合言葉は正義
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『ココニハ・イマセン』

 灰褐色のインターフォンに指を伸ばし、彼は数秒逡巡した。
 次の数秒で息を止める。
 押す。
 ところどころ塗料の剥げたドアの向こうから小さく響く呼出音。
 誰も居なければいいと心の底から彼は祈る。どうせ彼女は今夜も帰らないだろう。夜遅くまで共働きの両親が、真夜中と呼ぶべくもないこの時間に帰宅していることもありえない。
 一秒。二秒。静寂が続く。
 申し訳ばかりの照明灯が明滅して、コンクリートの床に彼の小柄な影を浮かび上がらせた。
 そら、留守じゃないか。
 このまま帰ってしまえ。今さら彼女に逢ったところで何が変わる。
 ……あと五秒。いや、もう十秒待って誰も出てこなければ諦めよう。
 もう十秒だけの辛抱だ。
 十秒。九、八。長い長いカウントダウン。
 七、六、五、四、三。出てくるな。誰も出てくるな。
 二。そうだ。それでいい。
 つまらないことを考えず、このままあいつの家へ行ってしまえばいいんだ。
 彼はきびすを返そうとする、扉の奥に人の動く気配はない。
 そこには誰もいない。
 一。


「どうしたのよ、こんな時間に」


 心臓が跳ね上がった。
 すぐ後ろから掛けられた声に、彼は表情を凍り付かせて振り返る。
 そこにはセーラー服を着た長い髪の少女が、学校鞄を提げて立っていた。
「家に来るなんて久しぶりね。何か用事でもあった?」
「……しのぶ……」
 緊張と焦燥でこれ以上ないほどに掠れた声。
 内田達也は汗ばんだ右手で、ジーンズの腿を無意識に強く握りしめた。


 昔から神経質だったしのぶの部屋は、萌葱色のカーペットに至るまで塵ひとつない。
 最後に訪れた時と随分印象が変わったと達也は思った。両親に貰った誕生日プレゼントだという、あの白い犬のぬいぐるみ。そういえばあれはどこへいったのだろう。
 真新しいステレオデッキの脇に納められたカセットテープのレーベルには、達也の知らない名前が随分目についた。
「いやんなっちゃうわよ、五郎の奴今日は暇だとか言っといてさ、C組の子と飲みに行っただって。馬鹿にするなって感じじゃない?」
 所在なげにクッションに腰掛けた達也に湯気の立つマグカップを差し出しながら、しのぶが忌々しそうに毒づく。かたちのいいくちびるに無遠慮に塗りたくられた下品な赤に、達也は軽い苛立ちを覚えた。
「また化粧してるのかよ、しのぶ」
「このくらいあたしの友達はみんなしてるわ」
 達也の台詞を軽くいなして、彼女は幼なじみのすぐ隣に腰を下ろした。
 化粧をやめろ。悪い友達と付き合うな。どうして家に帰らないんだ。
 何度となく繰り返されてきた会話。はじめはむきになって反発していたしのぶも、この頃は全く取り合わない。
 彼女にとって今の達也は口うるさい親や教師と同じなのだ、と思う。透かせば向こう側が見えてしまうほどに薄い、紙のように希薄な存在。
 彼はそれ以上の言及をやめてマグカップの中身を啜った。
 それは達也には少し苦い。同じものにミルクをたっぷりと入れて、しのぶは美味しそうにコーヒーを飲んでいる。
「ね、それでどうしたの。達っちゃんがうちに来るなんて久しぶりじゃない」
 不意に大きな瞳で顔を覗き込まれて彼は動揺した。
 切れ長の眼に覆い被さった細く長い睫毛。その奥の慎ましやかな瞳の黒。
 ──「達っちゃん」という親しげな呼び名。
 高校に入り、生活が変わり、ふたりの仲が疎遠になっても、それだけは変わらなかった……。
 しのぶ、おれは。
 迫り上がってきたことばを寸前で飲み込んで、別に、と口にしただけで達也は黙る。
 言えるはずもなかった。


