店の正面がまえ-すり上げ戸-
上部柱の四角い穴は戸締まり用
 

2階床を支える大梁 どれくらいの寸法
かわかりますか?
(幅31cm.高さ48cm.長さ7.3cm)
  

 
春慶塗りの箱階段
 
 

 
裏口の扉に注意 引き戸なのに
開き戸 (自由丁番を使う)

蔵から出るのに4枚の扉
格子戸・漆喰の引き戸
観音開きの扉
漆喰塗り土の防火扉

 
壁に明治37年(1904)の 東北新聞を下貼り
 
 

 
階段の手すりは 単純、明快なデザイン
 
 

 
まるい梁と天井
 
 

 
金 庫 蔵
 
 

 
小便所のタイル 大正レトロ風
 
 

 
大便所 腰板張り・掃き出し窓の
ついた和風
  

 
便所の扉は木に皮のついた丸太を使っている
 
 

 
化粧部屋 全身のうつる鏡と明かり
取りの窓がある
 

 
天井回り縁はくり型の洋風 床の間の
天井は舶来の合板 天井回り縁はくり
型の洋風

 
畳は8枚 長い畳
 
 

 
障子の桟の組み方に注目
 
 

 
ふすまは「芭蕉布」で建築当時からの
もの (大正10年)
 

 
天井の中央が端より3cm 上がっている
 
 

 
廊下の床は桜の木で幅が違う
 
 

 
廊下の床は外に向かって 斜めに下がって
いる (25/100の勾配)
 

 
廊下の縁桁の長さは? 杉の磨き丸太で根元と
先の 太さが変わらない貴重品
 

 
ガラス戸には 気泡や凹凸があるので 触って
みてください
  

 
床柱・床框・落し掛・ 違い棚・筆返し・平書院・
狆潜り・地袋・天袋
  

 
柱・長押・天井板は 杉無節の柾目をつかう
 
 

 
新しく貼った障子に注目
 
 

 
障子の桟の組み方・形が 書院座敷とちがう
(かまぼこ型)
  

 
長い畳は柱の中心に 継ぎ目を合わせるため
(長さ2m65cm)
 

 
天井の竿縁はみんな柱の 中心に合っている
 
 

 
神   棚
 
 

 
仏   壇
 
 

 
鴨居があって敷居がない なぜ?
 
 

 
玄関の天井は舶来の合板
 
 

 
表が和風、裏が洋風
 
 

 
天井は折上天井(和風)で洋風中心飾りが
ついている
  

 
床の間や棚は和風窓は洋風
 
 

 
なまこ壁の土蔵 土蔵の屋根は置屋根
(江戸時代)
  

 
タイル貼りの土蔵 屋根は置屋根 (明治時代)
 
 

 
鎮 守 様 (明治時代)
 
 

 
扉は杉の一枚板
 
 

 
 
 

敷地と建物


商家壽丸の敷地は白石布字中町の中央商店街を通る南北道路の東側にある。その建物は、表の道路に面して店蔵(本店(ほんたな))が建ち、この背後につづいて書院座敷棟、居宅棟を配置している。
 壽丸本店である店蔵は、土蔵造り二階建てである。この背後の書院座敷棟は化粧部屋、便所などをともなう2室の座敷があり、主人室、婦人室にあてていた。これに接続する居宅棟は、南面中央部に玄関を構え、その西半部を和風の座敷6室を配し、南側表の3室を
接客座敷、北側裏の3室を内向きの部屋にあてている。東半部は、玄関脇の表に洋館を置き、この背後にもとは土間と板の間からなる広い空間があったが、現在は改造して二階をつくり、土間に床を張り台所、食堂、寝室などにあてている。
 付属屋として、蔵4棟がある。店蔵の北側の土塀の内側にコンクリート造(?)の金庫蔵、南側には表の道路に面して土蔵造りの壽丸醸造部(現在は靴屋)がある。また居宅棟の南東に少し離れて、土蔵造りの文庫蔵と質蔵の2棟が建つ。このほか居宅棟の東に南向きに鎮守様(屋敷神)が祀られている。
 なお、現在は鎮守様の東に渡辺家の新宅が建っている。取り壊されて現存しないが、質蔵の東に離座敷、居宅棟の東南に風呂場があった。これらの部材の一部は別途保存してある。

