Uno Cygnaeus ja käsityön opetus : Suomalainen alkuunpanija käsityö oppiaineeksi yleisissä kansakouluissa ja hänen teoriansa ulkomaille levittäminen (訳:ウノ・シュグネウスと手工教育−手工教育を民衆学校教材として採用した最初のフィンランド人そして彼の理論の世界的広がり−)
本論文は,日本大学教育学会紀要「教育学雑誌」第40号 2005(平成17)年3月 に掲載されたものに写真などを加えたものである。 |
現在小学校で教授されている「図画工作」のルーツを遡ると,1890(明治23)年,野尻精一と東京高等師範学校の教授後藤牧太がスウェーデンのネースから移入した「手工科=スロイド」に辿りつく。この手工科をさらに遡ると,誰がどのようないきさつで教科としての手工教育を学校教育の中で教授するようになったかが理解できる。
本題に入る前に少し整理しておくと,スロイド(slöjd=スウェーデン語)とは,本来「木彫り,木工」を意味するが,今では広くhandslöjdとかslöjdといい,手仕事を意味している。フィンランド語での表現ではkäsityö(カシテュエ)といい,käsi(手)とtyö(仕事,労働)の複合語で,これもまた「手仕事」を意味している。教科としての「手工教育」も,slöydとかkäsityöの表現でそのまま使用しているし,両国語とも木工ばかりでなく繊維製品の仕事など,あらゆる手仕事を包括して「手仕事」または「手工科」と言い慣らされている。
käsityö とは,家内工業や商業が十分発達していなかったフィンランドでは昔から続けられてきた自給自足生活を支える大事な生活技術で,食器や家具,繊維製品,農具・農機具,馬車,ソリ,舟,家など,生活に必要なありとあらゆる品々を手作りすることである。従来,北欧では前述の製品類を各家庭内で手作りし,その製作技術は,親から子へ連綿と受け継がれてきた。このため,特にフィンランドにおいては,職業の分業化が十分に進まないまま産業革命を迎えた。この製作技術の伝播の裏には,親から子へ,子から孫へと伝える教育作用が内包されていたのである。
ところが1840年頃から1890年頃の間に,フィンランドにも産業革命の波が到来し,伝統的な手作りの日用品が徐々に工場製品にとって代わるようになると,世代間で受け継がれてきた製作技術と教育作用の伝播という二つの伝統が急激に失われ始めた。農村から都市へ流入した多くの農村人口が,工場労働者として働き,その一部は都市生活に馴染めずに,社会問題化し始めたのは,ちょうどその頃である。職業生活,社会生活での忍耐力や,生きることへの地道で逞しい精神力,また進取の気性を養う手段に,手工=käsityöを「手工教育科=käsityö」として,学校教育の中に取り入れようとした動きがあった。
手工教育科=käsityöは,その持って生まれた性格から,一つは,職業技術の習練の科目,即ち職業教育として位置づける考えと,もう一つは,3R's と同じ位置にあって人間の全人格陶冶に資するものとして位置付ける考えとを合わせ持つ運命を荷っていた。
|
チーズを固めるための型枠。細かな装飾は男の腕の見せ所であった。
|
|
|
kehräpuut (糸紡ぎの原毛を巻きつける板)男は恋人や奥さんにこれを贈った。 |
← この部分 |
儀式用手付き椀 kinkerikousa |
||
ソリや馬車の敷物,現代では装飾用壁掛け ryijy(ルイユ) |
さて,菅生均氏は,「後藤牧太の手工教育観に関する一考察」の中で「そもそもスロイドとは何かというと,旧来より北欧スウェーデンを中心に行われてきた家内手工芸のことである。つまり,冬の夜長に家具や調度品,農具等々,自らの生活に使用するものをつくることであり,その概念としては我が国でいう『民芸』に似ている。このスロイドを単なる生産技術,職業陶冶としてではなく,スロイドのもつ教育的意義,すなわち子供が成人になる過程においての人間形成上の意義を見出し,学校教育への導入を企画し,また教育的スロイドとしてのその理念,運用方針を体系づけた人物がサロモンである」と説明している。即ち,スロイドを学校教育へ導入した人物はサロモンであると断定している。(1)
