『きれいなひとのはなし』
あずさが彼女と顔を合わせた経験は数えるほどしかない。
血筋としては従姉妹同士、本来は親戚の中でも近しい間柄なのだろうが、血族間のつながりの希薄な綾城の家でふたりが逢う機会といえば、せいぜいが一族総出の新年会と法事くらいのものだ。
法事を面倒で抹香臭い年寄りのお遊戯としか思わなくなってからは、あずさも巧妙に理由を組み立てて本家に行くのを嫌うようになったから、高校に上がってからは本当に一度か二度、ちらりと顔を見るくらいのものだった。
したがって、綾城ユリと綾城あずさの関係は、例えば鉛筆と炊飯器くらい疎遠というわけでもなかったが、水と油のように相容れなかったわけでもなく、かといって、鼠とハムスターのように近しいものでもなかった。
「あずさー、球そっちいったぞ、ちゃんと取れよ」
縁側に腰掛けて痩せた臑をぶらぶらさせていたあずさの耳に、横柄な兄の声が飛ぶ。
おとなの足で数歩ほど先に、野球のボールが転がってくるのが見えた。それは雨上がりの地面に幾度も接吻を受けて、どこもかしこも泥にまみれている。
触りたくないな、とあずさは思った。
兄たちは叔父お気に入りの本家の庭で、鬼の居ぬ間のキャッチボールに興じているのだ。……いや、興じて、というのは適切でない。今年26にもなる年の離れた兄の完治は、7つになったばかりの弟に付き合って、仕方なく遊んでやっているといった様子だ。押し付けられた子守りに不平たらたらなのがあからさまである。
兄と弟の姿は、庭師が丹念に手入れした膨大な植え込みに隠されて、ちょうど縁側から陰になっていた。普段なら執事の善蔵が血相を変えてやってくるところだが、今日の彼は、訪れる親戚たちへの対応に追われて手が離せない。
「ねー、はやくとってよお、ねえさーん」
夜遅くまでの読書がたたり、とうとう分厚い眼鏡の着用を命ぜられた末弟の次郎まで声を張り上げる。
いいんだ、知らない。聞こえなかったふりしちゃえ。
あずさは立ち上がってプリーツスカートの裾をはたいた。仲間外れにされたまま、おとなしく言うことを聞くのは悔しい。
廊下の敷居をまたいだところで人影に気付いた。あずさは慌てて障子の影に身体をひっこめる。
こんな所にいるのを見とがめられたら、きっとひどく叱責されるだろう。黙って部屋から抜け出してきてしまったのだ。おとなしく待っていなさいと母に言われたのに。
あっちへいってくれと祈るあずさの希望とはうらはらに、足音はどんどん近づいてくる。
「あずさちゃん?」
小さく身体を丸め、すくんでいるあずさにかけられた声は、しかし、予想に反してずっと幼い……そう、あずさと同い年くらいの……少女の声だった。
顔を上げるとおかっぱ頭の、見たこともないほど綺麗な女の子の笑顔があった。
「ねえ、あなたがあずさちゃんでしょ? おかあさまからあなたと、完治さんと、次郎さんを呼んでいらっしゃいって言われたのだけど」
「……だれ? ここのうちの子?」
見知らぬ少女に戸惑いながらあずさは尋ねる。
少女は首を縦に振った。
「ユリよ、わたし、ユリ」
『キクさんのとこのユリちゃんはほんとに綺麗ね』
大人たちがそう喋るのを何度か聞いていた。あんな小さいのに気だても良くて、これは将来が楽しみだわ、と。
「しょうらい」とは一体何のことなのか、幼いあずさに知るべくもなかったが、とにかくこの綾城の本家に「ユリ」という名の綺麗な女の子がいること。それは聞いた覚えがある。
あずさは本家に連れて来られるだけで、まだ面倒なしきたりに縛られることを知らなかったから、親戚の顔もろくに見たことがなかったのだ。
「ユリちゃんはいいわね、綺麗で、優しくて、誰からも好かれて」
実の父の葬儀のあとにはふさわしくない話題だと自覚していたが、太鼓橋の欄干にもたれて錦鯉を眺めながら、セーラー服姿のあずさはぽつりとつぶやいた。
「……いやね、あずさちゃん。こんな時に冗談なんて」
ユリはぎこちなく笑う。場所が場所なだけに、あからさまに笑うのを躊躇っているようだ。
みごとな黒髪をそのまま溶かしてあつらえたようなワンピース姿の彼女は、初めて会った数年前と変わらずに美しい。
「わたしはあずさちゃんの方が羨ましいわ。いつも胸を張って、考えていることをきちんと言葉にできて。……それにあずさちゃん、前に会ったときよりうんと可愛くなったもの」
独特の響きを持った彼女の声。見慣れた自宅の庭園さえ、それは初めから彼女に属しているものではないかとあずさは錯覚する。
「あたしは単に跳ねっ返りなだけよ。男ばっかりに囲まれて育ったから」
玉砂利を拾い上げて、池へ放った。小さな水音と波紋。鯉たちがあわてふためいて群を散らす。
「そんなことないわ。最近うちの娘に言い寄る男が増えて困ってるって、叔父さまいつもおっしゃっていた」
ユリは眼を伏せた。泣き笑いのような顔をしていた。
「寄ってくるのなんてくだらない男だけよ。自分をかっこよく見せるためにはいくらでも努力するくせに、中身はスカスカの馬鹿ばっかり」
傍目から見ればあずさの顔は決して不細工ではない。むしろ、充分に美しい部類に入る。
けれどあずさは自分の顔が嫌いだった。強気をそのまま絵に描いたような凛々しい眉も、くっきりと吊り上がったきつい二重の眼も。
例えばユリのようにもっと優しげで、繊細で、誰からも愛されるような、頼まずとも守ってやりたくなるような……そんな綺麗な顔をしていたら、自分ももっと優しくなれたろうか?