建築年代

 明治32年(1899)、この町に大火があって180軒が焼けた。壽丸のすぐ隣まで火は迫ったが、当家は火災からまぬがれた。店蔵はそのとき既に建っていたが焼けなかったと伝えている。そうであれば、店蔵は明治32年(1899)以前の建築である。構造形式、細部手法、材質、そして洋釘を用いていることから判断して、江戸時代には遡らず、明治中頃の建築と惟定される。
 店蔵の背後につづく書院座敷棟・居住棟は一連の建物である。これらは明治32年の大火後、関東大震災前の建築で、大正I0年頃の建築と伝えている。様式、材質などからみてこの伝えに矛盾はない。
 金庫蔵の建築年代について、文献資料はないが、その構造、店蔵から出入りてきるようになっていることなどからみて、店蔵と同じ頃の建築とみられる。
 壽丸醸造部(現在は靴屋)は現在未調査である。
 質蔵には天保十年(1839)の墨書きがあるので、このときにはすでに建っていた。そのころの建築と推定される。
 文庫蔵には、二階中央の大梁上に立つ小屋束に棟札が打ちつけてある。その表側に施主は10代儀蔵と書いてある。裏面に年代が書いてあるかともおもわれるが、今回は棟札をとりはずさなかったので裏側は未調査である。10代儀蔵は1863年生まれで、昭和20年(1945)に83歳で没している。外壁の腰に煉瓦タイルが貼ってあることなどからみて、明治後半頃の建築としておこう。
 鎮守様は、覆屋に入っている。鎮守様、覆屋とも同時に建てられたとみられる。細部様式、部材の風化、洋釘を使用していることなどから判断して、明治中期から大正期(ほぼ1890~1920年)頃の建築とみられる。
 以上でみるように、現存する壽丸渡辺家の建物は、江戸時代質蔵を除いて、いすれも明治期から大正期に建てられた近代建築である。

建築の規模及び構造形式

1)店蔵(ほんたな)
 土蔵造り。桁行4間、梁間3間、二階建て、屋恨切妻造り、桟瓦葺き。平入り。前面半間通り庇付き。背面に書院座敷棟へ通じる戸口を張り出して庇を付ける。南側の醸造部との間はもとは坪庭であったが、後に下屋を下ろして部屋をつくる。この下屋の背後に醸造部の東面から下屋が連続する。
 
2)書院座敷棟
 桁行4間5尺、梁間4間半。入母屋造り、桟瓦葺き。この本屋の南西北の3方に銅板葺きの庇を付ける。東面は居宅棟に接続する。2室の続き書院座敷で、主座敷である主人室は10畳大(大型の畳8枚敷き)で床・棚・書院を構える。次の間である婦人室は7畳(大型の畳6枚敷き)で東西に並ぷ。天井は竿縁天井で天井高は12尺あって高い。南西部の3方に廊下をめぐらす。西面の庇を長く下ろして、西側廊下と店蔵の間に便所、化粧部屋を設ける。
 
3)居宅棟
 桁行12間1尺5寸、梁間6間あって規模が大きい。入母屋造り、桟瓦葺き。西半部の座敷部と東半部の旧土間とは棟違い。西面は書院座敷棟に接続する。南側中央部に玄関を張り出す。間口2間、奥行4尺5寸。入母屋造り、桟瓦葺き。玄関西脇から座敷部の南面、西面南前半部に銅板葺きの庇を設けて廊下をめぐらす。背面全休にわたって書院座敷棟からつづく鋼板葺きの庇を付け廊下を通す。この廊下の中間の位置に張り出して便所、東端北側に洗面、洗濯場を設ける。廊下東端から建物東側に脱衣室、浴室をつくる。
 座敷部は6間取り形式。南表に、玄関前の間・茶の間・上段の3室を並べ、この背後に玄関後の間・仏間・産室の3室の内向きの座敷を配する。どの部屋も天井が高く12尺ある。この東側は、玄関の東脇に2間四方の洋館を付属して洋間一室を設ける。その背後はもとは板の間と土間であったが、昭和39年(1964)に改造して二階をつくり、一階に台所・食堂・女中部屋などを配置し、二階は寝室など個室にあて、現状の姿になった。
 
