秋 篠 寺
(あきしのでら)


Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU
※.秋篠寺年表
1.所在地
奈良市秋篠町757    駐車場 東門右手に有り、無料
2.宗派
創建時は法相宗、その後平安時代は真言宗、明治初期は浄土宗などを経て現在は単立寺院.。
本尊:薬師三尊像(中尊:薬師如来、室町時代作 脇侍:日光菩薩 月光菩薩、藤原時代作)
以上、いずれも重要文化財
3.創建・開基
3-1.秋篠寺と堀辰雄著「大和路・信濃路」
秋篠寺と言えば必ず紹介されるのは 作家・堀辰雄の「大和路・信濃路」にある次の文章です。

<午後、秋篠寺にて>
「いま、秋篠寺《あきしのでら》という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女《ぎげいてんにょ》の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱《あか》い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香《こう》にお灼《や》けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。」

(参考)ミューズ【Muse】とは:ギリシア神話で、人間のあらゆる知的活動をつかさどる女神たち。その数は不定、後には一般に九人。ローマ時代に各女神の支配する分野が定まった。現在は詩や音楽の神とされる。ギリシア語名 (出典:広辞苑)

 この堀辰雄の名文によって、秋篠寺の技芸天像は一躍、仏像のスーパースターとなりました。昨今の秋篠寺にお参りされる方々の大半はこの技芸天像を拝観することが目的だろうと言われるほどです。 そして現代人の多くは、技芸天立像の存在と堀辰雄のその名文によって、優雅でロマンティックなイメージを秋篠寺に抱くこととなったのではないでしょうか。

  ところが、秋篠寺創建にかかる歴史を紐解いていくと、現代人が抱く秋篠寺のイメージとはおよそかけ離れた側面が浮かび上がってきます。秋篠寺創建期には、宮廷において権謀術策に満ちた暗澹たる権力闘争が繰り返されておりました。時代は大きく変わろうとしていました。秋篠寺は、まさにその渦中で権力者の様々な思いを背負って建立された寺院だったのです。その様々な思いとは何であったのか、これを中心にこのページでは語りたいと思います。

3-2.秋篠寺創建目的と光仁天皇
 秋篠寺は、称徳天皇の崩御によって即位した光仁天皇によって創建されました。そしてその後、桓武天皇の手によって堂々たる七堂伽藍を整えた官寺・秋篠寺が完成されたと考えられています。そして、 創建された時期は、光仁天皇の晩年の宝亀7年(776)から宝亀11年(780)の間頃であろうと推定されています。

 では、その目的は何かですが、自らの老いの深まりの自覚と一族の繁栄を祈願しての寺院建立というのが、光仁の年齢を考えれば最も妥当なところではないかと思えます。ところが光仁が即位して秋篠寺建立に至る間に起こった諸事件とを併せて考えると、この一般的な建立目的だけではなかったのではないかという、もう一つの理由が浮かぶ上がってきます。
 それは光仁天皇が終生、悩まされ続けたのではないかと思える井上内親王と他戸親王の怨霊の存在です。晩年を向かえ、ますます膨張する祟りへの恐怖、これが秋篠寺建立に駆り立てたのではないかというものです。

