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       (261)信濃談義・先祖


 一口に長野県といっても、文化圏は長野・松本を中心にした北信(ほくしん)諏訪あたりを中心とした中信(ちゅうしん)飯田あたりを中心とした南信(なんしん)に分かれている。諏訪あたりを中心にした中信は、南信・北信の分岐点。

 特に北信は、北陸-越後への通り道。東へは釜無川をくだって韮崎を抜ければ、甲斐の国へ一直線。逆に甲斐の国からみれば、中信を抑えれば南信・北信・北陸への道が開けることになる。そんな交通の要衝地なので、甲斐武田氏は欲しくてしかたがない。そこで享禄元年(1528)、武田信虎が攻めてきた。

 当時、中信諏訪氏が勢力を張っていた。諏訪氏は頑張って反撃し、享禄四年(1532)には逆に韮崎まで攻め返した。そこで信虎もあきらめて、天文四年(1535) 自分の娘(武田信玄の妹)を諏訪頼重に嫁がせて和睦した。

 これでめでたしめでたしとなる筈だったが、天文十年(1541)、武田晴信(のちの信玄)がクーデターを起こしてオヤジの信虎を追放した。そして義兄弟もなんのその、翌年(1542)6月 信濃に攻めてきた。

 さすがに武田信玄には敵わない。ケチョンケチョンにやられて諏訪氏は滅亡。実はこのとき、うちの先祖は中信に住んでいた。名前を藤源太正親(とうげんたまさちか)といい、一応その辺りのミニ領主。家紋は八本矢車(はちほんやぐるま。"やっつやぐるま"とも呼ぶ)

     
※webで探したが見あたらなかったので、よく似た“七本矢車”で代用....(-_-; )

 藤源太正親には二人の子供がいて、兄が本家、弟が分家。両家とも同じ家紋だが、分家は矢羽根の後ろが丸くなっている。そこで現在でも家紋を見ると、兄の系統か弟の系統かすぐ分かる。

 とうぜん諏訪氏に味方して戦ったが、あわや全滅。そこで一族郎党を引き連れて、一目散に逃げることにした。(^-^; 逃げると行っても、行き先は北か南か東しかない。しかし北(北信)は村上義清の領地。もともと諏訪氏とは仲が悪い。

 東側は中央アルプスがカベになっている。どうしても東側(美濃の国)へ行こうと思ったら、いったん北上して塩尻回りするしかない。そこで中央アルプスに沿って南下し、現在の飯田市あたりまで逃げてきた。

 落ち着いた先は昭和になっても"長野県のチベット"と呼ばれていたくらいの辺鄙なところ。さすがにここまでは追ってこないだろうというので、そこに住み着いた。以来 時代の変化には目もくれず、農民となって暮らしてきた。しかし400年経った今でも、武田信玄の評判は良くない。(^-^;

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