聴牌 06・手牌の公開


*** 2002/04/10(Wed)

 この前、流局したとき、Aがテンパイといいました。3人ノーテンなので千点づつ払おうとしたら、Aが「冗談だ。実は俺もノーテン」といいました。するとBが「チョンボ」といました。

 Bの言い分は「アガっていてもアガらないのは勝っ手だから、テンパイをノーテンと云うのはいい。しかしアガってないのにロンすると、点棒を受け取らなくてもチョンボになる。だからノーテンをテンパイといえば、冗談とか点棒を受け取ったかに関係なくチョンボ」というものでした。

 結局、まぁまぁということで収まりましたが、本当はどうなんでしょうか。


 あさみ 2002/04/10(Wed)

 テンパイをノーテン、ノーテンをテンパイと云うのも、云うのは勝っ手ですが、云えば何でもその通りになるとは限らない。(笑) チーであろうがポンであろうが、すべてはプレーヤー=審判に確認されてゲームは進行します。

 そしてノーテンやフリテンでロンすると、確認された結果チョンボになるというのは、そこでゲームを終了させてしまうからです。

 しかしノーテン罰の場合、ゲームが終局してからの精算の問題です。そこで本人が本当にテンパイだと思いこんでいてノーテン罰を請求した場合でも、誰かの指摘によってノーテンであることが判明し、その結果、正しい精算が行われる、あるいは精算無しということになれば何も問題はないとわけです。したがってこの場合、Aさんはチョンボにならないということになります。

 もし万が一、誰も気づかずにノーテン罰の精算が行われてしまった場合は、その後、手が崩されてしまえばその精算は有効となり、そのまま次へ進行することになります。

*** 2002/04/11(Thu)

 ありがとうございました。ただあらたな疑問が,,,,
 ノーテンをテンパイと申告してバレても何もペナルティもないとすれば、いつもテンパイと申告すればいいような気がするのですが。


あさみ 2002/04/11(Thu)

 毎回、やってみるのも面白いかも知れませんが、そのうち「てめえ、いい加減にしろっ!」という声が。(笑)


まるたか 投稿日:2006/02/14(Tue)

 貴サイトをはじめて知ったのは1年ほど前、Yahoo!の検索だったかと思います。それ以来、何度となく訪問させていただき、いつも楽しく拝見しております。圧倒的な情報量に、まだ全文を読破できていないという情けない状況ですが・・・それにしても、浅見さんの麻雀に対する見識・洞察・愛着、ほんとうに頭が下がる思いです。

 私は、もちろん麻雀を打つこと自体も好き(しかしヘタ・・・笑)ですが、麻雀というゲームそのものを「知る」「考える」ことも楽しんでおります。特に、歴史とルール。歴史については、散逸した史料を集めて自分で研究するほどの力量も根性もないため、主として浅見さんのサイトで勉強させていただいております。

 さて、いわゆるテンパイ料の授受についてですが。
現行の主流のルールにおいて、テンパイ者は手牌を公開せず、テンパイ料を放棄することもできますね。しかし、本来、テンパイ・ノーテンの問題も「判定」に属する事項であり、自由意志によるテンパイ料放棄は不可能、という結論に達しています。

 これに関して浅見さんに質問なのですが。
 流局時(あるいは他人の和了後)に、他者から手牌の公開を要求されたとき、公開すべきなのでしょうか?それとも拒否できるのでしょうか?


あさみ 投稿日:2006/02/14(Tue)

 こんにちわ、まるたかさん。
 このサイトが大いに参考になっているとのこと、非常にうれしく思います。(^-^)V

 それでテンパイ料に関連した流局時の手牌公開についてですが、σ(-_-)は“テンパイ料アリ”というルールでは、流局時にノーテンであるかテンパイであるかに関係なく全員手牌公開の義務があると考えています。

 いうまでもなく得点の多寡で勝敗が決するゲームであれば、点棒は正しく精算されることが求められます。これは必然性どころかゲームの前提です。そこで「点棒を貰うときには手牌を見せる義務があるが、支払いが発生するときは見せなくても良い」というのは間違っていると思います。

 貰う立場であろうが払う立場であろうが、点数の移動が発生する以上、移動の原因は確認されなければなりません。しかし実際のゲームで誰かのノーテン宣言があったとき 手牌公開を求められないのは、「ノーテンを宣言したら見せなくて良い」ではなく、「わざと点棒を払う奴はいないだろう」という思いこみがあるからに過ぎません。

 それで済んでしまえばそれまでですが、1人でも手牌公開を求めたプレーヤーがいたら、正しい精算を行うために公開に応じなければならないのは当然ということになります。「オレがノーテンと云ってる以上、ノーテンだ」とか、「オレの点棒をオレが払うと云ってるのに文句があるか」など、支払いを自分の好き勝手にできるなら、それはすでにまともな“ゲーム”ではありません。

 そこで“テンパイ料アリ”というルールのとき、見せる順番は東南西北でも全員一斉でも、あるいは“ノーテン者は要求されたときだけ”でも構いませんが、基本は“全員公開”です。


まるたか 投稿日:2006/02/14(Tue)

 やっぱりそうですよね。
 先の投稿の後で、このサイトの「ルールの心」という項を読み直したら、ちゃんと書いてありましたね・・・たしかどっかに書いてあったな、という記憶はあったんです。よく読まずに質問ぶつけてしまい、スイマセン。

 ということは、テンパイ料の授受は競技行為ではなく判定行為である、とすればスッキリします。

 余談ですが、巷の戦術本や戦術サイトには、テンパイ料の拒否(放棄)もテクニックのひとつ、みたいな記述が見られます。前々から、こういうのはフェアプレーの精神に欠けるなぁ、と感じておりました(金銭が賭かっているとフェアプレーに徹しきれないのは仕方ないとしても)。

 やはり、局終了後に手牌を見せろといわれたら、見せなきゃダメに決まってますよね。極論すれば、イカサマを隠すために早々と手牌を崩す、なんてこともあるわけですし。

 

あさみ 投稿日:2006/02/14(Tue)

