亀捕りの海人
ところが、僕がそう言ったまさにその時、急に例の青いサバニがこちらに向かって近づいてきたのである。サバニはあっと言う間に僕らに迫る。近づいたサバニの上から小柄な老海人が僕らに向けて何かを叫んだ。
うまく聞き取れない。サバニは更に近づいてくる。
「兄さん、ちょっとごめんよ!」
今度はちゃんとそういうふうに聞こえた。
「はい、すいません。すぐどきますんで!」
そばのこの黒い浮子に彼が船を係留させたいのだろうと咄嗟に思ったのである。
レジャーで海を利用する僕らが生活の糧を得ようとする海人の仕事の邪魔は出来ない。僕は浮子から出来るだけカヤックを離した。
ところが、彼はその浮子を通り越し、僕のカヤックの横にピタリとサバニをつけてきた。
そして言った。
「兄さん、ちょっと手伝ってもらいたいんだがね」
「えっ・・・・・・?」
目が点になる。
「カメを捕ってるんだけど、大きいのが上がってサバニに載せきらんわけさあ。悪いけど手伝ってくれないかね」

小柄な老海人が日焼けした真っ黒な笑顔でそう言った。

石垣の海人を含め、与那国を除く八重山諸島の海人は八重山漁協に属している。機動力のあるサバニを持つ石垣の海人は、いい漁場を巡り遠く西表までやってくることもある。
だが、実際にこの船浮湾で海人のサバニを見たのは初めてだ。
ただ、船浮湾は海と陸が入り組んだリアス式海岸となっている為、魚影は濃いらしい。
内湾であるから、普段は彼等も遠慮をしているのだろうか。
近隣の部落の海人は、サバニではない小型ボートで漁場へ向かう。メインは網だ。
仲良川の河口で刺し網を入れている姿は日常的である。
だが、この石垣の海人はそういう場所ではなく、船浮湾の中程、対岸のリーフの辺りまでサバニを進めて停止させた。
「何してるんでしょうね。あんなとこで」
何気なく見ていれば、船上に小さな人影が見える。思わぬぐらいに小さい。
その人影が急に見えなくなった。
「あれ?」
注意して見つめた。
すると船のすぐ脇の海面に頭が一つポコッと浮かび上がった。またすぐに頭が水中に没する。
「ああ、これは素潜りの漁師のようですね」
なるほど、リーフにサバニを寄せたのはその為だったのか、と納得して盛んに浮上と潜水を繰り返す彼を僕たちは昼食をとりながらぼーっと眺めていた。
さて、その場所で休憩時間を終えた僕たちは、再び海へと漕ぎ出した。
船浮湾にはウミガメが多い。
「真ん丸い頭が急にボコッと海面に現れることがありますから、よーく注意しておいて下さい」
そんなことを話しながら漕いでいると、それらしき真ん丸な影が海面に見えた。
「あっ!」
だが、よく見ればそれはウミガメではなかった。船の係留用に備え付けられた黒い浮子が海面に浮き沈みするのを見間違えただけだったのである。
「な〜んだ。残念ですね」
水落の滝へのツアー中、景色の良い岩場で昼食をとっていたら、一艘の青いサバニが船浮湾へ入ってくるのが見えた。船の先と後ろが反り上がった三日月のような形。船の長さに較べ、極端に狭い船の幅。沖縄独特の漁船、サバニの特徴である。
青い船体が船浮湾の深い海の色に非常によく似合う。
「石垣の海人ですね。珍しいなあ。こんな所まで漁をしに来るんですね

船浮湾の奥、水落の滝(イメージ)

木炭の浜から望む船浮湾(イメージ)
日本で唯一ウミガメ捕りを専門にしている漁師がいることを聞いたことがあった。
このおじいがそうだと僕はすぐに理解した。

「カヤックは僕がうまいことしておいて、ちゃんと後でここまで連れてくるから、こっちに乗って一緒に来てくれんかね」
こんな機会はなかなかあるものではない。お客さん達にもまさか否の言葉はない。
浮かぶカヤックの上で立ち上がるのはなかなか至難の業ではあるが、おじいのその言葉に僕とお客さんの4人は早速サバニへと這い上がった。
予想以上に幅の狭い船である。動く度に右へ左へバランスを崩しそうになる。
「ちゃんと体で船のバランスをとるんだよ」
僕らは彼の指示に従い、前後左右に別れて座った。
前に移動した3人から驚きの声が上がる。
船の中程の一段深くなった甲板には、既に一匹のカメが上がっていたようだ。僕の座った船の後方からは、エンジンが陰になってそこが全く見えない。
う〜む!見たい!

