Mahjan talk 雀話

    (4)小島武夫杯


 むかし、麻雀新撰組というグループがあった。最初のメンバーは阿佐田哲也に小島武夫、古川凱章の3人。麻雀エンターテーメントグルーぷとして麻雀雑誌でも取り上げたので、なにかと話題になった。そんな中、読者対象の麻雀大会として、阿佐田哲也杯、小島武夫杯、灘麻太郎杯などが次々に創設された。

 現在は阿佐田哲也杯だけが王座杯と形を変えて存続しているだけで、小島武夫杯、灘麻太郎杯は行われていない。しかし当時は、自動卓の普及とあいまって1種の麻雀ブームにも乗り、それなりに人気のある大会だった。そんな小島武夫杯なんて名前が付いた麻雀会を最初にやったのは、σ(-_-)達なのだ。( ̄^ ̄)

 といっても雑誌社とは何の関係もない私的な大会。当時、σ(-_-)達は水道橋近くの大学へ通っていた。行きつけの雀荘がアイウエオ。2,3階のツーフロアーで計200卓を擁するメガ雀荘だった。その2階のフロアマネージャーが小島武夫さんで、通っている内に自然に言葉を交わすようになった。

 フロアマネージャーと云っても、アイウエオはフリー雀荘ではないからメンバーのようにゲームに加わったりしない。しかしこっちは仲良くなっているから、トイレタイムとかメンバー待ちのときには、よくピンチに入ってって貰った。

 当時は小島さんも九州から上京して間がない頃で、麻雀も油が乗り切っていた頃。われわれ学生とは腕前もダンチだった。そんな中、縁があって小島さんはマスコミ界に登場するようになった。

 そのころ、σ(-_-)達が麻雀してると、いきなり小島さんが来て、「君たち、ちょっと協力してくれんかなあ」という。なにかと思ったら、雑誌に小島さんの麻雀記事が載る。その記事のカットに小島さんが麻雀してる写真を載せる。その対局シーンを撮るのに協力して欲しいという話。

 二つ返事で引く受けて、そのとき一緒に麻雀してた1人に抜けてもらい、σ(-_-)を入れた学生3人と小島さんの4人で麻雀をしているフリを始めた。1局だけゲームしてるフリで摸打を繰り返していると、カメラマンがバシャバシャ撮る。

 アガる・アガらないはどうでもいいけど、ただツモ切りを繰り返していても仕方がない。そこで一応手作りをしていたら、そのうちにテンパった。すぐ小島さんが当たり牌を打ったが、もちろんアガらない(終わってから、「あの牌、当たってました」と云ったら、「そうだろうね」なんて云ってた。もちろんどんな手だったか忘れてしまったけど、どうでもいい手だったことだけはたしかだ。(笑)

 後日、小島さんの原稿が載った雑誌(平凡パンチOh!)を買ってみると、記事とともに、あのときのカット写真が。もちろん小島さんが正面に映っているが、話しかけている相手がσ(-_-)。横顔だけど、σ(-_-)打と言うことがはっきり分かる。あれがσ(-_-)の雑誌掲載デビューだった。(^-^;

 余談はさておき、そんな感じだから、小島さんはわれわれのアコガレの的。そうこうするうちに我々も卒業の時を迎えた。そこで友人4人と話し合って、麻雀旅行を計画した。早く云えば、どこか温泉に出掛けて、麻雀やり放題をしようというもの。

 しかしただ麻雀やりっ放しでは味がない。そこで小島さんに頼んでなにか盾でも出してもらい、小島武夫杯としてやろうじゃないかという話になった。小島さんに話をすると、二つ返事でOK。やがて小さな盾を容易して貰って、鬼怒川温泉へでかけた。

飯を食って風呂へ入って、9時過ぎから麻雀。σ(-_-)は、盾がものすごく欲しかったので、一所懸命プレーしてた。そしたら、午前2時頃になって、羽柴(仮名)が「なんだ、浅見。今日はむちゃくちゃガードが固いじゃないか」といった。え〜え、どうせオレはイケイケドンドンだよと思いながら、「だってオレ、盾欲しいもん」と正直に返事した。

 そしたらみんな急にその気になって、それまで以上に真剣なゲームになった。アチャー、余計に状況が機微sくなってしまった。結局朝までやったが、σ(-_-)は2位。盾はゲットできなかった。これが学生時代の麻雀の最後の大きな思いで。ということで、小島武夫杯は、こっちが元祖なのだ。(^-^)

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