History 歴史


    (1)麻将記念館


 麻雀のルーツが中国の寧波(ニンポー)であり、その創始者というか考案者が陳魚門(ちんぎょもん=チェンユイメン)という人物であることは、この業界の定説。そして最近の研究で、その定説がほぼ正しいいと言うことが裏付けられてきた。

 ※中国でも昔は「麻雀」という表記がメジャーであったが、現在は「麻将」というのが統一表記となっている。それにはそれなりの理由があるようだが、私は前からあまり気に入ってない。しかし中国政府に文句を言っても仕方ないからいままで我慢してきた(笑)。ところが最近、中国の文化研究者の論考に「麻将ではなく麻雀が正しい」という一文を見つけて、なんとなくうれしい今日この頃。(^0^)

 裏付けの根拠はいろいろあるが、まずは何といっても寧波に陳魚門という人物が実在したことが 立証されたこと(本名は陳政鑰(ちんせいやく)、清代の豪商で、秀才(科挙の国家試験の位)でも あった)。そして麻雀の新しい遊び方を、寧波駐在の英国領事館員たちに手ほどきしたそうな(英国人の回想録が残っている)。

 そして現在も陳魚門の旧居近くにすむ住民は、「陳魚門が、現在の麻雀を考案した」と言うことを覚えており、陳魚門自身の後裔も、「先祖が現在の麻雀を考案した」と言い伝えているそうな。

 その話によると、「ポンは昔からあったが、チーとカンのルールは陳魚門が作った」、「場所や開門箇所をサイコロで決める方法も陳魚門が作った」という。あれも陳魚門、これも陳魚門という点については疑問が無いわけではない。しかしそんな細かいことはさておいて、現在の麻雀ルール(素麻雀)の基本的な部分の構築に陳魚門が大きく関与したことだけは間違いないようである。

 また陳魚門は、もともと寧波の蒋祠巷(寧波の繁華街)に住んでいたが、後に揚子江の川岸に移住した。当時の記録に、「麻雀は当初、福健・広東沿岸の船舶上で水夫に盛んに遊ばれて普及した」とあるが(「博史(杜亜泉)」寧波市文化局長の周時奮氏は、「これも陳魚門が、揚子江の川岸に移住した事と関係があるかもしれない」と述べている。

 さらに麻雀が大きく普及したのは、当時、清朝の天下を揺るがした太平天国の乱が大いに関係している。太平天国の乱は15年続き、一時は中国の南半分を支配下におくほどの勢力をふるった。太平軍の兵隊は中国各地からの寄せ集めであるが、毎日毎日、朝から晩まで戦争しているわけではない。そこで兵隊はヒマなときに陣中でさかんに博打をして遊んだ。いうまでもなく博打となれば馬吊/麻雀のたぐいであっただろう。

 その太平軍の首都は南京であったが、寧波は比較的南京に近いものの太平軍の支配下には入らなかった。そこでこの地方には英国の将軍ゴルドン率いる常勝軍の関係者が多く滞在した。陳魚門はその英国関係者との折衝役として、大いに活躍したという。

 そこでこのたび、その陳魚門誕生の地であり、イコール麻雀発祥の地である寧波麻将記念館が設立されることが決まった。とはいえ今でこそ中国も麻雀には国を挙げて力を入れているが、近年までは鼻にもかけていなかった(日本政府に花札の普及を国をあげて応援せよといっても無理なのと同じ感じ)。そのため麻雀の資料があまり残っていない。

 でみなさんご存じのように、日本には千葉県に世界唯一の麻雀博物館が存在する。その麻雀博物館には世界各地から集めた資料が展示し切れないほどたくさんある。そこで麻雀博物館が全面的に協力し、寧波麻将記念館が設立されることになった。

 オープンは2001年6月に予定されている。オープンしたら、中国旅行をかねて麻将記念館探訪ツアーを企画するのも一案かも。

次へ  目次へ