 こんにちわ、まるたかさん

 じつはσ(-_-)も、「たしかどっかに書いたような」という記憶はあったもですが、にわかには思い出せませんでした。(^-^; それにコラムタイトルも、「ルールの心」なんて抽象的でしたしね。


百貫雀 投稿日:2006/02/14(Tue)

 横レス&筋違いレス、失礼します。
 テンパイ料についての私見です。

和了ってもいないのに、手牌を開けるのはカッコ悪い。

手牌を開けるのは、報酬を貰う場合だけだ。

テンパイ料の授受、という面白い規則ができた。
(途中リーチよりも歴史の浅いルール)

テンパイ料が欲しいなら、手牌を公開しなさい。
和了りではないけれど、得点になるんだから。
点数を貰えるんだから、(和了ではないけれど)手牌を公開するのは、そんなにおかしくはない。

という認識を私は持っています。

 「テンパイ料が欲しくない」という状況が麻雀の本質と違うかどうかは別にして、「手牌を公開しなければいけない」というのが、どうにも気持ちが悪くて仕方ありません。元々、リーチをかけていても、和了る/和了らない/和了りだけど見逃してしまった、等は競技者の裁量に任されていることですから、手牌公開云々も競技者に委ねるべきではないか、と思うのです。そこで「テンパイ料が貰いたい者は、手牌を公開しなければいけない」という規則がすっきりとしているように思うのですが…。

 では、リーチの場合はどうだ、と言われるとチト困ります。
 「空テンリーチが禁止の場合には(ほとんどがそうでしょうか)、リーチ者は終局時に手牌を公開しなければいけない」くらいで、どうでしょう。

 だけどよくよく考えてみたら、何故、私は手牌を公開したくないのでしょうか? 自分でも謎です(^_^;)


あさみ 投稿日:2006/02/15(Wed)

 こんにちわ、百貫さん(^-^)/

 今度、とんこつラーメンを食べながら、じっくりと謎の解明に取り組みたいと思います。(^-^;


NORIT 投稿日:2006/02/14(Tue)

 あさみ先生、おひさ。
 百貫雀さん、こんにちは。NIFのころからお名前は存じてます。わたしも感覚は百貫雀さんに近いです。(^_^;)

 でも、ゲーム&競技であって、「流局時にテンパイの有無でテンパイ料をやりとりする(しなければならない)」ルールなら、あさみ先生のおっしゃるように手牌は公開しなければならないし、義務ですよね。

 ただ、バクチとしての麻雀なら、テンパイ料ってのは後づけのルールですし、これはテンパイ宣言&提示で、もらえるって権利でしょう?行使するかしないかは、プレーヤーの勝手で、自由って感じがしますが。(^_^;)


あさみ 投稿日:2006/02/15(Wed)

いや、おひさです、NORITさん。

>もらえるって権利でしょう?

もちろんその通りですが、権利と義務は表裏一体ですよね。
またバクチとしての麻雀であればなおさら金=点棒の移動理由はハッキリさせる必要があるかと...(^-^)


まるたか 投稿日:2006/02/15(Wed)

 うわうわ!なんだかホットな議論に発展してきました。
 私は単なるルールオタク(?)なので、別に公開すべきとか否かという主張をするわけではありません。というより、自分自身の経験として、トップ維持のため意図的にテンパイ料を拒否したことはあります。ただ議論の延長線上で、たまたまテンパイ料のことが気にかかっただけなのです。

 僭越ながら、和了るか和了らないかの選択と、手牌を公開するかどうかの選択は、本質的に異なっているのかなぁ、と。


あさみ 2006/02/16(Thu)

 こんにちわ、まるたかさん

>和了るか和了らないかの選択と、手牌を公開するかどうかの選択は、本質的に異なっているのかなぁ、と。

σ(-_-)も、そう思います。(^-^)


NORIT 投稿日:2006/02/15(Wed)

 あさみ先生、ご返答ありがとうございます。
 一連の流れの中での論点では、ルールで定められた点数の授受に関しては、厳格に裁定しなくてはならず、プレーヤーの意思で点数の過少申告などは許されない、そして、そのつながりとして、テンパイ料ありのルールでは、テンパイしているプレーヤーは、それを提示する義務もテンパイ料を受け取る義務もあるってことですよね?

 で、私が矛盾を感じたのは以下のようなケースを考えた場合のゲームとしての純粋?な戦略として、以下の行為が許されないことになるのでは?って点です。

 ラス親のあがりやめなし、テンパイレンチャン(強制)のルールだとします。
(1)ラス親でテンパイ料の授受程度では逆転しない点差でのトップ目です。流局間際になり、流局ノーテン、ゲーム終了としたく、テンパらない打牌をしたいところですが、通りそうな打牌をするとテンパッてしまう牌姿です。

(2)大量点リードでの親番です。大過なくすみやかに親流れして局を進めたいところ。流局間際で、(1)のような状況になりました。

 以上のような場合、テンパっていて、手牌を開示せずノーテン宣言してはいけないでしょうか?
このようなルールの下、このような牌組みをした自身がいけないということになりますか?

 なんてことを考えていたら、ノーテン申告は、アガリのスルーと同様な性質の、プレーヤーの戦略意思で許されるような気もするのですが。


あさみ 2006/02/16(Thu)

こんにちわ、NORITさん

> で、私が矛盾を感じたのは以下のようなケースを考えた場合のゲームとしての純粋?な戦略として、
>以下の行為が許されないことになるのでは?って点です。
>ラス親のあがりやめなし、テンパイレンチャン(強制)のルールだとします。

 最初にこの問題に触れたコラムタイトルですが、「ルールの心」としました。あっさりと「ノーテン宣言」とでもすれば良さそうなのに、ルールコメントのタイトルとしては場違いな感じです。

こういうルール問題について考えるとき、σ(-_-)は「ゲームとしての麻雀ではどうあるべきか」という事を考えるのが基本にしています。

 「本人がそう云ってるからそれでいじゃないか(本人責任ではないのか)」、あるいは「その方が戦略的に有利に取れるケースもある」などいう論があることは十分に理解しています。そして、もとより個々のルールは、プレーヤーの合意さえあれば自由です。

 しかし「点数の移動がゲームの基本」という観点からみたとき、ゲームの精神というか基本は公明正大が望ましい。それがコラムタイトルを「ノーテン宣言」ではなく、「ルールの心」とした理由です。

 もちろん世の中、いろんなルールがあります。そこで「全員公開」を基本とした場合、そういう個々のルールの中でNORITさんが指摘されたような状況が出てくることはあるでしょう。しかしそれは特に問題点とは思わないのです。


なかしま 投稿日:2006/02/15(Wed)

そう言えば、昭和初期くらいまではサイド計算してましたよね? いつぐらいからテンパイでお駄賃がもらえるようになったんだろ?

