詳しい点は省くが、勿論駄作ばかりではあったものの作品として見応えのあるポルノが作られたのも実はこの頃だった。陰鬱なヨーロッパ・ポルノには無い前述の「生」に対するパワーが画面から溢れていたものも多かった。かなりアメリカン・ポルノに詳しくなった80年代に入って、のちに俺自身が執筆活動をする事になる近代映画社の「別冊スクリーン」を通じて知り合った仲間数人と共にアダルト映画のサークルを作った。「タブー・セックス/恥辱」という俺にとっては生涯忘れる事のできない作品に巡り会えた時期でもあった。それに主演していたケイ・パーカーという女優に妙な親近感をおぼえ、彼女にコンタクトをとったのである。彼女の弁を借りれば、俺の情熱的な手紙が彼女の心を動かしたとの事だったが、以来彼女との交流が続くことになる。

      

86年には既に我々のサークルは「別冊スクリーン」の編集長と何度か話し合いを持ち、彼女が現地で俺に直接逢ってくれる事を知らせ、俺がインタヴューをとって記事をおこす事を条件に、渡米の援助を承認してくれることになった。こうして86年の夏にサークルのメンバーと3人で初めてのアメリカ本土をめざした。ハワイ経由でロサンゼルスに着いたのが夜遅くだったので、初めてのアメリカの大都市の夜景に圧倒されたのを覚えている。空港近くのモーテルに本拠をおいて彼女と電話で打ち合わせサンタモニカのオープン・カフェで会う事になった。実際のケイ・パーカー本人は非常に知的で優しく、人間としてばかりでなく精神面でも尊敬に値する人物だった。無事にインタヴューも終え、我々は彼女との再会を約束して別れる。その後、ロス内にある様々なアダルト文化を取材してまわる。途中、あのモハメド・アリにばったり出くわす幸運にも恵まれた。アメリカは何でもありの国なのだ。                                                    帰国後、この冒険の成果も認められ「別冊スクリーン」のレギュラー・ページの執筆を引き受ける。そのときのペン・ネームがこのサイトの表紙にもあったG.I.ウェルズだという訳だ。G.I.ウェルズは他に大亜出版の「バチェラー」「ディープ・スペシャル」「EXPOSE」などの洋画アダルトのページを受け持った。86年以後、ケイには3回会いに行った。うち一度は、新婚旅行を利用して女房を紹介するというものだった。その時は自宅に招かれ、歓待を受けた。時代も変わり、手紙がe-メールにとって代わったものの彼女との親交は現在も続いている。                                                                                                    

                    

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