男は突然見知らぬ場所に放り出されて困惑していた。
『ヒカル』にペンダントを押し付けられた途端、意識が遠くなった。
そして、気がついたら。
ここは…いったいどこなのか?
時刻は夕暮れ時だろう。傾いた太陽があたりを赤く染めていた。
あたりに人影はない。しかし耳をすませば、すぐ近くに人の息遣いが聞こえるような。
懐かしさに胸が苦しくなるような、なにもかもが優しく感じられるような、そんな光景だった。
男がいる場所は低いまばらな柵で、周囲の小道と区切られた空間だった。
すぐ足元の地面には、木枠を埋め込みその中に砂が満たされている。
金属と木で出来た、変わった乗り物らしき物体もある。
それらに見覚えがあるような気がして、男は首を傾げた。
しかし『見覚え』など実はあるはずがなかった。
男は遠い昔に記憶を捨てていたので。
捨てたというより、奪われたといった方が正しいだろう。
神祖によって、彼はそれまでの全ての記憶を奪われた。
素性も、名前も、なぜそこにいるのかさえも。
気がついた時、『碁』以外に彼が覚えていたのは、ただひとつ。
明るい前髪が印象的な快活な男の子と、『ヒカル』の名前のみだった。
男の記憶の始まりは、青い光の中。
声が聞こえた。
―そなたの力、わしの理想のために使ってもらう―
そうして神祖の望むままに『碁』を打って永劫ともいえる月日が過ぎた。
けれど彼は常に一人ぼっちだった。
その後、他人に会ったのは神祖が訪れた、わずかに一度きり。
あまりの寂しさにやがて、制御システムに『ヒカル』の名前をつけた。
システムは男のために、彼の唯一の記憶である少年の姿を模して、幻の肉体を作り上げる。
それから男と『ヒカル』はずっといっしょだったのだ。
思えば、男のためにシステムが『ヒカル』を実体化させた時に気付くべきだったのだ。
それに感情があることを…。
―『碁』さえ打てれば私は幸せなんです―
ずっと昔、男は『ヒカル』に言った。
では、いつからそれが苦痛になった? いつから『ヒカル』が憎くなった?
男は掌の中のペンダントを見つめた。
それはDが首から下げていたものだった。青い光を放つ不思議な石を、凝った細工が取り囲んでいる。
ふいにこれと同じものを、どこかで見たことがあるような気がした。
もう一度、まじまじとペンダントを凝視する。
思いついて裏返してみた。そこに刻まれていたのは『D』の飾り文字ともうひとつ。
小さい上に所々掠れていたが、それは名前だった。
感じからして女性。そして、男はその名に覚えがあった。
神祖が人間の女性を奥方としている事は一部の貴族にはよく知られたことだった。
その頃すでに捕らえられていた男も、一度だけ会った事がある。
たった一度、神祖が来た時だ。彼は奥方を伴って現れた。
刻まれた名前は、その奥方の名前だった。
(そうだ…これはあの時、奥方の首を飾っていたものだ。しかし、『ヒカル』は何故、これを私に?)
貴族が作ったあらゆるシステムに絶対的に君臨できる『マスターキー』。
そして血への渇望を抑えるための、護符。
神祖が創ったこのペンダントには二つの機能があった。奥方が必要としたのは前者だ。
他にもあるのかも知れないが、男が知っているのはその二つだけだった。
その時、ペンダントに見入る男の耳に、息を飲むような押し殺した声が飛び込んだ。
「……っ!」
男は訝しげに顔を上げた。
柵の向こうに『ヒカル』が立っていた。
「さいっ!!」
一瞬、言葉の意味が判らなかった。
(さい!?)
(………佐為! 藤原佐為!!)