そう思うからこそ、女だてらと陰口を叩かれるような無茶ばかりした。勉強も運動もクラスのどんな男子より上手にやってのけた。やさしいだけの花のような従姉の生き方を、あずさは羨む反面忌避してもいたので。
『綺麗なユリちゃん』に遠く及ばない、男勝りでどこまでも可愛げのない自分……。
金色の鯉が不意に水面を跳ねた。
水飛沫に、思わずあずさは顔を背ける。
「でも、この間話してくれたじゃない、ほら、あの春日さんというひと。あずさちゃんの話を聞く限り、彼はそんな人には思えなかったわ」
「春日ぁ? 駄目よ駄目、あんな弱腰のだらしない男。あんな男とあたしがいい仲になるなんて、火星が土星の隣に来てもありっこないわよ」
ユリの口から思いもよらない級友の名前が出たので、あずさは思わず吹き出してしまった。
「そういうユリちゃんこそ、好きな人とか、誰かいないの?」
「……わたしは……ううん、だめよ。おかあさまのお選びになった方がいらっしゃるもの」
あずさも聞いたことがある。顔を見たこともないという婚約者、株で成り上がった貿易会社の三男坊。
美しい従姉の顔が一瞬曇ったのをあずさは見逃さなかった。
「馬鹿ね、ユリちゃん」
空しい励ましだと判ってはいても、言わずにいられない。
貴方はそんなに綺麗なのに。
「家だ、親の言いつけだって、そんなの後生大事に胸にしまってるのは年寄り連中だけよ。あんな化石ジジイどものノスタルジィに、どうしてあたしたちが付き合ってやらなきゃなんないわけ?」
ユリはすっかり唖然としている。口許に手をやって、まるで見たこともない生き物に出会ったような顔をしていた。
「好きだと思える人がいたならね、やっぱり誰に逆らってでも一緒になるべきよ。それが恋ってもんじゃない。たまたま今はいい人が見つからないから我慢してるけどね、あたしだったらこんな家、きっぱり捨てて即トンズラしちゃうわよ!」
好き、というほどではなかった。
時には羨んだり妬んだりもしたけれど、決して嫌ってはいなかった。
彼女の憧れ。
……どこまでも綺麗だった、綾城ユリ。
「しばらくぶりね、あずささん」
長く伸ばしていた黒絹のような髪を突然ばっさりと切ってしまっていた従姉を見て、あずさは息が止まりそうなほど驚いた。
「どっ、どうしたのよ、ユリさん、その髪!」
『ユリちゃん』『あずさちゃん』という呼び名は、どちらからともなく『さん』付けに変わっていた。
一年半ぶりに会う彼女は以前よりもずっと大人びて女らしくなったけれど、その清楚な美しさは「綺麗なユリちゃん」の頃のままだ、と言葉にせずにあずさは思う。
「久々にこっちの家に来てみたら……失恋でもしちゃったわけ?」
「まさか」
ユリは笑う。微笑み方にすこし影があった。
とうにこの世にない、ユリの父親でありあずさの叔父である男が愛した庭の縁側に座って、ふたりはしばらくとりとめのない話をした。
綾城商事の社長として辣腕を振るう完治の話。善蔵が大切に育てている裏庭のバラ園に咲いた、今年最初の新しい花。最悪の見合いの場で切ってやった、これまでで最高の啖呵。キクのお使いで八束町へ届け物に出たときの話……
「早いもんよねぇ、ユリさんと会って十五年近くよ、もう」
あずさは屋根と庭の緑の隙間に覗くうっすらと青い空を見上げた。
「最近は毎日母さんにまくしたてられるわ。嫁に行け、嫁に行けって。うっとおしいったらありゃしない」
少し前にパーマをかけた栗色の髪を勢いよくかきあげ、そろそろ彼女も嫁入りかな、と考える。ユリならば、花婿候補も引く手あまただろう。
尋いてみた。
そうでもないわ、と従姉は控えめに笑い、庭石に目をやる。
薄汚れたゴムボールのようなものがひとつ転がっていた。乾いた泥がこびりついたそれは、十年も昔のもののように、奇妙に古めかしく見えた。
