『KILL BILL VOL.2』 − 2004/05/04

 あなたが『KILL BILL VOL.1』が好きだったとして。
 その好きな理由が
【タラの脳内日本の変な世界観が好き】
【バッサバッサと斬りまくるアクション映画だった】
【栗山千明好きだから】
 ってのなら「VOL.2」を観なくても良い。

 逆に
【VOL.1のようなアクション映画は嫌い】
【マカロニウエスタンが大好き】
【タラの歪んだ世界観と愛情が大好きで大好きでたまらない】
 ってのならばオススメする。
それくらいにVOL.1とVOL.2はテーマは同じであっても作風は
まるで違うしテイストもまるで違う。元が1本の映画を分割してもの、
ってのだから確かに通しで観ればアリなのだが、続編だと思うと多分
「何じゃこりゃぁ!?」
 と唖然としてしまうくらいに今回は静かな… それでいて前半と比較
するに歪みまくった映画だと思う。


 さながらデビット・リンチのようでもあるんだけどリンチの中にある
ペド嗜好とかコンプレックスとは違って、タラの場合は基本的に性っか
セックスへのコンプレックスは無いんで逆にとても奇妙な味がするけど
VOL.2が映画としては極めて真っ当で(時系列イジリもほぼ無いし)、
ちゃんとしている分だけ1つ1つのデティールの妙、っか変さが際立って
くるのね。だけど、こちらが感じる変とか妙、ってのはタラにとって実に
根源的すぎて理屈とか理論では言えないし評せない。よく映画ヲタが
「ここに出てくるアレは何某かのメタファーで… 」
 って気取って言いたがるような事は無意味なのよ。っか出来ない。
そういう点である種の他人の狂気を観る、という点では実によく出来て…
というか出来てしまった映画だと思う。これに比べたらティム・バートン
やリンチやデビット・フィンチャー、クローネンバーグなんてのは理性の
人だというのがよく解る。でも、そんな事を言うのは多分、殆どいないん
じゃぁないのかなぁ… だけどバドがマルガリータを作るシーンの陰湿さ
なんて必要じゃぁないのにねちっこいのとか、意味論とかがこの映画では
これほどに無意味なのか… まだ昨日書いた『CASSHERN』なんざぁ
「真剣10代喋り場」低度の青臭い若造の小理屈だけだから簡単だもん。
タラってヲタで分析するのは1つの手段ではあるが、語るのは無効だわ…
 と、翻弄されっぱなしだったが筋は極めて簡単である。


 日本で勝手につけた「KILL is LOVE」ってのは大嘘だが、この映画は
愛の映画である。但しそれは相互理解や精神の高揚、浄化(カタルシス)
等の愛の作用の物語でもないし、愛の姿を描く物語でもない。
 それを描く為に『子連れ狼』など様々な物語からのチョイスと再構成
成されてはいるが、それは手段であって目的ではない。

 ここにあるのは、タラの中にある母への思慕であって、タラの中での
その思慕を「愛」という形でまとめたものだから他人がどうこうと言う
のも無意味だし、それを察したり理論化するのも出来ないって〜の。
 そういう意味で私もビルを父として捉えていたから勘違いしていたん
だが… ビルという役を通して父という存在への自己投影をするのか?
って思ってたんだよね… そうではなかったんだよな… 確かにデビット
キャラダインが実に、色々な意味で魅力的に描かれてはいても、全ての
女性は、その先っか頂上に彼の母がいる時点で男の存在って何よ? って
思ってしまったんだけどね…

 タラにとって母はコンプレックスではなく、ミューズであり、ヒーロー であり、
ヒロインであり… って、要するに『神話』なんだよね。 だからこれは宗教的
ですらあるんだが… だから禁欲的なんだが…

 愛とは、何なんだろうね。

 そして『映画を作る』って行為を「欲(エゴ)」だと思っていたが… っか創作
行為なんてエゴの塊だと思っていたんだが、必ずしもそのエゴって自己に帰属
してはいても自己代償行為、マスターベーションってのにはならない事もある
のは頭で理解してはいたが… そりゃぁネットでの感想も荒れるわ、これは…



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