 それでは光仁天皇を悩ました怨霊について詳しく見てみましょう。それは、光仁天皇が即位に至るところから始まります。

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  (1)光仁天皇即位の意味するもの
  ・称徳天皇の崩御
光仁天皇は、称徳天皇崩御をうけて神護景雲4年(770)8月立太子します。称徳天皇の死は、従前より懸念されていた皇太子不在が現実の問題として顕在化したことを意味します。皇太子不在のままの天皇の崩御はたちまち政局の不安定化、強いては混乱に直結します。そのために急遽、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備らが、立太子候補選定の協議に入ります。
  ・藤原永手と吉備真備の対立
ところが、その協議で、永手は白壁王(光仁天皇)62歳を、吉備真備は天武天皇の孫である文室大市王(ふんやのおおいち)67歳を推挙して対立し膠着状態になりました。対立の原因は、天武天皇以来守られてきた天武系の王を立太子させる否かの一点でした。 永手の推す白壁王は天智天皇の第七子である施基親王の第六子で天武系ではなかったのです。ここに吉備真備は固執したのです。
  ・井上内親王・他戸親王が決め手となった白壁王の立太子
井上内親王系図 残された時間は刻々と迫っていました。ここで永手は窮余の策に出ます。白壁王の立太子は称徳天皇の遺言だとしたのです。称徳天皇の孝謙天皇時代に引き立てられて以来、今がある真備にとっては、恩ある称徳天皇の遺言だとされれば、引き下がらざるを得ませんでした。それと幸いにも妥協できる点が一つありました。それは、白壁王の妻が聖武天皇の娘・井上内親王であること、そして既に白壁王との間に生まれた他戸親王の存在です。つまり、白壁王の即位は天武系の血を引く他戸親王即位までの”つなぎ”と考えられるではないか、という認識です。これは、白壁王推挙した永手にとっても、暗黙の認識であったのかも知れません。この紆余曲折を経て、天智系の白壁王の即位が同年10月実現しました。そして、永手らの望んだとおり翌11月には井上内親王が皇后に、他戸親王は皇太子となったのです。
  ・井上内親王の廃后と他戸親王の廃太子
 こうして光仁天皇の時代が始まりました。その年齢は、当時とすれば老齢の域に達している62歳でした。光仁の天皇としての正当性は宮廷内外誰が見ても聖武天皇の娘である皇后井上内親王とその孫・皇太子他戸(おさべ)親王の存在にありました。この宮廷内外の見方を代表するのは、誰あろう光仁の天皇即位を実現させた左大臣藤原永手でした。果たしてそこまで永手が考えていたかどうか何の確証もありませんが、少なくとも光仁天皇はそう捉えていたようです。それは永手が死去するのを待っていたかのように起こった以下の重大な事件が何よりも濃厚にそれを物語っています。
 左大臣藤原永手は即位の翌年(宝亀2年(771)2月に亡くなります。そして、翌年の宝亀3年(772)3月、皇后・井上内親王が天皇を呪詛したとして廃后され、同年5月にはそれに連座して他戸親王の廃太子される事件が起こったのです。これは後年何者かによって仕組まれた冤罪であったことが判明しますが、それは兎も角、これによって翌年1月に光仁天皇の実子・山部親王が立太子します。ここに光仁天皇即位の正当性は完全に反古にされました。しかし、この時、既に前の右大臣吉備真備は白壁王立太子と同時にその職を辞し政界から引退しておらず、誰も表だって異議を唱える者はなかったのです。全てが計算ずくでの事件だったと言えます。
  ・天武系から天智系へ
白壁王(光仁天皇)系図 しかし、光仁天皇にとってその皇統の正当性は必要絶対条件です。天武系天皇の承継者としての正当性を反古にした今、それに代わる皇統の正当性を世に示さなければなりません。先ほど井上内親王と他戸親王の排除事件は何もかも計算ずくだと述べましたが、この点でも光仁天皇には抜かりはありませんでした。
 光仁天皇は、井上内親王立后と同時に、父である施基親王(天智天皇の第七子)に春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の称号を、その翌年には母である紀橡姫(きのとちひめ)に皇太后を追贈していたのです。この追贈の意味するところは、父母を天皇・皇后にしたことによって、その子・光仁が天智天皇から連なる天智系の皇統であるという正当性を得ることでした。なにやら付け刃的な理屈ではあるものの、光仁天皇は皇統の歴史のなかで一際燦然と輝く天智天皇の皇統であるという体裁はこれによって整えられたのです。こうして、井上内親王と他戸親王の排除以降は、公然と光仁天皇は天智系の皇統であるという正当性を主張したのです。まさに良くできた台本の筋書き通りに、事は進められたというほかありません。
  (2)井上内親王と他戸親王の怨霊と秋篠寺の創建
  ・井上内親王と他戸親王の怨霊とその祟り
 先に述べたとおり、光仁天皇は即位後二年目(772年)に皇后・井上内親王を、光仁天皇呪詛の罪によって廃皇后、その実子・他戸親王を廃太子とし、大和国宇智郡の一所に蟄居させますが、その後二人とも怪死します(775年)。この事件によって新たに立太子したのが、光仁天皇の妃・高野新笠の子・山部親王 (桓武天皇)です。
 ところが、この事件の二年後の宝亀8年(777)、国のナンバーワンである光仁天皇、ナンバーツウである皇太子・山部親王が相次いで病に倒れるという光仁朝存亡にかかわる事態が起こります。光仁天皇をはじめ官僚達は、これは井上内親王と他戸親王の怨霊に祟られているからだと考えたようです。それは、山部親王罹病の翌月に当たる宝亀9年1月(778)に井上内親王の遺骸の改葬を実施していることが何よりも物語っています。
  ・怨霊の祟りと秋篠寺の創建
 秋篠寺の創建時期には、宝亀7年(776)説と宝亀11年(780)の二説があります。
 先ず宝亀7年説ですが、この根拠になっているのは、室町時代の嘉吉元年(1441)に編纂された興福寺の「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」にその旨の記載があることによっています。
 一方、宝亀11年(780)説は、続日本紀の宝亀11年6月5日(勅として)封百戸を永く秋篠寺に施入する」との記載が根拠となっています。
 ここでお気づきのとおり、前述の井上内親王と他戸親王の怨霊の祟りと恐れられた時期と秋篠寺の創建時期が妙に符合しているのです。もしこれが偶然であればあまりにも出来過ぎた偶然ではないでしょうか。
 いずれにしても秋篠寺は、この二説のいずれかに創建されました。そして、781年に光仁天皇は崩御され、秋篠寺伽藍整備は桓武天皇に引き継がれます。

