故松下竜一先生の書評

はじめに

 私は漁師の町である浜町で生まれ、高校生までこの潮くさい魚の匂いのする町で育った。祖父は生粋の漁師で私が小学生の頃まで「いりこ漁」を主に営んでいた。丑太郎という名の祖父は、当時の漁師にしては珍しく、酒も飲まず、喧嘩もせず、博打もせずという温厚な人で「ほとけのうっ丑さん」と近所から呼ばれる真面目一筋の人(別な言い方をすると馬鹿真面目)であった。漁は家を夕方に出て朝帰るもので、祖父は自分の弁当箱に「いりこ漁」の時に同時に採れる魚や蟹をいれて持ち帰ってくれた。この蟹(ワタリガニ)や魚(キスゴ、コチなど)を朝食の時に食べるのが楽しみだった。採れたての新鮮なものであり、味は最高であった。父の代からは、いまでいう3K(危険、汚い、きつい)で収入の不安定な漁師をやめて、会社員になったようである。
 世の中とはうまいもので、祖父が前記のような性格であったため祖母はシャキシャキとしたやり手の人で、結構気前が良く(私の母は気にしていたようだが)、社交家だった。朝、「いりこ漁」から帰る「おとこし」を浜で祖母のようなおばさん達が手ぬぐいを頭にかぶりカッポウギ姿で待ち受けているのを子どもごころに記憶している。私が何故記憶しているのかというと、私にも小さいながら役目があった。船が朝方、焼玉エンジンのポンポンポン・・・・という軽快な音をたてて浜に帰ってくる。大漁旗が掲げられていれば、一目散に家に帰り「釜たけ、釜たけ」とおらぶのである。この後は、母の出番で「いりこ小屋」は釜に火を入れるためにてんてこまいの大忙しとなる。近所のおばさん連中も手伝いに来てくれていたようだ。  
 こうした環境の浜町の海岸は弁天まで延々と続く砂浜で、この浜に出ると東は佐賀関の煙突、北は国東・杵築の海岸線、西は別府の町から高崎山、仏崎が遠望できた。まさに唱歌「我れは海の子」の歌詞にでてくる「白波の騒ぐ磯辺の松原に・・・・」の白砂青松の世界であった。春は潮干狩りでアサリ、ヤサラなどを採取したり、夏は海水浴に恵比寿神社の夏祭りと浜で、近所の悪童連中と一緒によく戯れたものである。
 中学校に入学する頃から、新産業都市とやらで浜町の砂浜海岸もどんどん埋め立てられ自然海岸の様相は一変した。当時はそう気にもとめなかったが、40代の半ばを過ぎると生活は楽になったが、貧しいながらも自然が残っていた当時の事が、非常になつかしく感じられてくる。
 破壊した自然海岸は2度とかえらない、このことを反省する意味でも私を育んできた別府湾の今の自然海岸部分を破壊される前に踏破して記録し、これを後世の人達に残すことが私の使命であると考えた。

注1 いりこ漁   「いりこ」とは小さないわしをいったん真水で洗ってヨゴレを落とし、
            バラ(竹製の平べったいザル)ですくい、塩水を入れた大きな釜
            でバラごと湯がく。その後、バラを取りだして、いわしをスダイ(た
            たみ一畳程度で持ち運び可能)に広げ、天日などで干したもので
            ある。
            「いりこ」にするいわしの漁期は晩秋の頃で、いわし漁は通称「ひ
            ぶり」と呼ばれた。昔は別府湾でもかなり採れたようであるが、現
            在では、蒲江など県南地方で「いりこ漁」が行われているようだ。
          
注2 佐賀関の煙突 日鉱金属(株)佐賀関製錬所の煙突で、大正5(1916)年に建
             設された。煙害防止のために、高さは約168Mあり、当時の東洋
             一であった。煙突までは浜町の海岸から約25KMの距離である。