また同様に,鹿野公子氏は,「明治期における手工科の形成過程―上原,岡山,後藤,一戸の手工教育観をもとに―」の註の中で,前述の菅生氏の見解を紹介しつつ賛意を表している。即ち,スロイドを学校教育へ導入した人物はサロモンであるという意見に同調している。(2)
一方,松崎巌氏は,「教育的スロイドの成立と発展について」の中で「手工教育を普通教育の一環としてとりあげるという考え方はペスタロッチ(Johann H. Pestalozzi),フレーベル(Friedrich Froebel )らの教育思想にすでに見られるところであるが,それを公教育制度の中に位置づける試みはまずフィンランドでなされ,ついでスエーデンを通じて世界各国に影響を及ぼしたのであった」というように,フィンランド公立小学校でのカリキュラムの中に世界ではじめて普通教育としての手工教育が導入されたと述べ(3),また同氏の「スロイド教育の思想と実践―シュグネウスとサーロモン―」の中で,スウェーデンのネースで初等教育を終えた子供たちを対象に,職業教育学校を経営していたオット・サロモン(Otto Salomon, 1849〜1907)は,「すでに公立小学校のカリキュラムの中にスロイドを取り入れていたフィンランドに,シュグネウスを訪れ,スロイド教育について教示を受けた。シュグネウスがサーロモンに教えたことの要点は,
[1] スロイド教育は経済的な必要に基づくのではなく,教育的な視点にたって行うべきこと,
[2] スロイドは職業技術としてよりは,むしろ,普通教育の一環として位置づけるべきこと,
[3] スロイドを教えるものは職人ではなく,教育者であるべきこと,
[4] 小学校では,スロイド教育には専科教員ではなく,全科担任の一般の小学校教員が当るべきこと,であった。このシュグネウスの教示によって,サーロモンは,自らの考えを改め,その実践は大きな転機を迎えることになった」というように,手工教育は職業教育としてではなく,普通教育の一環として位置づけるべきことを,サロモンはシュグネウスから教示されたと論じている。(4)
本稿は,教科としての手工教育をスタートの第一歩まで遡り,手工教育を,誰がどのようないきさつで学校教育の中で教授するようになり,そしてその考えが,わが国ばかりでなく世界中にどのように広がっていったかをフィンランド語文献を中心に見ていこうとするものである。
ウノ・シュグネウスと手工教育の小学校教育への導入
ウノ・シュグネウス(Uno Cygnaeus, 1810.10.12−1888.1.2, 肖像画はこちら )は,フィンランド南部,ハミ県の県費出納官を父として1810年10月12日,ハメーンリンナ(Hämeenlinna)に生まれた。シュグネウスが生まれた前年,1809年までフィンランドは,スウェーデン王国の1州として,スウェーデン法によって約650年間にわたり統治されていた。この時期のフィンランド人は,スウェーデンの高い徴税に苦しみ,ロシアとの領地争いで兵士として徴用され,フィンランドは戦場と化し,二重,三重の苦しみに喘いでいた。しかし,フィンランド戦争(1808-09年)でスウェーデンが敗れ,フィンランドはロシア皇帝直轄の大公国となったが,国内統治権はフィンランド自治政府(Senaatti セナーッティ)に与えられ,スウェーデン時代の法律を,フィンランド国法としてそのまま行使することも,ルーテル派キリスト教を信じることも保証され,外交権以外の自由を獲得することとなった。ただ,行政においても経済においても,また学校においても使う言語はスウェーデン語であったため,スウェーデン語を使う支配層とフィンランド語を使う被支配層の二重構造が歴然としてあった。