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3-3.秋篠寺伽藍整備と桓武天皇
 光仁天皇が創建した秋篠寺は桓武天皇に引き継がれますが、引き継いだ桓武天皇も光仁天皇と同じように怨霊に悩まされ秋篠寺に頼ることになります。それはどういうものであったのでしょうか。以下をご覧下さい。
  (1)桓武天皇の即位
桓武天皇系図 桓武天皇の母・高野新笠は、百済系の渡来人・和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、母・土師真妹は土師氏の出身でした。これは天武系天皇約百年の皇統ではあり得ない出自であったと言えます。 しかし、山部親王(桓武天皇)は、光仁天皇即位の時には既に35歳の新進気鋭青年でした。この青年に期待し、立太子へと画策したのは藤原百川や藤原良継です。これによって井上内親王は廃后、他戸親王も廃太子に追い込まれ、換わって立太子したのが山部親王(桓武天皇)です。そして光仁天皇が崩御し、百川などが期待したとおり桓武天皇が即位したのです。即ち、桓武天皇の即位は正嫡である他戸親王を謀略によって追い落として成立したとも言えるのです。
  (2)早良親王の廃太子
 桓武天皇の即位とともに立太子した弟・早良親王が、延暦4年(785)に起こった造長岡宮使・藤原種継暗殺事件の首謀者との嫌疑がかけられたのです。早良親王は無実を訴えると同時に抗議のため絶食しますが、訴えは認められず空しくも餓死するに至ります(785年)。
 この早良親王の死によって、桓武天皇は念願の実子・安殿親王(後の平城天皇)を立太子することが叶いました。 しかし、これ以降、怨霊となった早良親王に桓武天皇は悩まされ続けることとなったのです。
  (3)度重なる近親者の不幸
 それは先ず夫人藤原旅子の死去に始まります。そしてこれ以降、桓武天皇は立て続けに近親者を失うという不幸に見舞われたのです。これを列挙すると以下のとおりです。
       延暦7年(788)5月、夫人・藤原旅子死去
       延暦8年(789)12月、皇太后・高野新笠(桓武天皇生母)死去
       延暦9年(790)閏3月、皇后・藤原乙牟漏死去
                            7月、后・坂上大宿禰又子死去
 そして、この引き続く不幸の最中に、皇太子・安殿親王までが病に罹り、その症状が長く一進一退の状態が続き、延暦9年(790)9月には、京内(長岡京内)七カ寺で皇太子病気平癒祈願の読経を命じるに至ります。
  (4)原因を早良親王の祟りと政府機関が正式に認定
 しかし皇太子・安殿親王の病はいっこうに回復の兆しは見えず、その原因は何なのか、桓武天皇をはじめ政府要人に不安が広がりました。そこでこれを政府の正式機関である神祇官に「卜」を、即ち占いによってその原因解明をするよう命じます。
 その結果は皆が懸念していたとおりでした。「 この安殿皇太子の病の原因は、早良皇太子の祟り」(延暦11年(792)6月)。そこで、早良親王が葬られた淡路に諸稜頭(しょりょうのかみ)を派遣し、墓所に墓守を設置するなどして整備し、ひたすら怨霊を鎮めようと努めます(日本記略)。そしてこの墳墓の整備によって、政府機関が正式に認定した「早良親王の祟り」は、公式見解としては一応の終息を見たようです。
  (5)再び登場する秋篠寺
 しかし実際のところこれによって皇太子・安殿親王の病気が平癒したのかどうかは不明です。この点について興味深い記事が「扶桑略記」に残されています。
 「秋篠寺の僧・善珠が、早良親王の亡霊が安殿親王を悩ました時に、般若を転読して其の病を除いた。善珠はこの功によって延暦16年(797)に僧正に任じられた」、そして、善珠が、この4カ月後の4月に没した時に「皇太子安殿親王は善珠の像を秋篠寺に安置した」というのです。
 これを素直に読めば、安殿親王の病・早良親王の祟りは、秋篠寺の僧・善珠によって除かれ、安殿親王は救われた、そして、安殿親王は善珠が卒した後も善珠の法力によって早良親王の祟りから護ってもらうことを期待してその像を安置したということになります。
 このように、秋篠寺がここでも桓武天皇の怨霊鎮魂に重要な役割を果たしていることが伺えます。
 そして、延暦13年(794)に平安京遷都が行われ、桓武天皇が主導した秋篠寺の伽藍整備がこの頃に完了しているのです。

