『He was smoker, and now...』
ちん、かちん、とジッポが鳴る。
開いた蓋の奥に炎は灯らない。
――ずっとガスを入れていなかったのだ。無軌道な生活から足を洗って、刑事になると決めて以来。
ライターをもてあそんでいた手を止めると、彼は机に開かれたノートと参考書に目を落とした。
お家でガリ勉なんて柄じゃなかったんだけどな、俺。
溜息まじりにそう呟いたのは、自分に対する言い訳と自嘲のためだ。
高校三年の冬休み。今から進学を望んで叶う可能性は、おそらく、とても低い。
「……ま、レッツポジティブシンキング、って奴か」
無数のインテグラルに立ち向かう彼の顔は、しかしどこか、余裕を含んで晴れやかである。
こんこん、とドアがノックされる。
「達哉、……入っても、いいか?」遠慮がちな兄の声が扉の奥から響く。
「開いてるよ」
背後からノブの回る音と、わずかな衣擦れ。トレイの上で踊る食器の繊細なノイズ。
「おかえり」計算式を紙面に連ねながら達哉は答えた。
警察官の兄は独身寮で暮らしている。実家に帰ってくるのは月に数えるほどだ。もちろん家族と顔を合わせたくないのではなく、刑事の職務が多忙なためである。
「夜食を持って来たんだ。……頑張ってるんだってな。あまり無理をしないようにと母さんが言っていたよ」
積み重なった別教科の参考書を片手でどけると、兄の克哉はトレイを机に置いた。
達哉はノートから目を離す。
卵とほうれん草の入ったおじや、そして彼専用の大きな湯呑みが湯気を上げていた。
斜め後ろで所在なげに立つ兄は、弟を通して何か別のものを見るかのように、達哉に視線を向けている。
眼が合うと軽く微笑んだ。
達哉が家に寄り付かなかった頃の、高圧的なくせにいつも彼の顔色を伺っていた、そんな兄の面影はどこにもない。
「座らないか、兄さん。久し振りに帰って来たんだからさ、ちょっと、話でもしよう」
「……ああ、構わないよ」
克哉はベッドにすこし脚を開いて腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。
休暇中なのでスーツは着ていない。彼らの母が手洗いしているため、少々繊維のよれたアッシュグレイのセーターを身に付けている。気に入っているのか、彼は実家に帰るとこの服装をしていることが多い。
「どうだ、最近」
「……勉強の方は、割といい調子なんだと思う。冴子先生に徹底的にしごかれてるよ」
「元気そうだから身体の方は心配ないな。……友達とはうまくやれているのか?」
「なんだそりゃ、小学生じゃあるまいし」達哉は吹き出す。以前の彼ならおそらく、無視して部屋を出て行ったろう。
なにがあったわけでもないのに、兄も自分も、いつの頃からかどこかが変わった。
たぶん、プラスの方向に。
「俺より先に兄さんはどうなんだよ、独りだからって、甘いものばっかり喰ってるんじゃないだろうな」
「いや、偏った食生活で体調を崩しては警察官として失格だからな、それはないよ」兄も笑う。平素から生真面目なのは相変わらずだ。
夜食が冷めるという克哉の忠告に従って、スプーンを手に取る。ちょうど小腹が空いてきたところだったので有難い。
達哉はおじやを口に運びながら言った。
「そういえばさ、前に話してた天野さんって人、あの人とはどうなったんだよ?」
からん、とグラスの氷が揺れる。
つつましやかな冬の陽射しが、大きく張られた天窓を透過して二人のテーブルに届く。
彼らの席は店の奥まった片隅だったが、それでも眩しいほどに明るい。
「素敵な喫茶店ね」向かいの舞耶が微笑んだ。「さすが、克哉さんのオススメなだけあるわ」
