|
「暑い!たまらなく暑すぎる…。葉月のやつ、何を考えてるんだか!」
いつも涼しげなお顔をされている睦月の兄者が、汗を拭いながら、独り言を言った。野山に分け入って薬草を摘んでいるのだが、余りの暑さに今にも倒れそうな程の目眩がする。
「今日は8月の晦日だから、葉月の兄さま、いつもより余計に頑張ってるんだね。今年は夏ばての人が多そうだから、薬草がいっぱいいるって如月の兄さまが言ってた。」
にっこりしながら師走も答える。
日暦の皇子達はそれぞれの担当の一月を、たった1人で日の屋(太陽)の中にある庵で過ごす。一月、飲まずくわずで太陽を燃やし続けなくてはならない。そして今日は葉月の担当である8月の最終日、晦日なのだ。日の暮れには、次の当番である長月と交代する。12兄弟の中で一番力が強く雄々しい葉月の操る日の羽(炎)は、恐ろしく勢いが強い。あんなすごい日の羽が操れたら…と、いつも師走はうっとりと葉月のいる太陽を眺めてしまう。
「こんなに暑くちゃ、お前も辛いだろう?もう今日は薬草摘みはこのくらいにして、水無月のところに行っておいで。」
「待ってました!」
師走の顔が輝いた。漁を営む水無月は、今日も優雅に釣り糸を垂れていることだろう。
「余り遅くならないうちに帰ってくるんだぞ。」
「はーい!」
嬉しげに駆け出して行った師走を見送りながら、睦月は何か胸騒ぎを感じていた。
「何ごとも起こらねばよいが…。」
「兄さまー、水無月の兄さまー!」
水無月は海の中に突き出している崖の上に腰をかけて、空を見ながら釣り糸を垂れていた。
「おう、師走か。そろそろ来る頃だと思ってたよ。葉月のやつ、いったいどうした風の吹き回しかな。こんなに気合いいれちゃって…。それにしても睦月の兄者は師走に甘いなあ。」
「ところで、水無月の兄さま、今日の収穫はどんななの?肝油が足りないって睦月の兄さまが言ってたよ。」
「任せとけって。今日は大漁だ。葉月が頑張っているから。…おっ!引いている。師走、手伝え!」
「うん!」
水無月は弾ける様に立ち上がり、簡素な釣り竿を引き上げにかかった。その引きの強さから、かなりの大物がかかっていると想像できる。師走は急いで服を脱いだ。そして網を持って、ぱちゃん、と海に飛び込んだ。
「兄さまー、とれたよお!」
ややしばらくして、師走の喜びに満ちた叫び声が聞こえた。
「よっし、よくやった!あがってこいよ。」
「はーい。」
「で…。」
水無月は師走が引き上げた魚を前に難しい顔をした。
「これはいったい何の魚だろう?」
「水無月の兄さまも見たことがないの。」
「初めてだ。」
マグロのようでマグロでなし、ハマチのようでハマチでなし。
「うまいのかな…?そこが一番問題なんだが。」
「さあ…。」
その時、水無月はぎょっとした。今釣り上げたその魚が、いきなり岩上に立ち上がったからだ。それはひれを巧みに使って水無月の方まで歩いてくると、ぽとぽとっと両目を落とした。そして、そのまますたすたと海の方まで歩いて行くと、崖の上から海に身を踊らせて帰って行った。
「い…今のは何だったの…かな…?」
「さ…さあ…。」
水無月は今の魚が落とした目を拾い上げてみた。
「なんか気持ち悪いよ、兄さま。」
不安げな師走を後目に水無月は呆然とした。それは大粒でまきのしっかりした真珠だったからだ。まるで海の神、綿津見の神の持ち物の様に見事な真珠だ。
「あれ、睦月の兄さま、あ、如月の兄さまと文月、長月の兄さま達だ!」
たまらなく心配になった睦月が、とりあえず家にいた兄弟を連れて水無月のいる海に来た。
そのとき、ふいに空が暗くなった。日が雲に隠されたのだ、と皆思った。
「ああ!見ろ!」
日頃冷静な睦月が大声をあげた。そこにはわずかばかりの光を発して浮いている太陽の、無機質な姿が浮かんでいた。そしてその中に2人の人影が見えた。1人は葉月だ。では、もう1人は…?
