ヨーロッパ夏紀行

  その2プロヴァンス編

  ドイツの夏は短い。8月の声を聞くとすぐに秋風が立つ。少なくとも昨年はそうだった。昨年は初めての夏だったため、妻の薦めにしたがい北欧へ旅行した。ドイツのような冬の厳しいところでは、2年もしたら北欧なんて行きたくなくなるだろうから、まだ日本人の感覚が残っているうちに行った方がよいというのである。2年目の夏を迎え、その気持ちが次第にわかってきて、夏が来ると急にそわそわしてきた。今年は絶対暑いところ、そう、南仏へと決めていた。それにはドイツの冬が厳しいという前述の理由もあるが、もう一つはピーターメイルの著作も影響していたかもしれない。ご存じと思うが「南仏プロヴァンスの12ヶ月」というやつである。そして、カラフルなフランス語の教科書「Le nouveau sans frontiere」にあった写真も記憶に焼き付いている。
  ドイツ人の部下達の、3週間もの休暇申請に苦々しい思いでサインしていたが、ついに自分の番が来るのである。

 南仏は、有名なアルルやニースもいいが、田舎の小さな村もいいという話なので、車がよいだろう。ただしヨーロッパではオートマ車のレンタカーは非常に少なく、また故障も多いというのでちょっとしんどいが自分の車で行くことにした。いつものように気ままに、行った先でホテルを決めようとしたが、このバカンスシーズンにそれは無謀だと言われ、インターネットで3日分だけ予約を入れた。ホテル予約は今回初めて使ったがなかなか便利である。ホテルの外観や客室のイメージがわかるし、金額もはっきりしている。

  前日は、心うきうき気もそぞろと行った感じで、南仏の太陽を思っていた。「三里に灸すうるより、松島の月まず心にかかりて。」という芭蕉の一節がふと脳裏に浮かんだ。気分はもうフランスモード。「明日から休暇です。何かあったらモバイルに電話してね。南仏の太陽と美味しいワインを探しにいってきま〜す。じゃ、また次週。」と怪しげなフランス語でしたため、秘書とマネージャに送った。

  いつもなら休暇初日は準備などをして、だらだら過ごしてしまうのだが、今回は初日から速攻で出かけた。幸いにも天候に恵まれ、早くも陽光の中を車を走らせた。ドイツからフランスへ抜けるにはいくつかルートがあるが、今回はコブレンツからトリア、ルクセンブルク経由でリヨンまで行き、そこで一泊することにした。国境を越えるとラジオの放送もフランス語に替わった。意味はほとんどわからないが、ゴツゴツとしたドイツ語に比べなめらかで耳に心地よい。

  リヨンは絹織物と美食で有名な町である。「ポールボキューズ」や「ピラミッド」、「トロワグロ」などの三つ星レストランがある。また、かの辻静雄のゆかりの地であり、今も辻調理師専門学校のフランス校「シャトー・レクレール」がある(と思う)。一泊ならず何泊かしてグルメの旅をしてみたいが、コブつきの身とあっては、それもままならない。ホテルにチェックインし、食事に出かけたが、結局近くのイタリアンになってしまった。ここのレストランでカルボナーラを注文したのであるが、ゆでたスパゲッティの上にソースであえたベーコンと生卵が乗っていて、これを自分でかきまぜて食べるのである。本場イタリアのカルボナーラは知らないが、少なくともドイツでは生卵にはサルモネラ菌が入っているらしく、生でたべるのはまず考えられない。食べてみるとこれまたドイツでは考えられない、薄味のソースとアルデンテのパスタであった。ちょっとしたレストラン、それもフランス料理ではないものにも、美食の文化は生きているのである..。このように書くとイタリア人に怒られるかもしれない。なにしろフランス料理はイタリア料理から発生したのだから。1518年にカトリーヌ・ド・メディシスがフランスへ嫁入りするときに大勢の料理人を連れて行ったことから始まるという。
 