小さな体の海人のおじい。カメ捕り専門の老海人。

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老海人は2艇のカヤックの紐を括りつけたアンカーをその場に沈めて、サバニを走らせた。
操作は船の左後方にあるギアに結びつけた舵棒を、中央、焼け玉エンジンの左側に立ったままの老海人が手を伸ばして変えて行くだけである。しかもものすごいスピードだ。サバニはスピードに乗っている時の方が安定しているのかも知れない。
かなり気持ちいい。
「大きなカメだよ。だけど海が荒れていたら、もっと簡単に一人でも上げるんだけどよ。こんな日にはうまくいかんさ」
おじいはクバガサに上半身は真っ黒なウェットスーツ。下半身は膝までの白いステテコにウェットスーツの開閉できる股の部分をその上から締めているという出で立ちである。身長は155センチぐらいであろうか。この体で本当にあの大きな重たいカメを上げているのであるからスゴイ。
彼の船の右側には3メートルぐらいの長い竹竿があり、先には先端が鈎状になったイーグンのようなものが取り付けてあった。後で知ったがこれがカーミージョー(カメ竿)と呼ばれるカメを引っ掛ける為の道具であったらしい。

船は先程、僕らが昼食をとっている時に停泊しているのが見えた場所近くへやってきた。
「浮子をつけて離してあるからよ。この辺に浮子がある筈。探して」
そう言われたが、それらしきものは見当たらない。
結局、言った本人がその浮子を見つけた。
500メートルほど先、船浮湾の白浜からの入り口に近い場所まで浮子を引っ張ってカメは移動したようである。
「ああ、あんなところまで逃げてあるさあ。捕まえた時は元気でどうにもならなかったよ」
老海人は更にサバニを走らせ、その浮子に近寄った。そして、エンジンを止める。
彼は手を伸ばし浮子の下に結び付けられたロープを手繰り寄せ、ゆっくりそれを上げていく。このロープにうっかり足をとられるとえらいことになるらしい。
なんでもカメの水中を逃げるスピードは「ジェット機」とでもいうべきものであるとか。このカメを繋がったロープの輪の中に足を締められたまま海中に引きずりこまれてしまったら、確かに命はあるまい。
老海人はゆっくり少しづつロープを手繰っていく。
「あっ!見えた!」
前の方で声が上がる。見れば、確かに水中にカメの白い腹がぼんやり浮かび上がっている。水中である為、大きさはまだ確認できない。
「兄さん、兄さんがこっちに移ってきてくれ!力がありそうだから」
おじい直々のご指名である。
船の安定を確かめながら僕は慎重に前方へ移動した。代わりに前にいた男性のお客さんが後ろに移る。

前に移ると、サバニの中程の一段深い甲板には1頭のウミガメが仰向けにされて前足を括りつけられていた。当然まだ生きている。
時折「プシュー」と大きく息を吐く音が聞こえた。
このウミガメ。よくよく顔を見てみればなかなかアンバランスな調和をしている。
深海よりも黒く澄んだ大きな瞳。実に優しそうな瞳である。
対照的に深く裂けた大きな口。口の中には小さいが非常に鋭利に尖った歯が無数に並んでいた。なかなか凶暴そうでもある。
これが自然の調和なのであろう。まさに野生の命だ。

「カメはキツイから。噛まれたり、足で叩かれないように気をつけなさい」
おじいがそう言う。ウミガメの前足の後ろには鋭い刺があるらしいのだが、彼の説明の先に、既に前に座っていた女性の足はこれで軽く傷つけられていたようである。

老海人がゆっくりウミガメを括りつけたロープを手繰っていく。
おじい曰く、だいぶ疲れているらしい。浮力の強い浮子をつけたロープを一生懸命、たっぷり30分も引っ張ったのだから、さすがのウミガメとは言え、無理もない。

ついに海底から現れた巨大ウミガメ。やっぱり怒っている?