サイド計算めんどうだよねー

無しにしようよー

でもそうしちゃうとなんか寂しいよねー

流局でもテンパイしてたら「がんばった賞」くらい欲しくない?

いいねそれ!採用!

こんな流れだったのかなぁ?と勝手に想像してみた。


あさみ 2006/02/16(Thu)

こんにちわ、なかしまさん

サイド計算とテンパイ料は直接関係ないと思いますが、それはまた今度、お会いしたときにでも(^-^;


牌鬼屋 投稿日:2006/02/15(Wed)

 ルールにより聴牌でもノーテンになることもあるし、手牌の公開は必要が無いのではないでしょうか? あがる・あがらない、の選択は自由だけど、テンパイ・ノーテンの選択は出来ないのはどうなんでしょう?

 一萬一萬三索四索五索一筒二筒三筒四筒五筒六筒七筒八筒の手で、オーラスで(3万点返しで)28000点持ちで三筒が河底で出た場合、見逃してノーテンにする(1人がノーテン罰符を支払えばドボンになる場合)。
#同順ツモであがれないルールなら当然ノーテンになりますけど。

 手を公開したら「三筒であがってるじゃないか!」となり、強制的にあがらされる可能性も出てくるのでは?

 「オレがあがらないと云ってる以上、ノーテンだ」と、あがる・あがらない、テンパイ・ノーテン、の選択を自分の好き勝手にできるのが、麻雀であり、ゲームの面白味じゃないでしょうか?

 また(1人がノーテン罰符を支払えばドボンになる場合)はどうなるんでしょう? あがる・あがらない、の選択は、自分の損得になるからでしょう?(ま〜、「コイツは嫌いだからあがってやろう!」とかの意思もありますけど)

@「ノーテン」と言って罰符を払えばゲームが続行できるのに、手を公開して強制的にテンパイ料を受け取らされ、浮きもしないしドボンも上家に取られるってこともあります。

A三筒が河底で出た場合、放銃した者がピンフのみの1000点の払いで済むのにあがってくれず、持ち点が2000点しか無く、3人がテンパイで3000点のノーテン罰符を払ってドボンになる場合もあります。

B1000点であがってくれたら自分がTopになる者もいれば、1000点であがられてTopが変わる者もいる。

 これらの場合に「3pであがってるじゃないの〜!」って人間関係が不味くなったりゲームが白けたりすることもありますよ。

 流局時ではなくても、誰かが放銃したときでも手の公開を求める者も居ますが、ほとんど断られます。死に打ちした場合は公開することを嫌がる。嫌いなヤツにTopを取らせない為に抜き打ちした者も。コンビ打ちしている者なら尚更。

 フリーでは、あがった時とノーテン罰符を貰う時以外は手の公開は難しい(打ち筋を知られるのは不利になると考える者も多いし、手を公開して解説が始まって他者がダルい思いをするので)勝手に他者の手を開いて見たら殴られるのを覚悟した方がいいでしょう。


あさみ 2006/02/16(Thu)

こんにちわ、牌鬼屋さん

>ルールにより聴牌でもノーテンになることもあるし、手牌の公開は必要が無いのではないでしょうか?

たしかにその通りです。しかしそれと手牌の公開の問題とは別と思います。アガリを見送れば、 その局はまだ進行してゆきます。進行中の手牌がどうであるかが問題になることはありません。しかしアガリ・テンパイ・ノーテンによる手牌の公開は、その局が終了した段階の問題だからです。

>(1人がノーテン罰符を支払えばドボンになる場合)

 NORITさんへのレスでもコメントしたのですが、世の中には多くのルールがあり、その中でいろんな状況があります。そこで「このルールには“本人宣言でOK”というルールの方がマッチしている」ということであれば、それはそれで良いと思います。

>勝手に他者の手を開いて見たら殴られるのを覚悟した方がいいでしょう。
 そりゃぁ失礼きわまりないので当然でしょうね。(^-^;

>常連は殆ど、観戦させて講釈を聞かせたり、仕方無しの慰めを聞くのを楽しんでます。

 そういう楽しみ方ができる雀荘も、貴重な存在と思います。(^-^)/


まるたか 投稿日:2006/02/15(Wed)

 テンパイ料の問題について、拒否できるとする意見が大勢を占めるようです。私自身も、通常はそういうルールで打っています。そこで今回は迎合的な意見を述べたうえで、反対論を。

 和了る/和了らない、という選択は、リーチをかける/かけない、ポンする/しない、と同様に、プレイヤー自身の意思決定による、という点には皆さん異論がないようです。また、現行のごく一般的なルールでも、当然そのように扱われるでしょう。この前提であれば、たとえ河底牌を見逃したとしても、手牌を公開した後に強制的に和了とされることはあり得ない、ということになるかと思います。

 問題は、テンパイ/ノーテンの申告が、プレイヤーの意思決定による行為なのか、という点です。(話をシンプルにするため、形式テンパイあり、という前提で)

 これをYESとする場合、その根底には「点棒の受取を拒否できる」という発想があると思うのです。その発想の延長線上には、和了点数の意図的過小申告、裏ドラ拒否、という問題が浮上するのですが、これは結局、いったい「どこまで」点棒の受取を拒否できるのか、という「範囲」の問題に帰着します。

