西表島における農業の歴史と今後の産業の展開の可能性について

 「歴史」とは、学校で教えられ、人に取り上げられ、テレビで紹介されるものだけをそう言うのではないはずだ。むしろ、全ての人がいる、或いは人がいた地域に確実に存在しているものであり、そうした「歴史」こそ、その場所に住む今の自分達にとって大きな意味を持つものなのではないだろうか。ただ過ぎ去った過去だというばかりではない筈である。
 そして、それはこの西表島とて例外ではない。たとえ今のその姿から想像すら出来ないものであったとしても。だから、僕は何もないその場所に立ち、ただ遠くを眺める。「郷愁」などではなく、僕はそこに生きた人々の生活や風俗を少しでも垣間見ん思う。そして、想像でしかあり得ないその姿が少しでも「歴史」を学ぶ時、鮮やかな色を伴って目に浮かぶ瞬間がある。

 ここでは大まかな島の歴史に沿って島の日本における位置を見つけ、それから最後に今後の産業について、その問題と可能性とを見ていこう。
 ただし、僕は言うまでもなく素人であり、多くは様々な文献に頼って、その中で以下をまとめてみた。間違い、見解の異なり等、メールにてご指摘下されば、ありがたく思います。

<西表島の歴史の夜明け>

 西表島にいつ頃、人が定着したかは定かではないが、海岸に残る貝塚から5世紀には南方的な石ノミや石ベらを使い豊かな自然の資源に依存した狩猟採集生活を行う小さな集落群があったと見られる。11世紀頃には土器の使用が見られ、やがて13世紀になって八重山式土器、ついでパナリ土器が見られるようになった。このことは稲作の普及と無関係ではない。しかし、その稲自体はおそらく南方から来た種類であったろうし、沖縄本島圏でも日本の農耕文化の形成との間には大きな時代の開きがあること一つをとっても、小さな離島であるがゆえに文化の成長には大きな時間を要し、またそれも決して段階的に進んだ訳ではなく、13世紀以降の海外との交易注2によって急速に発展をもたらしたものだろうと考える。実際にこの頃の遺跡から陶器、須恵器、宗銭に混じり、鉄製農具が見つかっている。

 新城島で焼かれた素焼きの土器。粘り気のない赤土を成型する為に、島に多いカタツムリを殻ごとすり潰してその粘り気を利用した為、白い殻が見られる。古い墓などで骨壷として残されているのが見られる他、破片は海岸で拾える。
注2 実際に八重山が生産できたものを考えれば、イモなどの食糧や宝貝、せいぜい布なのであろうから、これは外国側からのアプローチであったと考えるべきであろう。

 しかし、沖縄本島で豪族が出現し、群雄割拠のグスク時代を迎えた10世紀、さらに三山が統一され統一王朝が誕生する15世紀になっても未だ、西表島ではそれらしき英雄は現れていない。15世紀末の朝鮮人漂流者の記録では、石の珠を連ねた装飾具をしたり、鼻を黒木の飾りで貫くなどしている現地人の姿が紹介されているが、如何にも未開発な部族様である。「鍛冶屋はあるが、大型の鋤は作らず、小さな鋤で畠をほじくり、草をとって種を撒く」という表現を見ても、彼らの農耕水準がまだまだ低いレベルにあって、とても豪族などが出現する余地などなかったことが分かる。
 しかし、14世紀末にいち早く豪族の誕生した宮古からの侵略を受けたり、また徐々に向上した農耕水準のせいもあって、ついに16世紀にかけて他の八重山の島々と歩調を合わせるように力のある豪族が出現し始めた。慶来慶田城用緒、西表の主村、祖内辺りである。だが、その独立した小国家としての歩みも、海上貿易権を確立し、支配力を強める琉球王府の政策の中で、すぐにその統治下に組み込まれていくこととなる。

 ただし、その一世紀前に更に伝説的な酋長、大竹祖内当儀佐もある。

<琉球王府主導による本格的な稲作の開始>

 だが、こうした支配体制が西表の本来の意味での農耕文化の発展の基盤となった。王府により任命された役人により、農民に対する支配構造が確立されて後、1609年の琉球への島津侵入、そして支配がもたらしたものは、西表を含めた八重山、宮古に対する人頭税注2の導入とその強化であった。島津へ納めねばならない負担を立場の低い、また反乱による危険の少ない地域へ押し付けたのだ。人頭税とは15歳から50歳の成人に対し、頭割りで米、布を税として徴収する制度で、その集落ごとの人数で全体の徴収量が決まった為、農民には非常に厳しい制度であった。日本の年貢制が土地を基盤としていたのとは対照的である。口減らしの伝説注3が生まれたのもこの頃である。

