唐招提寺
(とうしょうだいじ)
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.平城京における建立地
5.創建時の伽藍配置 6.その後の変遷
7.特記事項
8.現在の境内
9.古寺巡訪MENU
- 奈良市五条町13−46
- 律 宗 本尊:乾漆盧舎那仏座像(国宝)
- 鑑真は天平宝字2年(758)に大僧都の職を辞し、「大和上」の称号と、同時に新田部親王の旧宅であった右京四条二坊の土地を与えられる。翌年、鑑真はこの地に戒律の根本道場とするべく唐招提寺の建立に取りかかった。その伽藍を整えるに当たっては、講堂は平城宮東朝集殿が朝廷から払い下げられ移築、食堂は時の権力者である藤原仲麻呂家が、羂索堂は藤原C河家が、等の寄進を受けて進められた。
しかし鑑真は、その伽藍完成を見ること無く、天平宝字7年(763)に遷化した。来日して10年、享年76歳であった。これを引き継いだのは、唐より同行してきた弟子如宝である。如宝は師・鑑真の意志であり願いである「この地に戒律を広く知らしめるための根本道場の建立する」ことに邁進し、ついに宝亀年間(770−781)に伽藍全体を完成させた。
- 唐招提寺が建立された場所は、天武天皇の皇子・新田部親王の旧宅であった下図の右京四条二坊である。
- 下図の[創建時の寺地」と表示しているところに、南大門、中門、金堂、講堂、食堂が南北に一直線に並ぶ、塔が無いことを除けば奈良時代の一般的伽藍配置である。しかしこの塔も平安初期には下図の位置に建立され寺観は整えられた。
- その後、唐招提寺は律宗総本山として高い格式と権威を誇ったが、平安期には次第に衰退し荒廃したという。
しかし、鎌倉時代の寛元2年(1244年)に当寺に入った覚盛(かくじょう)上人が、律学の復興に尽力するとともに、伽藍の修復整備にも力を注いだ。その結果、唐招提寺は「叡尊が復興した西大寺と並び南都中世戒律復興運動の二大拠点」とまで言われる復興を果たした。
← 南大門
昭和35年(1960)に天平様式に従い再建されたもので、5間の中央に三つの扉をもち、切妻造である。金堂 正面左側から見た金堂 当寺院創建時は小規模ながら金堂があったとされるが、現存のものは鑑真和上没後の宝亀年間(770−781)に弟子如宝により造立された。 奈良時代に建立された寺院金堂として現存しているのはこの堂が唯一のものである。 ← 講堂
鑑真和上が唐招提寺を建立にあたり、平城宮朝堂院の東朝集殿を朝廷より払い下げられ、移築改修されたもので、平城宮廷建築物の唯一の遺構として重要な価値があり国宝に指定されている← 鼓堂
金堂と講堂の間の東側に建てられている。元来は鑑真和上が将来した3000粒の舎利を祀る舎利殿であったが、江戸時代から鼓楼と呼ばれるようになったいう。なお、現存のものは、鎌倉時代の仁治元年(1240)に再建された。また、この楼は毎年5月19日鎌倉時代に戒律を復興した覚盛上人の中興忌梵網会(うちわまき会式)が行われ、その際、楼上からハート型のうちわがまかれることで良く知られている。鐘楼 礼堂・東室 鼓楼と対をなす建造物である。創建時の建造物はないが、梵鐘は数少ない平安時代初期の作である。(重要文化財) 講堂の右にあり、写真の通り南北に長い建築物で、元々は僧坊であったが、前半分を礼堂に改修されている。創建は鎌倉時代の弘安7年(1284)。 宝蔵 経蔵 < 宝蔵、経蔵ともに新田部親王邸に元々あったものを利用したもので、建築は唐招提寺が建立された天平宝字3年(759)以前となる。奈良時代校倉造りの典型的なものとして価値が高く国宝に指定されている。 鑑真和上御廟 御廟の門をくぐると苔むした庭園がある 御影堂 戒壇 興福寺別当一乗院の宸殿を昭和38年に移築復元された建物。鑑真和上の座像が安置され御影堂と称している。またここには東山魁夷画伯の障壁画あるのでも有名である。 創建時から戒壇院があり鎌倉時代の弘安7年(1284)に再建された説と弘安7年が創建との説がある。東大寺戒壇院と同様に建物があったが現在は戒壇のみが遺構として残っている。
<更新履歴> 2010/10作成 2012/9補記改訂 2015/12補記改訂 2020/11補記改訂
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