個性を持った学習英和辞典たち

三省堂ブックレット no.107

                                        1994年1月1日

 

<「新グローバル英和辞典」刊行---「学習英和」で教える>

 

   辞書騒動                            
      近頃の学習英和辞典
 個性を持った英和辞典たち
      グローバル英和辞典の特徴
      英文読解と固有名詞  

辞書騒動

 

 八九年の1〇月のある朝、全国紙に『欠陥英和辞典の研究』-「日本でいちばん売れている研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!」という刺激的な広告が載った。当時、辞書に登場する英語例文に興味をもっていた私はその日に書店に足をのばしてこの本を購入した。ところが読みすすめると、期待から失望、落胆、そしてついにはいいようのない怒りへと変わった。

 この怒りをなんとか発散すべく抗議の手紙を一週問後に出版元のJICC出版局(現・宝島社)へ、同じ内容の手紙を激励の意味をこめて研究社出版へ送付した。私の論点は簡単で「いわれの無い中傷・誹誇はやめなさい。辞書に書いてないからといって怒りなさんな。他の辞書もちゃんと検討してから、当該辞書の批判をしなさい。」ということであった。この抗議の手紙を書くにあたって、学習英和辞典、英英辞典をそれまでになく比較参照し、著者の指摘にしたがって一覧表を作成し、いわゆる勝ち負け表も作った(私の判定は六九戦12勝で著者の負け)。この時初めて学習英和辞典を本格的に相互参照したが、辞書が、盛り込みたい情報と限られたスペースの厳しい戦いから生まれでていることを実感し、それ以来辞書に対してひどく同情的な気持ちになって、「辞書にこう書いであったのに、それは違う」とか「こんな基本的な意味、用法を載せていない辞書はダメだ」という発言に対しては弁護することにしている。

 怒りの手紙を送付したときには「学習英和辞典」などについてそれほど大事になることもないだろうと考えていた。ところが11月に入ると「"ナデ切り"研究杜の二大ベストセラー英語辞書」というタイトルで東京新聞、中日新聞で取り上げたのを皮切りに「"国民的英和辞典"に噛みついた代ゼミ講師」(週刊文春)「研究杜VS別冊宝島英和辞典大噴曄に英米人がズバリ軍配」(週刊朝日)と週刊誌に取り上げられ、朝日新聞「声」欄にも「重要な意味を含む辞典論争」「辞典の誤りは正す姿勢大切」、Daily Yomiuriに、"Dictionary Wars: Throwing the First Stone"等々、日頃平穏な英語教育界にあってはまさしく台風の到来のような騒然とした状態になった。皮肉なことにも『欠陥英和辞典の研究』が、学習英和辞典の存在について広く国民が注目するきっかけとなった。


近頃の学習英和辞典

 

この「事件」がきいたわけでもないだろうが、現在ではいろいろな辞書が書店に並び、教室の机上にも置かれている。現在の勤務校では、この「事件」が起きる前から入学時に辞書を限定せず推薦リストを提示して、英和、和英辞典を紹介し、その選択は基本的には生徒の判断にまかせている。当初は生徒一人一人が違う辞書を持っていることに違和感を感じたが、現在は多様な辞書が一つの教室に存在していることを楽しんでいる。一見同じに見える学習英和辞典もそれぞれ個性をもって独自の顔をしており、教授者がある程度その個性を承知していれば、時に応じて辞書を「活用」することができる。

 最近の学習辞典は基本的な部分での共通点も多い。例えば有名な成句、ことわざは大概の辞書のどこかの項目に収められている。授業で入試問題を解いていたところ次のような問題に出会った。

 

ほぼ同じ意味になるように並べ替えなさい。

A : By mending a small tear now, we avoid the necessity of mending a large tear later on.

B:(.in  .stitch .nine .saves .time .a)【専修(経済)93年】

 

 この問題はことわざを知らないと手も足も出ない。英文に並べ替えたところで、私自身も日本語のなんということわざか自信を持って想起できない。そこであわてず、「これはことわざです。みなさんの辞書でstitchを引いてみなさい。大概の学習辞書にはこのことわざが載っています。A君、日本語の何にあたると書いてありますか?」と聞いてみた。

 

*今日の一針、明日の一〇針。「ニューセンチュリー』

*時を得た一針は九針の手間を省く。「プログレッシブ』

*早目にひと針縫えば、九針の手間が省ける。「転ばぬ先のつえ」。『ジーニアス」

*早めに一針縫っておけばあとで九針の手間が省ける。『ライトハウス』

 

 これは私にとって日本語のことわざを正確を期して提示できるという利点があるばかりでなく、生徒にとっては有名な成句は辞書で確認できる、さらにそのことわざにあたる日本語は辞書によって違う、すなわちいくつかの考え方がある、という辞書の重要な点を学ぶことができるのだ。また、「転ばぬ先のつえ」と同意だろうか?という疑問も新たに残った。

 


個性を持った英和辞典たち

 

 全員で辞書を引く場合は主に辞書をじっくり読んで、記述について理解を深めようとする時である。私の学生時代もそうであったが、家で辞書を引くときにはとにかく訳語にたどりつけばよいのであって、ある単語の記述全体を読もうなどということはよほど暇か、心に余裕があるときでなければしなかった。その状況は現在の生徒も変わらない。そこで、特に新出語で、その語の全体像を把握していることが今後の学習に生きそうなときには時間を割いて教室で全員で読むことにしている。

 

It is best not to pry into the secrets of little boys, but they were concerned.


