1.所在地 |
奈良市般若寺町221 |
2.宗派 |
真言律宗 |
3.草創・開基 |
(1)寺伝では次の通り述べられている
- その草創を日本「三論宗」の初祖、高句麗の僧・慧潅法師が舒明天皇元年(629)に、この地に瑞祥を見て「般若台」と号する精舎を開創された
- 天平7年(735)に聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため『大般若経』六百巻を地中に納め、卒塔婆をはじめ伽藍を整え勅願寺とし、そのとき経題に因み「般若寺」と命名された
以上、般若寺HPより
※なお、慧潅(えかん)は推古33年(625)高句麗王の命で来日した僧である。
弟子には有名な道慈がおり、日本における三論宗の始祖といわれる。
- (2)創建は天平期以前
- 以上のような寺伝であるが、史実としての草創・創建については、残念ながら確証となる資料は残されておらず、詳細は不明である。ただし、境内の発掘調査や、正倉院文書に般若寺の名が天平14年、天平勝宝2年の日付で記載されていることから創建は天平期以前であることは確実視されている。
いずれにしても今日から1200年前には創建され、幾たびもの衰退復興を繰り返しながらも現在まで法灯を伝えている日本有数の古刹であることに相違ない。
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4.創建時の伽藍配置 |
- 奈良時代から平安時代には多数の僧が学ぶ学問所として隆盛していた
- 寺院規模は、敷地面積が江戸時代でさえ記録によれば36,000坪を有していたとあることから、当時はこれ以上の広さであったと思われ、七堂伽藍を整えた当時でも有数の寺院であったと想像される。
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5.その後の変遷 |
- 当寺院の立地は、楼門の前の道が古代より京都と奈良を結ぶ「京街道」として重要な交通路で、戦乱が起こればその争奪戦場になった。
- そのため平安後期から幾たびかの戦乱に当寺院は巻き込まれ盛衰を繰り返すことを余儀なくされてきたのである
- 先ず、治承4年(1180)5月の平重衡の南都焼き討ちの際に、この地が戦場になり伽藍全てが焼失
- その後は、廃寺同然と化していたが、鎌倉時代に入って建長5年(1253)頃、東大寺再建のため来日していた宋人伊行末がこの寺地に石造十三重塔建立に着手し、これを東大寺の僧良恵(りょうえ)が完成させる
- さらに西大寺の僧・叡尊・忍性が本格的な復興に着手し、文永4年(1267)に本堂などの主要な建物を完成させた。
- 室町時代に入って当寺院は本尊の文殊菩薩が霊験あらたかとの評判を呼び栄えた。
- しかし文明7年(1475)、筒井舜覚の陣営に使われ堂舎は大破する。
- さらに室町時代後期の延徳2年(1567)松永久秀と三好三人衆との戦乱の被害を受けて又も楼門、経堂以外の主要伽藍を焼失
- 江戸時代に入って寛文7年(1667)に本堂が再建され、法灯を継ぐ
- しかし、明治に入って今度は明治新政府の廃仏毀釈の愚行によって廃寺に追い込まれたが、廃仏毀釈の終息とともに復興し、現在に至っている
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6.特記事項 |
別名コスモス寺
- 関西花の寺二十五霊場の17番札所に名を連ねる「花の寺」
- 別名コスモス寺とも呼ばれ、9〜10月にかけて境内にはおよそ10万本のコスモスが咲く
- 北山十八間戸
- 北山十八間戸は般若寺から南に500m程下った所にあります。
鎌倉時代の西大寺の僧・忍性は般若寺の再興に尽力しました。と同時に、非人や貧窮病者、特に癩病を病む人々の救済のために般若寺の北に「北宿」という救護所を建て、これを拠点として行基・文殊菩薩信仰による社会事業を積極的に行います。北山十八間戸はこの「北宿」に関連する施設として知られ、国の史跡に指定されています。
詳しくは当サイトの 北山十八間戸 のページをご覧下さい。
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7.現在の境内 |