   翌朝ホテルを後にし、市内の散策をした。まずは市内の見渡せるところ、丘の上の「ノートルダム教会」へ行った。ここはまっ白い建物で、青い空にくっきりと映え、目にまぶしい。早くも南仏に来たようであった。残念ながら、礼拝中のため中には入れなかったが、ここから見渡す市街地は美しい。暑くなり、のども渇いたので、売店で水を飲もうということ
になった。ご存じの方も多いだろうが、ヨーロッパのレストランにおいてある水は炭酸水である。我々はここでペリエを飲んだが、乾いたのどに大変心地よい。以前一時帰国したときにイカリスーパーで見つけて飲んだが、そのときはさほど美味しいとは思わなかった。やはり湿度の低いヨーロッパの方が合っているのだろう。ちなみに日頃家で飲んでいる水はコカコーラからだしている「BONAQA」というものである。言うまでもなく「よい水」との意味からのネーミングであろう。以前守誠さんと英語のスペリングゲームでお話したときに、Qの次には必ずUが来る、例外はIRAQだけだと教えていただいたことがある。ドイツということもあるし、また商品名でもあるため、別に構わないのだが、若干違和感をもっていた。ところがベルギーでそれを見つけたとき、スペリングは由緒正しい(?)「BONAQUA」になっていた。
 また、ペリエより安いバドワという水も旅行中に飲んだが、これは濁ったような味でいただけなかった。また、フランスではヴィシーの水も有名らしい。皆さんはご存じだろうか、映画「カサブランカ」のラストシーンで警察署長が水を飲もうとして、ラベルを見てあわてて捨てたのを。あれがヴィシー水で、当時ヴィシーにあったペタン政権を意味しているのだが、このことはあまり知られていないようだ。
  お昼はカフェで適当に食べたが、味はなかなかである。ドイツの一品料理と同じくらいの値段で、メニュー(定食)になっているのがうれしい。ドイツは量の多さで圧倒するだけだが、フランスはバラエティがあってよい。
 
昼食を食べ終わると、我々は一路アヴィニヨンに向かった。アヴィニョンは「アヴィニョンの橋で」という歌で有名だが、歴史的には「教皇のバビロン捕囚」の地として学校で教わった。うかつにもこの歌が、法王庁がアビニョンに来たときの賑わいを歌った歌だということを、ここに来るまで知らなかった。「教皇のバビロン捕囚」という暗いイメージと、あの明るい旋律とが結びつかなかったためである。「教皇のバビロン捕囚」という言い方も後世の歴史家が付けたネーミングらしいが、アビニョンの人からすれば、大歓迎のお祭り騒ぎだったのだろう。歴史の解釈は立場によって違うということを改めて感じた。(ついでに「教皇」という言葉と「法王」というのはどちらかに統一してもらえまないだろうか。それにノートルダム「大寺院」なんていういいかたも仏教みたいで変である。)

  ヨーロッパの観光地は、真下が駐車場になっているものが多い。ケルンに行ったときは地下駐車場から上がって大聖堂を探したが、手前の建物にじゃまされて見えない、と思ったら、それが大聖堂だった。アヴィニョンも地上に出ると法王庁の真ん前、大勢の人々が思い思いに楽しんでいた。ホテルにチェックインしてからぶらりと町を見て回った。夕暮れのアヴィニョン橋もなかなかよい。
   何気なく入ったレストランで魚料理を食べた。料理そのものはどうということはなかったが、デザートに出たメロンソルベは涙がでるほどうまかった。息子が言うには、この世に生を受けてから、今まで食べたものの中で一番美味しかったそうである。この後、旅行中にメロンソルベを頼もうとしたが、これをおいていたレストランは一軒もなかった。
  翌日は法王庁も見たが、フランス革命で荒らされたり、その後兵舎として使われていたりしたそうで、昔の栄華の面影はなかった。私はふと「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の冒頭が頭に浮かんだ。
  午後からはちょっと足を伸ばしてアヴィニョン近郊の村を回った。糸杉のある風景なんて、まさにゴッホの世界である。松野さんと一緒に行った、オランダのクレーラーミュラー美術館にあったゴッホの絵には、若干寒々とした印象を受けたが、ここで見る世界は、強烈な太陽の下の光と影とのコントラストの世界である。
 いわゆる「鷹の巣村」と呼ばれている村の一つ、ゴルドも訪れたが、村の外からの眺めはすばらしい。

