(40) 島原御預所小坂村字三名
当初、三名の場所が不明であったが、別府市と日出町との堺にある別府側の集落であることが分かった。即ち、10号線を挟んで廃カラオケBOX(八郎鼻)の反対側にある高台の集落。測量日記では「、、、、島原御預所速見郡亀川村より初め、同御預所古市村枝笹江、同小坂村字三名、字蔭平(影平)、同小浦村森領辻間村境まで測る、、、」とある。島原御預所とは天領のことである。
三名集落(別府市)の高台から関の江海岸を撮る 影平(日出町)から八郎鼻(日出町)と対岸の三名集落(別府市)を撮る手前の坂道を測量隊も通過したのであろう。 

(41) 八郎鼻と島山
忠敬らの測量隊は鼻下の海岸線の岩場を測量する。八郎鼻という名前は「鎮西八郎為朝」に因むという。              
八郎鼻と島山。遠くに鹿鳴越峠を望む。    八郎鼻から佐賀関、大崎鼻を撮る

(42)四極山(高崎山)麓
文化7年2月12日、別府から府内に向け測量をはじめた。測量日記では「速見郡田野口村・浜脇村入会より初め、大分郡府内領田浦村、四極山(一に高崎山という、俗号大友家出張要害地)麓を通り、、、、」とある。雉城雑誌では、当地をウド(ウト)ヶ浜と呼んでいる。測量時の潮位は約160センチである。
左は高崎山、前方は鎌崎。小石&大粒の砂の海岸。潮位20センチ  消波ブロックに挟まれたカメノテ。付近に多数あり。

(43) 佐賀関止宿早吸日女太神宮と珍彦(うずひこ)の社
測量日記では佐賀関に二泊し、「、、、佐賀関村着。止宿本陣安部民部大夫、別宿小野要人二軒共に社人、早吸日女太神宮へ参詣、本陣安部は、この宮の神主、この関村を日本紀に曲浦と云ひ、また珍彦の社あり、一名椎根津彦、神武帝大和御征の案内せし神なりと云、、、」と記す。
  一名「関権現」ともいう。 −−−−−−−−−−− 下浦漁港から

(44)佐賀関町 福水
文化7年2月18日、前日宿泊した忠敬らは、赤波石より測量を初め、枝福水、、、、、松波石(幸浦)まで関崎半島を半周する。      
福水漁港から西側、赤波石(右端の出崎?)を見る岩石海岸で白黒石が多い。 福水漁港から東側(松ヶ鼻方向)を見る。

(45)佐賀関町 大黒浜 小黒浜
関村に止宿した測量隊は、翌2月18日赤波石から初め福水集落、関崎を廻り、大黒浜、小黒浜を経て松波石(幸ノ浦崎漁港東側の出崎)まで測る。赤波石から松波石まで一里三十町五十八間二尺(約7.2KM)
通称黒ヶ浜 大黒集落は右手にある。子供の拳程の黒石で覆わ
れている。
神名社から小黒の浜。現在は漁港となっている。

(46)佐賀関 白浜と松波石
佐賀関下浦西町、東町を経て、「関村枝幸浦家十九軒(現幸浦漁港付近)。白浜、白石の小石おおし、よって名とす。字神崎松波石まで測る」と日記に記す。
幸ノ浦漁港の東にある白ヶ浜。名前の通り、白色の小石おおし
左端の出崎が松波石か?
測量時に記す白ヶ浜、現幸ノ浦漁港

(47)佐賀関 大黒浜「黒石」、白ヶ浜「白石」と横切り
佐賀関町上浦(日記では佐賀関村入口”佐印”)から下浦(日記では西町”西印”)へ、役場前の道路を測量する。これは、関崎半島周回の海辺測量の正確性を高めるためのもので、横切りと云い、日記では「、、、それより横切り、佐賀関村上浦?西町、西印を残す。佐印より四十八間、、、」とある。
左から赤石(日出町八郎鼻)、白石(佐賀関町白ヶ浜)、黒石(同黒ヶ浜 横切り基点(下浦側から撮る)

(48) 海原川                                                    
海原川(現乙津川)を渡り、海原村、三佐村を測量する。日記には「原村妙見浜より初め、海原川幅八十一間(約150M)、同国岡領三佐村(中川修理大夫役所あり)字京泊・・・・・」とある。
原村側から海原、三佐村を望む。対岸は海上保安部 遠くに杵築、国東の山並みも見える。

(49)別府境川渡河
日記には「別府村出立、制札より初め、字仲間、字野口、左(西)側森領鶴見村、右(東)側島原預所南石垣村・・・・」とある。現仲間通り、日暮庵(天満町)を経て、天満橋付近で境川を渡るか? 仲間通りは測量時の面影が残る。
天満橋から。 別府湾の先に大分が見える。 西側は鶴見山。この付近の川は急勾配。

(50)太郎次郎の塚
日記には「・・・島原御預北石垣村、此村に二の大岩窟あり、鬼の窟と云、日本紀に所謂土蜘蛛青白と云、二賊篭し所なり、又別府太郎同次郎の塚、・・・・・信用にたらず」とある。また、西遊雑記には「・・・・石垣原村をよぎりしに、此地は上古いかなる人の住居せし所にや、ここもかしこも石垣を築し所なり。・・・」とあるから、この付近は至る所に写真のような別府石を利用した石垣が散見されたのであろう。
塚付近(春木川沿い)にある石垣。 忠敬、古松軒、益軒も見るか 太郎次郎の塚。 手前の道を右から左に測量する。

(51)脇亭主役の酢屋宅
伊能日記には、「…止宿、同前橋本屋八右衛門……この夜晴天測量、脇亭主酢屋平右衛門も付居る」とある。また、接待側の府内藩の記録には「御着の節、脇亭主酢屋平右衛門、麻上下着用、玄関前へ罷出、それより座鋪迄、御案内仕り候事」とある。酢屋宅には29日に鶴崎から府内に着いた坂部貞兵衛ら暦局の三役人が止宿。府内藩の記録に「坂部外三人 一室」とある。
昭和30年代は、農林省大分統計調査事務所あり、現在は二軒程おいて、大分小売酒販会館…この辺りに酢屋幸松家の屋敷があった。道路部が堀川の船入れ。桜町橋本屋まで徒歩5〜10分の距離 府内藩船奉行屋敷跡から船入れを撮る、遠くに高崎山

(52)別府村庄屋堀家居宅
伊能日記には「…本陣別府村庄屋(堀)作左衛門、病気につき亭主役小坂村庄屋(高倉)曽右衛門…」とあるから、宿泊逗留先は堀家か。また、豊国紀行によれば「…民家の宅中に温泉十所有、何れもきよし。庄屋(堀家)の宅中にあるはことにいさぎよし…」とある。
庄屋宅は流川高札場から、西へ一から二町の所にあり。 流川通リに面し、現在は村橋医院がある。

(53)亀川村庄屋高橋家居宅
文化7年頭成町から海辺測量を開始した測量隊は、亀川村庄屋與吾兵衛(高橋姓)宅で中食をとる。亀川村はこの海辺測量に47人も出役したことが、高橋家の日記に記されている。翌文化8年の街道測量においても、庄屋高橋宅で中食をとる。今は「からつや」の屋号で、陶器を販売しているようだ。外観はそうでもないが、内部の造りはさすがに庄屋宅である。
小倉街道(旧道)に面し、亀川村(里屋)の中心地区にある 間口はそれほどでもないが奥行きあり