 家を出て一週間。
 とうとう父は戻らなかった。
 人の良いだけが取り柄の内田一家が16年間暮らした家には、非力な妻と家を守るには若すぎる息子、そして莫大な借金だけが残った。
 父が額に汗して働いたあげくに手にしたちっぽけな工場もわずかな財産も、いまは総て金田源治郎の手にある。あらゆる弱者の血を啜り取って生き延びてきた金貸しの手に。
 おとうさんはもう戻ってこないわ、と疲れた声で母は言った。いっそ私たちもおとうさんと同じように、楽になってしまった方がいいかしらね……?
 憑かれたような眼をして野菜を刻む手を止め、包丁を見る母の視線に達也は怯えた。
 家中の刃物を隠し、帯紐からベルトに至るまでの一切を母の目の届くところから遠ざけた。包丁さえ自分の目の届くところでしか使わせなかった。
 日に日に痩せていく母が、学校から戻ると天井の梁にぶら下がっている夢を何度も見る。
 乱暴に叩かれる扉の音と真夜中の電話のベルはいつまでも続いた。
 あいつが、あいつさえいなければこんな事にはならなかったのだ。
 これまでの人生の何年にも及ぶ一週間を過ごした達也の胸に、それは容易く滑り込んだ。
 死ぬくらいならおれがあいつを殺してやる。


 手で触れる布鞄越しに、タオルで幾重にもくるまれた金属の感触。
 そう、今夜。
 今夜しのぶに別れを告げたら、おれは金田を殺しにいくんだ。


 不意に身をひるがえすと、しのぶは立ち上がってステレオの電源を入れた。
 入れたままのカセットテープを巻き戻している。
 再生。
 何度も聴いているのだろう、ところどころ音の飛んだ音楽が達也の鼓膜を刺激した。
 手当りしだいにものを叩き壊しているようなけたたましい音。しのぶに言わせればそれは流行の最先端なのだという。
 達也にはただの騒音でしかない。
「……なあ、あの犬のぬいぐるみ、どこ行ったんだ?」
 沈黙に耐えかねて彼は口を開く。
「犬のぬいぐるみ? なに、それ」
「ほら、おれが前にここへ来たとき誕生日に貰ったって見せてくれただろ、首に緑のリボン巻いた白いやつ」
「え?……ああ、あれね。捨てちゃったわ、もう」
 しのぶはこともなげに答えた。笑う。
「あんな子どもっぽいものいつまでも持ってるのって、なんかおかしいじゃない」
 いつまでも、という言葉がひどく浮いているように達也は思った。
 心底嬉しそうにそのぬいぐるみを抱きしめて彼女は言ったのだ。これ、あたしに子どもができるまで大事に持っておけるかな、と。
 しのぶ、二年も経っていないんだ、あれから。
「それより、ねえ達っちゃん」
 しのぶは立ち上がり、空いたカップをちいさなテーブルに置く。
 明らかに先程よりも達也に接近した位置に腰掛けると、達也の耳元に口を寄せた。
「せっかく何年ぶりかで逢いに来てくれたのに、そんな話だけなの」
 しのぶの脚が足許の鞄に触れそうになり、達也は慌ててそれを脇に退ける。
 顔を上げると、彼女の顔は驚くほど近くにあった。
「まだ時間はあるんでしょ?」
 蠱惑的な表情がすぐ目の前に迫っている、いつのまにか彼女の腕は自分の肩に回されている。自分の体勢は斜めでとても不安定だ。心臓の鼓動が耳のすぐそばで鳴り止まない。流行だというひどく耳障りな金属音。幾重にもかぶさる動悸。破壊音。ものの壊れる音。
 ──これはおれが壊れる音か?
 彼は眼を見開いた。
「しのぶ」
 脳の奥で何かがちりちりと焦げるような錯覚。
「しのぶ、よせ」
 彼の手足は漆喰で塗り固められたように不自由で身動きひとつしない。
「小さい頃はお嫁さんにしてくれるってよく言ってたわよね、達っちゃん。もうそんな約束、忘れちゃった……?」
 彼は壊れたお喋り人形のように動く彼女のくちびるを凝視している。
 それが自分の顔に向かってゆっくりと近づいてくるのも自覚している。
 柔らかい感触が一瞬触れた、
 とても長い長い一瞬。


