不退寺(不退転法輪寺)
(ふたいじ)

不退寺
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
奈良市法蓮東垣内町517  駐車場 無し
2.宗派
真言律宗   本尊:木造聖観世音菩薩立像
3.草創・開基
在原業平系図不退寺を訪ねると頂ける「南都花の寺 不退寺」の小冊子には不退寺の由緒として、次のように記載されています
「仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。
業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となつた。略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。」
このように不退寺は在原業平が父・阿保親王の菩提を弔うために、この地に建立した寺院です。

ではこの父・阿保親王や在原業平とはどういう人物だったのでしょうか。

<目次へ戻る>

(1)在原業平
在原業平は、右上の系図のとおり祖父は平城天皇、母方の祖父は桓武天皇です。もし皇位継承者であれば、当然の如く上位に位置する申し分のない血脈を有する人物でした。その高い血統を誇る業平ですが、今日まで良く知られるようになったのは、その血統ではなくその美しい容貌から「伊勢物語」の禁断の恋に浮き名を流す「昔男」のモデルではないかということと、六歌仙・三十六歌仙の一人で和歌の名手であることです。

しかし、やはり気になるのは業平の余りにも高い血統です。世が世であればいつでも天皇になり得る血統を誇る業平が、何故に在原姓を名乗り、臣下の身分であったのでしょうか。それを調べてみました。その理由は、祖父・平城天皇の「平城太上天皇の変」(薬子の変)にありました。

(2)平城太上天皇の変(薬子の変)
平城太上天皇の変(薬子の変) は、桓武天皇の死後の平安時代初期に起こった平城上皇と嵯峨天皇の抗争事件です。平城上皇と嵯峨天皇の関係は、桓武天皇の皇子であり、兄・平城は上皇、弟・嵯峨は天皇でありました。

抗争の原因はいったんは弟・嵯峨天皇へ譲位した平城上皇が復権を画策したことにありました。そして、その抗争の具体的な経緯を分かり易くするため時系列の表にすると次の通りです。
西暦 和暦 出来事
806 延暦25年  桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位
809 大同4年4月 平城天皇、発病。その病を「早良親王や伊予親王の祟り」と恐れ、その禍を避けるために譲位
810   大同4年12月 平城上皇、旧都・平城京へ移る(平城京北東の地に萱葺きの御所(萱の御所)を造営する)
嵯峨天皇の観察使廃止案等によって、二所朝廷といわれる対立が起こる
大同5年3月 嵯峨天皇,,、蔵人所を新たに設置
大同5年6月 嵯峨天皇,,、観察使を廃止し参議を復活(これに平城上皇との関係悪化決定的となる)
大同5年9月6日  平城上皇、平城京遷都の詔勅を出す
嵯峨天皇、この詔に従い坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命し、平城京へ派遣する(実際は上皇側牽制が目的)
大同5年9月10日 嵯峨天皇、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁、詔によって薬子の官位を剥奪
大同5年9月11日 平城上皇、自ら薬子とともに輿にのって挙兵を目的に東国に向かう。
しかし、大和国添上郡田村まで達したとき嵯峨天皇側兵士に阻まれて断念
大同5年9月12日 平城上皇、平城京に戻り剃髮して出家。薬子は服毒自害。
大同5年9月13日 嵯峨天皇、高岳親王(平城上皇第三皇子)を廃太子し、大伴親王を立太子させる
大同5年9月19日 阿保親王(平城上皇第一皇子)、太宰府へ太宰権帥として左遷される
823 弘仁14年4月 嵯峨天皇、大伴皇太子(淳和天皇)へ譲位する
824 天長元年7月 平城上皇没(51才)、阿保親王、許され平安京へ還る
826 天長3年 阿保親王、子息の行平・業平の両名の臣籍降下を願い出て許され在原朝臣姓を賜与される
847 承和14年 「仁明天皇の勅により御殿を寺とする」(寺伝)

(3)父・阿保親王が、行平、業平の臣籍への降下を願い出る
上表の通り天長3年(826)、阿保親王は子息の行平・業平の両名の臣籍降下を願い出て許され、在原朝臣姓を賜与されています。何故でしょうか。その理由は今となっては定かではありませんが、ただ言えることは弘仁14年(823)に即位した淳和天皇と嵯峨上皇との間では、早くも次の皇位継承を巡って事ある毎に牽制し合うという微妙な状態にあったのです。

先述したとおり阿保親王とその子息は、平城太上天皇の変(薬子の変)の敗者であるとはいえ、皇位継承者として申し分のない高貴な血脈を有していました。それ故に万一抗争が起これば何時巻き込まれてもおかしくない立場にあったのです。この状況と穏やか阿保親王の性格を勘案すると、あくまで推測ながら阿保親王の臣籍降下申請の理由は、朝廷内で起ころうとしている抗争から二人を護ろうとしたのではないか考えられるのです。

推測の可否はともあれ阿保親王のこの決断は、結果として行平や業平を救うことができたようです。即ち、業平は陽成天皇の時には従四位上、蔵人頭にまで叙任さるまでに至ったのです。ただし、天皇にもなり得る由緒正しき血統を誇る業平にとって蔵人頭など片腹痛い役職であったかも知れませんが。。。

(4)在原業平がこの地に不退寺を建立した理由
いずれにしても在原業平は、このように父・阿保親王によって救われました。業平自身が宮仕えに際して宮廷内の悪意に満ちた権謀術策を見聞きする度に、そうした災いを除いてくれた父への感謝の念は益々深まったのではないでしょうか。そしてその度に父のゆかりの地に父を弔う寺を建立するのだという思いを強くしたはずです。
ここは、祖父の平城上皇そして父・阿保親王が住まいした所であり、そして業平自身が幼少の頃父・阿保親王とともに暮らした地です。 まさにこの地は父のゆかりの地そのものだったのです。

<目次へ戻る>

4.その後の変遷
当寺院の今日までの変遷は具体的な史料が少なくもっぱら寺伝に頼る以外ないようです。その寺伝によれば、当寺院の創建以降の変遷はおおよそ次のとおりです。
  • 治承4年(1181)12月、平重衡による南都焼き討ちによって当寺院も焼亡し荒廃する
  • 鎌倉時代に入り、西大寺の僧・叡尊によって再興が図られ、鎌倉・室町時代を通じて伽藍整備が行われる
  • その後隆盛したものの戦乱続く世にあって再び次第に衰退した
  • 慶長7年(1602)徳川幕府によって寺領50石を得て、以降法灯を護り今日に至るという
5.特記事項
(1)正式な寺号  不退転法輪寺 別名「業平寺」
(2)不退寺は、春のレンギョウをはじめ四季折々の花々を愛でることが出来る「南都花の寺」としても知られています。

<目次へ戻る>

6.現在の境内
本堂 多宝塔
不退寺本堂 不退寺多宝塔
室町時代前期建立 正面5間側面4間(重文)昭和5年、この本堂解体修理の時「こけら経(※1)」(寺宝)が発見されている

(※1)「こけら経」とは、
薄い木の板(柿=こけら)に写経することにより故人の追善供養や本人の後生安楽などを祈るため制作され寺院に奉納された
鎌倉時代建立 建立寺は二層の多宝塔であったが、上層部が江戸末期から明治初期に取り払われ現状は単層となっている(重文)
 南大門
 不退寺南大門
 業平格子
業平格子
業平が好んだという斜め二重格子が本堂正面に使用されている   鎌倉時代末期建立(重文)
<目次へ戻る>
 7.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2014/1作成 2016/1改訂 2018/2補記改訂 2020/11補記改訂
不退寺