KM Q&A 難問奇問 

         (01)立直の要諦
 (月刊近代麻雀・昭和60年8月号)
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 週例会のルールが「親のアガリ以外レンチャンなし」に変わりました。それはいいのですが、リーチで流局になっても、手を見せなくていいそうです。

 でもそうするとテンパイしてないのにリーチをかけ、おどかす人も出てくるのではないでしょうか。それでもいいのでしょうか。(府中・N子)


 賭け麻雀の目的はお金です。そしてお金イコール点棒です。その点棒を稼ぐためにはアガらなければなりません。ただひたすらアガり続けること。これが賭け麻雀の理想の状態です。そこでチー・ポン・リ−チなどはすべてアガリという目的のために行使され、ミスでもない限り、手が進まない、甚だしきはアガリが不可能になるようなチーポンが行われることはまずありません。

 こういう麻雀ではアガりへの道をみずから閉ざすノーテンリ−チなど考えられないのは当然です。しかし競技麻雀では、他家のアガリを抑えることは自分がアガリを目指す以上のウエートがあることがよくあります。そこでリーチに限らずチーポンカンも、自分のためではなく他家を抑えるために行使されたりします。これがチーポンリーチの機能をよくフルに生かしてプレーするということです。

 もちろんリーチがルールの発生時点でテンパイ宣言であったことは間違いありません。テンパイであればこそ、他家にとっては脅威です。そこで技量が進歩してくると、この脅威力を利用して対局者の手作り抑制手段として活用することも出てきます。

 余談ですが、自分の学生時代、オーラストップめで手が進まないとき、ノーテンリーチをよくかましました。σ(-_-)と友人のがよくノーテンリーチを掛けるのでそのうちに狼少年状態になり、相手が全然降りなくなったりしました....(-_-; ダントツやダンラスのとき、ヤケクソあるいは面白半分でノーテンダブリーをやったことも何回か。.しかしこれは面白がられただけで、戦術的には何の効果もなかった....

 しかし面白くないのが流局に持ち込まれた方。「なんだケシカラン。大体,リ−チは得点を大きくしたり縛りをクリヤーするために宣言するものだ。だったらテンパイしてなければいけない筈だ」。このような発想から、或る時期にいたってノーテンリ−チを禁止する風潮が出てきました。そして現在、そのようなルールが普及しているのはたしかです。

 しかしこういう「プレーヤーの各行為はアガるため」という感覚は、ギャンブル的発想と云わざるを得ません。たしかにノーテンリーチではアガリ不可能です。しかし“だからケシカラン”ということになれば、手が進まない、あるいは逆戻り、さらにはアガリが不可能になるようなチーポンカンもケシカランということになります。

 これに対して「チーポンカンは合法的行為だが、ノーテンリ−チはそれ自体が不正行為。不正行為が看過されるのでは競技ルールではない。そこで流局したときは手牌を公開してチェックすべき」というような意見があるかも知れません。

 一見なるほどというところですが、この「ノーテンリーチは不正行為=チョンボ」というルールも、実はそれを問題にするのは流局した時だけです。そこで他家にアガリが生じた場合は「正当なアガリがあった」という理由で不問にしています。

 しかしノーテンリ−チそのものが不正行為であれば、流局しようが誰かがアガろうが、また他のアガリの正当、不当にも関係なくペナルティの対象になる筈です。どうしてプレーヤーのアガリがプレーヤーの不正行為の不問理由になるのでしょぅか。このこと自体、ノーテンリーチの不正うんぬんが単なるご都合的な発想である事の証明といえましょう。

 この「終局後、手を公開し、不正がないことを証明する」ということを、麻雀用語では“攤牌(タンパイ)と言います。しかし実はこの“攤牌(タンパイ)こそ、完全に中国のバクチ麻雀から生じた発想なのです。

 中国麻雀では、ロンアガリ、ツモアガリでも3人払いでした。そこで現代式に云えば、が親のに役満を放銃すると、ツモアガリしたときと同様にBCDの3人はに1万6千点づつの支払いが発生しました。

 しかしルールとはいえ、は面白くありません。(ひょっとしてグルではないか。にわざと放銃し、あとで分け前を取るのではないか)というバクチならではの疑惑を抱きます。そこでは放銃が止むを得ないものであることをCDに証明するため、自分の手を公開しました。
※たとえやむを得ない放銃であっても、大物手の支払い負担はCDにとって不満です。そこで大物手への支払いを放銃者の責任払い(包(パオ)とするルールが生まれました。

 これを
放銃者攤牌といいますが、この「不正をしているのではないか。手を公開せよ」という発想が、先きほどの立直者攤牌とまったく同じ発想にあることがよく理解できると思います。

 麻雀は審判制度を持つゲームではありません。審判がいないゲームである以上、プレーヤーそのものが審判です。そこで間違い行為が発生したとき、どの審判からも何のアピールもなければ、それは「間違い錯行為ではなかった」と判定されたことになります。逆に言えば生じた時点で指摘された行為だけが、間違い行為としてペナルティが課されるのです。#間違いの軽重によって、ペナルティの内容がことなることは云うまでもありません。

 この「生じた時点で指摘された間違い行為だけを問題とし、あとで発覚したものは不問とする」という考えを、法律用語では「一事不再理(いちじふさいり)」といいます。そして先進的な競技麻雀では、トラブルはすべてこの原則に基づいて処理されています。

 ではなぜ生じた時点で指摘された行為だけが問題になり、あとで間違いが発覚してもは不問にするのか。それは過去にさかのぼってペナルティを課すということになると、「どの時点までさかのぼるか」という恣意的な問題が生じ、収拾がつかなくなることがあるからです。
#たとえばドラのめくり間違いや間違いツモなど、ゲームがある程度経過した後で間違いが判明しても元へ戻しようがありません。無理に戻そうとすれば、かえってゲームに支障をきたします。

 この「一事不再理」の原則は、一旦看過された事項だけでなく、発生時点で指摘不可能な事柄にも適用されます。そこでこれをリーチに当てはめると、リーチ者の手牌がどのような状浪であっても、宣言時点でその内実を問うことができないのは明白です。発生時点でその内実を問う事ができない以上、“リーチのテンパイ・ノーテンが正、不正の論議の対象になることもない”ということになるのです。

 ではリーチの要諦はどこにあるかといえば、「アガリを表明するまでは、ツモ牌はすべて打す」というところにあります。もちろんアガリを表明したくなければ、ロン牌が出ようがアガリ牌をツモろうが、そのまま黙ってゲームを続けて構わないわけです。

 すなわちアガリが表明されずに終わったリーチは、単に「アガリが表明されなかったリーチ」というだけのことで、そのリーチがテンパイであったかノーテンであったは二次的問題に過ぎないのです。

 以上のような観点から、ハイレベルな競技麻雀では、リーチの有無、テンパイの否やにかかわらず、“アガリが表明された手以外は公開しない”でプレーされています。

PS:現在の日本麻雀にはノーテン罰ルールがあります。アガリ以外の理由で点棒の授受を行うのは競技麻雀的ルールではありませんが、仮にノーテン罰アリのルールでリーチがノーテンだったとしても、
ノーテン罰を支払えば済むことです。

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