Classic Mathematics  古典数論 .

        (3)チョット面白い
骰子の確率 その2


昭7年3月 林茂光麻雀研究所 発行の麻雀誌「麻雀」に掲載されたサイコロの出目に関する論考。筆者の山本武夫という人物については、寡聞にして不詳。

基本的に原文のままとしたが、馴染みの薄い漢字についてはルビを附した。


       
−壮子の分配と起家の決定−

 さて前章に於て詳記した骰子の確率を、その概念において、荘子の分配並に起家の決定に就いて検討して見る。

 荘子は麻雀の附属品の一つで、やはり骨製か若しくはセルロイド等の様なもので作製してある器具であるが、通常は面倒がってあまり此の器具を使用せす、麻雀の風牌をその代りに用ひてゐる向が多いが、結果は何れにしても変わりはない。

 荘子の分配は各自の座席を決めるために行はれる、或る意味の抽選様式で、第一擲骰に依つて示された座位の者が第二擲骰し、第二擲骰に表はれた座位の者が、第二擲骰の目数が奇数か偶数かで、あらかじめ定められてある位置から、あるいは左から荘子を取つて行くのである。

 一方、之に備ふる荘子の配列型式は二拾四類ある。これを縦に積むか横に並べる。わかりやすい様にここでは風牌を代用して説明すると、東を左端に置く場合が第四表の如く六種で、以下南を左端に置く場合が六種、西北も同様六種宛で、合計二拾四類の並べ方があるわけである。第四表の一例に依つて、南西北を左瑞に置く式は自づと御了解願へるであらう。

 
< 第 四 表 >
    − 東を左端に置く荘子配列型式 −

形式A1 東南西北   形式A2 東南北西
形式A3 東西南北   形式A4 東西北南
形式A5 東北南西   形式A6 東北西南

 荘子の分配のための擲骰は、結局荘子の取り出し位置と、取り始める人を抽選する様なものであつて、各自から見るとき、自分が東南西北のうち何れの一個の荘子を分配されるかと云ふことには、私の計算に依ると、どの位置も三万一千百○四回と云ふ全く公平の機会があるわけで、つまり此の抽選は機会均等であることになる。僅かこれだけのことに三万幾らなどと云ふ膨大な機会があるとは、一寸想像もつかない様だが、此の機会を算出する下記の方程式を御覧になれば、成程とうなづけるに違ひない。

< 第 五 表 > ◇第五表
   −荘子の分配に対する機会−

 ( 36 × 36 )× 24 = 31,104
 第一擲骰 第二擲骰 荘子配列型式

 ところが、これで各自の座すべき席位は決定したが、尚次に起家を決めなければならない。そこで仮東と称する東の位置に座したものが、改めて第一擲骰をなし、つづいてその目数に該当する者の第二擲骰に依つて、始めて起家が示されるわけだが、そうなると荘子の分配から起家決定までに至る機会、つまり対局者四人の最後的な座位に対する機会は、更に次のごとく四千三拾一萬七百八拾四回と云ふ、驚異的教字に拡大する。

< 第 六 表 >

  −最終的席位に対する機会−

31,104 × ( 36 × 36 )=40,310,784
荘子分配      第一擲骰 第二擲骰

 さて考へ見るに、之等の道程が如何に複雑した機会に依つて構成されているにしても、結局は、繰り返して云ふ迄もなく、単に最後的な座位を決定する抽選でしかあり得ないのだから、それでなくとも麻雀の合理化、単純化がやかましく論議されてゐる今日、斯くの如き形式のみにとらはれてゐる面倒な方法は、どうかと思ふ。

 要は二拾四型の荘子を如何に分配し、それに依つて如何に起家を決定すべきかと云ふだけのことであつて、四人の対局者に対する機会が平等で且つ公正なれば、骰子は一度振りでも充分用は足り得るのだ。

 例へば一回の擲骰に依る目数の位置の者が、奇数か偶数かで左右何れからか荘子を取り出し、その荘子に示された座位を以て最後的なものと決定しても、何等差支へはないと思ふ。それで各自の東南西北に対する機会は八百六拾四通りの均等である。

 尚こうした方法に依つても、或る特に希望する座位を得んがための不正行為は、行ひ難いと思ふし、事実行はれたとしても、それは次の機会に説明する如く、麻雀の勝敗には何等影響しないものであると云ふことを、おことわりしておく。

 元来、この骰子の二度振りと云ふことが、無意味に繁雑化してゐるのだとは、今更私が喋々するまでもなく、既に或る方面では此問題に就いて、具体化した運動まで起つてゐる事実を以ても、明らかなことなのである。

 甚(はなは)だ執拗だが、第一擲骰につづいて第二擲骰をなし、その結果荘子を分配して各自の席に着き直してから、改めて第一擲骰、第二擲骰を経て起家を決定すると云ふ方法が、あまりに馬鹿馬鹿しく迂遠(うえん)過ぎてゐることを御諒解願へたであらう。このような支那人的な廻りくどい方法をそのまま真似るのは良し悪しである。

 これ等を以ても荘子の分配と起家の決定は合理的に単純化させなければならないことは、火を見るより明らかなことであって、こんな簡単な問題が何時までも解決されないうちは、麻雀の合理化等は到底思ひも依らないことなのだ。

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