 もちろん、流局時には点棒受取拒否が可能、和了時には不可能、とするなら、それなりに明解なルールですし、現行の一般的ルール(テンパイ料は拒否できるが、和了ったときは高点法にしたがう)と矛盾しません。また、テンパイ料の授受が後発的に付加されたものであるという歴史的経緯は、流局時の点棒移動と和了時の点棒移動とを区別することの強力な根拠といえるでしょう。
 以上が、迎合論です。

 ただし流局後に他のプレイヤー(=審判員)からイカサマの嫌疑をかけられ、手牌の公開を求められたときはどうでしょう?潔白を証明するためには、当然、堂々と手牌を公開することになります。この意味で(要求があった場合の)手牌公開拒否というのは、やはり本来マズいんじゃないかと思います。私はイカサマもできないヘボ(笑)なので、具体例は思いつきませんが・・・


なかしま 投稿日:2006/02/16(Thu)

・点棒の授受が発生する場合は全員が確認をする

これがルールとして定められていれば、ノーテン宣言においても手牌の公開を求められた場合は従わなければならなくなるってことですよねー。

誰か定めちゃって下さい。


まるたか 投稿日:2006/02/16(Thu)

 NORITさんや牌鬼屋さんが例示していただいたような状況、わりとよくあるケースですよね。私個人としては、そのときのルールによって、やはり自分に有利な選択をします。通常はテンパイ料拒否可能ということで打っているので、戦術として拒否することもあります。

 もし(審判員がいるなど)テンパイ料が強制的に授受されるルールなら、きわどい状況(だれかがドボン寸前など)になる前に何とかするしかないと思います。それができれば苦労しませんけどね(笑)

 ただ和了を見逃したことについて、他人にとやかく言われるのは私としては不愉快に感じると思います。ある意味、ノミ手で和了ったときに「タコ和了」呼ばわりされるような気分でしょうか。和了る/和了らないの選択は、「選択できたほうが有利だから」認められているのではなく「もともと選択が認められているから」有利なほうを選択する、という位置付けかと考えます。

 もし和了が強制されるなら、4枚そろった牌はすべてカンしなければならない、テンパイしたらリーチしなければならない・・・等々の発想につながってしまいます。

 手牌の公開について。
 フリーであれば、お店の裁定に従うまでですよね。たぶん、公開しなくてもいい、とする店がほとんどでしょう。ただしセットで打つ場合、メンツ同士の信頼関係によりゲームが成立している以上、各自がフェアプレーの精神(おおげさですが)に従うべきであると思います。

 フェアプレー、ということであれば、要求があったときは当然それに応じるべきでしょう。なお許可もなしに他人の手牌をあける、これはルールとかフェアプレー以前に、マナーとしてダメでしょうね。


あさみ 2006/02/16(Thu)

 こんにちわ、まるたかさん
 こんな地味な掲示板がこんなにに賑わったのもまるたかさんのおかげです。(^-^)
#それにしてもこの掲示板、こんなにに賑わうと“10件表示”では不足気味ですね。(笑)

>テンパイ料拒否可能ということで打っているので、戦術として拒否することもあります。


 σ(-_-)は過去にノーテン罰アリのルールで打ったとき、テンパイなのにノーテンを宣言したことがありません。別に“ルールの心”を実践していたわけではなく、目の前の点棒がほしい一心だっただけです。(^-^;

 おまけにここ何年かはノーテン罰どころかリーチ棒も無い麻雀(純麻雀)ばかりプレーしていますので、ノーテン罰のことなんか忘れていました。(^-^; そこでまるたかさんから質問があったときも、「たしかどっかに書いたような」と思ったのですが、にわかには思い出せませんでした。(^-^;


NORIT 投稿日:2006/02/16(Thu)

 浅見先生、レスどうも。
先生のお考えは判っていて突っ込んでいて申し訳ありません。(^_^;

>こういうルール問題について、σ(-_-)は「ゲームとしての麻雀ではどうあるべきか」と考える事を基本にしています。

 先生のこのスタンスは重々承知してます。(^_^)
その上で、先生が「テンパイ料あり」のルールなら、流局時全員手牌公開で、テンパイの有無を確認せよっておっしゃる意図も。

 でも私は、「ゲームとしての麻雀」を突き詰めて考えると、テンパイ料ありのルールはそもそもあり得ないのではとも思います。先生が、手牌公開とおっしゃっているのも、テンパイ料がある場合に点棒の移動を公明正大にするためですよね?
テンパイ料なしのルールなら、流局時は、手牌公開なしで、それがあるべきルールですよね?

 麻雀は、心理戦の要素も当然持っているゲームだと思います。国士風味や染め手風味の捨て牌をしてブラフをかますのも正当な戦略ですし、意図して厳し目(の牌種の)捨て牌を切ることも心理戦でしょう?流局は、そのせめぎ合いが云わばドローに終わったような状態だと思います。

 その結末として、全員の手牌がどうなっていたか開いて見せ合ってしまっては、テンパっているかどうかということよりその局のその人のプロセス&戦略の一部が否が応でも他者に判ってしまいます。それがどうだといわれればそれまでですが、以降の局に影響を及ぼす可能性だってあるかもしれません。4人の心理状態の変化として。

 流局時の他者の手牌は、わたしは見たくないですね、よけいな心理の揺らぎを招きたくないから、って未熟者です。流局時の他者の状況は霧に包まれたままにしていてほしいほうですね。(^_^;

 もちろん、自分の手牌も見せたくないですね、恥ずかしいということではなくて、自分のプロセス&戦略を公開したくないです。もちろん、ゲームの中で疑義が生じ、その嫌疑を晴らすために手牌の公開が必要である場合に応じるのは、これは人としての義務で、別問題ですけど。(^_^)

 巷の麻雀では、テンパイ料があるゆえ、その収入や場況との秤を掛けて状況に応じて、手の内をさらしてもらう、かどうかはプレーヤーの自由意志と考えています。
(巷のルールは矛盾&不平等、これは、バクチを引きずっているから、バクチは、参加する人が承知の上で参加すれば成り立つ。)