   アヴィニョンに戻って食事をしたが、食べ終わってから、ふと隣の客が何かを頼んでいるのを耳にした。それは、「パスティス」といっていた。そう、あの「南仏プロヴァンスの12ヶ月」にあった、このあたりの地酒である。私はそれまで「パスティス」は“パ”にアクセントがあるものと漠然と思っていたが、それはティにアクセントをおいて発音されていた。わたしもさっそく注文してみたが、ギャルソンはひどく驚いたような顔をした。東洋人がプロヴァンスの地酒を知っていたのに驚いたのだろうと思っていたが、あとで冷静に考えると、単に食前酒を食後に頼んだためかもしれない。
 

 翌日、我々はアヴィニョンをあとにし、サントマリー・ド・ラ・メールへと向かった。ここは湿原で有名なカマルグの突端で、聖母マリアを含む三人のマリアがたどりついた土地だそうで、巡礼の聖地にもなっているらしい。車を走らせながら、一抹の不安が胸をよぎった。それは、今回のホテルの予約は、インターネットではなく、妻が電話でしたためである。妻は昔2年半ほどパリに住んでいたとのことで、フランス語はある程度できると思っていたが、どうも頼りない。ドイツに来てからドイツ語を勉強しているので、ためしに「ドイツ語のXXはフランス語ではなんと言うの?」と聞いても、「そんな言葉は使ったことがない」という返事が返ってくる。専門用語ならいざ知らず、「fourchette」(フォーク)という言葉を使ったことがないというのには驚いた。今回の旅行では彼女の思考回路は大混乱を起こしていて、「Deux Kinder,s`il vous plait」などとしゃべっていた。ホテルの予約にしても、多分大丈夫だと思うが、いつまでにチェックインしてくれというのがよくわからなかったというのである。
  アルルを通り過ぎ、湿原を抜けていくと、めざすサントマリー・ド・ラ・メールについた。小さな町のようであるが、なにやら円形の闘牛場もある。「メディテラネ(地中海)」という名のそのホテルは、白いこぢんまりした建物である。「地球の歩き方」の写真では、周囲の様子がわからないため、ひっそりとした、たたずまいに思えたが、実はレストランがいっぱいのメインストリートに面していた。車が進入禁止のため、とりあえず車に家族を残し、ひとりで、チェックインに行った。なんと英語がまったく通じなかったが、一応予約は出来ていることは確認できた。どこに車を止めたらよいかとたずねると、「デザレーヌ」の駐車場にいれろという。「レーヌ」という言葉から私はなにやら王妃にゆかりの地名かなと思った。それにしても、では「デザ」というのはなんだろう?念のために紙に書いてもらうと、「des arenes」であった。そう、さっき通った円形闘牛場のことだったのである。つくづくフランス語(のリエゾン)は難しいと思った。この町では英語はほとんど通じなかった。
  ホテルに荷物をおき、また例によって町をぶらりと歩いて、食事をした。このあたりは地中海に面しているため、魚専門のレストランが多い。あるレストランに入ってイワシのグリルを頼んだが、いまひとつであった。ただ焼くだけなら、イワシはやはり七輪のほうがよい。
  私たちはここでツバメや赤とんぼを見かけた。いずれもドイツでは見たことがなかったものである。リヨンでは雀もみたし、セミの鳴き声もなつかしい。しばらく忘れていた日本の夏の風物詩がプロバンスにはある。そう思うと、蚊に食われたあとも心地よい(んなわけないか?!)。
  ホテルに戻って寝ようとしたが、なんとここにはエアコンがない!!。いくら湿度が低いと行っても、30℃近い熱帯夜である。しかたが無いので窓を開けっ放して寝ることにした。が、そこはメインストリートに面しているホテルのこと、深夜まで喧噪が続いている
。少しは静かになった丑三つ時、うつらうつらしている私の耳に突然、「どろぼうっ、どろぼうっ」という妻の声が。あとで聞くと、窓を開け放して寝たため、泥棒に入られる夢を見たそうである。やっと、寝られると思った頃、今度は清掃車が。結局、熟睡できないまま、朝を迎えた。私は、ここを「静かなホテル」と紹介した「地球の歩き方」の編集部をうらんだ。
 翌朝、くだんの「デザレーヌ」駐車場から車を出そうとした。どうも一晩駐車場に止めたら追加料金をとられるらしい。「コンビアン?」と私が尋ねると「ヴェンガフロン」という言葉が返ってきた。「???」私は妻と顔を見合わせた。妻も理解不能であった。しかたがなく小銭をいくつか出すと、料金所の女性はその中から20フラン貨幣をつまみ上げた。それで先ほど「ヴェンガ」と聞こえたのはvingt(20)だとわかった。そういえばピーターメイルも、本の中で鼻母音がngの音に替わっていて分からなかったなんて書いていたなと思い出した。
 我々はカマルグの湿原をとおり、アルル経由でエクス・アン・プロヴァンスへと向かった。カマルグの湿原はヨーロッパで唯一のフラミンゴの飛来地だそうである。野生の馬もいるそうだが、見ることはできなかった。われわれは、カマルグを過ぎ、アルルに着いた。
 