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4.秋篠寺創建時の伽藍配置

秋篠寺伽藍配置図秋篠寺は1970年に発掘調査が行われています。

その結果寺伝のとおり、現在の金堂のある場所は創建時の講堂がありその前に金堂、さらにその前には東西五重塔を備え、規模は兎も角も七堂伽藍を備えた寺院であったことが明らかになっています。

右の図は、現在の秋篠寺の境内を参考に作成したものです。
中門左右から伸びる回廊は、薬師寺式伽藍配置であれば講堂に取り付いて閉じられていたと思われます。従って右図はあくまでイメージとしてご参照ください。

    青色点線:創建時伽藍配置イメージ
  黒色実線:現在の秋篠寺境内図
 (境内図は秋篠寺パンフ「秋篠寺小誌」を参考に作成)

5.その後の変遷
  • 延暦16年(797)4月、僧正・善珠没。皇太子安殿親王は善珠の像を秋篠寺に安置する
  • 延暦24年(805)、僧・常楼、勅旨により秋篠寺に置かれる
  • 大同元年(806)、桓武天皇五七忌、大安寺と秋篠寺で行われる
  • 承和元年(834)、入唐僧・常暁、唐より大元帥御修法を伝え、秋篠寺が一時期、真言密教の霊場となる
  • 保延元年(1135)兵火によって焼亡
  • 鎌倉時代、焼け残った講堂を本堂として再建される
  • 嘉元年間(1303-6)に、その寺領を巡って西大寺と争論起こる
  • 文禄4年(1595)豊臣秀吉、寺領100石を安堵し、徳川幕府も江戸時代初期これを追認
  • 明治初期、廃仏毀釈によって大半の寺域を失う
  • なお、秋篠寺の歴史をより分かり易く理解するために、秋篠寺創建に深く関わった思われる光仁天皇の即位(770)から、入唐僧であり当寺に一時住した常暁が大元帥御修法を持ち帰った年(839)までの約69年間に起こった事件を年表化したページ 「秋篠寺関連年表」 のページを設けています。参考にご覧ください。

