六道珍皇寺
(ろくどうちんのうじ・ろくどうちんこうじ)

六道珍皇寺正門
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.平安京における当寺院の位置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

1.所在地

   京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目  小松町595  (注)駐車場 無し
   ※当寺院の名称について 正式名称は大椿山六道珍皇寺 。しかし、一般では六道珍皇寺あるいは六道さんとも呼ばれ、尊崇されています

2.宗派

   臨済宗建仁寺派  本尊 薬師如来

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3.草創・開基

   珍皇寺の草創には下記のような諸説があるようです。
  1. 空海建立説
  2. 小野篁建立説
  3. 宝皇寺後身説
    宝皇寺とは、鳥辺野山麓一帯に居住した鳥部氏が建立した鳥部寺、あるいは宝皇寺と呼ばれた寺院で、珍皇寺はこの寺院の後身であるとする
  4. 当地の豪族・山代淡海氏建立説
    平安時代の承和3年(836年)に当地の豪族・山代淡海等一族が国家鎮護の道場として建立した とする
   しかし、これら諸説はいずれも確証に欠いているようで、結果として当寺の草創は?という問いには不詳と答えざるを得ないようです。

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4.当寺院を語る上で欠かせない平安京における当寺院の立地条件

   当寺院のある場所は、平安京に暮らす人々にとって以下のように特別な所でありました。
(1)六道の辻と呼ばれた 当寺院の周辺
では、どう特別であったのか、この件について境内の立看板に分かり易く述べられていましたので、これを紹介したいと思います。

「地獄の冥官小野篁の伝説が残る現世と冥界の境界に建つ寺」

「古来、化野、蓮台野とともに風葬の地として知られていた鳥辺野。
  かつての五条通であった門前の松原通は鳥辺野へ亡骸を運ぶ際の通路で会った。現世から冥界へ行く際にの入口とされたこの寺の界隈には様々な伝説が残る。
 平安時代、五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰の一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。
  都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋に当たる六道珍皇寺にて、野辺の送りの法要を行い、この地で最後のお別れの後、風葬の地である鳥辺山の麓へと運ばれた。そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(地獄)への入口とされてきた。 
   この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。衆生は死後生前の善悪の業により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六道の冥界への入口に辺り、こここそが人の世の無常と、はかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。」
このように当寺院は、「現世と冥界の境界に建つ」特別な意味を持つ寺として意識されていたのです。そして、その意識が元になってこの寺院には様々な伝説が生まれていったようです。これら伝説の一つとしてこの看板では次のよう述べられています

「この寺と冥界にまつわる伝説がもう一つある。」

「それは、平安時代の初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという、その出口としては嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明治頃まであった福生寺の井戸だといわれている。」
(2)六道珍皇寺と小野篁の伝説
小野篁とは,実在の人物で、平安時代初頭の官僚で、承和元年には第十七次遣唐使派遣の副遣唐使に選ばれるほどの政務能力に優れていたといいます。しかし小野篁は、このように優れた官僚であっただけでなく、平安初期を代表する漢詩文家でもありました。父は『凌雲集』の選者岑守、孫には、小野小町、小野好古、小野道風など多彩です。
では、その小野篁に関する伝説とはどのようなものでしょうか。これも当寺院の本堂横の看板に詳しく書かれていました。その内容は次の通りです。 なお、
   ※ 小野篁そして関係の深い奈良の矢田寺については、本サイトの 「矢田寺」 をご参照ください。

「篁冥土通いの井戸」

「当寺の本堂裏庭の北東角にある井戸は、平安の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。
言い伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うためにこの鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初といわれている。また「矢田地蔵縁起」にある大和国金剛山寺(矢田寺)の満慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴いたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。
 このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨野大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。 しかし、、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。
これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた東寺の葬所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が冥府よりの帰路に出口としていたとする説もうなづけるところである。
尚、当寺の冥土通いの井戸の傍の小祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。」

当山住持 謹白

六道珍皇寺「篁冥土通いの井戸」 六道珍皇寺「篁冥土通いの井戸」
上の二枚の写真は当寺本堂横に上記説明文とともに掲載されている当寺院庭にある小祠と井戸の画像です

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5.その後の変遷

   当寺院の今日までの変遷は具体的な史料が少なくもっぱら寺伝に頼る以外ないようです。その寺伝によれば、当寺院の創建以降の変遷はおおよそ次のとおりです。
寺伝
「珍皇寺はもと真言宗で、平安・鎌倉期には東寺を本寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃することとなり、南北朝期の貞治3年(1364年)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)により再興・改宗され、現在に至っている。

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6.特記事項

   当寺院の有名な行事として「六道まいり」と「迎え鐘」があります、その行事の意味等は以下の通りで参考にしていただければ幸いです。
(1)「六道まいり(精霊迎え)」
当寺院では毎年お盆前の8月7日から10日までの四日間執り行われる「六道まいり(精霊迎え)」といわれる行事が有名です。
先に紹介したとおり、京の人々はお盆に帰ってくる精霊たちは六道の辻にある当寺院の前を必ず通ると信じておりました。この信心によって人々はお盆が始まるこの四日間に精霊を迎えに当寺院にお参り訪れる習慣が今でも続いています。この行事を「お精霊さん迎え」とも言われています。
(2)迎え鐘
六道珍皇寺「迎え鐘」当寺院境内には右の画像の鐘堂があります。その別名を「迎え鐘」と呼ばれています。その理由を寺伝で、「この鐘は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまでとどくと信じら、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼びよせられる」と伝わっているところから、平安京の人々が、お盆が近づくと精霊たちを冥土から京の都に迎え入れようと願い、お盆の期間中、この鐘を撞くようになったということです。
現在でも、お盆になれば、この「迎え鐘」が当寺院にお参りに訪れた人々によって撞かれ、その音が夏の京の町に響き渡ります。

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7.現在の境内の様子
 珍皇寺正門   門前にある 「六道の辻」石柱
六道珍皇寺正門 六道珍皇寺前石柱「六道の辻」
本堂 閻魔堂
六道珍皇寺本堂 六道珍皇寺閻魔堂
鐘堂 「篁冥土通いの井戸」のある庭全景
六道珍皇寺「迎え鐘」 六道珍皇寺本堂庭
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8.古寺巡訪MENU
<更新履歴>2015/1作成 2016/1改訂 2020/1改訂
六道珍皇寺