- 1.所在地
- 矢田寺は、大和郡山市にある矢田丘陵の中腹にあって、「矢田の地蔵さん」また梅雨時には境内に咲き誇るアジサイが見事であるところから別名「アジサイ寺」として親しまれています。
境内には北僧坊・大門坊・念仏院・南僧坊の四カ寺の塔頭があり、古くから地蔵信仰の寺として参拝者も多い古刹です。
住居表示:奈良県大和郡山市矢田町3549
駐車場:あり。但し、駐車場から当寺院へは急な石階段を上る必要あり。
- 2.宗 派
- 高野山真言宗 本尊: 地蔵菩薩立像(重要文化財)
- 3.草創・開基
- 当寺院は確たる史料がなく、もっぱら「諸寺縁起集」等の寺伝によるしかないようです。その寺伝では以下のように伝えられています。
(出典:奈良古社寺事典)
「今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていました。(中略)弘仁年間に、満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えた」
- <注※1>白鳳4年=675年
- <注※2>僧・智通(ちつう)
- 生没年不詳。飛鳥時代の法相宗の僧。658年(斉明天皇4)智達(ちたつ)とともに新羅の船で入唐し、玄奘(げんじょう)およびその弟子基(き)(窺基(きき))に師事した。法相宗は四度にわたって日本に伝わったが、最初に伝えた元興寺(がんごうじ)の僧道昭(どうしょう)に次いで、智通、智達はその第二伝とされる。初伝、二伝は中国法相宗の初期のものを伝え、元興寺伝、南寺伝などとよばれる。大和(奈良県)に観音寺を創して住し、674年(天武天皇3)僧正に任ぜられた。また同年、大和に金剛山寺を開いたともいう。(出典:小学館刊「日本大百科全書」 )
-
- <注※3>弘仁年間=810-823年 平安時代前期 嵯峨天皇の時代
- <注※4>満米上人(まんまいしょうにん)
- 生没年不詳、平安初期の当寺院の僧。当寺院の檀越であった小野篁との地獄巡り伝説に登場する。
<目次へ戻る>
- 4.特記事項
- (1)寺名
- この地が古代から矢田と呼ばれていたところから矢田寺と呼ばれていますが、正式な寺名は金剛山寺(こんごうせんじ)といいます。
- (2)中興の祖・満米上人にかかる伝承
- 寺伝にあるとおり当寺院の中興の祖は満米上人です。この満米上人には有名な伝承が残されています。弘仁年間(810-823年)に当寺院は大きい変化が起こります。本尊が入れ替わったのです。それが何故であったのか、皆が疑問に思い知りたいと思ったのはごく自然の流れです。このためでしょうこの疑問に答えるものが寺伝にありました。それはこの変化を主導した当寺院の僧・満慶と公卿・小野篁、そして冥土界の閻魔王を主人公として語られています。
しかしこの寺伝の前に小野篁とはどういう人であったのか知っておく必要があります。それは寺伝が小野篁と言う人物の伝説を前提に組み立てられているからです。
- @.今昔物語が伝える小野篁の奇怪な物語
-
- 「今昔物語」第20巻第45話に「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」に小野篁という人物が、以下のように登場します。
「今昔物語」第20巻第45話に「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」
「小野篁は、学生の頃、過ちを犯し重罪に処せられるところ、当時宰相であった藤原良相(藤原良房の弟)の取り成しによって事なきを得た。篁はこの時良相に感謝するとともに深い恩義を感じた。
その後、時を経て良相は大臣に、篁は宰相になっていた。ある時、大臣は重い病に罹り、死去してしまった。これを知った閻魔王の使いに、大臣は生前の罪を定めるために、直ちに搦め捕られ、閻魔王宮へ連行される。
引き出された王宮には、冥官達が居並んでいた。しかし不思議なことにその冥官達の中に小野篁がいたのである。これはどういうことかと大臣が思いあぐねていると、篁が閻魔王の前に進み出て、「この日本の大臣は人のために尽くした良き人です。己に免じて今度の罪を許してやってください」と願い出た。閻魔王は「他ならぬ篁の願いなれば許す」と答えられた。こうして活きが選った大臣は、その後、病も癒えた。しかし、この冥途の出来事が記憶に深く残り忘れることはなかったが、口外はしなかった。
そしてある時、役所で偶然、人を交えず話す機会があった。大臣は「良い機会を得た。前々から貴殿に聞きたかったことがある。他でもない、冥途でのあの出来事だ。どう理解すればよいのか教えて欲しい。」と篁に問うた。篁は少し微笑みながら、「先年、大臣より受けた恩義に報いたまでのことです。」と答え、更にこう付け加えた「但し、この事、決して他言されぬように願います、未だ誰も知る者は居ないことですから」
こうして大臣は、篁は只人では非ず「閻魔王宮の臣」だと始めて知り、恐れおののいた。大臣は篁の言いつけどおり他言しなかったが、どこからか自然と世に広がり、皆が知るところとなった。その結果、皆が篁を恐れるようになったと伝えられている」
- 以上、「今昔物語」から少々長い引用となりましたが、小野篁は、昼は宮廷官吏・蔵人頭として出仕し、夜は冥土へ行き、閻魔王宮の冥官として閻魔王の審判を補佐するという、冥府と現世を自由に行き来できる人であったのです。