シュグネウス一族( Cygnaeusという名前は先祖に由来する。先祖は純粋のフィンランド人農民で,200年前はサイマー湖の南岸ヨウツセノ(Joutseno)教区に住んでいた。Joutsenoのjoutsen(ヨウツセン,白鳥の意)は,ラテン語でcygnusといい,ここからCygnaeusとした。ラテン語名をつけることはその当時のエリートの流行であった。シュグネウスは最後の出版物の中で「先祖は純粋なサヴォ・カレリア人で,スウェーデン語を全く解さない人々であった」といっている。(5))は,卓越した宗教一家で,宣教師,牧師,教師,学者などを輩出した。人々の貧困に対する強い関心は,早くから一族の資質となっていた。ウノ・シュグネウスの父親は,教育に強い関心をもち,単に知識の詰め込み主義だけでなく,何度も練習をつんで実際に習得する教育,新教育家が求めていた教育を,自分の子供たちに試みた。例えば,父はウノに手の有用であることを話し,大工や靴職人の作業小屋に連れてゆき,材料や作り方について説明したり,質問したりした。このようにウノは,小さい時から手仕事に対して強い関心と適性をもっていた。ウノは,学校に上がる前,素晴らしい出来栄えのスプリングをつけた4輪車を作ったり,弾薬運搬車を連結した戦車を作ったりした。(6)
ウノの父親は,レッパコスキ(Leppäkoski)に荘館をもっていた。ウノが8歳の1819年春,父親が亡くなったが,経済的には不自由なく教育を受けることができ,1821年ハメーンリンナの三学学校(Triviaalikoulu=Trivium School)の第3学年に入学した。12歳でハメーンリンナでのあまり上等とはいえぬ下宿生活を始めた。その下宿先はレストランで,ホールのすぐ横にシュグネウスの借間があり,店内の音が筒抜けで勉強に身が入らないため,夕方,学校から帰るとすぐ簡単な夕食を済ませて寝てしまい,レストランが閉店する深夜,小間使いの老婆に起こしてもらって朝まで集中的に勉強した。6年間,寝る間も惜しんで勉強して抜群の成績を修め,1827年,トゥルクの大学に進学した。(7)
フィンランドが大公国となってから首都はフィンランド南西部のトゥルクであったが,スウェーデンに近すぎるため1812年にはヘルシンキに遷都していた。ロシア皇帝は,大学もスウェーデンの息がかかるのを恐れて,1828年にヘルシンキへの移転を決めていた。シュグネウスの入学直後の1827年秋,トゥルク全市を焼失した大火で大学も焼け落ち,既に移転が決定していたヘルシンキ帝立大学で勉学した。
シュグネウスは,はじめ医者になろうと思ったが,年上の友人の勧めもあり,また学費が続きそうもなかったので諦め,次に牧師になろうと決めた。だが修士号も取りたいと思い,歴史学と動植物学を学び,1836年,哲学修士を取得した。その後1年間大学に残って牧師になるための科目を修め,1837年牧師試験を受けて資格を取得した。10年をかけて修士号と聖職者の資格を得たことになる。(8)
1837年,シュグネウスは,牧師補としてヴィープリ(9) に行き,そこで牧師の助手,監獄宣教師,教会学校の教員を兼務した。この教会学校で働いていたとき,堅信礼のためだけの,国民教育の視点からすれば全く程度の低い初等教育の実態を体験した。例えば,月曜日に160人の女児を預かり,次の日曜日,つまり1週間で聖餐式に間に合わさなければならなかった。従って,すぐにも100人の子らを見捨て,残った子供たちに教義の第1節を暗唱させても,聖餐式までにパスした子は38人に満たなかった。これがフィンランドの国民教育,聖餐式教育の実態であり,世間で言われていたとおりのお粗末さであったとシュグネウスは述懐している。(10)
1839年夏,遠くアメリカ行きの指令がシュグネウスに下り,人生の重要な転機が訪れた。当時北西アメリカの一部はロシア帝国で,この地方に豊富な毛皮を求めて毛皮処理業者や取引業者のための商工会があり,これを目当てにフィンランド人やその他ルーテル教徒が沢山押し寄せていた。この年フィンランド人の執政官がシトカに派遣されることになり,執政官夫妻とともに牧師も赴くことになった。この仕事がシュグネウスにもたらされ,シュグネウスはすぐにこれに応じた。9月にヘルシンキを出発し,大西洋,ブラジル,チリを経て9ヶ月の船旅の後,アラスカのシトカに到着した。(11)