 最近では、こうした稲作文化以前の、南方的なイモ耕作文化も重要と考えられ、研究されている。
  イモ作では、焼畑が西表でも永く見られた。

注2 過酷な搾取で有名。この以前に琉球王府の支配の手が広がることに反乱を起こし、敗れ処刑されたオヤケアカハチは、それゆえに英雄とされる。波照間出身。石垣島で地盤を築いていた。
注3 
与那国では、妊婦に飛び越えさせたというクブラバリという岩の裂け目が有名。

 ところで、本来、西表島は川が多く、またその沿岸に広がる豊かな低湿地帯の為に、稲作には実に適した島であった。これを活用することを考えた王府により、周辺の離島(多くは麦、粟、黍中心だった)から西表島や石垣島への強制移住が行われる。また、実際に米納であった為に、周辺離島の島々ではこれを達成できず、自ら西表島へ移住した人々もあったようだ。現在は失われた集落である島の南岸のいくつかの集落は、こうした自主的な移住による。

 村落内に一本線を引き、線のこちら側は全員移住などという「島分け」が行われたようである。
   こうして離れ離れにされた恋人の歌(ちぃんだら節)や伝説(野底マーペー)などが残る。


しかし、南蛮との交流により、この頃もたらされたマラリヤは、各地で猛威を揮い、こうした王府の搾取に苦しむ移住者の集落を何度も全滅させては、また強制移住が行われ、再び全滅に追い込むという負の歴史が実に明治の琉球処分にまで及んだ。この頃までに開拓された田圃の跡を訪ねてみると、良田とされた大きな川の流域を除き、その殆どは暗い小さな川に沿ったごく僅かな平地を切り開いて周囲に猪垣を張り巡らし、耕作に及んでいたことがわかる。既に開墾されている土地を割り当てられることもあれば、あてがわれた土地が貧しく、自らの手で開墾せねばならなかった例も多いようである。
 さて、明治維新後、新政府の時代になってもこの悪しき慣習は続けられた。しかし、中頃になって宮古島民の運動で解放され、八重山もその恩恵にあやかった。この頃、笹森儀助注2という青森の士族によってこうした島々の記録が残されているが、多くの集落はやはりマラリヤの被害により、働き手が失われ、酷い惨状であったようである。彼の残した記録にある集落の名前で現在存在しないものも多い。こうした中で、西表島では次の産業が俄かに持ち上がった。本土資本による石炭産業だ。

注  仲良川中流域の仲良田が有名な良田。仲良田節が祖内、干立には残る。
   「ブク」と呼ばれる森の栄養分が田圃に引いた水によって運ばれてくる故の良田であろう。

注2 
「南島探検」を記す。当時道のなかった島の東部から西部まで、山中を縦断。
   民間人ながらマラリヤに苦しむ各村を訪ねまとめた。
   コウモリ傘にパナマ帽、着物の裾を尻までまくって立つ異様な姿の写真は有名。


<炭鉱時代>

 西表島の西部で石炭が採れることは早くから知られていたが、島津からの支配を受けていた琉球王府では、それを隠すことに努めていた。琉球の財産であるものを奪われてしまうことは確実だったからである。だが、そうした王府の努力も空しく、石垣島の者でこの事実を薩摩商人に売り渡した者がいて、結局、本土からの資本の進出を招く。しかし、この頃には既に琉球王朝はなかった為、ある意味、遅いか、早いかの違いでしかなかったとも言えよう。

注  大浜伽那。「石炭伽那」事件。罰として波照間への島流しの刑を受ける。現在は逆に評価され、碑も残るらしい。

 まず、明治12年に政府の息のかかった三井物産が、試掘、そして続けて採炭を開始した。炭鉱夫には県内の囚人百数十人が用いられた。この囚人導入には国の方針が大きく関わっている。建前としては、囚人を使用することで、人件費を削減でき、またマラリヤによる危険も無視できるというものだったが、更には当時まだ継続していた「人頭税」という自給自足的生活からの物納という独自の慣習を崩してしまわないようにするという側面もあった。つまり、現地の人々には高い税を課しながら、そこに新たな労働力と支配の構造を送り込む。いわゆる植民地である。大東和共栄圏構想を謳いながら、大日本帝国は国境の人々をすら差別し、その意識は戦後の「先島切捨て」注2にまで続いていくのである。