※小野篁が現世から冥府への入口に使ったという井戸が京都市東山区にある六道珍皇寺本堂の庭にあります。詳しくは本サイトの 六道珍皇寺 をご覧ください。
- A.矢田寺満米上人の伝承
-
- 前述の「今昔物語」で語られる小野篁の超人能力が、矢田寺の地蔵菩薩信仰の興りに纏わる伝承にも深く関わっているのです。では矢田寺の伝承とはどのようなものでしょうか。以下、この矢田寺の地蔵菩薩信仰始まりの伝承を紹介します。
(矢田地蔵縁起)
「いつものように冥府に出仕していた小野篁は、閻魔王から菩薩戒を受けたいが戒師が冥府には居ない、何とかならないかと相談を受けます。これを聞いた篁は、予てより尊崇している矢田寺の僧・満慶をその適任者として紹介します。すると閻魔王は「直ぐにでもこの冥府へお越し願いたい」と篁に命じました。この命に従い、篁は事の次第を僧・満慶に伝えます。満慶はこれを快諾し、ともに冥府に赴きます。そして閻魔王に菩薩戒を無事授けます。
閻魔王はこの礼として満慶が希望した地獄の様子を観ることを許し、自ら案内し回られました。満慶は地獄にあって苦痛に苛まれる亡者を目の前にして身の毛もよだつ思いでしたが、そういう恐ろしい世界で、黙々と亡者に代わって地獄の苦しみを自らの身で受ける地蔵菩薩の姿を発見します。
その姿に深い感銘を受けた満慶はその地蔵菩薩に礼拝するとともに教えを請い願いました。すると、地蔵菩薩は、「苦しみを持つ者・苦しみを恐れる者は我に縁を結びなさい、それにはわが姿を拝み、わが名を唱えるとよい、そうすれば必ず救われるであろう」とお答えになりました。
満慶は閻魔宮を辞して矢田寺に戻ると、その教えに従い直ちに仏師をして地獄におられた地蔵菩薩像を彫らせました。しかし幾度彫っても、その姿を再現することができず、神仏に祈願する毎日が空しく過ぎ去るばかりでした。だが、ある日突然4人の翁が眼前に現れ、三日三晩で地獄で出会った地蔵菩薩そのままの姿を完成させたのです。そして驚嘆する満慶に「我らは仏法守護の神である」と告げると、五色の雲に乗って春日山へ飛び去りました。この尊像が矢田寺の本尊となりました。
ところで、満慶は閻魔王宮を辞する時、閻魔王から手箱を土産として贈られました。持ち帰ってこの手箱を開けると米が入っていました。不思議なことにこの手箱に入っている米は幾ら使っても減らず、常に満杯の状態でした。これを観た人々は僧・満慶を満米上人と呼ぶようになったということです。」
<目次へ戻る>
- (3)伝承と史実
- 以上、大変よくできた聞き応えのある物語です。では史実としてはどうでしょうか。
- @.小野篁
- 小野篁は,実在の人物で、政務能力に優れていただけでなく、平安初期を代表する漢詩文家でもありました。父は『凌雲集』の選者岑守、孫には、小野小町、小野好古、小野道風など多彩です。
<小野篁の略歴>
西暦 |
和暦 |
記 事 |
802 |
延暦21年 |
生誕 父、小野岑守 母(不詳) |
822 |
弘仁13年 |
文章生となる |
832 |
天長09年 |
従五位下・大宰少弐に任じられる |
833 |
天長10年 |
皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられる |
834 |
承和元年 |
遣唐副使(第17次遣唐使)に任命される 遣唐使:藤原常嗣 |
838 |
承和05年 |
遣唐使船への乗船拒否、更に遣唐使派遣への疑義や朝廷批判ともいえる歌を詠み嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ配流される |
840 |
承和07年 |
許され宮廷に官吏として復帰 |
842 |
承和09年 |
承和の変により皇太子となった道康親王(のちの文徳天皇、藤原良房の妹・順子を母とする)の東宮学士に任じられる |
847 |
承和14年 |
参議となり公卿に列せられる |
852 |
仁寿02年 |
12月22日逝去(最終官位:参議左大弁従三位) |
- この略歴でもお判りのように。小野篁は承和14年(847)正月に参議となり、仁寿2年(852)に死去しています。一方、藤原良相(813-867)は右大臣になったのは篁の没後5年後の天安元年(857)2月です。全く伝承とは異なり、むしろ二人は会ったことすら無かったと考えられています。
- A.満米上人と地蔵菩薩信仰
- 満米上人は実在の人物だろうと考えられます。上人は深く地蔵菩薩に帰依し、矢田寺を地蔵菩薩信仰中心の寺へと大転換を断行したのです。それによって矢田寺は地蔵菩薩信仰の草分け的な寺院として大いに興隆します。地蔵菩薩信仰は平安時代中頃から急速に広がりをみせますが、その信仰の広がりの中で満米上人の地獄巡り・地蔵菩薩との出会いという伝承が生まれたというのが史実ではないでしょうか。なお、満米上人と小野篁との関係ですが、小野篁は矢田寺の壇越であったと言われています。
なお、小野篁が夜毎冥土へ行くのに使ったという井戸が京都東山の六道の辻にある「六道珍皇寺」にあります。「篁冥土通いの井戸」といわれるものです。詳しくは本サイトの 六道珍皇寺 のページをご覧ください。
<目次へ戻る>
|