シトカは多民族コミュニティで,原住民,移民の商人,軍人,役人らがおり,シュグネウスの赴いたルーテル派教区は150人ばかりの小さなコミュニティで,フィンランド人とドイツ人の労働者と少人数の役人とその家族であった。シュグネウスは,ここにいる間,自分達の小さな教会とこれに併設して牧師館を建て,ここで快適に仕事し,生活した。
1842年にシトカ・ルーテル教会で男女信徒の献身的な参加により内装工事が行なわれた。教会はフィンランドではかつて見たこともない美しい,技巧を凝らした出来栄えであったとシュグネウスは述べている。その前年の夏,シュグネウスは,この北海の地でフィンランド出身で成功している男に会い,彼の技術を,また,土地の大工達の技巧の優れていることを賞賛している。(12)
また,信者の家庭を訪問したり,動植物学の研究のため資料採取でシトカ周辺を歩き回るうち,シュグネウスは手仕事の教育への応用や社会のあり方について新たな考えが湧いてきたと述べている。 また彼は,「手仕事を誰でもが小さな子供のうちに練習させることが重要であり,素晴らしいことであると気づいた」り,「毎日の生活の中で見てきて,社会的身分の低い者も高い者も,家庭から始まり,学業を注入すべき年齢を通して行われる教育の持っている無限の意味に気がついた」り,「友愛,平等,自由,これら大事な考えが自分の心を満たし,元気付けられ,一人で太平洋の岸辺を散策し,アメリカ大陸の原始林の中でこれらの考え・思考が私の中で育ち,巨大な力になっていくのを感じた」と述べている。(13)
5年の任期が終わり,シュグネウスは1845年5月,オホーツク,シベリア経由で1845年のクリスマスの朝,ピエタリ(14) に帰還した(西回りで地球を一周したことになる。旅行中収集した動植物資料は,ヘルシンキ帝立大学(現ヘルシンキ大学)とユヴァスキュラ教員養成所(現ユヴァスキュラ大学)に寄贈された(15))。
しばらくヘルシンキで過ごした後,シュグネウスは1846年初めにピエタリの聖カタリーナ教会(スウェーデン系フィンランド人向け)で教会学校校長としてしばらく勤めた後,1847年5月,同地の聖マリア教会(フィン系フィンランド人向け)の教会学校校長ならびにピエタリ在住で地元の小・中等学校へ通うフィンランド人向けの宗教教育科の教師を兼務することになった。
教会学校校長としての職務の中では,当時ピエタリはヨーロッパでも有数の大都会で,人口50万人を数え,流入外国人は人口の3.2%を占めていた。そのうち一番多かったのは,隣国フィンランドからの出稼ぎ者で13,000人ほどおり,多くは製靴業,縫製業,金工・宝石加工業などに携わる者達であったが,身を持ち崩して売春婦になる者もおり,シュグネウスは学校教育の必要性を肌で感じていた。(16)
また,宗教教育科教師としてのシュグネウスは,宗教学の授業を士官学校や高等学校,修道院などで行ったが,お互いが街の相対する位置に点在していたため,歩くと1時間もかかる距離にあり,とても重労働であった。そのため,例えば朝7時に,多くのフィンランド人少女を教育する女子部が併設されているスモルナ修道院に行き,そこが終わって街の反対側にある林業学校に行って教え,終わって家に帰り着くと深夜になってしまうということもたびたびであった。これらの学校の往き来は,秋学期から春学期の終わりまで続いた。(17)
この教会学校には男子部,女子部,幼児部,そして男女別の日曜学校が併設されていた。シュグネウスのいる間,彼は学校の地位を高め,教員と児童生徒の数を増やした。フィンランド各地から移住してきたピエタリ在住フィンランド人労働者階級の通学者が増加した。この子らを通してシュグネウスは祖国の国民教育の不備を知り,同時に彼らに欠けているものを観察した。
シュグネウスがここでフィンランドの教育のお粗末さを実感し,国民すべての階級の底上げを目的とした教育制度の確立を準備し,その方向へ誘導するため,彼はあたかも自国でしたのと同じようにこのピエタリの教会学校で試行した。ピエタリではまた,進歩的なドイツ人教員ら(一人はロシア帝立皇族学校の教員をしていた)と親しくなり,彼らを通じて教育学や国民教育に関する新教育の知識を吸収した。