 アルルといえばそう、あのゴッホの「跳ね橋」である。本物はもうないが、どうやら復元されたものがあるらしい。ただあまり有名ではないらしく、インフォメーションの地図にも載っていない。窓口のお姉さんに聞いて、地図に印をつけてもらった。
  車で15分くらいのところにそれはあった。いかにも南フランスといった感じの運河にかかっていて、のどかな風景である。しかし、いかにも防腐剤でございといった風な黒い色はいただけなかった。やはり自然な木の色の方が周囲に溶け合っていただろう。
 アルルの市街地にもどり、円形闘技場も見たが、まあ、やたらでかくて古いものが残っているなあという印象しか受けなかった。アルルにも、見るべきものはもっとあったのだろうが、やはり泊まってぶらつかなかったため、その町のよさがわからなかったのかもしれない。
 
 
アルルをあとにし、エクス・アン・プロバンスについた。エクスとは水を意味する言葉だそうである。温泉地で泉が豊富なため、この名前がついている。ちなみに私がしばらく通っていた、ドイツの国境の町アーヘンもフランス語の名前は「エクス・ラ・シャペル」である。ここエクス・アン・プロバンスはセザンヌの生家とアトリエが有名である。
  翌朝町を見物したが、いたるところに彫刻をほどこした泉がある。町中で40カ所以上もあるそうである。
 セザンヌの生家は中心地からほんの少しだけはずれたところにあった。家の中を公開しているわけでなく、もちろん看板も出ていないため、うっかり通り過ごしてしまったほど目立たない建物である。壁に刻まれた文字だけがかろうじて彼の生家だと言うことを教えてくれる。
 「画家ポールセザンヌは1839年1月19日にこの家で生まれたってかいてあるで。」娘にそう説明すると「あっ、宇多田ヒカルと同じ誕生日だ!」う〜ん、恐るべし、小学生!
 私たちは足を伸ばしてセザンヌのアトリエにも行った。セザンヌのアトリエは市街から歩いて20分くらいのところにある。彼の使った画材やかばんなどが展示されてある。妻が20年ほど前に来たときにはアトリエから山が見えたそうであるが、今はアパルトマンらしき建物に囲まれてしまっている。

