序章と言う名の終章
そこは何もない暗闇だった。
いや、何もない、と言うものがある空間だったとも言える。ときおり粒子と反粒子が現れては消えていく。そんなものがぎっしりとつまった何もない空間だ。人はこれを真空と呼ぶ。
彼が意識を持ったのはほんの先ほどだ。虚数時間空間の美しい暗闇が彼を覆う。彼はこの暗闇の息子である事を誇らしく思っていた。

彼はその闇を母と思った。だが実は母は自分と共に生まれたのだ、と言う事を知らなかった。

彼は自分も母と同じく美しい存在だと思っていた。そして自分の姿を見てみたいと一瞬思った。その微かなエネルギーが虚数空間に満ち満ちた。反物質を飛び出させて失わせるほどに。

そしてそこには物質が残った。

しばらくして彼は気がついた。何か禍々しいものが闇を切り裂こうと生まれたのを。それはみるみるうちに大きくなっていった。

〜私は…!?〜
彼は見た。その禍々しいものは闇を照らし、おぞましいものを照らし出したのを。それは平の板に5つの棒をつけ、気味悪く蠢いている。その板には更に太い棒がつき、別の板の脇に取り付けられている。それはその不気味なもの〜手〜を照らし出すとすごい早さで歩み去った。

このあまりにぶざまなものが己だと気がついた瞬間、号泣した。その気味の悪い棒で溢れ出た何かを拭う。拭い損なったそれ…涙が3粒ほど流れて落ちて、どこかに消えた。そして間もなく彼は意識を失った。

彼が意識を失っている間に、禍々しいものは次々に大きくなっていった。そして次の瞬間、その禍々しいもの、母は『光』と名付けたその禍々しいものは、大爆発を起こした。そして虚空間を突き破り、すごい勢いで飛び出していった。

その衝撃で闇は切り裂かれ大きな叫び声をあげ、その声で彼は目が醒めた。気がついたら彼も虚数空間を飛び出していた。

ゆがむ、ゆがむ…。

彼はうわ言の様に呟いた。新たな空間は幾重にも光によって複製され、重なった。一つの場所にいくつもの空間が開けているのだ。自分は、気味の悪いぶざまな形をしている自分は、ここにいるのに同時に向こうにもいた。そんな気味の悪さで彼は吐き気を催した。

彼は気がついた。今までなかった『物質』がここにもあそこにもあった。光はそれにぶつかり思う様に進めないようだ。だがしばらくすると再び以前にも増して早いスピードで我が物顔に闇の空間を走る様になった。

凄まじいエネルギーだった。あたりは禍々しい光に満ち満ちている。

彼はしばらく気がつかなかった。先ほど流した涙がうち震えながら彼に付き従っているのを。

あれを生み出してしまったのは、自分の過ちだろうか?美しい闇を切り裂きながら疾走する禍々しいモノ、光を彼は恨めしそうに見つめた。

その時、彼は何かが手に触れたのに気がついた。それは原子と言うものでできた物質の山だった。

彼はできたばかりの物質を手にとった。だが、そのさらさらした物質は何かを形作るには不具合いだった。ふと、彼は光が自分の方に向かって来ているのを見つけると、その前に立ちふさがった。

光は彼にいくつかの矢を打ち込んだ。彼の胸からは母と同じ色の液体が流れ落ちた。彼はそれを物質に混ぜ、丁寧にこねた。そして自らと同じ形の忌わしいぶざまな人形をあっという間に作り上げた。見事なまでに自分とそっくりだ。

「やあ。」
その人形は彼に声を掛けた。先ほど彼が空間に滴らせた涙がひと粒宿ったのだ。
「やあ。」
彼は答えてみた。
だがとたんに後悔した。何とぶざまなものを自分は作ってしまったのだ。おのが姿を見つめ直さねばならない事に、彼はすぐに飽きた。

彼は人形をそこに残し、禍々しい光が疾走する空間に歩み出した。

人形はすぐに彼の後を追った。

彼は気がついた。自分が走っている時人形も同じ速さで走ると、相手が止まっている様に見えるのだ、と。彼はしばらく光の事は忘れ、人形と遊んだ。彼は気がついた。人形が自分に向かって走ってくる時、自分も走るといつも以上に相手が速く見えるのを。すれ違い様、余りの高速に一瞬目眩がしたほどだ。

すぐに彼は飽きた。

そのとき、向こうの方から光が一筋やって来た。彼は今度はあの光を相手にしてやろうと思い立った。その瞬間、彼は人形を忘れた。

彼は光と並んで走ろうとした。

その前に腕試しをしてやろう。彼は光に向かって走り出した。だが、人形の時と違って光は高速にはならなかった。止まってみていた時とたいして変わらない。

たいした事はないな、と彼はほくそ笑んだ。

そしてつぎに並んで走り始めてすぐに気がついた。速い!おかしい!同じくらいの速さで走っていると思ったのに、となりに並んでも、光は決して止まっては見えなかった。いや、先ほどとちっとも速さが変わってないではないか。これは一体どうなっているのだ?

できるだけのことはしてみた。手足が軋む。身体が言う事をきかないほどに重い。身体の奥の方から何かがバクバクと脈打っているのを感じた。まるで全宇宙の物質が自分の身体に取り込まれているかの様だ。

帰ろうか?

彼がそう思い立って、来た道を同じくらいの速さで後戻りした。途中何度か光とすれ違い、そしてそれは決してさほど高速ではないと思いながらも、もう二度と追い掛けたりはするまい、と彼は思った。

彼は人形を残して来たところに戻った。人形はやけに古びて見えた。
「お待ちしてました。」
その人形は少し疲れた様子で彼に微笑んだ。

彼は見回した。先ほどの目も眩むばかりの禍々しい光はほとんど見えなかった。美しい闇が広がるばかりだ。
「長い長い時間が経ちました。貴方様のお望みの空間になりましたでしょうか?」
その人形は遠い目で空間を見つめた。
「貴方様が光を追い掛けて、ほとんど同じ速さで並ばれて走っていかれてから、色々な事がありました。」
「並んで走った?」
彼は人形と初めて言葉をかわした。
「はい。ほとんど隣に並ばれて。」
「いや、そんなはずはあるまい。すぐにあいつには引き離された。」
「貴方様にとっては一瞬でございましたでしょう。私から見るとそれだけの距離を引き離されなさるのに、永遠とも見える時間でございました。光は皆立ち去りました。ここはすっかり冷えて、物質すら散り散りになってしまいました。貴方様いらっしゃらない間に、長い長い時間が流れたのでございます。」
「そのようなものなのか。」
「そのようなものでございます。」

もはや物質と呼べるものはこの人形ただ一つだ。足下に2つの涙であったものがうち震えていはしたが、物質と呼べるものは人形だけだった。

彼はその人形をあっという間に打ち砕いた。

あとは虚無の空間が広がるばかりであった。いや、3つのかつて涙であったものが、彼の足下に震えているばかりであった。

                                     終わり