フィンランド自治政府は,長期間にわたって身分制議会が開催されず,貿易や海運における外交権の欠如から起こるフィンランドの立場の不利,工業の発展とここから派生する国民の数々の反社会的行為や社会基盤の不備,それらの根本にある国民教育の遅れ,これらの元凶となっているスウェーデン語,フィンランド語の言語問題等々,解決すべき国内問題を山積していた。これらの問題解決のため開明的なフィンランド大公,アレクサンドル2世ロシア皇帝が訪フィンした1856年3月24日,自治政府は議会の議長席でフィンランド社会改革の5か条の指令書にサインさせた。(18)
その5か条とは[1] 商業運輸,海運の改善,[2] 工業の改善と振興,[3] 国民教育の改善と普及,[4] 運河,鉄道などの交通網の整備,[5] 下級役人の待遇改善などで,理論において100年,実践において50年遅れているとシュグネウスに言わしめたフィンランドの国民教育を根底から改革し,その普及・振興を意図した教育改革が含まれていた。この時シュグネウスは,長期にわたって開会されないでいた身分制議会を召集すべきこと,言語の平等化が必要であること,すべての初等教育機関でフィンランド語を教育言語として使用できるようにすることが先決だと考えていた。(19)
自治政府は,当時国民教育を握っていた大聖堂評議会へ意見を求め,これに対して大聖堂評議会は報告書を自治政府へ提出した。この報告書は公刊され,これに対する意見を国内に公募した。ピエタリに住んでいたシュグネウスは,1857年,この意見公募に応募した。国内から集まった沢山の意見の中でシュグネウスの意見はひときわ際立っていた。これはシュグネウスがピエタリ時代に忙しい中にも教育実践家として教育学の新理論に深く関心をもち,ペスタロッチ,フレーベル,ディースターヴェークらの書物に親しみ,先進ヨーロッパの教育学理論を積極的に吸収し,その後,実際に祖国で初等教育改革を推進するのと同じような下地をピエタリで作っていた。このようなしっかりした基礎があったためできた提案であった。(20)
1858年4月19日,自治政府は,学校教育制度改革に向けた準備の指令を告知した。その一つは,5か条(〔1〕初等民衆教育に属する知識を伝えるための常設小学校を設けること,〔2〕その学校では手工,農業,園芸を教えること,〔3〕小学校は首都の高等教育庁の管理下に置くこと,〔4〕師範学校を設けること,〔5〕初等教育問題に関連する事項を調査するため適当な人物を国内外に視察させること)を実行に移すこと,もう一つは,〔5〕の問題についてシュグネウスをピエタリから呼び寄せ,指名したことであった。
指名に従って国費を得て,1858年夏から1859年10月までシュグネウスはフィンランド国内とスウェーデン,デンマーク,ザクセン,プロイセン,スイス,オランダなど教育制度ならびに教育内容等の視察旅行を行い,1859年12月視察報告書を自治政府へ提出した。
旅行中,ハンブルグにおけるフレーベルの教えを汲む幼稚園での「手仕事の助けを借りて(将来の)職業人を作る教育」活動を見て,それまで温めてきた手工の学校教育への応用の可能性を確信した。(21)
自治政府は,学校教育制度改革のための具体的な改革案の作成のための委員会を発足させ,シュグネウスを委員に任命した。この委員会は委員長,シュグネウス一人であったので一人委員会と呼ばれた。一人委員会は, 1860年5月18日,学校制度改革案を提出した。
またその後の1861年2月14日,シュグネウスが提案する改革案を検討する検討委員会が設けられた。メンバーの構成は,聖職者(4人),農業経営者(2人),経済人(2人),大学教授・教育関係者(5人)で,教育学と教育実践を熟知している者で,年齢構成,都市出身者と地方出身者,進歩主義者と保守主義者,スウェーデン語使用者を代表する者とフィンランド語使用者を代表する者などを配慮して人選されていた。(22) 喧喧諤諤の論争の末,1862年6月,作業を完了し報告書を自治政府へ提出した。(23)