老海人がカメの首元に掛けた鈎を引き上げる。この鈎にロープが括りつけてあったのだ。
カメは背中をサバニのヘリに押し付けた形で、首と前足を海面に出している。
「このヒレを持って上げるからよ。あんたはそっちを持って」
おじいが右ヒレ、僕が左ヒレを担うこととなった。
言われた通りに早速右ヒレの後ろに手をかけた。
揺れる船内に乗り込んだみんなの緊張が走る。
勿論、僕も緊張し興奮している。
この記事も当日ですら酷く苦労して思い出さなければならないほど、この時のことはうろ覚えだ。

カメのヒレの感触?
冷たくて硬くて薄っぺらかった。

僕が左手に移動したことでバランスが崩れ、大きく傾き続けるサバニのそのヘリに足をかけ、僕は
「セーノッ!」とおじいに声を掛け、ヒレを掴んだその腕に、落とした腰に力を入れた。
ぐっと重い。ずるっと一瞬カメがズレ上がっただけだった。
「ダメダメ!セーノッ!じゃないよ。セーノッ!って上げるタイミングがある!」
おじいが僕に注意する。そりゃあ、そうだ。
大体僕が掛け声を出すのが間違っている。だいぶ、とち狂っていたらしい。

そして、ついにそのウミガメは姿を現した。
白い腹を上に向け、海面に浮上させられた瞬間、カメは「ぷしゅっ!」と大きな息を吐き出した。黒い黒い大きな瞳が目に入った。
「でっかい!」
途轍もない大きさのアオウミガメだ。

サバニがカメの重さで左に傾く。カメを取り入れやすいようにサバニの左側のヘリは一部板を外して、浅い水槽と同じ高さに揃えてあるのだが、その部分から容赦なく海水が小さな船の中に侵入してくる。
が、同時にまたその海水はそこから出て行きもする。足元はさながら砂浜の波打ち際のよう。
右に左に傾きながら、海水が押しては返す。
なるほど、このカメは水族館へ行くのか、となんだか安心したような気持ちもした。が、もしや・・・とも思ってしまう。
おじいは水族館をさかんに強調するのだが、なぜか、このカメも水族館からだとは明言しないのである。
僕はカメの保護は大事だと勿論思っているのだが、それ以上にこうして伝統的な方法でカメを捕り続ける海人がいることも大事だと思っている。
そんな人に実際に会うことができ、こうしてカメを揚げるという貴重な体験までさせてもらえたことをこれ以上ない経験だと感動すらしていた。
だから、おじいがこのカメを漁協やカメ料理屋に売ろうとそれは大して問題ではないのだが、にもかかわらず、そこはやっぱり気になるところでもある。

だが、おじいが僕らのような内地から来た人間に気を使って食用にすると言えないのなら、あえて訊くのも気の毒な気がした。きっと色々なところで、心無い自然保護者たちから、いつも同じことを言われ続けているのかもしれない。
「なんで、稀少なウミガメ達を捕まえるのか」
おじいが捕ったから減ったわけではあるまい。ウミガメを捕らえ、食するのは八重山の文化。おじいはその文化を守り続ける誇り高き海人である。
「ほら、来た!せーの!」
おじいが、今度はすかさずそう言った。
波が来るタイミングだった。