注  明治35年(1903年)になってようやく廃止された。明治新政府発足後、この間、一国に2つの税制があったことになる。宮古島の人々の運動による部分が大きく、八重山はその恩恵を受けた感がある。
注2
 敗戦濃厚の時、日本は宮古、八重山を完全にアメリカにくれてやろうとしていた。

 また、この時、国内は戦争(日清戦争1894年)突入を間近に控え、「富国強兵政策」を全土におし進めていたが、帝国のこうした西表経営にも、特に立ち遅れているとされた沖縄への皇民化教育と、そして囚人労働者を炭鉱に幽閉し、その石炭を軍事用に用いると同時に香港や中国に輸出するという「富国強兵」的目的があったことは容易に想像できる。実際に、西表には天然の良港、船浮湾があるが(現在は国際避難港)、ここが軍事的要塞注2として有用であることを知った国は、東シナ海に臨む辺境防備という国防的視点からも三井の西表進出を積極的に後押ししていったのである。

注  方言の禁止などが有名。この点では、八重山よりも本島地方の方が酷かったのではないかと考える。
注2  明治38年にはあの、東郷平八郎大将が視察の為に訪れている。
   また実際、戦時には要塞化され、船浮住民は強制疎開させられている。


 しかし、この最初の炭鉱はわずか3年で、炭鉱夫達の相次ぐ病死などで閉山を余儀なくされることとなった。だが、そうした悲劇を多く生み出しつつも、その後も、多くの大小資本が入り込み、西表は炭鉱の島として脚光を浴び、発展していくこととなるのである。ここで、特筆すべきは、人頭税が廃止されて以降も、島人は殆ど炭鉱夫にはならず、労働力はもっぱら四国や九州の食いつめ者、沖縄からの出稼ぎ、台湾人が中心であったことであろう。現在も島で生活しているこれらの人々の末裔は僅かに過ぎず、炭鉱の歴史を語る人は殆どいない。

 浦内川支流にあった丸三炭鉱宇多良鉱業所(通称ウダラ炭鉱)は特に有名。千数百名の炭鉱夫を抱え、大いに賑わったが、その実、炭鉱夫たちを逃さない為に非情な行為を行っていたとされる。鉱業主の野田小一郎は悪名高く、豪勢な暮らしぶりだったようだが、最期は狂い、悲惨であったようだ。

 だが、そうした多くの人々が島に来たこと、大きな資本が入ってきたことは、島の人々の自給自足の生活を変えていった。採れた米や野菜、猪や魚を炭鉱に売ることで得た金(現金ではなく炭鉱の切符だった)で、今度は炭鉱の売店にて本土から送られてきた豊富な商品を安く入手できたし、慰安所では女性を買うこともできたのである。西表の人は沖縄の離島の中では特にナイチャー差別をしないと言われるが、その背景にはこうした事情もあるのかも知れない。しかし、問題はこうした甘い汁のおかげで、西表には新しい産業を育む姿勢が生まれなかったこともあげられる。むしろ、長い人頭税の期間に必死の努力で築き上げられた、上質の布を織る技術などは失われてしまった。

 石垣の八重山上布は有名だったが、ある時期には粗悪品の代名詞のようにされた。そうなる前の上布と同等の上布が西表島にもあっただろう。また、芭蕉布などは、本来、農作業用の着物に使われた布だが、非常に面倒くさい作業を必要とする為、これも廃れてしまった。