検討委員会の多くのメンバーは当初,シュグネウスが言うような小学校で行う手工教育の重要性について,まったく理解できなかった。シュグネウスは,小学校において子供たちが身体を使って工作することの必要性について検討委員会に対して次のように反論した。
「例えば,農民が物事を理解しようともせず,簡単な機械を利用して労力を節約しようともせず,手先の器用さも持たず,秋から冬の夜長を有効に使おうともせず,このままただ,おしゃべりに明け暮れしていたら国は滅びてしまうだろう。もし,フィンランド国民がもっと働く意欲や積極的な行動力を備え,そしてすばらしい手先の器用さを持っていたとしたら,現在全国に蔓延した,だらしない国民の救いようもない有様を変えることは可能であろうし,津々浦々にいる多くの空腹を抱えた人々をいかに救ったらいいかに腐心し,改革すべきであろう。私の考えでは,もし学校教育制度を手仕事を教授する政策に変換するならば,このような国の汚点に対して小学校こそが大転換の力を発揮することであろう。」(24)
アレクサンドル2世の5か条の指令から10年,1866年5月11日フィンランド小学校法が発布され,小学校が教会支配から解放されて,行政府・高等教育庁の管理下に置かれることに変り,全国の地方自治体のおよそ6分の5に750校の小学校が発足し,1890年にはおよそ900校となった。(25)
小学校は,低学年2年,高学年4年の6年制で,学齢8歳で入学した。低学年のカリキュラムは,宗教,母国語,算数,図形(幾何),絵画,体育で,高学年ではこれらに地理,歴史,理科,手工,育児,園芸,農業が加わった。また,1883年の言語法によってフィンランド語とスウェーデン語は法の上で対等となったが,小学校法発布に先駆けてフィンランド語系教員養成所をユヴァスキュラ(Jyväskylä)に,スウェーデン語系教員養成所をタンミサーリ(Tammisaari)に開設し,言語問題の解決に先鞭をつけた。
自治政府は小学校制度スタート直後の大きな困難を乗り越え,小学校における手工教育に関して十分に理解し,同時にシュグネウスの教育思想を信頼するようになった。(26)
また議会は1870年代末,全国に木工教育を普及するための充分な資金提供を容認するようになった。高等教育庁はシュグネウスの考える補助金の配分計画を支持し,自治政府はこれを支援した。
補助金は道具や図面の購入,作業場の改修,教員の技術力向上や精勤の給与に当てられた。引き換えに,各学校には出来上がった作品を,国のコレクションに提出する義務が課せられた。(27)
また手工訓練は,学習者の能力と器用さに合わせて慎重に進めるべきものであるとの通達も各学校に発せられた。どの作品も上手に,注意深く作られたモデルのように,そして上級者には製図を使って作ることを基本とすべきであるとした。作品は日常必要なもので役に立つものであるべきで,贅沢品やケバケバしい装飾がついているものは不可とした。通達にはまた製図や測定法も手工と同じ教材であるべきだとも添えられた。(28)
1884年,シュグネウスを議長とした手工委員会が設立され,1886年秋にその報告書は上梓された。その根幹にあったものは,手工というものは経済的,技術的観点から強引に推し進めるべきではなく,機械のように正確に作ることができるよう手先の器用さを鍛錬することであると述べられていた。
また,手工委員会は,木工作品の作り方のマニュアルや図面を添付した優秀作品を,全国から提出させ,見本コレクション(シュグネウスは実際に子供たちに見せることを重要視していたため,見せるための作品集のこと)を作った。見本コレクションは,大きさの異なる学校毎にグルーピングして,巡回,展覧させた。このために委員会は,必要な製作マニュアルや小刀から鉋台・旋盤まで56種類の道具類を,各学校に配布する国家助成策(29) を施し,1887年5月,全国の小学校に配布した。(30)