注3 ヤサラ   瀬戸内海沿岸西部地方の方言で、正式にはイボキサゴという1センチ
          程の小さな巻貝。私が小さい頃には、浜町の海岸でも結構採取できた。
          今は魚屋でもほとんど見うけられない。ヤサラを湯がいた後、中身は縫
          い針や「ゲズの木のとげ」で抜いて食べた。

注4 恵比寿神社  現在、大分市浜町に鎮座しているが、元瓜生島にあったといわれる。
       4月10日に春祭り、7月10日に夏祭りが行われる。昭和37年頃まで、
             夏祭りには勇壮で荒っぽい御神輿が町内を廻り、ヨド(祭りの前夜。山
             口、大分、宮崎県地方で使用される方言)の日に弁天宮(昔はカンタン
             のひのうさま火王宮か?)までの海上渡御があり、翌日の未明に陸路
             、恵比寿神社に還御した。私も小学生の頃、何度か先触れの高張提
             灯を持って参加したことがある。

注5 新産業都市  昭和30年代後半、工業の地方分散の必要性が注目されるようにな
             った。そこで、優れた工業立地条件を持つ、別府湾南岸の大分鶴崎
             地域が昭和39年新産業都市(他に14地区)に指定され、埋立地に
             臨海工業地帯が建設されることになった。
             大野川西岸の1から5号地までの企業誘致(新日本製鉄、昭和電工
             など)は順調に進み、既に操業も開始している。
             しかし、東岸の6号埋立地については経済環境の変化などにより企
             業進出が遅れるとともに、7―C、8号地は地元住民の反対などがあ
             り、埋め立てそのものが保留となっている。さらに、新規に立地した重
             化学工場群は基礎素材型産業が中心で、自動車製造業のような組立
             加工型産業でないため県内に下請け関連産業が育たないなどの問題
             もある。
             以上のような経緯で、実施、運用してきた「新産業都市制度」であ
             ったが、平成12年度限りで廃止しようという議論が出てきた。

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はじめに
1.国東から日出へ     4
(1)奈多八幡から臼石鼻、美濃崎漁港、住吉浜    5
(2)住吉浜を周回(パークセンターホール受付から浜平橋へ)   10
(3)浜平橋(野辺入江)から高山橋   13
(4)大内川河口から草場、杵築城下中町、据場   21
(5)若宮八幡、宮司橋、若宮橋、北浜、据場、三川、猪尾経由納屋   24
(6)納屋漁港から権現鼻、加貫鼻経由加貫漁港   32
(7)加貫漁港から八代漁港   37
(8)八代漁港から糸ヶ浜、鵜糞鼻を経由大神港   39
(9)大神港から小深江漁港(手前)   46
(10)小深江漁港(手前)から日出港   51
2.日出から大分(カンタン)へ   57
(1)日出港から島山経由豊岡港   57
(2)豊岡港から関の江海岸経由亀川工業団地   64
(3)亀川工業団地から上人ヶ浜砂湯   74
(4)上人ヶ浜から境川   81
(5)中山香駅から東鹿鳴越峠を経て豊岡駅   88
(6)日出側(尾久保)から東鹿鳴越峠    90
(7)小浦から海門寺、八坂神社、小坂公民館、大交車庫、温水水源地、三女神社             93
(8)境川から浜脇(JR東別府駅前国道)  100
(9)浜脇(JR東別府駅前国道)から仏崎  111
(10)仏崎からカンタン  123
(11)浜脇から銭瓶峠を経て生石(火王宮)  129
3.大分(カンタン)から磯崎へ  134
(1)カンタンから5号地(大分川河口)  134
(瓜生島考)  161
(2)弁天大橋(大分川)から三海橋(乙津川)  212
(3)三海橋から海原、三佐を周回し鶴崎、小中島を経て家島を周回し家島橋  220
(4)鶴崎橋を渡り、大在を経て磯崎  233
4.磯崎から関崎(佐賀関)へ  238
(1)磯崎から大平漁港(東大平)  238
(2)大平漁港(東大平)から佐賀関(バスセンター)  246
(3)佐賀関(バスセンター)、福水、若御子鼻(手前)、松ヶ鼻  252
(4)福水漁港から若御子鼻、製錬所敷地を経てバスセンター  255
(5)関崎から松ヶ鼻、関崎から黒ヶ浜方面  258
(6)関崎から黒ヶ浜、白ヶ浜を経て幸の浦漁港  261
(7)幸の浦から椎根津彦社、若御子社、早吸日女社  265
5.別府湾岸の写真  269
おわりに