僕は慌てて力を合わせる。
腕に、腰に、腹筋に、足に、力が漲った。
ズル、ズル、ズルズルズル・・・!
波の力のおかげか、大きなウミガメは意外に簡単に甲板に上がった。
しかしそのカメと同時に凄い量の海水も侵入してきて足を洗った。
しかも今度はその水が船外へ出て行かない。
改めて巨大なウミガメであることがわかる。
大きすぎる甲羅のせいで、妙に頭や手足が小さく見えてアンバランスである。
大きすぎるウミガメは、まだサバニからはみ出していた。
「もう少し!」
おじいの声で、更に奥まで引っ張る。僕はもう右のヘリにまで達していた。
「よし、下ろしていい」
ウミガメはサバニの幅一杯の大きさだった。
先に上げられた1メートルほどのカメがてんで小さく見える。というか、既に下敷きになっていた。
「こりゃ、いかん」
老海人が下敷きになった先のカメを括り直す。浅い水槽の隅で斜め向きに前ヒレをロープで固定されていたのを、今度は縦向きに固定しなおした。
その時、おじいは裸足の指で揚がったばかりの大きなウミガメの腹を押さえつけている。
大して力を入れているようには見えないが、上手く力とバランスをコントロールしているのか、はたまたそこが急所なのか。カメはピクとも動かない。

おじいは今度は大きなカメを小さいカメの横に並べて括りつけた。

よりいっそう、大きさの違いが分かる。笑ってしまうぐらいの大きさ。ちょっとした島だと言っても、同乗したみんなは笑わないだろう。
おじい曰く
「170キロはある」とのこと。

カメはもう観念しているが、サバニはその重みで傾き危険

「うりゃあ!」って力任せは駄目。波が寄せるタイミングで力を合わせる。

先にいたカメが下敷きになるほどの大カメ。サバニの幅いっぱいの体長である。

おじいが仕事を終え、外してあった水槽の横のヘリの板を再び取り付けた。初めは空であった水槽にはたっぷりの海水が満ちている。それだけサバニが沈んでいるのだ。

おじいがようやく一服つける。
「あんたらは煙草吸わんのか?」
そう言ってタッパーの中に仕舞い込んであったマイセンスーパーライトを取り出し火を点けた。
小さな老海人。しゃれでなく格好いい。

おじいはそのまま話始めた。
11歳の頃から父親の手伝いで潜り始めたおじい。昔からカメ捕りの他にも、タコ突き、タカセガイ捕りなど潜り漁一筋にやってきたらしいが、ダイビングで漁をするようになって潜水病にかかってしまったという。そして、それからは素潜りで出来るこのウミガメ漁を専門にするようになったとのことだった。
そして、かっては何人かいたカメ漁師も今はおじい一人になってしまった。それだけカメも減ったのだという。
歳もあり、もうやめようかとも思うが、知り合いの水族館から頼まれれば断れず、きつい日でもついつい漁に出てしまうとか。
おじいが僕らをカヤックを係留してある場所まで再び連れて行ってくれた。
「こんな小さな船、怖くないか?」
おじいが真顔でそう訊いた。
「全然。サバニの方が怖かったです」
僕はそう言って笑ったついでに、ついに核心を訊いてしまった。

「おじい、このカメはどうするの?」

おじいは一瞬詰まったが、
「ごめんなさい。これはチョン!肉にする」
そう言って顔をあげると、素晴らしく晴れやかに笑った。
おじいが笑ってくれたことが嬉しくて僕も笑った。
「いいなあ。食べてみたい」
「今度、石垣に来たら必ず家に寄りなさいね」
僕らの感謝の言葉に老海人はそう言い残し、サバニで去って行った。
感動、感激冷めやらぬ僕らが軽快にカヤックを飛ばし、ふと後ろを振り向いた時にはすでにあの青いサバニは波のあとすら見えなくなっていた。

カメ捕り海人との出会いの話である。

P.S.
その後、カメ捕りの話を少し調べてみた。
ウミガメは沖縄海区漁業調整委員会の承認を受けた漁業者だけが捕獲を許される。県内の捕獲枠はアカウミガメ、アオウミガメ、タイマイを合わせて年間239匹。このうち八重山漁協は9割を超える244匹の配分を受けている。
八重山漁協組合員で承認を受けた海人は11人いるが、現在もウミガメ漁を専門に営んでいるのは、この老海人一人だけだという。

参考 「ウミンチュ見聞録」


写真協力 美由紀姐さん(ありがとう!)
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聖と邪の同居するその表情。これが野生というものか。