英語教員の「英語運用力」とTOEIC受験

本誌7月号特集「英語教員研修」にもあるように,現場の教員にとっては全く唐突に英語教員の「英語運用力」といった具体的な数値目標が掲げられた。その第1ステージとして,長野県では中・高の教員のTOEIC受験が課せられた。

私は個人的には22年も前にわざわざ東京まで出かけて,当時認知されていなかったTOEICを受験した。まさか,20年以上の歳月を経て,公費でTOEICが受験できるようになるとは夢にも思わなかった。最近では一般の人が多数受験し,中にはrepeaterと称してもよいような毎回受験の人もおり,スコア730は最低ライン。860は並で,英語熟達者として認知されるには950以上のスコアが要求されるようになっているようだ。(990しかない,という人もいる)私も教職経験が30年に迫り下手なスコアは取れない,というわけで,わずか1ヶ月であったができるだけの対策を講じることにした。(詳細は個人的なサイトhttp://www9.plala.or.jp/h-ike/03-hyogen/TOEIC.htmを参照されたい)幸い高校現役教師としてはいばることはできないものの恥ずかしくはないスコアを獲得できた。

さて,この届けられたTOEICの結果は1枚の短冊である。記載されているのは受験番号,受験者氏名,Listening, Reading, Totalのスコア,受験日だけである。県教委は,このスコアを眺めて,自分の英語力の現状を分析し,課題を設定し,研修日初日に持参することを求めている。もし,TOEICがそういった現状分析に役立つとしたら,それは問題全文を公開し,自分の回答と正誤,全体の成就率などをフィードバックして初めて成立することではないか。単なるスコアで何が分析できるというのだろうか。いったい,どの分野をどのように間違えたのか。Readingといっても,4択,誤文,情報の読み取りとあり,どの分野が悪いのかわからなければ,対策のたてようもない。その前に,マークの読み取りミスの可能性だってある。生徒のマーク模試ではそういった情報もフィードバックされている。このような情報が全く与えられず,「さぁ,反省しなさい。課題を設定しなさい」といっても無理な話である。我々がそんな指導を生徒にできるだろうか。TOEICの「受験勉強」「受験」「結果の受領」を通してそんな思いを持った。

多くの現場の教員が感じているように,LISTENINGの聞き取りと同時に反射能力や短期記憶の能力を検定しているような体育会系の試験。READINGのビジネスの現場にありがちなメモ,回覧,チラシの情報を読みとることの無味乾燥さ,普段生徒に教えているような4択,誤文指摘の単調な問題を解く無意味さ,など,TOEICの試験形式,題材への素朴な疑問も多く持った。驚くことにこのTOEICの問題形式は発足以来全く変わっていないのである。私が22年以上前に購入した問題集でも,細かいことを気にしなければ写真問題も含めて今でも通用してしまいそうなくらい形式の変更がない。その安心感とスコアが比較的容易に伸びること,どういうわけかTOEICのスコアが実業界で認知されてしまったことなどが相まって今日のTOEICの「隆盛」がもたらされたのだろう。しかし,それを安易に教育界に持ち込もうとするのは明らかに誤りである。英語を専門としない人が主として受験するようなテストをなぜ英語教育に携わる教師が受験しなければならないだろうか。その議論が英語教育の立場から十分に議論されずに唐突,拙速に導入されたことには大いに疑問が残る。

ところでTOEIC用の模試セットをいっぱい解いたので,その余韻でTOEFL-CBTの対策問題集を購入した(DELTA’S Key to the TOEFL TEST, Nancy Gallagher, Delta Publishing Company)。紙のTOEFLはこれまでに2回受験しているが,CBTは全く経験がなかったので,せっかくの受験気分を持続するつもりで挑戦してみた。コンピュータで受験するTOEFLは私のこれまでの試験に対するイメージを一新するくらい衝撃的,好ましく思えた。たとえば,LISTENING SECTIONでは回答時間を自分で割り振ることができる。TOEICのような体力試験的な,一刻も早く,といった切迫感がない。写真などのイメージが取り入れられている。講義形式の後半のLISTENINGもその長さが苦にならないようないわゆるREDUNDANCYSPEECHにあり,一語でも聞き逃したらおしまい,といった緊張感から解き放たれている。扱う内容は北米の大学生活に焦点をあてたものだから,日本の高校の教室だってそう変わりはしない。READINGの題材も大学入試問題に毛が生えた程度だ。どうせ教員の英語運用能力を測るのだったら,こうした楽しい題材で,年齢や緊張感にあまり左右されないCBTで受験したかった。受験できる会場が限られ受験料が高額ということもあるのだろうが,そういった外的な理由でテストを選定するのはいかにもばかげている。

英語教員が国家的プロジェクトに関わるのは大いに名誉なことなのだろうが,今回のプロジェクトには基本的なところでの議論がすっぽり抜けている。たとえば,なぜTOEICのスコアが英語教師としての運用能力の指標となるのか。また,この議論は他に譲るが,「英語で授業をすれば,日本国民の英語運用力が伸びる」といった前提とか。そして,残った成果はおそらく「教員評価の先鞭をつけるのに一役買った」ということだけになりかねない。今回のプロジェクト導入にはその性急さとずさんさのゆえに大いに疑問を感じる。

(「英語教育」(2003年9月号,大修館)