最後に、蛇足ですが、日本プロ麻雀協会の競技規定は、ご丁寧に以下に規定されてます。

第26条
  ニ.聴牌は宣言する事により認められる。(裸単騎のノーテン宣言も可能)


あさみ 投稿日:2006/02/16(Thu)

こんにちわ、NORITさん

>「ゲームとしての麻雀」を突き詰めて考えると、テンパイ料ありのルールはそもそもあり得ないのではとも思います。

 もちろんσ(-_-)もそう思っています。
 それを形としたのが純麻雀ですが、純麻雀では流局したとたん 手牌を崩します。手牌も見せたくないどころか、見せるヒマもありません。

 そのとき、(あいつはどんな手だったんだろう?)なんて考えることもありません(少なくともσ(-_-)は....)。頭の中は、(いま○の○局が終わった。σ(-_-)は○点で○位。次局は何をすべきか)ということでいっぱい。(^-^)

> 巷の麻雀では、テンパイ料があるゆえ、その収入や場況との秤を掛けて状況に応じて、手の内をさらしてもらう、かどうかはプレーヤーの自由意志と考えています。

 考えのウエートをどこに置くのかという問題なので、全員一致の結論はでにくいですね。

>最後に、蛇足ですが、日本プロ麻雀協会の競技規定は、ご丁寧に以下に規定されてます。

いや、たしかに丁寧。(^-^;


r@PCLabo 投稿日:2006/02/16(Thu)

 手牌公開の話、盛り上がってますね。

 根本について
 聴牌料とよく呼ばれていますが、初めて麻雀を覚えたときは「不聴罰符」と本に書いてあった気がします。もしそれが「正式な用語」(なんてものがあるのかどうか分かりませんが)なのだとすれば、ルールの目的は不聴者に対する罰ですので、「聴牌だけど罰を受けたい」というのはおかしいように思えます。

 選択可/不可、和了との違いについて
 聴牌か不聴かの判定は13枚の手牌(=普段の手牌)で行いますが、和了判定は14枚の手牌(=不自然な状態)で行われます。和了は14枚になった時点で宣言しなければまた13枚に戻ってしまいますが、手牌がすべて確定した時点で聴牌(と宣言する)かどうかは一意に決まらなければおかしいと考えます。「この手は聴牌ですか?」と聞かれて、「誰との差が何点以内なら聴牌です。」と答えるのと近い気がするからです


あさみ 投稿日:2006/02/16(Thu)

こんにちわ、r@PCLaboさん

麻雀サイトのbbsがルールの話で盛り上がるとは、実によろこばすい。(^-^)

>初めて麻雀を覚えたときは「不聴罰符」と

 もとより日本生まれの日本育ちのルールなので、中国伝来の正式用語なんてありません。
かと云って通称の“ノーテン罰”では英+中+和。そこで活字にするとき、せめてオール漢字にしたものです。

 しかし“ノーテン罰”にせよ“不聴罰符”にせよ、チョンボをしたわけでもないのに罰が課されるというのも聞こえが悪い。そこでテンパイ料という表現が誕生したということです。

>ルールの目的は不聴者に対する罰ですので、「聴牌だけど罰を受けたい」というのはおかしいように思えます。

なるほ....

>選択可/不可、和了との違いについて

 なんか、昭和6年の↓手牌基準論を思い出しました。(^-^)
 http://www.asamiryo.jp/ctre01.html


百貫雀 投稿日:2006/02/17(Fri)

 皆さん、こんにちは。
 浅見さんのご意見、見識に触れるようになって、十年以上も経ち、それまで以上に麻雀が楽しくなった私ですから、私には反論する権利があります(何じゃ、そりゃぁ)。

 実は「ルールの心」を読んだ時に違和感を覚えました。全体の主旨、麻雀というゲームにおける当事者の問題には素直に納得できたのですが、何かしら引っ掛かるものがありました。今回の議論を通じて色々と考え、その理由が判りました。

 麻雀には対局者四人以外の審判なんて(通常)存在しません。ゲームの進行中に自分が迂闊に栄和牌を見逃したとしても、「それはロン牌ですよ」なんて誰も教えてはくれません。

 同様に「ここはポンすべきですよ」だとか「向聴数は変わらないけどチイした方が有利だぜ」なんてこともありません。対局者自身が「宣言」しなければ、ロンもポンチイも無効なのです。

 さらに言えば、通常に摸打が繰り返されている間に、捨て牌された一牌一牌に対して、「ロンではありません」「ポンしません」「チイしたいけどやめておきます」なんてことも誰も言いません。

 「ロンではありません」と言いながら、実は「ロンなのだけど安目だから和了りたくない」のかも知れないし、「そこから和了るよりも見逃して次にツモ切りリーチを掛けた方が良い」のかも知れません。誰かが「ロン」と宣言することによって、そのロンが確定し、結果として和了者は手牌を公開するわけです。

 審判がいたなら、たぶん手牌の公開なんてする必要はないでしょう。誰かが「ロン」して、手牌を公開した後で、「そんなのロンするよりも見逃した方が何倍も得なのに…」、「こいつ、その出和了りはトップ走者と共謀してるんじゃないか」なんて意見が出たからと言って、もう「ロン」は確定したのですから元には戻りません。

 麻雀における「宣言」とは、他者に対して自分の意思を明示する行為なわけです。そうして明示された意思の正当性を評価するために、手牌を公開する、という次のステップが存在します。

 テンパイ宣言は、和了宣言ではありませんが、「テンパイ」と言って、その手牌を他者に公開し、何がしかの得点を得る行為です。終局時だからといってその「宣言」の本質(と勝手に私が考えているだけですが…)を変えるべきではないように思うのです。和了宣言もテンパイ宣言も同じだと言いたいわけです。

 NORITO さんが紹介された日本プロ麻雀協会の競技規定「聴牌は宣言する事により認められる」を私ならこう言い換えます。「あらゆる得点(テンパイ料も含む)は、宣言する事により認められる」