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6.その他・特記事項
(1)光仁天皇創建説と豪族・秋篠氏の氏寺説
 「秋篠寺の創建」の項で当寺院の創建時期について、宝亀7年(776)説と宝亀11年(780)の二説があることを述べましたが、それより以前の問題として、当寺院は、当時この地域を本拠としていた豪族・土師氏(後に秋篠氏と改姓)の氏寺・内経寺を光仁天皇が官寺としたという説があります。このことを長岡篤氏が著書「草創期の秋篠寺をめぐって−とくに京北立田図との関連において−」のなかで、「一つの仮説」とされながらも以下のとおり述べられています。
 「秋篠寺の前身である内径寺は、当初その伽藍は、「京北班田園」にあるように、南大門、金堂、講堂、香水井などからなっていて、東西両塔はなかった。このような規模の寺に宝亀十二年、光仁天皇(そこには皇太子山部親王=桓武天皇の意思が動いていたと考えられる)から、寺封百戸の施入を受けて官寺化し、このころから東西両塔の建設が開始され、大同三年ごろまでに完成したのである。
 (中略)秋篠寺はどのような性格の寺であったろうか。その存在は宝亀11年以前にさかのぼりうることは確実であり、最初から官寺ではなかったのであるから、その創建の当初において、当然、土着の豪族であり、後にその地名をもって姓とする土師氏一族=秋篠氏との関係、その氏寺としての性格が考えられる。」1978/10/31第一版三一書房刊 民衆史研究会編著 「民衆史の課題と方向」
 光仁天皇の権力基盤はその即位の経緯が示す如く大変脆弱なもので、やるべき事は何よりもその基盤を強固にすることでした。当時の朝廷の財政は、前帝の西大寺建立などによって疲弊していました。表だっては恭順を装う天武系皇親やその支持勢力に思わぬ口実を与えることは避けねばならなかったのです。そういう中で、巨額の財政支出をともなう新たな官寺の建立は、先ず考えられないことであった言えます。
 こうした当時の状況から考えれば、秋篠寺は、秋篠氏の氏寺・内経寺を前身とし、光仁天皇によって官寺とされたとする長岡氏の見解は、最も妥当な結論ではないかと筆者も思います。
(2)秋篠寺鎮守社・八所御霊神社
秋篠寺鎮守社・八所怨霊神社 八所御霊神社は、秋篠寺南門前にあります。この神社は、本来秋篠寺の鎮守社であったものが、いつ頃からか奈良の大寺には例の見ない八柱の怨霊鎮護の社となったといわれています。祀られている八柱とは、崇道天皇(早良親王)・井上内親王・他戸親王・藤原広嗣・伊予親王・藤原大夫人(伊予親王の母・藤原吉子)・橘逸勢(たちばなのはやなり)・文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)です。いずれも政争の敗者として非業の死を遂げ、深い恨みを残して怨霊となったと恐れられた人々です。 ここでも桓武天皇の恐れた怨霊と秋篠寺との深い繋がりが垣間見えます。