我々はさらに、ニースへ行く途中、サント・ヴィクトワール山にも行くことにした。もちろん市街からはずっと離れているため車で行ったのだが、当時セザンヌは歩いて行っていたそうである。それで、この道はセザンヌの道と呼ばれている。サント・ヴィクトワール山は岩肌のゴツゴツした山であった。プロヴァンスというよりも、何かアメリカの西部を連想させる。天気もちょっと曇っていて、重々しい感じであった。
  サント・ヴィクトワール山を過ぎ、アウトバーンならぬオートルートを走っていくとだんだん天気も回復して、青空が見えて来た。ドイツのアウトバーンは料金ただの乗り放題だが、フランスは有料である。途中何カ所か料金所を通過したが、1カ所料金投入口が、網で出来たお賽銭箱のようになっているところがあり、面食らった。どうしたらいいのだろうかと悩んでいると、後ろは長蛇の列で、クラクションをならされた。見かねた後ろの車のおじさんが親切にも降りてきて教えてくれた。
  カンヌ、ニース、モナコと続く海岸線は、そうコート・ダジュールである。こんなところはわれわれ貧乏人には縁がないところだと思っていたが、モナコに出張で泊まった人が(どんな出張じゃ?!)、「本当の金持ちがどんなことをしているかのぞくだけでも面白いですよ」と言っていたので、まあ寄ってみるかと思い、行くことにしたのである。
  オートルートを降りるといきなり大渋滞であった。とろとろ走る車から見ると、海岸通は椰子の木なども植えてあり南国ムードである。紺碧の海も美しい。ホテルの場所がよくわからなかったせいもあるが、着くまでに1時間以上かかってしまった。
  ホテルにチェックインし、例によって町をぶらつきながら、レストランを探した。ニースというからもっと高級な雰囲気のところかと思ったが、町を歩く人々はごく普通の家族連れだし、レストランや土産物屋も庶民的だ。
「どんなところかと思ったら、熱海と一緒やね」と妻が言った。
  翌朝、われわれはマチス美術館とシャガール美術館へと向かった。これらの美術館はニースの山の手にある。車を走らせると、「熱海」とは違った高級住宅地ふうの町並みになってきた。ははぁ、これが本来のニースなのかなと一人納得した。
マチス美術館は赤っぽい壁に、黄色い窓枠が目立つ建物であるが、実はこの窓枠はだまし絵になっている。アビニョンでは窓自体がだまし絵になっていて有名人が描かれているものもたくさんあったし、また、法王庁の内部には、窓の奥行きを出して遠くに見せるようなだまし絵も描かれていた。フランス人はこういっただまし絵が好きなようだ。
  美術館の正面に行ったが、ドアがしまっていた。裏から入るのだろうと思って、裏に回ったがこちらもしまっていた。ぐるりと回って、正面に戻る途中で、やはり入り口を探しているらしい、数人のアジア人の女の子にあった。「ハングッサラミエヨ?(韓国人ですか?)」と尋ねると「ネー(はい)」という答えが返ってきた。最近は韓国人の欧州旅行が増え、ブランド品の店では日本人の客と韓国人の客で品物を奪い合っているという記事を見たことがある。韓国も以前に比べだいぶ豊かになったようだ。
  結局一周したが入り口は見つからない。ふと、正面玄関の横の窓をみると、メモ帳の切れ端のようなものに殴り書きがしてあった。かろうじて、入り口は売店と同じフロアにあるというようなことが書いてあると判読できた。さて、売店はというと、それらしきものは見えない。結局周囲を回って、地下へ降りていく階段を見つけた。ここは入り口までも「だまし」になっているようである。「アガッシ、イプクガイッソヨ!(おじょうさん、入り口がありますよ!)」と女の子達に教えてあげた。う〜ん、南仏まで来て韓国語が使えるとは。韓国大好きおじさんの私はすっかりうれしくなってしまった。
  マチスの作品がいろいろあったが、驚いたのは、マチスの描いた絵をご本尊(?)にしている教会があるということである。その下絵や、制作過程の写真などが展示してあった。それほど遠くないようだし、よし、明日はここにいってみようか
  次にわれわれはシャガール美術館に行った。ここは住宅地の真ん中にある。もちろんニースの山の手の住宅地であるから、日本のとは桁が違う。ここの作品は(あるいはシャガールの作品は?)、壁画のような非常に大きなものが多く、日本には来ないと思われるため、得をしたような気分にさせる。シャガールの絵はメルヘンチックな柔らかな色彩のものが多い。宗教的な題材が多いというのも初めて知った。