<開拓移民と戦後の農業>

 戦中、これら炭鉱の労働力が戦地に駆り出されたこともあり、炭鉱は下火になる。やがて、戦後、全ての炭鉱はアメリカ軍に接収されたが、採算ベースにのらず、廃坑となっていった。西表島からは再び活気が消え、また戦後の栄養状態の悪さによるマラリヤの再流行も衰退に拍車をかけた。戦前、隣りの石垣島では砂糖資本の進出などもあり、一部利権屋に振興計画の根本である大量の土地を与え、支配と服従の関係を再生産していくといくという事態があった。これにより多くの小作人が生み出されてしまったのだが、それに対する住民の反発もあり、ようやく政府による沖縄県振興計画に基づいた八重山の移民計画がなされている。自作農の創設を目指したのである。こうした政府による移民計画事業で、西表では南風見地区に近くの新城島からの移民が行われた。しかし、彼らがマラリアや飢えに苦しみながら切り開いた土地は、戦後、政府が変わったことにより、移民たちに譲り渡されず、担保を持たない農家としてより一層の苦しみを味わうのである。

注 東部。ただし、明治の笹森が作った地図にも、南風見村(おそらくその後一度廃村か)という文字の隣りに新城島村という文字らしきが見えるので、こうした正式な移民とは別に新城島の人々は西表に渡ってきていたと考えられる。また、田圃も当然、西表島にあって、出耕作を行っていたようだ。

 一方戦後は、今度は宮古からの移民が行われた。宮古における戦後の引き揚げ者は、食べる術を持たず、また同時に家すら持たなかった。しかも、復旧財となる松は戦火で焼かれてしまっていた。そこで、宮古群島政府は南部琉球軍政府の許可を得て、西表島船浮おける木材伐採事業を行ったのである。実際に船浮湾周辺の森は原生林ではなく、現在は二次林となっている。こうした西表島と宮古の人々の関係から、厳しい条件ながら移民が計画され、背に腹を代えられない状況の人々は戦後第一号移民として、補助金を受け取り、住吉地区注2に移住した。当初は船浮開発伐採隊への食糧補給を義務付けられていた。しかも、宮古群島政府注3の計画した移民であり、琉球政府の計画した移民ではないことから、一般の計画移民と同じ補助を受けることは出来なかったのだ。しかし、同じ下地島出身の移民の人々は、マラリヤの犠牲者を出しながらも、互いに助け合ってふんばり、現在では西表島西部の農業(パイナップルやマンゴー)の中心となっている。更には、こうした宮古群島からの補助を一切受けなかった完全な自由移民の人々もあり、彼らの貧窮は言うまでもないだろう。

  今でも移住第一世代の方々は健在であるが、中心は第二世代。
   彼らのお話を聞けば、いかにきつい開拓生活であったかが分る。

注2  西部。最初はウナリ崎に移住したようであり、「住吉」という名称はその時、願いを込めてつけられたもの。

注3  琉球政府の下の、地方行政政府。

 さて、こうした移民たちが戦後、島の農業の主役となっていくこととなる。長く続けられた稲作も継承はされたが、それは古くからの集落や移民たちの食い扶持分に限られており、西表ではさかんとなることはなかった。また、島の人々は元々所有する土地がある為、貧しい者を除き、多くは開拓に加わることはなく、換金作物となっていくパイナップルやサトウキビなどに適した土地を得られなかったのが、現在一部で見られる貧富の逆転に繋がっていったと言えなくもない。これまで島の人達が利用してきたのは、船で行く川の奥などの良質な田圃であったのだが、これがその当時においては楽な交通手段であったのだ。しかし、そうした一等地が交通手段の革命と共に、道が通じていないことは不便であるようになって捨てられた。第一、そうした場所では大きな耕作機械を持ち込めない。

注  パイナップルなどには赤土が良いようであるが、当然、こういう場所では他の作物は育ちにくい。

 さて、西表の農産物を見た時、東部ではサトウキビ、西部ではパイナップルという作物の生産傾向があるが、これは東部には製糖工場があり、またかって西部にはパイナップル加工所が作られた為に起こった現象が今も影響しているのであろう。しかし、最近のこれらの状態を見ていると、いずれも収穫面積も、生産額も徐々に下がっているようである。いずれも西表島だけではなく、竹富町全体の推移であるが、サトウキビでは、昭和62年の463ha/36500t/76500万円から平成10年の393ha/28800t/59700万円。パイナップルでは平成元年の収穫面積61ha/1540t/8000万円から、平成10年の14ha/222t/2800万円。サトウキビの減産については、就労者の高年齢化による部分が大きいと言える。彼らは手間のかかるこの栽培を捨て、そこを牧草地にするようである。石垣では更に本土資本によるリゾート地の買収もあり、減産の傾向は更に大きい。