(…思い出した…)
失った何もかもが、今こそ男に戻された瞬間だった。
男の全身が電流が流れたように硬直した。心の衝撃に耐え切れず、目を閉じて仰向く。
その眦から透明な雫が溢れて落ちた。
「佐為っ!」
ヒカルが、もう一度呼んだ。
佐為は目の前の少年をよく見ようと目を開けたが、視界が揺れてよく見えない。
手の甲で拭って、微笑んだ。妙に子供っぽい仕草だった。
その時になってヒカルが、彼の記憶のヒカルより、かなり成長していることに気がついた。
身長が彼とほとんど変わらない。
「おまえ、佐為だよな!? いや、オレが間違える訳ねえ!」
「おまえ、どこ行ってたんだよ!?」
「オレ、探したんだぜ!? すごく! ずっとずっと探してた」
…私もです。ずっとあなたを捜し求めていた。でも思いは言葉にはならなかった。
「もう会えないって判ってても、どうしても探すのを止められなかった」
「ヒカル」
「佐為っ!」
ヒカルが、佐為へと、そっと手を伸ばした。
それへ、佐為もならって手を伸ばす。かすかに触れた瞬間、ヒカルの表情に驚きが走った。
佐為は微笑んだ。かつていつも浮かべていた優しい表情で。
ヒカルがぶつかるように抱きついてきた。
それを受け止めて、佐為は、そっとヒカルの背に手を回して抱きしめる。
ヒカルの背中越しに上げた掌に、ペンダントが光っていた。
―そうか―
佐為は理解した。
自分はまがい物とはいえ、貴族。
ここで、昼の世界で、人間として生きていくためには、このペンダントが必要だったのだ。
自分は偶然ここにいるのではない。
全て、『ヒカル』が自分のためにしてくれた事だったのだ。
アキラ・トウヤを自分が見つけた事からして、もしかしたら『ヒカル』の目論見だったのかも知れない。
自分はなんと『ヒカル』に愛されていたのか―。
それなのに最後まで『ヒカル』をわかってあげられなかった。
(もう、取り返しがつかない…)
本物のヒカルを抱きしめながら、佐為は『ヒカル』を思った。新たな涙がこぼれ落ちる。
『ヒカル』の”心”に応えねばならない。
(―私は…ここで生きていく。何があっても)
(私はもう孤独ではない)
佐為は顔を上げた。もう泣いてはいなかった。
アキラは都の大学へ進んだ。
そして勉強の傍ら、碁に関する資料を探し回った。
あの城での記憶がアキラの心を捉えていた。
(いつか『碁』を復活させたい)
アキラは固く決心していた。
やがて彼は都の大図書館で、とても古い本と出会う。
特殊な紙に貴族の技術で印刷されたそれは、ある貴族が残した禁書のひとつだった。
アキラが頼んだのは別の資料だったが、出されてきたのはこの本だった。
不思議としかいいようのない出会いだった。
アキラはこっそりその本を持ち出した。
内容を少し読んで、すぐにこれは自分を待っていたのだと、そう思った。
発行人の貴族は神祖の奥方に頼まれてこれを残したと添書きにあった。
奥方の先祖代々ずっと継承されていたもので、彼女の手に渡った時には古いディスクの形だったそうだ。
原本は「藤原佐為」という大昔の碁打ちが書いたものである。彼は奥方の先祖にあたるらしい。
『碁』と『ヒカル』という名、そして『神祖の奥方の先祖』。
これらを結びつけるのは容易だった。あの男が「藤原佐為」なのだろう。
あの時『ヒカル』はあの男を過去へやったと言ったのだ。
あの男がDと奥方の先祖なのなら、彼は奥方と神祖の息子なのだろう。
だがそれはアキラには興味のない事だ。
その本には『碁』に関する膨大な記述とたくさんの棋譜の他、『碁』の発展に寄与した人物として「進藤ヒカル」「塔矢行洋」「塔矢アキラ」などの名前が挙げられていた。
「そうか。キミは「進藤ヒカル」というのが本当の名前だったんだね」
アキラは「進藤ヒカル」の写真を見ながら微笑む。
『ヒカル』がなぜ自分に優しかったかわかった。
「塔矢アキラ」とは自分と同じ名ではないか。彼は「進藤ヒカル」の生涯のライバルだったとされていた。
『ヒカル』は完璧なまでに「進藤ヒカル」だった。
だからライバルだった自分に親切だったのだ。
塔矢アキラの写真は載っていなかったが、自分と同じ顔だろうと思った。
本の最後のページに言葉が載っていた。
―私はこの記録を遠い未来にいるあなたへ託す。
願わくばこれを見たあなたが、『碁』を継承してくれんことを。
『ヒカル』もきっとそれを望んでいる。―
これは自分へ向けられた言葉だと直感した。
「進藤ヒカル」は生涯にわたって碁を愛しつづけた男だったらしい。
その彼のコピーなら『ヒカル』もきっと『碁』そのものを愛していたのだろう。「塔矢アキラ」もだ。
その時、唐突に思った。
もしかしたら。
自分は「塔矢アキラ」の生まれ変わりというやつなのでないか?
それなら、「進藤ヒカル」も同じように生まれ変わっているかもしれない。
今まで輪廻転生など信じてはいなかったが、そうだといいと思った。
アキラは頷いた。
「ああ、そのつもりだよ」
「キミを待ってる」
終。
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