「行ってくる!長月!」
文月が長月を誘った。葉月の操る日の羽逆巻く日の屋に入ることができるのは、この二人しかいないのだ。
葉月は日の羽渦巻く日の屋の中で、得体の知れない敵と闘っていた。
「どうだ、アマテラスの息子よ。この私の力は…。」
「何故だ!我ら兄弟一の炎の使い手、この葉月の操る日の羽をまともに受けても、少しも動じないとは…。いったい貴様は何者だ!」
「ふふ、貴様の操る日の羽などこそばゆいわ!教えてやろう。我が名は火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神。この世をお造りになったイザナミの命の最後の息子。」
「ばかな!火の神である火の夜芸速男の神は、生まれいでる時にその炎で母なるイザナミの命を焼き殺してしまい、父のイザナギの命に斬り殺されたはず。その魂はその時の剣の化身、天の尾羽張の神に封じられていると聞く。」
「私は炎を司る神。この火の屋は私が支配する。私こそ、相応しい。」
「何を言う。ここは貴様の父であるイザナギの命が、後に産み落とした貴い神アマテラスさまにお治めになる様におっしゃったのだ。貴様の来るべきところではない。」
「そんな話は知らぬな。」
きりきり…と火の夜芸速男の神は葉月の首を締め上げた。
「ここを明け渡すのだ。貴様より私こそがここの主に相応しい。」
「ほざけ!」
葉月は渾身の力をこめて両腕を広げた。そして全ての力を振り絞って最後の火の羽を放った。
ぼおう…。激しい音が聞こえた。かつてこの日の屋にこんな強い炎が渦巻いたことなど一度としてなかった。
「ふふふ、こそばゆいと言っておろうが。いいか、こわっぱ。日の羽とはこうやって操るのだ。覚えておくがいい!」
ぶおっ…。先ほどより更に激しい音が響いた。
「ぐうっ!」
薄れる意識の中、葉月は火の夜芸速男の神の姿を目の当たりにした。黒い肌、白い髪、目の白黒も反対で、黒い眼球の中に、白い瞳がある。これは封じられた神に特有な外見だ、と聞いたことがある。では、この男はやはり火の夜芸速男の神なのか…?しかしどうしてここに…?
葉月は目の前がゆっくりと暗くなるのを感じた。この男の高笑いする声が響き渡るのを、遠くの方から聞いた気がした。
「母様、アマテラス様…。申し訳…ございま…せ…ん…。」
「うん?」
火の夜芸速男の神は気がついた。日暦の息子の二人が、この日の屋目指して登ってくるのを。確かあれは文月と長月。この葉月に比べれば更に貧相な炎しか操れない、ひよっこだ。
「うっとおしい…。目に物を見せてくれん…。」
火の夜芸速男の神は気を失っている葉月を抱え上げた。そして、勢いよく日の屋の扉を開いた。
「ああ、葉月!」
「兄者!」
「いいか、聴け。アマテラスの息子よ。」
火の夜芸速男の神は抱えていた葉月をこの二人に放り投げた。咄嗟に二人は葉月を受け止めた。
「ここは私の物だ。貴様達は二度とここには来るな!」
ぶおうっ!
3人に向けて激しい炎が吹き付けられた。
「うお!」
「うわああ!」
3人は下の海に向けてまっ逆さまに落ちていった。
「海よ!大綿津見の神よ!偉大なるその手のひらを広げ、あなたの兄弟を受け止めよ!」
まっ逆さまに落ちてくる弟を見つけた睦月は、海に向かって呼び掛けた。
「我、アマテラスの息子なり!」
ふいに海から水の山が盛り上がった。それは手の形をとり、天に向けて差し伸べられた。そして、衝撃をやわらげるかの様に3人の日暦の息子達をそうっと受け止めた。
「大綿津見の神よ、御好意感謝いたします。」
ムックリ起き上がって海面の上を葉月を抱えてゆっくりと歩き始めた文月、長月の 無事な様子を見て取った睦月は、静かに海に向けて感謝した。
「さあ、屋敷に運ぼう。如月、葉月を診てやってくれ。」
医学の知識のある如月は、微かに微笑むと一足先に睦月の屋敷に向けて歩き出した。
空にはすっかり光を失った太陽が浮かんでいた。空には満天の星がでていた。
続く |
|
|