符
 第 1 章 符底
 符底とは、連底(小符合計点)の基礎となる基本符を指す。中国古典麻雀には日本の一般麻雀のように一翻縛りというルールはない。そしてむかし平和(ピンフ)は1雀4面子という条件を満たしただけの小符無しの無翻のアガリであった。そこで平和(ピンフ)をアガった場合、符底無しのルールであれば得点はゼロとなる。しかし麻雀ではアガリ役もさることながら、1雀頭4面子を他に先駆けて完成させるという点にも重要な意味がある。そこでアガリ賃としての符底が存在した*2

*2:アガリ賃であるから和料(和了の料金)・和底(和了の底(基本))、また副底(和と同系音)などの文字が用いられた(本稿では符底をもちいる)。

 中村徳三郎*3、榛原茂樹*4等、先人の研究*5から明らかなように1850年頃の麻雀成立当時、発祥の地といわれる寧波地方(現在の浙江省地方)では10符底が一般的であった。しかしやがて北支地方(北京周辺)では、20符底が採用されるようになった。そこで英語ではThe 20 points for winning とも称する。

*3:日本麻雀草創期の重鎮。「麻雀疑問解答(S3・千山閣)」は、数多く出版された戦前の麻雀研究書のうちベスト3の1冊である。

*4:本名・波多野乾一。日本麻雀揺籃期の重鎮。T1年、上海東亜同文書院(現在の愛知大学)卒。時事通信社の北京特派員として中国に長く在住。帰国後、S4年9月、銀座2丁目の銀二ビル内に銀雀会を設立、翌5年2月、日本雀院と改称した。
 S7年、銀雀会は他団体と大同団結、大日本麻雀連盟の一翼を担う。時事通信退社後、S10年頃より外務省に勤務(外務省嘱託課長、興亜院課長)。戦後は産経新聞にて中国問題の論説委員を勤める。その著「中国共産党史」全7巻は、現在も中国共産党の研究には欠かせない重要文献(客観性において中国共産党の自党史を凌ぐという評価がある)。また中国演劇にも造詣が深く 「京劇五○○番」、「京劇大観」という著書もある。
 麻雀研究の第1人者でもあり、雀学の祖と称される。その著「麻雀精通(S4・文藝春秋社)」は、麻雀研究に不可欠な名著として今日に輝きを放つ。また競技麻雀に不可欠な存在である「牌譜(ゲームの記録用紙)」の考案者(S4年4月2日、世界初の牌譜を残す)。またS23年、本邦初のマナー集「日本雀道清規」を現す。S38年12月30日、東京にて逝去。

*5:中村徳三郎「麻雀疑問解答(S3・千山閣)」、榛原茂樹「麻雀精通(S4・文藝春秋社)」

 当時の麻雀は手役*6を作ってアガるということより、単に「和了(アガリ)」ということを目標としていたといってよい*7。役が無く小符も小さい和了であれば、得点はほとんど符底のみによる。そこで符底を大きくすることで、最大のインパクトである和了という状況が発生したとき、和了に対する見返りを大きくする事を図った。この見返りは大きければ大きいほどよい。そこで当時は40符底、60符底なども採用された。
*6:三色同順/一気通貫など、牌の組み合わせで作る役の通称。これに対し海底自摸和・嶺上開花など、アガったときの状況で役となるものを偶然役と通称する。

*7:手役自体も大三元・四喜和・九連宝灯など基本的な5,6種の役満以外は、混一色・清一色・対々和ていどしか採用されていなかった。

 榛原茂樹によれば*8、40符底は1920年頃(大正7,8年頃)、北京に起こったという。そしてたちまちのうちに天津から満州/山東に広がり、国民党政府の南遷とともに南京/上海/漢口に及んだという。またその流れもあって、1925年頃(大正末期頃)、北京在留の日本人間では60符底ルールも行われていた。しかし全体的にはやはり20符底が優勢であった。
*8:「麻雀精通(S4・文藝春秋社)」

 麻雀が日本に伝来した当時、すでに10符底・20符底・40符底等、すべての方式が知られたが、当時の採用状況を反映して日本でも20符底が主流で普及した。
 1929年4/11、各麻雀団体の代表者が東京丸の内の大阪ビルにあるグリル「レインボー」に集合し、ルール統一問題を話し合った。この時「鎌倉派」と呼ばれる文士を中心としたグループの主張が大幅に採用されたが、20符底もその一環であった。以後、今日に至るまで日本麻雀は20符底で行われている。

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