もちろん、宣言しないことによる得点の拒否も可能です。見逃しだって許されているのと同じです。

 審判がいたら得点しないことの言い訳を考えるのに骨が折れそうです。
 「あいつは今日はツイていないから、お情けで…」「次に超高目をツモる予感がしたから…」こんなことを言わずに済んでヨかったなと思います(笑)。

 長々となって失礼しましたが、最後に一つ付け加え。
 「ノー聴宣言」などというものは存在しません(間違っています)。
 「ロンではありません宣言」や「見逃し宣言」や「ポンしません宣言」が存在しないのと同じ理由です。


NORIT 投稿日:2006/02/17(Fri)

百貫雀さん、こんにちは。
百貫雀さんの論を読ませていただいて、私的にはすっきりした感があります。同意。(^^)

>「ノー聴宣言」などというものは存在しません(間違っています)。

 あはは、実にするどい突っ込み。
 ま、私が規定引用したのも、プロ団体を表明してるところの規定もこんなもんよ、って意図だったんで。w

 どれだけ真剣に、内容も文面も含めて検討されたのかは知りませんけど、文面の的確さも足りませんよね。せめて、「裸単騎の場合のテンパイ宣言せずも可能。」でしょう。

 ま、裸単騎の場合でも、ノーテンだって主張したければしていいよ、って意味は実によく伝えてる文章ですが。(^_^;


ルールは団体の金看板 あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

こんにちわ、NORITさん

> どれだけ真剣に、内容も文面も含めて検討されたのかは知りませんけど、

 みなさん もちろん真剣に考えられたんだろうとは思いますが。
 日本麻雀連盟という団体があります。古典麻雀ともいえる二十二麻雀の団体なので、そのルールが話題になることは滅多にありません。しかし実はルールの完成度は非常に高いものとなっています。

 それは結成以来80年間にわたって採用されてきたルールということもありますが、単に80年の歴史があるからではありません。

 初期には毎年のように役員が集まり、或るルールを採用するか否かという問題はもちろん、すでに採用しているルールについても「このような文言でいいのか」に至るまで甲論乙駁。
#数年前にも、80年振り(50年ぶりかな?)に或るルールが一部変更になりました。

 もちろん日雀はいわゆるアマチュアの団体ですが、プロの看板を上げている団体であれば なおさらこうありたいですね。
#コメントタイトルは、σ(-_-)の師匠が常々云っていた言葉です。


r@PCLabo 投稿日:2006/02/17(Fri)

> 正式用語なんてありません。

 それは重々承知の上ですが、いい表現が思いつきませんでした。「最初に使われた用語」とでもしておきましょうか。そのルールがなぜ成立したか、が反映されていると思いますので。

> 手牌の枚数
手牌を14枚にするには、以下の方法があります。
・ツモ
・ポン
・チー
・ロン
・大明カン(ただし、嶺上牌の取得後に手牌が増えるのは別の話)

 このうち「ツモ」は単に山から牌を持ってきて手牌に加えることですが、それ以外の行為には発声が必要です。

>「ノー聴宣言」などというものは存在しません(間違っています)。
>「ロンではありません宣言」や「見逃し宣言」や「ポンしません宣言」が存在しないのと同じ理由です。

 聴牌宣言は通常、単に手牌を開示すればOKですが、これは先に宣言してから承認を受ける、という必要がないからだと思います(そういえばゲームなどでは、親から順番に「テンパイ」「ノーテン」の声が聞こえてくるソフトが多いような…)。

 レスの話ですが、「ノーテン罰符あり」をルールとするなら、
・1/3人聴牌の時は場3000、2人聴牌なら場4000
・親は手牌公開を義務とする
ぐらいを付け加えれば済むと思います。


あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

 こんにちわ、r さん

>それは重々承知の上ですが、

それは失礼。(^-^;

>「最初に使われた用語」とでもしておきましょうか。
>そのルールがなぜ成立したか、が反映されていると思いますので。


 たしかにその通りですね。
 テンパイ料ですが、たしかに現行方式は適切とも思いません。しかしいかなる案でも、これだけ普及しているものは変更されないでしょうね。(^-^;


まるたか 投稿日:2006/02/17(Fri)

 繰り返しになりますが、テンパイ宣言が強制なのか、任意なのか、という点について、私はどちらにすべきという主張は持っておりません。というより、強制論も任意論もどちらもそれなりの論拠がある、ということを明確に(なってたかなぁ・・・)してきたつもりです。いきがかり上、任意論が多数派のため、あえて強制論をヒイキしてみた、というところです。

 百貫さんが鋭く指摘されたように、強制論の根拠は主に「審判の存在」を仮定するところにあります。もちろん、麻雀で審判は通常存在しませんので、そこを突かれると非常に弱いわけです。

 「架空の審判」という発想は、この掲示板で少し前に「高点法」の議論をしていたときに持ち出したものです。これを何気なくテンパイ料の問題にあてはめてみようとしたら、想像以上に根の深い問題に首を突っ込んでいたことに気付いたわけです。

 それでもなお、食い下がってみます。
 下記で私が想定していた「意思決定による行為」と「判定事項」の違いは、球技でいうところの「ボール・インプレー」と「ボール・デッド」の違いをイメージしています。
野球でいうなら、「ボール・インプレー」の状態でランナーがスタートを切る(盗塁)かどうかは任意ですが、ファウル後の「ボール・デッド」の状態では(ルールに基づき)ランナーは帰塁しなければならない、というイメージです。

 麻雀の話に戻します。
 ポン・チー・カン・リーチ・ロン・ツモ(和了)、これらはすべて「ボール・インプレー」の状態における行為であり、したがって「任意」の行為です。もちろん、宣言(意思表示)を伴う必要があります。

 しかし、終局後の和了点棒のやりとり、テンパイ料のやりとり、これらは「ボール・デッド」となってからの処理であり、ルールに沿って粛々と処理されるべきもの、と考えるのです。

 百貫さんのアゲアシを取るつもりは毛頭ありませんが(百年早いことは重々承知)、あらゆる得点は宣言により認められる、とするなら、メンタンピンの和了時に「ロン。1000点です」というのも有効になってしまいそうな気がするのです。(もちろん、それとこれとは別問題といえばそれまで)