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7.現在の秋篠寺境内
  秋篠寺へはバスでは秋篠寺前で、車では当寺院の駐車場で下車ということになります。いずれもこれらは東門近くにあるため、多くの方は秋篠寺へのお参りはこの東門から入山されることになります。しかし奈良時代最後の官寺として当寺院が持つ独特の雰囲気を感じるには、少し遠回りしてでも南門から拝観されるのがお勧めです。以下、その順路に沿って当寺院の境内を紹介します。
南門   東塔基壇跡
秋篠寺南門   秋篠寺東塔基壇跡
 南門は創建当時中門があったところに位置しています。この門を一歩踏み入れると、鬱蒼とした木々が生い茂る静寂な世界が眼前に広がり、吸う空気までもが異なったように感じます。   南門を入って歩を進めると右手奥に東塔礎石とその基壇跡があります。この礎石は西大寺に残る礎石に極似していることからも、秋篠寺が官寺として整備され始めた時期が推定する手がかりとなっています。
西塔跡   金堂跡
秋篠寺西塔跡   秋篠寺金堂跡
東塔基壇跡の反対側には林立する木々とその下には苔むす緑の一画があり、この奥に西塔基壇が残っています。   さらに進むと左手に金堂跡があります。ここも一面濃い緑の苔がその地を覆っています。そして所々に金堂の礎石を見ることができます。
本堂  
秋篠寺本堂   そして本堂に至ります。鎌倉時代に、焼け残った講堂を修復したともありますが実質上はやはり再建されたとする方が有力なようです。建築様式は奈良期の様式を踏襲しており、正面5間側面4間の飾り気の少ないすっきりとした建物です。堂内には本尊の薬師如来座像をはじめ著名な技芸天立像など多数の仏像が安置されています。
大元堂    
秋篠寺大元堂   この堂には、当寺院別尊の大元帥明王像が安置されています。秘仏とされ毎年6月6日の開扉されます。この大元帥明王を伝えたのは、空海の弟子・常暁です。常暁は、遣唐使船によって留学僧として承和5(838)年6月入唐した平安期の入唐八家の一人です。大元帥修法は、怨敵・逆臣の調伏や国家鎮護を祈る真言密教の法で、その法力は凄まじいとされ朝廷により封じられた秘法中の秘法でした。平将門の乱、元寇などの危機に際して禁裏で行われ朝廷を救ったされています。
開山堂   十三社
秋篠寺大元堂   秋篠寺十三社
当寺院の開祖とされる善珠を祀る御堂です。善珠が卒した時、皇太子安殿親王が祀った善珠画像が安置されているとのことです。   春日大社はじめとする十三の社が横一列に並べて祀られています。重要文化財であるかないかとは関係なく往時の神仏習合を如実に物語る、これも貴重な遺産です。
香水閣  
秋篠寺香水閣   僧・常暁が当寺院にあるときに、閼伽井の水面に映る大元帥明王像を見たという故事に因んで,大元帥修法が毎年正月七日宮中で行われる時の神泉は、この香水閣の閼伽井から汲み上げられ、この秋篠の地から平安京禁裏まで運ばれました。
なお、この儀式は、以降天皇が東京へ遷る前年の明治4年まで連綿と続けられました。平安期以降の朝廷が、何事も先例主義の硬直した公家政権であったとは言え、大元帥修法がいかに重要な儀式とされたかがわかります。
東門  
秋篠寺東門   先述のとおり通常、秋篠寺へはこの東門を使用します。今回は奈良時代最後の官寺・秋篠寺の持つ独特の雰囲気を存分に味わっていただく為、少し遠回りして南門から案内しました。秋篠寺は時代が変わろうとする大きな節目に建立された寺院です。それだけに時代に翻弄された人々の様々な思いが境内の奥深くに沈殿しているように思います。
この苔むした境内に佇んでいると、今尚、それらが地中深くからそれぞれの思いを込めた眼で、訪れた者をじっと凝視しているような幻想にとらわれます。秋篠寺。必ず訪れたい寺院の一つです。
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8.古寺巡訪MENU
 

<参考文献>講談社学術文庫刊 宇治谷孟著「続日本紀(下)」・ 講談社刊坂上康俊著「日本歴史05律令国家の転換と「日本」」・中公新書遠山美キ男著「天平の三姉妹」・臨川書店刊大江篤著「日本古代の神と霊」・三一書房刊民衆史研究会編著「民衆史の課題掲載と方向」掲載の長岡篤氏著「草創期の秋篠寺をめぐって−とくに京北立田図との関連において−」・秋篠寺パンフ「秋篠寺小誌・尊像略記」
<更新履歴>2013/10作成 2015/02補記改訂 2016/1補記改訂
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