4)金庫蔵
 小規模な蔵である。壁の厚さからコンクリート造であるとしておく。外壁で間口1.98m、奥行3.6m。内部内法は間口1.60m、奥行3.3m。屋根は片流れ、屋根、外壁とも人造石洗出し、正面を東に向けパラペットで飾る。その中央に両開きの鉄扉を開く。内部壁面は白漆喰塗仕上げ、内部の奥に石造の基礎をつくり金庫を置き、その前面の床は板張りである。金庫蔵には、店蔵の北面に開く戸口から短い廊下を通って行く。
 
5)壽丸醸造部(現在は靴屋)
 土蔵造り、二階建て。桁行4間、梁間2間。切妻造り、平入り、桟瓦葺き。南面半間通りの庇付き。東面に出1間強の庇付き、鉄板葺き、南端を入母屋型につくる。
 
6)文庫蔵
 土蔵造り、二階建て。外壁で桁行lO.Om、梁間5.2m。切妻造り、桟瓦葦きの置屋根をのせる。外壁の腰に煉瓦タイルを貼る。
 
7)質蔵
 土蔵造り、二階建て。外壁で桁行10.5m、梁間4.9m。切妻造り、桟瓦葺きの置屋根をのせる。外壁の腰をなまこ壁とし、基礎に煉瓦タイルを貼る。文庫蔵と規模はほほ同じであるが、高さは質蔵の方が高く二階に余裕がある。
 
8)鎮守様
 正面2尺(606mm)、側面1尺5寸、向拝の出1尺4寸の小規模な1間社流造り、こけら葺き。3方に縁がめぐり、脇障子付き。正面木階5級、浜縁付き。組物は平三斗。木鼻、絵様、繰形。
 覆屋は社寺建築の手法でつくられており、桁行1間(5尺3分)、梁間2間(6尺5寸2分)、切妻造り、平入り、鉄板葺き、蓑甲付き。正面に水引虹梁を入れる。組物は平三斗。木鼻、絵様、繰形もある。


特徴と評価

 壽丸渡辺家住宅は、店蔵をもつ商家の構えである。この店および住居の構えは、江戸東京文化圏に属する豪商にみられる形態である。土蔵造りの店歳と、洋館の応接室をもつ和風の居住棟からなり、さらに書院座敷棟をともなっているところに特徴がある。付属屋として数棟の土蔵を配置し、屋敷神を祀るなど、近代豪商の屋敷構えと住居の特微をあますことなく発揮しており、特微とする建物の多くが現存している。
 各建物とも良質の材料を用い、その細工、施工もすぐれている。市街地の中心に立地する豪商として、その屋敷構えをよく保っている例は他に多くをみないところであって、極めて高い価値があり貴重な文化遣産である。
 市街の中心地に位置するという立地条件は、この敷地、建物をより良い保存、有効な活用をすることによって、町の発展に寄与する大きな可能性をもっている。
(1999.7.18)
 


宮澤智士(みやざわさとし)

1937年3月13日 長野県川中島出身
長岡造形大学大学教授 工学博士 一級建築士
1960.3 横浜国立大学工学部建藁学科卒業
1962.3 東京大学大学院数物系研究科建築学専攻修士課程修了
1964.3 東京大学大学院数物系研究科建築学専攻博士課程退学
1966.10 奈良国立文化財研究所(~1977.12)
1978.1 文化庁文化財保護部建造物課(~1994.3)
     文化財調査官 主任文化財調査官 建造物課長
受賞歴 1979 第二回マルコポーロ賞受賞
         イタリア中部の一山岳集落における民家調査
    1993  日本建築学会賞業績賞受賞
活 動 1982  普請帳研究会代表(~l992)
    1993~ 木造建築研究フォーラム副会長
    1995~ 東北大学非常勤講師(~1997)
著 書 日本の民家2(農家Ⅱ中部)、日本の民家4(農家Ⅳ中国・四国・九州)
    白川村の合掌造集落、日本列島民家史、芝居小屋内子座八〇の年輪、
    合掌造りを推理する、絵巻物の建築を読む、奄美大島笠利町の民家調査報告
    長野県北安曇郡白馬村白馬挑源郷青鬼の集落、日向市細島の関本勘兵衛家
研究のおもな閲心、テーマ
    日本列島民家史 文化財保存 修復工学 町並み保存 近代化
    文化協力 民族と国家