 そうではなく、終局時(ボール・デッド)における点棒の授受は、すべてルールどおりに行う(個々の意思は介在しない)、としたほうが(あくまでロジックの上では)スッキリすると思うのです。

 ところで、r@PCLaboさんがさり気なくおっしゃった、テンパイかどうかは「一意」に決まるはず、という点はとても重要に感じます。またしても、高点法を引き合いに出しますが、和了時の点数は高点法により「一意」に決まります。たとえば、片和了りサンシキの手を高目で和了った場合、サンシキは必ずカウントしなければいけません。これは他家との点差etc.とは関係なく決まることです。ならば、テンパイか否か、ということも「一意」に決まるとしたほうがスッキリします。

そうそう、大事なことを忘れてました。

>百貫さん
「宣言の本質」とても説得力がありました。私自身も普段なじんでいるルール(テンパイ宣言任意)の明解な論拠をいただいた感じで、NORITさん同様、スッキリしました。

>浅見さん
本当に成り行きにすぎないのですが、結果として議論に火をつけた格好になりました。
私としては、浅見さんはじめ麻雀ファンの皆さま(とても紳士的!!)と、こういう形で交流できることを楽しく感じております。卓を囲む以外の麻雀コミュニケーションもあるのですね。

ただ、私ごとき若輩が少しデシャバリすぎた感があります・・・が、ご迷惑でなければ今後もよろしくお願いします。


あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

 こんにちわ、まるたかさん

>結果として議論に火をつけた格好になりました。

 ルールの話で盛り上がるなんて、まさにこのサイトの“レジンデートル”そのもの。
#いっぺん使ってみたかった。(笑)
 レインボー会議の向こうを張って、セントレア会議とでもしたいくらいです。(^-^;
これからも思ったことがあれば、なんでもコメントしてください。


百貫雀 投稿日:2006/02/17(Fri)

 麻雀についてこうしてあれこれと議論を展開することは本当に楽しいですね。親の早リーと下家のモロ混一色仕掛けをかいくぐって、自分が断ヤオのみ手をいかに和了ったかを延々をコウシャク垂れるくらいに楽しいです(笑)。

チト脱線。
皆さん御存じだと思いますが天野晴男の名著「リーチ麻雀論改革派」の中にこんなエピソードがあります(第一章)。
 ====================================================
 同巡で二人がリーチをし、もう一人が筒子に走っている時に
桜井章一は一発で五筒を切り、リーチ二人に放縦。
 実はもう一人の手牌を倒したら、そこにもロンで、三家和が成立。
 彼の、対局者の手牌を倒す行為は、最低だ。
 ====================================================
 ああ、たしかに最低です。
 こんなことが実際に起こったとはとても私には信じられませんが…。

 まるたかさんのおっしゃる「ボールインプレイ」「ボールデッド」の違いについては、私は、「宣言するかしないかまでがインプレイの状態」であり、「宣言して以降がボールデッド状態」だと思います。

 テンパイか否かは一意に決まるのは当然ですが、実は「その牌がロン牌か否かも一意」に決まるのです。ロン牌であっても見逃す行為(故意であるか錯誤の結果かは別にして)は普通に許されているわけです。

許されている、と言うと、いかにもプレーヤーの意思を尊重するための規則のように思えますが、そうではありません。麻雀というゲームそのものが、対局者自身の「宣言」という行為によってしか先に進まない、という本質に拠るものです。

 どんなに不利であってもドラの暗刻落としをしても良いのです。白と發を鳴かれていても、リーチをかけたって良いのです。ついうっかりとロン牌を見逃してしまっても罰っせられることはありません。

 これは当事者が「宣言」する以前のあらゆる行為は、その行為の根拠/理由を誰も知ることはできないし、知る必要もないし、知らすべきものではないというのが根本にあるからだと思えます。

 もしも聴牌をした後に、他者から捨てられる牌がロン牌か否かを自動卓が勝手に判断してくれて、うっかりの見逃しを回避できるようになったら(とても便利ですが)、少し、違うかなぁと思います。

 うまく説明できませんが、自分が「宣言」する以前の行為の責任は自分にだけあって、責任と同様に権利(?)もあるわけで、例えば「ついうっかりと聴牌であることに気付かなかった権利」だって、麻雀には存在する、と言いたいのです。

 自分が聴牌だと思っていないのに、勝手に手牌をオープンされて、「それは聴牌だからテンパイ料を受け取らなければいけない」なんて、間違っていると思いませんか?これは誰かがロンを宣言した後に、「お前もお前も当たりだろ、三家和成立でノーカウントだ」と言うのと同じじゃないでしょうか。

 少し極端過ぎましたが、その牌がロンであるかどうか/ロンすべきかどうか/テンパイかどうかは、プレーヤーの判断に任せなければ、麻雀とは違うゲームになるような気がしてしかたありません。

じゃ、得点だって、安目を申告したってイイじゃないか。いや、ダメです。高点法とテンパイ宣言とを同時に語ることに無理があります。

 高点法とはゲームによる攻防が終了した際に摘要されるルールですが、テンパイ宣言は、まだ攻防の最中なのです(本当か、オイ)。

 テンパイ宣言した後に「この手はこのまま続けてもどうせ和了れないから、テンパイ料は 500点でイイよ」、「ああ、メチャ惜しい役満なので 10000点くらいのテンパイ料が欲しい」なんてことはありません。いつでも「場3000」です。ここがテンパイ宣言以降における、高点法に相当する部分だと考えます。

 トンコツラーメンを食べていて気付きました。何故、自分が手牌を公開したくないのか(笑)。
 チャーシューを後にするか/スープを飲み干すか/替え玉を注文するか、すべて私自身の意思に基づくべき行為です。手牌の公開も自分自身が、しっかりとその手牌に確信を持っている時にしか行いたくないのです。繰り返しますが、「テンパイ宣言も和了宣言も同じ」ようなものだと思えます。(すみません、ラーメンについては無理がありました(^_^;)

