再び現れたヒカルを見て、男は息を飲んだ。
Dの剣に貫かれた傷は、ほとんど回復しようとしていた。
疑似貴族でも、その力は大貴族のそれと比べても遜色ない。
ヒカルがアキラの方へ近づいた。そっと身を屈めて抱き起こす。
アキラは苦しみながらも一部始終を聞いていた。貴族化していた時の記憶もある。
逆らう事も忘れ、ヒカルのなすがまま立ち上がる。
「キ、キミはもしかして…機械だったのか?」 呆然と訊く。
アキラは少年が男を庇うように、ハンターの剣に倒れた様子も見ていた。
かつて、『すまない』とアキラに謝った彼だった。男を許してやって欲しいとも。
「ソウ…。ワタシハ、アノカタニ、ツクラレタ、セイギョシステム」
ヒカルの姿は今にも消えそうに揺らいでいる。
「デモ、コノ、スガタヲ、アタエテ、クレタノハ…」
ヒカルが男を見つめた。視線が合った。
「『ヒカル』の名前と姿を与えてくれたのは…彼」
消えそうだったヒカルの姿が、再びはっきりした。
「ヒカル」
「その名前を、姿を、与えてもらってすごく嬉しかった。オレ」
『嬉しい』―それは、感情を表す言葉のひとつ。
機械が『嬉しい』と発するのを、男は呆然と聞いた。
「『ヒカル』はあなたの大切な人だった。オレはそのコピー。
でも姿形はそっくりでも、しょせんは”まがい物”だ」
ヒカルの瞳が悲しげに揺れた。
男は目を見開いて、少年を見つめていた。
「オレに与えられた使命は、貴族の陰と人間の陽のバランスを『石』に変換すること。
御神祖の理想の『世界』をあなたと『碁』によって創る事。そしてそれをあなたに強要する事。
あなたはいつか自分は碁が打てれば幸せなんだと言ったね。
だからオレは精一杯あなたの相手をしたつもりだった。
でもいつしかオレは、あなたにとって疎ましい存在になっていたんだね…」
「ヒカル…」
男の足が一歩、進んだ。
『ヒカル』は微笑んで首を振った。
「あなたは自分をまがい物だと言って、いつも自嘲していたけど、ほんとのまがい物はオレだけなんだ。
オレではあなたを孤独から救ってあげることはできなかった。でもね。
あなたは生きているんだ。オレがいなくなればここを出られるし、どこでだって生きていける」
ヒカルが手を上げた。夜空に浮かぶ星が、一斉に流星となって流れた。
幻の星が、次々と光の帯を引きながら落ちていく。
「なっ!? や、やめなさい!ヒカル! こんなことをすればあなたが…!」
「いいんだ。いずれにしろオレはもう長くない。もっと早くこうするべきだったんだ」
ヒカルは笑顔のままだった。
「オレが消えれば、あの方の実験も終わる。貴族と人間は再び敵同士となり血が流されるだろう。
理想の村は消え去り、辺境のありふれた村に戻る」
「でもそれこそが自然な姿。与えられた理想じゃだめなんだ。
人と貴族を隔てる壁は、自らの手で乗り越えていかなければ、決して本物にはならないんだ」
ドームの中に淡い光が溢れた。星の名残のように、光の粉がゆっくりと舞い落ちる。
破壊的な光景であるのに、ひどく美しいその景色を、アキラは魅入られたように見つめた。
その横顔に、
「そうだ。言い忘れていたけど、おまえの親父は生きているよ。
そこのハンターを雇ったのは、おまえの父親なんだ」
アキラが驚いて振り向く。ヒカルの視線の先にはDと男がいた。頷いて、
「あいつは最初から誰も殺すつもりなんかなかった。…怪我はさせちゃったけどさ」
ヒカルが優しい瞳でアキラを見た。
「カタがついたら、おまえを境界まで送っていくよ」
その時、たったひとつだけ。
その幻の星はDを目がけて落ちてきた。
とっさに身体をひねって避けようとして、一瞬、自由を奪われる。
金縛りはすぐ解けたが、身体をかすめた流星にあたって、青いペンダントの鎖が切れて落ちた。
足元に転がってきたそれを、少年が素早く拾い上げた。
瞬間的に少年の姿が消えた。すぐに男の間際に実体化する。
そして青いペンダントを男の胸に押し付けた。
「ヒカ…っ」
男の叫びは途中で不自然に消えた。
流星が落ちつづけるその空間に、もはや男はどこにもいなかった。
「…どこにやった?」
Dが訊いた。
少年はにっこり微笑んだ。
「全てはおまえが仕組んだ事か?」
少年は笑って応えない。それが答えとも言えた。
「あのペンダントの事を知っておるとはのう」
口をつぐんだDに変わって枯れ声が続けた。
「おまえは奴の創ったコンピュータ。どんな情報も知らぬ事はないのじゃろうて」
そこへアキラが割って入った。
「彼は、どうなったんだ?」
「あいつは…もっとも帰りたかった場所へ帰った。あいつは、そこにいるハンターのご先祖なんだよ」
「先祖!?」
ヒカルが頷いた。
「そう。さっきオレはあいつを過去の世界へ送ったんだ。彼はそこで人間として生きていく」
「人間として? だって彼は『貴族』だ。血に飢えたらどうするつもりだ?!
まさか過去の世界でなら犠牲者が出てもいいと思っている訳ではないだろうな!」
「そうじゃない。そのためにさっきDのペンダントを頂いたのさ」
「ペンダント?」
ヒカルが頷いた。
「…あやつ、一人で大丈夫かのう」 枯れ声が面白そうに言った。
「大丈夫、ひとりじゃないさ。過去の世界で、あいつは孤独から解放されて幸せになるんだ。
これは予言。絶対にはずれない予言さ」
「予言か。ふふん。おまえはそれをデータとして知っておるのじゃろう。
あのペンダント―。あれは過去から、時を経て再びこやつの手に帰ってくるのじゃな」
枯れ声が止んだ。『ヒカル』の姿が再び薄れ始めたからだ。
「ヒカル!?」 アキラが叫ぶ。
「…ごめん、アキラ。どうやら時間切れみたいだ。村へはDが連れて帰ってくれる…」
ばしゃりと音がして、『ヒカル』の姿がいきなり崩れた。
彼が立っていたあたりには、何かの液体がこぼれたような痕があるだけだった。
「ヒカル!!」
「…時を越えるには膨大なエネルギーが必要だ。ここのシステムは老朽化していた。
おそらく最後の力を使い果たしたのだろう」
「ヒカル…」
崩壊したドームの隙間から吹き込んだ風が二人の髪を揺らした。
その足元に、真っ二つに割れた『碁盤』があった。
周りには『石』が散乱している。これもほとんどが割れていた。
アキラはそっと『碁盤』のわきに屈みこんだ。
割れた石の中に無傷なものを見つけたからだ。白と黒、一対だけ。
アキラはそれを拾い上げた。
彼は碁を全く知らない。彼だけではない。碁は今では失われたゲームなのだ。
なぜか、それをとても残念に思った。
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