シュグネウスは,1857年の国民教育の意見応募から1886年まで一貫して手工教育は普通教育として教育されるべきものであり,経済的価値を目的としたものではないとの態度を堅持してきた。また,これを貫いた彼の強い信念は,その生い立ちや若いときの思考過程に裏打ちされていることが理解できる。
手工教育の世界的広がり
続いてフィンランドから始まった学校教育における手工教育が,フィンランドからスウェーデン,そしてスウェーデンから世界各国へ広がっていった様子を以下に見ていこう。
1872年,スウェーデンのネースでオット・サロモンが小学校を修了した少年を対象にした職業教育学校を開いた。この当時,スウェーデンでは各地にこのような職業学校が林立していたが,サロモンは教員養成の重要性を見抜き,1874年に自分の職業学校に意識の高い職人や職工を手工科教員に仕立て上げる教員養成課程を併設した。この頃のサロモンは,職業教育の普及と向上に傾注していた。(31)
ちょうどこの頃,サロモンは,ユヴァスキュラ教員養成所校長をしていたシュグネウスのところに行くよう,へドルンド(S.A. Hedlund)(32) に紹介された。ヘドルンドは,1858年スウェーデン教育界を視察旅行したシュグネウスの案内をし,それ以来シュグネウスとは懇意であった。
1877年春,フィンランドを訪れたサロモンは,何度もシュグネウスに会った。後になってサロモンは,ユヴァスキュラ旅行記にシュグネウスの活動を記録し,また何冊かのフィンランド語のマニュアルを,自分の学校で使用したと述べている。(33)
サロモンは初め,シュグネウスの考えるような教育学的な手工教育をまったく支持していなかった。しかし,シュグネウスと話すうち,徐々に彼の考え方に同化していった。1882年72歳のシュグネウスが33歳のサロモンに宛てた手紙の中で,彼は,手工教育の価値をほんの少しでも理解できるようになるまでに自分は40年もかかったと書いている。これはシュグネウスの小学校教育課程の中に定着させた手工教育を咀嚼しようとしていたサロモンに対して,多少誇張して述べたものである。(34)
ユヴァスキュラの旅行中,サロモンは教員養成所の学生達の巧みな技と出来栄えを見学して,ここを卒業した女子教員をネース女子手工学校の教員として採用したいと申し出た。少なくとも6名のフィンランド人女子教員がネースに渡り,3名は既に1880年頃から就業していた。サロモンは,1882年にはシュグネウスの仲介で2名のフィンランド人小学校教員に,ちょうどその頃小学校卒業後の継続教育機関として格上げされていたネース職業教育学校の教員の席を提供した。(35)
このようにサロモンは,職人や職工を教員に仕立て上げて職業教育を行うことを止め,シュグネウスの考えを取り入れて,小学校の現職教員を集めて普通教育としての手工教育教授法を教えるようになった。東京高等師範学校の後藤牧太や野尻精一がサロモンの夏期手工講習会に参加したのは1888年であったので,このスタッフの中にはシュグネウスの教えを受けたフィンランド人教員や助手がいたであろう。
サロモンが講習会で教えるうち,シュグネウスの考えをより発展的に改善し,システマティックな教授法を考案した。(36) このシステマティックな教授法故にサロモンの手工教育が有名になり,スウェーデンはもとよりフィンランド,ノルウェイ,デンマーク,その他世界各国から教員を集めた。このためにやがてシュグネウスとサロモンとの間には本家論争が生まれた。
フィンランドの小学校で手工を教えるようになったのは,スウェーデンやノルウェイからもたらされたものであると巷間いわれ始めたことにシュグネウスは驚いた。(37) フィンランドで生まれた考えであるにもかかわらず,シュグネウスは彼の教育学的手工教育思想がサロモンの名で世に出て行くことに耐えがたかった。特に言葉巧みに手工教育について講演しながら世界を巡り,加えて何ヶ国語にも翻訳して本を出版したことを許せなかった。シュグネウスは自らも1882年にドイツ・ライン新聞に記事を投稿し,自分が本家であることをアピールした。その一方でシュグネウスは,サロモンにシステマティックな教授法を考案した業績に対してそれなりの評価を与えた。(38)