 石垣島におけるリゾートの数はすごい。大手ホテル、中堅ホテル、さらに国際的リゾートなど。これだけの需要があるのか、また今後も維持できるのかは、疑問。しかし、これら大型リゾートの誕生で石垣の零細宿泊業者は軒並みやられた。また、西表ではこうしたリゾート開発はこれまでうまく成功しなかったが、ここ数年いくつか誕生し、2003年、ユニマットリゾートの月が浜開発に端を発する一連の問題は小さな島に未だ遺恨を残す。

 ところで、この2つの代表的な換金作物であるが、実は大きな性質の違いがある。サトウキビが島内の製糖工場でほぼ全て黒糖に加工されるのに対して、パイナップルは現在、加工所がなく、生での県外向け出荷しか出来ない点である。実はこの加工所の閉鎖が大きな原産を招いた。他にもサトウキビと同じく、就業者の高年齢化による部分も大きいだろう。現在、20代、30代のパイナップル自作農を西部では知らない。しかし、その一方で、土地が不足しているなどの理由で新しく農地改良区が造営されている。環境保護の点で非常にもめた上で作られた上原地区の改良区では、意に反して、多くの土地が牧草地とされたり、建前上、パイナップルを植えたものの、手間が間に合わず、雑草に埋もれているといった光景をよく目にする。非常に勿体無い。しかし、売れないものを作れないという農家の気持ちは分かる。

注  こうした農業用の町有地は、借りた以上、何も植付けしないでおくと、返還を求められる。
   それ故に、ただ、牧草を植えておく農家もある。牧草ならば、一切面倒を見なくても済む。
 

 だが、なぜ売れないのだろう。実際に西表のパイナップルを一口食べてみれば分かることだが、実に糖度が高く、外国産の比ではない。売れば売れる筈である。しかし、ここに離島ゆえの大きな困難が待ち構える。輸送の問題だ。生果である為、船での輸送は出来ない。頼るのは飛行機だけとなるが、この飛行機がANA、JALを合わせて、それぞれ一大消費地である大阪、東京に日に2便ずつしか飛んでいない。これでは運べる量に限度がある。そこで、農家では個人的に個人の顧客を募り、ゆうパックでの発送を行っている。それでも夏場の最盛期における積み残しは避けられず、また、零細経営である為に、あまり注文が多くても捌ききれない。生食用パイナップルの国内輸入量は平成10年で84710tもあるのだから、この輸送の問題がクリヤーできれば、国内いや、世界で最も甘いパイナップルが生産できる八重山では多少値が高くてもそのシェアーに食い込んでいける筈である。地元ではこれらを輸送する為の専用の貨物機の就航を求めている。

 しかし、まずは何らかのイノベーションがなくては、低コストで大量に安定供給することは難しいことも農家達は知るべきである。現在のように本土からの農業体験希望者を格安の給料で使って畑の面倒を見ているようでは、先は知れている。

注  通称ヘルパー。地域別最低賃金すら無視して行われる半ボランティア。事情は理解できるし、農家や観光業者達の苦肉の策ではあるのが、実際には法的にまずい。訴えられれば確実に負ける。また、彼らの存在が、全体的な島の賃金の底上げが進まない原因の一つであることも事実。


 もう一つの方法論として、大規模経営農家を作るのはこの分野では難しそうであるから、むしろ、町が特定農家に大量に貸し出しているこうした無駄な休耕地を、就農希望者に貸し与え、狭い土地で丹念に作物を作ることで、「西表島」というブランドを生かした高価格の商品を提供するというものも考えられるだろう。すでにネームバリューのある土地であるのだから、「低農薬」というイメージとは結び付けやすい。在り来りの策であるが、ネームバリューのあるなしで、成否は大きく違う。西表ならばこそ、成功の可能性は大いにあるだろう。