1.国東から日出へ

 10年ばかり東京勤務が続いたが、平成10年3月久しぶりで九州福岡に単身勤務することになった。これを機会に、休日には大分の実家に帰省し、従前から暖めていた構想である「別府湾岸の踏破」を行うことにした。40代半ばという年齢は、この行程の踏破をめざすのには、体力的に最後だという切迫感にかられた。また、いま私が踏破を実行しなければ、永遠にできないし、将来も誰も実行することはないであろうと思った。
 建設省国土地理院九州地方測量部(福岡市)で、別府湾岸が含まれる旧参謀本部陸地測量部が明治30年代後半(湾岸の測量年次はこれが最も古い)に実測した地図(5万分の1)と国土地理院発行の最新地図(5万分の1)とを10数枚購入し、自宅でこれをそれぞれ貼り付け湾岸全体を新旧比較しながら眺めてみる。明治年代に作成された地図では、湾岸はそのほとんどが自然海岸である。最新地図では湾の西、南岸が埋め立てられ、人工化のヒドイことが分かる。
 そこで、私が5号地(大分市豊海町)の白灯台からいつも眺める国東半島の東突端臼石鼻を越え、反時計廻りで別府湾岸を周回して佐賀関関崎までを踏破することを目指した。この踏破に備えて、運動靴、帽子、リュックサック、カメラ、コンパスを準備し、自宅から車で住吉浜に向かいここに車を停めて、まず奈多八幡までを往復することにした。
 この踏破に理解を示してくれる人も一部いたが、私に協力してくれるような人はいなかった。このため、駐車した位置から目的地に出発し、目的地到着後は折り返して、元来た海岸線か又は一般道路を駐車地点まで戻るという苦行を味わうことになる。しかし、別府湾岸100Kの2倍の行程を歩くことを覚悟さえすれば、一人旅もまた楽しいものであると割り切ることにした。
 さあ出発の日だ。江戸時代の先人伊能忠敬、幕末の吉田寅次郎の労苦と意気を偲びつつ気分は最高である。

注1 参謀本部陸地測量部   明治政府は西南戦争後、国防上の観点から旧陸軍参謀本部
                   の下に地図作成機関を設置し、地図作成を統一して行うこ
                   とにした。これが陸地測量部である。第2次大戦後は作成
                   業務を建設省の国土地理院が引継ぎ行っている。

注2 奈多八幡神社       応神天皇が巡幸の時、ここに仮御所を設けたといわれる。
                   慶長年間の大地震で津波による被害を受け、神殿が流失し
                   た。

注3 伊能忠敬          千葉県(1745〜1818)に生まれる。隠居後の55
                   才から10余年かけて全国の海岸を巡り、日本初の実測に
                   よる日本地図を作成。別府湾沿岸も文化7(1810)年
                   旧暦2月7日杵築、12日大分、17日佐賀関と測量する。

注4 吉田寅次郎      幕末の長州藩士、後の松陰(1830〜1859)である。
                 江戸後期、防長二州の近海に多くの異国船が出没するよう
                 になり、危機感をもった藩が「このたび、御内用の趣これ
                 有り、北浦当たりの巡視仰せつけられ候に付き、組み並び
                 に諸役を免ぜられ候こと」として、若干十九才の松陰に海
                 防強化を目的に海岸の巡視を命じた。
                 嘉永2(1849)年、北浦(現島根県境から下関までの
                 日本海側海岸)巡視を命ぜられた松陰は、萩の港を出発、
                 はじめ石州との国境から巡回し、同年7月4日、再び萩を
                 出発して20日間の日程で、大津郡、豊浦郡、下関に至る
                 沿岸を巡視、調査した。この時、海辺の防備、人情などを
                 「かいほきりゃく廻浦紀略」という日記に著した。