ヴェリ・ヌルミは,その著の最後でこう書いている。
「真相はこうであっただろう。シュグネウスがサロモンに手工教育思想を教えた。シュグネウスと彼の委員会(筆者注:手工委員会のこと)は,ユヴァスキュラでは全く考えもしていなかったようなサロモンのシステマチックな製作手順を互恵的に手に入れた。後世の人々は,シュグネウスこそが小学校手工教育の父,特に木工教育の父であると評価を下すことであろう」と。(39)
以上概観してきたように,フィンランドで生まれた手工教育を普通教育として小学校の教育課程に位置づける思想と方法は,フィンランド人,ウノ・シュグネウスによって完成され,スウェーデン人,オット・サロモンに受け継がれてより一層改善され,サロモンによって世界に広まっていったのである。
ところで,「サロモン」や「スロイド」のキーワードでネット検索すると多数の研究がヒットするが,「シュグネウス」のそれは皆無に等しい。学校教育における手工教育のルーツであるシュグネウスの教育思想の研究は,わが国ではスウェーデン語文献による松崎氏の研究が唯一のものであるのはこれまで見てきたとおりであるが,菅生氏らの誤った見解であるにも拘らず,その文献量の多さで松崎氏の正しい見解が片隅に押しのけられた状態であるのは遺憾なことである。手工教育やスロイド教育に関する多くの研究は,スウェーデンのネースで教えたオット・サロモンの思想と発案によるものであって,ここからスタートしたとの立場で書かれた論文は,菅生氏ばかりでなく陸続と世に出ているのが現状である。
例えば遠藤敏明氏は,「スウェーデン『学校スロイド』発達史序説」の中で「教科スロイドは,一つの教育的手段であるということからオットー・サロモンは国民学校で教科スロイドを教えるのは教育学的な訓練を受けた国民学校教師が最適であると考えるようになった」(40) としているが,これはサロモンの考えではなく,1877年フィンランドのユバスキュラを訪問したサロモンが,シュグネウスから直接教示されたもので,シュグネウスの考えである。この考えは, 1863年3月17日に公布され,シュグネウスの考えをほとんど100%ベースにした教員養成所法の中に活かされていた。(41) この法律によって小学校法の発布(1866年5月11日)を見越して,ユバスキュラに開校された教員養成所における正科教員用のカリキュラムでは,「育児,手工,家庭科,園芸を課した」(42) と言っているように,一般教員のたまごに手工を教授させる施策を実施した。このようにシュグネウスは,教育学的訓練を受けた一般教員に,手工科を担当させることを,小学校法の発布以前に見切り発車していたことが窺える。
また,横山悦生氏は,「手工科成立過程期における日本とスウェーデンとの教育交流―手工科に与えたスロイドの影響の再評価―」(43) の註の中で,「サロモンは1875年から職人をスロイド教育の担当教員に養成するスロイド教員養成所を始める(中略)が,ウノ・シグネウスを訪問した(中略)後,1878年より民衆学校教員を対象に6週間のスロイド教員養成コースを開始した」とサロモンとシュグネウスの接点を紹介しながらも,文脈全体は,手工教育は普通教育としてあるべきだとする考えは,サロモンの思想と発案によるものであることを前提とした記述である。
このように,サロモンの業績とシュグネウスの業績が渾然となっている現状を,一旦,明確に切り分けて,その上で再構成することが望まれる。そのためには,フィンランド側からの資料調査が早急に進展することが不可欠である。
同時に,シュグネウスがその必要性を認めた初等教育の中における「手工=käsityö」「手仕事=käsityö」の教育的意義を,フィンランドの民衆の生活・伝統・風土を含めた幅広い視野を基に正しく位置づけるべきであろう。厳しい自然環境と貧しい国でありながら経済的価値を第一の目的としなかったシュグネウスの視点にも留意すべき点であろう。
本稿においてシュグネウスの経歴を必要以上に詳述したのは,彼の背景にあるものを理解していただくことを目的としたもので,蛇足の感があったらご容赦願いたい。