  ニースで他に有名なのは、あの「サラダ・ニソワーズ」である。レタスやゆで卵、ツナ、アンチョビなどがはいっているあれである。実は、すでにアビニョンのときからずっと食べていたのであるが、暑い昼間あまり食欲がないときは、昼食にちょうどよい。ニースに来たからには本場の「サラダ・ニソワーズ」をと思って昼食に食べてみたが、よそで食べたのとは大差なかった。ツナが入っているのは邪道で、アンチョビだけが入っているのが正統だという説もあるが、個人的にはツナが入っていた方がよいと思う。アンチョビの話が出たついでに言っておくが、決してドイツでは、少なくともデュッセルドルフではアンチョビの入ったものは注文しない方がよい。塩辛くてとても食べられたものではないからである。
  われわれはニースをあとにし、カーニュ・シュル・メール経由でグラスへと向かった。カーニュ・シュル・メールはルノワールの終焉の地であり、また例の「鷲の巣村」としても有名である。ルノワールの家にも行ったが、作品はあまりなく、展示物も無造作に南仏の日差しにさらされていたのが痛々しい。
 「鷲の巣村」の頂上へいくと、例によって古い石造りの町並みがヨーロッパヨーロッパしている。城の上からは地中海やはるかニースらしい町が見える。手前には白い壁にオレンジの屋根のカーニュ・シュル・メールの町が広がっている。
 私たちはここで村の人たちが「ペタンク」をしているのを見た。これは例のピーターメイルの本でも紹介されている、鉄のボールを使ったビー玉のような遊びである。ここの人たちは例の「パスティス」を飲りながら、このペタンクに興ずるらしい。
  カーニュ・シュル・メールをあとにし、グラスへと向かった。グラスは香水で有名なところらしい。例によってホテルへの道が分からず、着いたのは10時近くになっていた。10時半でレストランが閉まると教えられ、あわてて遅い夕食をとった。プールサイドで食べる魚料理とよく冷やした白ワインはまずまずであった。なんのためか分からないが、花火も上がっていたのがうれしい。
 翌日はまず香水工場を見学に出かけた。またまた、道が分からなくなり、歩いているおじさんに道を聞いた。例によってなまったフランス語が返ってきて、「シンカーントメトル」先を左に曲がれと言っていたのだが、これ「cinquante metre(50m)」らしいというのは想像がついた。
  香水工場は古い煉瓦造りで、その生産物が実際に売られている場所のイメージとはほど遠かった。私はふと、14年前に婚約指輪を買ったときのことを思い出した。私のふるさと山梨は知る人ぞ知る、ダイヤモンドの加工第一の県である。知り合いの工場へ行けば、指輪も安く買えるというので行ってみた。皇室御用達というその工場は本当に町工場であった。事務服のお姉さんが、無造作に金庫から見本を出してきたのが記憶に残っている。町で買う半額くらいで買えたのではないかと思うが、結局その差額は高級宝石店のショバ代、雰囲気代であろう。
 香水工場を出てフラゴナール美術館へ行こうとしたが、休憩中のため入れなかった。私たちは、入るのをあきらめ、ヴァンスにある、マチスの教会へと向かった。この教会は大々的に看板を出しているわけではないので、つい通り過ぎてしまった。ここは白い建物でいかにも南仏的である。「地球の歩き方」には、「祈りの場所なので、短パンなどは慎みたい」というような事がかいてあったため、短パンのわれわれはおそるおそる中に入ったのだが、なあんだ、他の人たちもみんな短パンであった。さてマチスのご本尊はというと、白い壁に線でマンガチックに描かれており、ありがたみがない。暗い石造りの聖堂のなかのキリスト像と対照的である。妻は、「今風で面白いじゃない」と言っていたのだが…。残念ながら内部は撮影禁止のため、外側の絵しかお見せできないが、想像していただきたい。
  われわれはヴァンスをあとにし、帰路に向かった。プロヴァンスを遠ざかるにつれ、天気が少しずつくずれてきた。雨も降ったりやんだりしたが、雨が上がると空に虹が出ていた。太陽の光が強いせいか虹もドイツよりくっきりしている。
  夜遅くにディジョンに着いた。フランスとはいえ、ここまで北に来るともうドイツとかわらない。空もどんよりとして、町の雰囲気も暗い。今度こそ本当に夏が終わってしまったなと感じた。
  
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