 concernという単語を「心配する」ですませても良いが、この単語に関わる全体像に触れたい。この面では最近の学習辞書は充実しており、『グローバル』では、

 

concern《かかわりがある》@(語義・例文),A(語義・例文)《かかわりをもつ》B(語義・例文)《深刻な関心を持つ》C(語義・例文)

 

 というようにその語の持つ基本的な意味あいを提示した後、語義.例文がある。これはその語全体の意味をつかむのに極めて有効で、見通しよく全体像がわかる。同様のことを『ライトハウス』では簡単な図をまずのせる、『サンライズ』では語の主な意味だけまとめて枠で囲む、『ラーナーズプログレッシブ』では他の語との守備範囲の違いを図示するなどそれぞれに工夫をこらして細分化した日本語訳を提示する前に全体像を伝えようと努力している。この点では一般向け辞書とはかなり趣が違う。

 高校生を対象にした英和学習辞典はそれぞれに工夫を凝らしているが、その個性はずいぶん違う。そこで私はある程度特化した形で教室にある学習辞典を使わせてもらっている。例えばイラストや写真を用いて語義を説明すれば効果的で理解も進むが、イラストをふんだんに使えば説明の字数が圧迫され、ある程度限定さぜるを得ない。イラストに使える絶対的なスペースは同じだから前置詞に関するイラストならこの辞書、あの辞書では街角の看板があったはずだ、百科辞典的な記述はあの辞書が強かったのでは、と生徒の所有している辞書の助けを借りて教室での理解を深めることになる。

 同じようにかなり詳しいが難しい語法的な説明、生の英文をそのまま載せており、他の辞書と違う例文を見たいときの辞書。英語教師が泣いて喜びそうな、語法的に犯しやすい間違いを○×で示したり詳しく解説した辞書。書き換え表現を独自の形でまとめたり、多くの同意表現を付している辞書。連語、連結語に強く形容詞と名詞、動詞と名詞の結びつきが整理されでわかりやすい辞書。英米の文化の記述が詳しい辞書。同じような厚さで同じような価格であるが、一般の英和辞書とは違い英語学習上で役立ちそうな点でそれぞれが違った工夫をしている。

もちろんこれは基本的な部分でそれぞれの学習辞典がある一定のレベルに達し、日常の使用では十分機能するからできることである。したがって生徒は一冊の辞書を信頼して日常の学習にあたって全く支障がない。同時に隣の友人の辞書、後ろの友人の辞書と合わせれば、一冊の辞書ではカバーすることのできない新たな視点が得られる。色々な辞書が一つの教室に存在することであらたな世界が広がっていると言えよう。


グローバル英和辞典の特徴

 

 発売されたばかりの新グローバル英和辞典を触ってみた。「グローバル英和辞典」の10年ぶりの改訂となる。旧版から300ページ増え、学習辞典の位置づけとすればもっとも上位グループに属する辞書となるだろう。まず目を引くのが末尾の付録の地図だ。アメリカに始まってローマまで12地域もしくは都市のかなり詳しい地図が載っている。特に旅行ガイドブックでしかみることのできないワシントンD.C.、マンハッタン、ロンドン、パリ、ローマの地図は関連した読み物を読むときには重宝することだろう。

 さらに特徴的に感じたのは固有名詞の扱いである。ぱらぱらとFの項を見てみると次のような単語に出会う。

 

              Fomlica[商標]       フォーマイカ(家具などの表面に塗る合成樹脂)

              Forsyte Saga          「フォーサイト家物語」(Galsworthy作の3巻物の大河小説)

              Forsyth Frederick          フォーサイス(1938)

              Fort Knox              フォートノックス(米国Kentucky州北部の軍用地;連邦金塊貯蔵所がある)

              Fortune                 『フォーチュン』(米国Time杜刊行の隔週ビジネス紙)

              Fort Worth            フォートワース(米国Texas州北部の都市;航空機・エレクトロニクス産業が盛ん)

              Fosbury flop          (陸上)(走り高跳びの)背面跳ひLDick Fosbury(米国人選手)

 

 このレベルの英和辞書ではまず目にしないであろう固有名詞が続く。

 モノが氾濫する現代にあっては「性能の良い中流家庭で乗られているファミリーカー」などと言うよりも、"Toyota"の一語で圧倒的に多くの情報、イメージを伝えることができる。著者と読者が共有する固有名詞のイメージは実際の英文を読む上では重要な働きをしているし、ことに現代の英文では、"Kleenex, Xerox"に類した単語は頻繁に使われているから、固有名詞をたくさん盛り込んだ学習英和辞典も貴重である。
 


英文読解と固有名詞

 

 三年生の選択講座で雑誌の記事を読む授業をしていたら、

 Pulizer Auschwitz Agrippine Stradivarius Lady Chaterley's lover Kama Sutra

 

と固有名詞のオンパレード。「辞書を引いた?」と聞くと、大概は引いてないか、引いても出ていないとのこと。生徒には固有名詞は辞書には載っていない、という先入観もある。固有名詞に強い辞書は現代英語に強い辞書ともいえる。固有名詞の使用がかなり制限されており、使われても注がついている教科書では威力は発揮しないかもしれないが、教科書英文の原典を提示する場合や、TIMEのような活きのいい英文を扱う時には、これからは「グローバルをひいてみよう」と言えるかもしれない。教師は大工さんが細かく道具を使い分けるように学習英和辞典を使い分け、情報を整理し、生徒は自分の使用する辞書の強み、弱みを理解して辞書とつきあう。そんなことが可能になった昨今の学習辞書ラインナップである。