注  「ヤマネコ安心米」など、西部の農家では、無農薬米の栽培行っているが、まだまだ知名度は低い。

 ところで、こうした換金作物以外でこの島において大きなウェートを占めているのは牧畜である。黒毛和牛を放牧し、種付けして仔牛を生ませ、これをセリに出しているのである。BSE前の平成10年では、大体一頭が30万円で肉牛の名産地へ買い付けられていった。その頭数は八重山全体で12200頭。10年間で3倍に増えている。実に農業全体の粗生産額の40%にあたる。他の農産物の生産と比べると非常に人件費が抑えられるのが利点であるが、その分、土地を必要とする。一見いくらでも土地があるように見える西表だが、環境との兼ね合いを考えれば、牧場をこれ以上増やすのはどう考えても良くない。牧場内に流れる川を見れば、如何に牛の放牧による汚染が強いものかがわかる。西表は野生的であり、環境的にピュアであるからこそ、その魅力が大きいのであり、今後色々な場面で活用される機会も考えられる財産としての「ネームバリュー」があるのである。

<今後の産業の可能性>

 これまで、沖縄への特別予算の為に、道路を作っては壊すということを続けてきた。そのおかげで島には土建業者が驚くほど多い。しかし、言うまでもなく今後彼らのうちの大部分は厳しい時代を耐え抜かねばならなくなる。外から金を与えられる時代はもう終わったのである。農家も、牛飼いも、自分の力で新しい価値を生み出さねば成り立たない。
 ここまでにも少し述べてきたが、西表の魅力はなんと言ってもその「ネームバリュー」にある。島人の気持ちとは裏腹に、資本の進出、開発から置いて来られたが為に奇跡的に残った自然が作り上げるイメージ、先入観である。これを生かさない手はない。西表が石垣のように都会化して多くの人々が住めるようになっても、それは違う。都会と八重山という田舎の関係があって、初めて八重山が価値を持つように、都会の石垣と田舎の西表という構図が大事である。

注  「世界におけるアジアの価値」を唱えた他国の首相があるが、同様に西表には西表の価値がある。それは西表が石垣の価値観にも、日本の価値観にも巻き込まれず、独自の価値観を創造していくことなのだが・・・。

 実際に観光客はそういう部分を求めてきている。観光形態も「エコツアー」というカヤックなどを使ったサービスが盛り上がっている。エコツアーについては批判も多いし、それも多くは的を得た指摘であると思う。しかし、敢えてここでは触れないでおこう。これらエコツアー形態の観光も、基本的には零細な業者が各々営業をしている状態である。しかし、基本的にはこの島はこうした零細な経営の事業者が集まる場所でいいのではないかと僕は考える。この島において地域的な絶対の不利は否めない。大きな産業が育つ余地も余りない。先に述べたパイナップルも、トラック一つで空港まで運べる石垣島の方が圧倒的に有利であり、同じイノベーションを持っても、石垣には適わない。

注  その地域、独自の文化、生活、そして自然に敬意を払いつつ行われる、環境に対してローインパクトで持続可能な旅行形態。地域全体の活性化を促す目的。西表には日本最初の「エコツーリズム協会」が設立されているが・・・。

 ならば、この特異な田舎としての性質を受け入れ、島の産業に関わる皆で島興しをするべきだ。皆が、西表のネームバリューを更に吊り上げる為の努力をすることである。
100人の社員を抱える力を持った本土の資本を受け入れるよりも、一人ずつの零細事業者が100ある方が魅力的であるし、そうでなくては、将来における島の魅力に繋がらない。企業などはいつでも逃げていくのである。逃げない自分達で始めなくてはならない。

 西表のブランドを創造し、マネージメントしていく存在としては、商工会議所なども考えられるが、全くの新しい組織も検討すべきである。島の労働力の若返りを図る為にも、青年会の集まりでそういうことを話し合い、自ら行動していくこともよい。元気のない島の若者に目標を与えるのはよいこではないだろうか。僕が島に戻ったならば、まず何より、島全体に自分達は何を目指していくのかということを考える運動を広めていくことから始めたい。

注  島には多くの行事があり、また冠婚葬祭などを専門に行う業者はない。これらを支えているのは各地域の公民館や青年会であり、休めない仕事を無理矢理休んで作業に参加している。そこにあるのは、紛れもない地域愛なのだが、なかなか青年の立場は辛く、また弱い。


参考、引用文献
「沖縄の歴史と文化」外間守善 中公新書
「日本の一番南にあるぜいたく」楠山忠之 情報センター出版局
(<炭鉱時代>の内容は多くは楠山氏の文章による)
「八重山開拓移民」金城朝夫 あ〜まん企画
「八重山の農林水産業 平成11年度」沖縄県八重山支庁農林水産振興課


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