H10.7.11(土)くもり時々晴れ 干潮15時23分 中潮 潮位20センチ
奈多八幡から臼石鼻、美濃崎漁港、住吉浜 14時発 16時着 (行程5.4KM)

 奈多八幡社(写真1)に参詣し、別府湾岸踏破の成功を祈願する。鬱蒼とした松林の中にある鳥居の前面は伊予灘、市杵島(いつき島と名付けられているが、今は岩礁である。写真2)、左側に三方庚申鼻(写真3)、右側は臼石鼻(写真4)が海面に聳え立っている。また、遠くに佐賀関の町をはじめ四国佐多岬半島、中国地方?がかすかに望見できた。八幡社の背後には、亀山古墳、見立山(奈多城跡か)がある。見立山は名前の通り、海上の舟が魚場の位置確認に利用する山で、今は無線塔がある。亡祖父の話しでは浜町の漁師は、舟の見立て(ヤマ立てともいう)を高崎山でしたようである。
 海に向かって鳥居左に古い木製の常夜燈、右横には石碑があり「網引きする 海人とや
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以降は、本をご覧下さい。


おわりに

 東京に勤務している時、お盆休みを利用して東京から大分に帰省することがあった。大分空港から市内行きの空港バスに乗り、周囲の景色を楽しんでいた。日出の町を過ぎたあたりから、左に昔と変わらぬ別府湾、なつかしの高崎山を見た時、私は大分に帰って来たんだという気分にいつもなった。豊岡では某ホテルなるものが岬、鼻の上に聳え立っていた。なんだこれは、しかし、バスの車窓から見る限りでは、海岸の地形が破壊されていないようである。
 別府市内を過ぎ別大国道に入ると仏崎前の海岸を埋め立てて、従前のきつい曲線の道がゆるやかな曲線道路に改良(?)されつつあった。田ノ浦海岸にはリゾート施設として海水浴場、人工島を新設するとやらで、海の中にやぐらが数本たっていた。
 まだ、大分県民は自然がなくなることに気がつかないのか。ただ関係者を儲けさせるだけではないのか。誰も反対しなかったのか。別大国道は曲折があるから、その海岸美がすばらしいのである。特に仏崎付近の湾曲による風景は最高なのである。
 江戸時代に府内七崎と呼ばれた美しい海岸線があったことを知っていますか。東から芦崎(新川)、黒崎(王子町金谷橋付近?)、寶崎(かんたん)、鯨崎(白木)、仏崎(田ノ浦)、高崎(田ノ浦・高崎山間)、鎌崎(高崎山)である。しかし、もう当時の原型をとどめているところは皆無である。わずかに、鯨崎、仏崎、高崎、鎌崎の四崎が国道新設により人工的に手が加えられたが、当時の面影を残しているのみである。
 読者の方々は本書により、「自然海岸のすばらしさ」と「自然を破壊すれば二度と元には戻らない」ということをあらためて認識していただきたい。そうして、住民の利便性、地域の振興・活性化を名目に自然を破壊する行為に、反対していこうではありませんか。
 平成10年7月からはじめた湾岸の踏破はひとまず終わることになるが、旅はまだまだ続いていく。私の性格は、古川古松軒のように何事も自分の眼で現場・現実を見ないと安心・信用できないイヤな性格である。先人の伊能忠敬に到底及ぶべくもないが、すくなくとも生ある限りは大分県の海岸線を踏破することを目指して・・・・
 なお、文章、表現の巧拙に多くの批判があろうかと思いますが、執筆については全くの素人であるためご容赦願いたい。また、自分の思い込みで記述したところもあり、誤謬については、読者の皆さんのご指摘を待つ。
 最後に、出版に至るまで種々ご教示いただいた西日本新聞印刷企画編集部末次、営業第一部早田の両氏に、謝意を表します。

                                                                    福岡市中央区の社宅にて                                                                    平成13年初春