 達っちゃん、合格したのよ。私も。
 化粧気ひとつないけれど、あどけなく眩しく美しい少女の笑顔。
 また三年間達っちゃんと一緒だね。
 嬉しくてたまらないのを無理に隠そうとするから、頬が引きつっておかしな顔になった。
 ……なあにその顔。またしつこい幼なじみにつきまとわれて残念?
 残念なはずないだろう。
 おれは、しのぶ。ずっとずっと昔から、お前だけが。


「よせよ!!」
 達也はあらん限りの力でしのぶを突き飛ばす。
 よろめいたしのぶがテーブルの角に脚をぶつけて小さな悲鳴をあげた。
「よせよ……よしてくれ」
 変わってしまったしのぶ。いつから自分をあんな目で見るようになったのだろう。
「こんなのはもうたくさんだ」
 あの薄汚い源治郎の息子が、五郎の奴が教えたのだろうか。こうやって男を口説けと。
 それとも誰か他の奴が? しのぶをそそのかした虫けらのようなくだらない連中が?
 しのぶは彼を見ている。
 どこか、憤慨しているような顔をしていた。
 なぜ自分がはねつけられたのか理解している表情ではないように、達也には見えた。
 別れの言葉も言わず彼は布鞄を手にして立ち上がる。
 扉を開け、後ろ手に戸口へ叩きつけた。


 幼なじみの立ち去った部屋で、しのぶは数年ぶりに深く溜息を付いた。
 彼の飲み残したマグカップは素知らぬ顔をしてテーブルの上で澄ましている。
 一口飲んで、顔をしかめた。
「……馬鹿じゃないの、あいつ。こんなの我慢して飲んでさ」
 それはひどく苦かった。
 達っちゃん、高校に上がるまで砂糖とミルク無しではコーヒーなんて飲めなかった。
 何も入れなかったのはどうしてだろう。意地だろうか、『おとなになったせい』だろうか?
 考えているうちに電話が鳴った。


「もしもし……あ、五郎? 何よ、遊びに来いって言ったくせに約束すっぽかして。……明日? うん、暇よ……明日はいるのね? 解った、じゃあ美紀と千春とで8時に待ってる。今度いなかったら承知しないわよ。絶対、来るまで待っててやるんだから」


 せめて最後に、昔のように笑ってくれるしのぶが見たかった。
 生きた人間を刺し貫くおぞましい感触にも、迸る血飛沫にも、憎悪に満ちた死に顔にも、その笑顔さえあればきっと自分は耐えられるだろうと思った。
 あの、変わり果てたしのぶにいったい何を期待していたのだろう?
「馬鹿だ」
 達也は嗤った。降りるきざはしの一歩ごとに、何かが彼をひどく冷静にさせていた。


 結局この日、達也が金田の店に立ち寄ることはなかった。
 翌日を家に籠もって過ごした彼に、学校の級友と担任からいちどずつ電話があった。
 どちらにも具合が悪いとだけ短く答えて切った。
 母は何も言わない。
 彼は数年ぶりに古いアルバムを開き、幼なじみの遠い過去をぼんやりと眺めている。


 達也に宛てた三度目の電話が鳴った。


「……はい、内田です」


 ……それは彼の父、内田輝彦からの最後の電話だった。



解 説 マイナーなゲームのさらにマイナーな話・第一弾。以前とある方のサイトで発表させて頂いた原稿を手直ししたものです。一応、達っちゃんが源治郎を殺りにいく前日の話を想定して執筆したのですが、はからずもしのぶが奴の命日を一日伸ばすことに貢献してしまいましたね(笑) 登場人物にも書いた本人にも「若気の至り」という言葉を感じさせる話だと思います。

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