PS. まるたかさん
> ただ、私ごとき若輩が少しデシャバリすぎた感があります
私が初めて浅見さんの意見にコメントを付けた際(96/04/10←資料があるのが我ながら偉い!)に、ドキドキしたのを憶えています。
だけどどんな意見にも真摯に応えていただけるので、言いたいことや疑問はいっぱい出すのが楽しむコツです。(って、先達を自分が楽しむために利用している悪い奴です、私は)


あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

 こんにちわ、百貫雀さん。
 論旨は、「麻雀は宣言がキーワード。アガリ宣言、テンパイ宣言があって、はじめてその正否が問題になる。そしてノーテン宣言というものは無い(“ノーテン”と あたかも宣言のごとく発せられるのは、利便性で云ってるだけ)。したがってその正否は問題にならない」というものですね。

 いままで寄せられた、「○○というルールで○○という状況になった時、“全員公開”では特定のプレーヤーにとって不利に働くことがある」という感じのコメントには、表面的な現象を問題にしているだけという印象がありました。しかし百貫雀さんのコメントには、麻雀ルールの本質性があります。そこで非常に説得力を感じました。

 σ(-_-)はゲームの公明性を基本に考えていました。別にそれはそれで一つの観点と思っています。しかし麻雀の本質性という観点からは、宣言論の方がしっくり来るようです。

 ただそうした場合、よく云われる「テンパイ宣言の順」が問題になるケースがあるようです。そこで基本は「東家から順」というところにして、「早くテンパイ宣言しても本人の勝手、ただし宣言撤回不可」というところでしょうか。

 また全員ノーテンだった場合、とうぜん誰もテンパイ宣言しません。かと云ってノーテン宣言もないので全員押し黙ったままというのも、なんだかヘン。そこで東家から順にノーテンの人は意思表示として黙って手牌を伏せる、というくらいでしょうか。


NORIT 投稿日:2006/02/18(Sat)

>ただそうした場合、よく云われる「テンパイ宣言の順」が問題になるケースがあるようです

 うう、アップしようと思っていたら先生に先に書かれてしまいましたが、アップしてみますね。(^_^;

 聴牌宣言の任意が認められている上で、流局時の聴牌ノーテンの意思表示の順番ってどうあるべきでしょうか?

 プロ団体の規定では、親から順番に、となっているものもありますが、これだと下家ほど他者の意思表示を知った上で自分の表明をできることになってしまいますよね。本来は、せーの、で全員同時に手牌を開くか伏せるかして意思表示が公平ではないでしょうか?


あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

> うう、アップしようと思っていたら

先に書いておいてよかった(笑)


r@PCLabo 投稿日:2006/02/19(Sun)

 こう考えてみると、不聴罰符より聴牌連荘のほうがルール上問題でしょうか。和了連荘ならば、オーラスのトップ親はただ降りれば問題ないですよね。(勝手に手牌が聴牌していても終了)

 不聴罰符については、トップ争いをしている2人ともう1人が聴牌/不聴を示した時点で「おれが聴牌宣言するかどうかでトップ者が変わる」のが問題なので、「いっせーのーせ」に変えるといいかもしれません。(これはネット麻雀などでは自動判定後そうなっていますね)

 「あんなの麻雀じゃない」などというヒトもいらっしゃいますが、ネット麻雀やゲームのシステムにも、学ぶべきところが多いと思います。


あさみ 投稿日:2006/02/18(Sat)

>「いっせーのーせ」に変えるといいかもしれません。

 どうやら、「東家から順」より、「せーの」が支持を集めているようですね。(^-^;


NORIT 投稿日:2006/02/18(Sat)

 これまでの議論の、流局時の聴牌宣言は任意か強制かについては、私自身も白黒つける問題とは認識していません。ま、私が巷の麻雀をプレーする場合には、任意との認識で今後も臨むスタンスであるってだけですし、これはたぶんまかり通るでしょう。(^_^; 競技&ゲームとしての麻雀でしたら、そもそも聴牌料のないルールを望むでしょう。

 で、今回の論点からは、外れるのですが、派生して、お題のようなことを考えてしまいました。
麻雀は、点棒をやりとりして、最終的に終了時に相対的に他者よりもっとも多く点棒を持っていた人が勝利ってゲームだと思います。

で、百貫雀さんのおっしゃられたところの点棒を得るための宣言行為をする際には、プレーヤーは、現状の4人の持ち点状況をどう変化させるかの思惑(皮算用)があろうかと思います。しかし巷の麻雀は、必ずしも思惑通りにならないこともあるルールになってますよね?

 ツモ上がりにおいては必ずや思惑通りになりますが、ダブロントリプルロンありのルールなら、自分の宣言は有効でも他に同時に点棒を得る人もいるので、点数状況は自分の思惑通りには変化しません。また、聴牌料については自分が宣言しても他に点棒を得る人がいるかどうかも知り得ませんし、4人の持ち点状況の変化は予測できない性質になってます。

 これって、どうなんでしょうね?自分の戦略&決断行為(=宣言)をしても、他の運命(運)の要素もあって、いかんともしがたいってところがバクチ風味の要素かな??
競技的?ゲーム的?だったら、宣言が有効になったら、自分の思惑通りにならないと変?ですかね?もちろん、純麻雀だとそうなってるんですけど。(^_^;


あさみ 投稿日:2006/02/21(Tue)

 こんにちわ、NORITさん

 例にあげられたダブロン・トリロンありの場合、せっかくσ(-_-)が上家でも 下家も得点してしまいます。すると思惑通りにならないわけですが、逆に考えると、自分が下家でも得点できるわけです。そこで「自分の得点」という観点からだけ考えれば、ダブロン・トリロンありの場合の方が“思惑通りの結果”を得るといえないことはありません。(^-^;

 いずれにしても麻雀は、ポンでツモ番が飛ばされることも含めて思惑通りにならないゲームといえるかもしれませんね。でもそれはバクチ風味の要素というより、それがまた麻雀の魅力ではなかろうかと。(^-^;