「ところが、メニューはこんなものじゃないんだ」
克哉からメニューを受け取った彼女は、宝島を探し当てたジム少年のように、それを開く。
「ウワオ! 確かに驚きねえ。これは迷っちゃう」
個人経営の店には珍しく、シンプルで丁寧な作りのメニューである。およそ二十種類はあるかと思われるケーキの写真がひとつひとつ載っており、そのどれもが実に魅惑的だ。定番のショートケーキを筆頭に、洋梨のコンポート、木苺のムース、モンブラン、ズコット、チーズケーキ、ミルフィーユ、シフォンケーキ、パンプキンパイなど実に豊富な品揃えである。
舞耶は5、6個まとめて注文することを切実に検討したが、今日のところは勘弁してやることにした。
「僕も初めて入った時に悩んだよ。何度も足を運べばいいだけの話なんだが、いざとなると中々そうは思い切れなくてね。ところが、やっとの思いで選んだパウンドケーキをひとくち、食べてみると……」
「なんと、味もこんなものじゃなかった」
「ご名答」
悪戯っぽい舞耶の笑顔を見つめながら、「この表情が一番好きだな」と、克哉はまったく関係ないことを考えた。
きし、と軽くベッドが軋む。
兄は一瞬顔を伏せ、それから達哉の顔を見て、どこか痛みでもするかのような表情で答えた。
「うん……すごく素敵な人だな」わずかに間を置いて彼は続ける。「……僕は、とても好きだよ」
「そのわりには深刻な顔じゃないか」達哉は訝りながら夜食を飲み下し、尋ねた。
「もしかして天野さんって、実は彼氏持ちなのか? 結婚してるとか」
「え?」克哉は悪夢から目覚めた時のように目を軽く見開く。
「おかしいな、そんな顔をしたつもりはないんだが……それに、彼女はお前が心配するような人じゃないよ。未婚だし、特定の恋人がいる様子もない」
「まだ兄さんはそうじゃない?」
克哉は顔を赤らめた。まるで初恋を迎えた田舎の中学生だ。
「そうだな……そうであったらいいと思うことはある」
達哉は微笑み、座っていた椅子の背もたれを前にして逆向きに腰掛けた。
「うちの兄貴にそこまで言わせるとはね。俺もいっぺん、会ってみたいよ」
「………」
「兄さん?」
克哉が黙ったので、やはりどうかしたのかと達哉は思ったが、彼はズボンのポケットを探り、何か取り出そうとしていただけのようだった。
すこしひしゃげた象牙に赤のパッケージ。それは最近また喫煙するようになった克哉の、気に入りの煙草である。
兄はすこしぎこちなく微笑んだ。
「達哉。……悪い、喫ってもいいかな」
かちゃ、と使用済のフォークが置かれた。
「ごちそうさま」舞耶は両手を胸の前に持っていき、開いた掌の指のところだけを合わせて軽くお辞儀をする。
「美味しかったあー。あのスポンジのしっとり具合ときたら」本当に幸せそうだ。
この店お勧めのオリジナル・ブレンド・ティーと一緒に、克哉はクランベリィのタルト、舞耶は先程彼が話した、ドライフルーツのパウンドケーキを注文していた。この際、「そっちも美味しそうね」と目を輝かせる舞耶のために、克哉は生まれて始めて女性とケーキを分け合って食べる機会を得たのだが、それは恐らく彼が墓の中まで持っていく事実であろう。
「天野君に喜んで貰えて光栄だよ。実はこの店のことは誰にも内緒だったんだ」
「あら、どうして?」
「あまり有名になると困るからね。並ばないと食べられなくなるのは御免だよ」
「それじゃあ、『クーレスト』には紹介できないかな。それは残念」
その一言をきっかけに、話題が舞耶の務める出版社へと切り替わった。
手掛けている雑誌の編集長とは相変わらず折り合いが良くないらしいが、最近は徐々に大きな記事を任されるようになってきたこと。後輩の仕事がだんだんと板につき始めてきたこと。仕事仲間のカメラマンが、ちょっと名の知れたフォト・コンテストに入選したこと。