ユリは白い指を伸ばしてそれを拾い、掌の中で弄んでいる。
「あずささん」
ゴムボールを見つめたままユリは従妹の名を呼んだ。
「なに?」
彼女はあずさの方を見ると首を横に振った。
「……いいえ、なんでもない」
とても綺麗な笑顔で。
それから間もない頃だったとあずさは記憶している。
ユリが家を捨て、しがない労働者の男と駆け落ちしてしまったらしい、という噂。
誰にも、何も言わずに彼女は姿を消した。
――好きだと思える人がいたならね、やっぱり誰に逆らってでも一緒になるべきよ。
「余計なこと言っちゃったのかしらね……」
急に甦った昔の記憶にぽつりと独り言をもらし、溜息をひとつ。
そのまま忘れてしまうことに決める。
「……あずささま、空木探偵事務所の方がお見えです」
すっかり総白髪になってしまった執事の善蔵は、革張りのソファにだらしなくもたれた彼女を見て軽く眉をひそめたが、何ごともなかったかのように声をかけた。
「探偵?……ああ、こないだのひょろっとしたボウヤね」
あずさはハンドバッグをまさぐり、そこに目当てのものが入っていないことを思い出して軽く舌打ちをする。
喉の炎症がひどいから、煙草は絶対厳禁だと注意を受けたばかりだ。
「あの子苦手なのよ……何でも平気でずけずけ聞いて来るんだもの。どうしても会わなくちゃ駄目なの?」
軽く咳をしたあとあずさは溜め息をついた。
まだ二十歳にも届いていないくせに、あの乳臭い探偵は全く遠慮というものを知らない。昔の自分なら、あんな生意気なガキは平手打ち一発で黙らせてやったものを。
……歳を取るわけだ、と彼女は自分の指の濃いマニキュアを見つめて考えた。
ろくでもないものを気まぐれで購入してはすぐに飽き、後悔し、借金の山だけをいたずらに眺める日々。火星が土星の隣に来てもありえないはずだった相手との結婚。あそこで仕事を辞めるべきではなかったと、毎日のようにスーツを眺めては繰り返す苦笑い。
老いた執事は黙したまま、まだあずさの許を立ち去らない。
「……わかったわよ、呼んで来て」
観念してあずさが小さく呟いた途端、善蔵は「かしこまりました」とよどみのない口調で告げて、早速玄関口へ歩み去ってしまう。
「気苦労が絶えないくせにハゲなくて良かったわね、善蔵」
せめてもの負け惜しみも、果たして聞こえたかどうか怪しいものだ。
ユリはどうしているだろう。
ひょっとしたら最後に話した頃のまま、歳も取らずに、相変わらず綺麗なままでいるんじゃないだろうか。
あずさは脳裏をちらりとよぎった考えに蓋をして、自称探偵の少年に無愛想な相槌を返した。とりあえずは昔の思い出より目先の探偵だ。
「それで、すみませんが、さっきお伺いしたユリさんという方のことなんですけど」
ああ、もう。あずさはいらいらと爪を噛む。
なんなのかしら。喉が痛いってのに次から次へと要領を得ないへたくそな聞き方ばっかり。押しは弱いわハッキリしないわ、誰かに似てると思ったらうちの旦那にそっくりだわ、この性格。
……そういえば、顔の方もどこかで見たことがあるような気がするけど……
やっぱり気のせいか。
こんな平凡な顔、そのへんにゴロゴロしてるもの。
「あのね」
とうとう口にしてしまった。
「喉が痛いんだからあんまり喋らせないで。だいたい貴方探偵でしょ? だったら、こんなとこでグズグズしてないで、さっさとユリさんでも何でも捜して来たらどうなのよ!」
解 説 |
マイナーなゲームのさらにマイナーな話・第二弾。ゲームのなかではヒステリックでワガママなオバハンという一面しか見ることができなかったあずさ嬢ですが、ここではあえてさっぱりした女傑として書いてみました。タイトルの「きれいなひと」は勿論ユリさんですね。美化し過ぎて人間じゃないものになってるような嫌いがなきにしもあらずであります。 |