冷めた紅茶を美味しそうに飲みながら、彼女は身ぶり手振りをまじえて楽しげに話をする。
克哉はときどき相槌を打ち、舞耶の話に聞き入りながら、こっそりその瞳や、口許や、マニキュアされた細い指先を覗き見る。
「あ、……ごめんなさい、私ばっかり喋りっぱなしで。退屈だった?」
突然舞耶が彼を見て謝ったので、克哉は慌てて視線を逸らした。
「そんなことはないよ」彼は笑って答える。「飽きたりするもんか」
「でも、何だか手持ち無沙汰みたい」
舞耶は備え付けの灰皿をテーブルの中央に引き寄せると、そこに視線を落とした。
「そういえばね、私……前に克哉さんが煙草を喫ってたって聞いて、ちょっとびっくりしたんだ」
「……どうして?」
「克哉さん、パティシエになりたかったんでしょう? でも、料理人を目指す人って、嫌煙家が多いじゃない。味覚が変わっちゃうから」
克哉の心臓が、ひとつ、大きな音を打った。
「お菓子の作り方にあれだけ凝ってる克哉さんが煙草を喫うなんて意外だな、と思ったの」
かちゃ、とジッポの蓋が開く。
煙草を取り出した兄に火を貸そうとして、達哉は自分のジッポに火を灯す機能がないことに気付き、舌打ちをする。
「……ごめん、このジッポ、火が点かないんだった」
「いや、いいよ。ライターを持ってる」
克哉はポケットから使い捨てのライターを取り出した。
服装にはあれだけ気を配る兄さんが、ライターだけ使い捨てなんて変な感じだ、と達哉は思う。
達哉が机の上にあったジュースの空き缶を手渡すと、兄は狼狽した様子でそれを受け取った。灰皿がないことを忘れていたらしい。
話題が途絶えた。
薄く濁った煙が漂う。
「なあ、そういえば……兄さんが最初に煙草喫い始めたのって、いつ頃だったっけ」
克哉は煙を吸い込み、天井を見上げる。
「そうだな……警察学校を出るか出ないかの頃だったかな」
「刑事になってからじゃなかったのか?」
背もたれに身を乗り出したので、達哉の座った椅子は大きく傾いだ。
「お前はその頃、その……あまり家に帰ってなかったから知らなかったろうが、割と前から喫ってたんだよ」
「……へー、あんたが煙草なんてやるもんだから、俺、刑事って随分ストレスの溜まる仕事だと思ってた」
「こら、達哉。兄さんに向かってあんたとはなんだ」克哉は弟を横目で睨む。
「悪い」達哉は肩をすくめて湯呑みのお茶に口をつけた。「でも、それじゃどうして煙草なんて喫う気になったんだ? 俺ならともかく、兄さんが」
喫わないでいる意味が無くなったからかな、と克哉は心の中だけで呟く。
「先輩や同僚に影響されてね、なんとなくだよ」
「……そっか」達哉はふと、壁の掛け時計を見やり、溜息をついた。12時を回っている。「早いな、まだ10時かそこらだと思ってたのに」
克哉も空き缶に吸い殻を落とし、腰をあげた。
「すまん、邪魔したな。そろそろ戻るよ」
「いいんだ、引き止めたのは俺だから」
まだトレイの中身は半分以上残っていたので、吸い殻入れの空き缶だけを持って部屋を出る。
「おやすみ」
「あまり、根を詰めるなよ」
振り返った兄の目に、シャープペンシルをはさんだ右手を軽く振る、弟の後ろ姿が映った。
「上手く行ったら、ちゃんと天野さん紹介しろよな。兄貴」
じ、と煙草が焔をあげる。
「本当に、なんにも覚えていないんだな、達哉」
背中に感じる廊下の壁は冷たく、空気はどこまでもほの暗い。
最初に煙草に火を点けたのは23歳の夏。
初任総合科修了の二週間前だった。
誰かに勧められたからでも、好奇心からでも、ない。
パティシエを諦めるために火を点けた。
警察官に繊細な味覚はいらないと気付いたからだ。
克哉は二本目の煙草を深々と肺に染み込ませる。
もうひとりの弟を諦めるために。
こんこん、と舞耶の指が灰皿の縁をはじいた。
「……でも刑事さんっていったら、忙しいし神経使うしで大変な仕事だもんね。しょうがないか」
顔を上げた彼女の表情には一点の曇りもない。
「あ、もしかして今、私に気兼ねして煙草ガマンしてた?」
克哉のわずかにこわばった表情を見て舞耶は尋ねた。
「そういえば、私と一緒の時に喫ってるの、見たことないし……別にいいのよ、気にしないで。うららも凄いから慣れてるし」
彼はひそかに安堵の溜息をつく。そんな彼の瞳を舞耶は覗き込む。
「……怒った? 鈍い女だって」
克哉は危ういところで吹き出しそうになった。
確かに、ちょっと鈍いかも知れない。
だが、この優しさに彼は惹かれ、幾度も救われて、すべてが終わった今もここにいる。
こういう女性だ。
「………」
そのとき、克哉はふと一計を案じ、右手をぶるぶると震わせる真似をした。
仕事の関係で何度か見かけた薬物中毒者を思い出しながら、いかにも具合が悪そうに口許を引きつらせる。
舞耶はたちまち顔色を変えた。
「克哉さん、どうしたの…?」
「禁断症状さ」
「ええっ、そ、そんなに酷いの」
どうしよう、克哉さんは煙草を持っているのかしら、無いなら私が買いに行かないと、でも、中毒を起こすほど深刻なら、我慢してもらった方が彼の為かもしれないわ。せめて気分が良くなるように、お水でも貰った方がいいのかも。
これだけの台詞がすべて顔に書いてあるかのように狼狽えて、舞耶はおろおろと視線をさまよわせた。席を立とうかどうしようかしきりに迷っている様子だ。
テーブルの上のカップが小刻みに音を立てた。
「煙草じゃない、実は僕は突発性天野中毒患者でね」
彼は震える掌を左手で押さえつける真似をする。「天野という人に一定時間触れないでいるとこうなるんだ」
「え?」
舞耶は数秒ほどぽかんと口を開けたまま克哉を見ていたが、
「もう、馬鹿にして! 心配したのに!」大きな声で叫んだ。「あと十秒遅かったら救急車を呼ぼうと思って……」
克哉は笑う。
腕を伸ばして、テーブル越しに彼女を抱き締めた。
「煙草のことなんて忘れてたのに、思い出させるからさ」
皿の上のクランベリィソースで、スーツに大きな染みが出来ていても構わないと彼は思った。それぐらい気分が良かった。
何しろ本当に、舞耶に言われるまでさっぱり忘れていたのだ。
彼女といるときに煙草を喫おうと思ったことなど一度もない。
それを、「彼女だけは諦めなくてもいい」と解釈するのは、極論だろうか?
克哉は彼の内面に生息する、天然記念物なみに希少なある種の積極性を、そのまま言葉に出してみた。
……もしかしたら引っぱたかれるかも知れないが、そうしたら素直に謝って、お詫びに彼女の大好物を焼こう。
完璧に禁煙して、まともな味覚で作った、大きなストロベリィシフォンを。
「今度思い出させたら、末期患者の振りをしてやる。こんなものじゃ済まないぞ」
「ば、馬鹿!!」
頬を赤くした舞耶の拳が、克哉の胸に飛んできた。
とす、と小さく音がした。
とてもあたたかな音が。
解 説 | 「分岐前夜」と同じく、昨年の1〜2月あたりに書き上げた古いものです。「罰」のEDで克哉が喫煙者だったことにショックを受け、当方なりに彼が喫煙者になった理由を捏造してみました。あれだけクソ真面目な人間が、料理人志望なのに煙草に手を出すのはよっぽどのことだろう、と。
それにしても潔いほどに恥ずかしい内容ですね。いま読み返すと「バーカ」と自分で口走りそうになります。 |