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証例3

 

 フィンランドのビール愛好者クラブから確証を得た私は,在日フィンランドセンター・在日フィンランド大使館を訪ね,このような間違いが日本では流布され,今や「常識」にまでなりつつあると訴えました。同大使館は独自調査の後,外務省ほか関係筋に文書を送りました。
 その結果をいただきました。重要な部分を以下に抜粋掲載します。

青字:フィンランド大使館,黒字イタリック:マッティ・クリンゲ教授

 歴史的事実は以下の通りです。
 第一に、東郷ビールなるものは実在しません。フィンランドのピューニッキ醸造会社が製造していましたのは、「アミラーリ(海軍提督のフィンランド語)ビール」です。このアミラーリ・ビールも現在ではフィンランドで製造されていませんし、ピューニッキ社も廃業しました。
 このアミラーリ・ビールが製造されていた1970年から1992年までの間に、中身は同じで、24人の世界の海軍提督の肖像を描いた24種類の「アミラーリ・ビール」が販売されてきました。現在日本で輸入販売されているのは、オランダで醸造され出荷されたビンに、東郷平八郎のラベルだけを貼ったものです。ラベルはそっくりコピーされて使われていますが、中身は全く別の物です。
 フィンランドの独立とピューニッキ社の歴史がおわかりいただけるよう、以下に年代を順に記します。

1897年  ピューニッキ醸造会社設立
1917年  フィンランド国独立(それ以前はロシアの自治大公国)
1970年  アミラーリ・ビールの販売開始(24人のうちの最初の6人が登場するが、本当の「提督」ではない人物も使われる)
1971年  東郷平八郎のラベルを含む次の6人を発売
1983年  アミラーリ・ビールの日本初輸入
1984年  これまでのラベルに加え,新たに12人のラベルを発売。これらの中に山本五十六のラベルも登場
1985年  ピューニッキ社倒産(シネブリコフ醸造会社に経営権が譲渡される)
1992年  アミラーリ・ビール醸造の出荷停止

 今一度、上記年代にご注目いただきたいと思います。
 フィンランドがロシアから独立したのは1917年のことです。フィンランドは、スウェーデン統治時代以降、独立までは、自治権のあるロシアの大公国でした。
 アミラーリ・ビールが初めて製造されたのが1970年で、東郷平八郎のラベルのアミラーリ・ビールが登場したのが1971年のことです。すなわち、フィンランド独立の54年後のことです。従って、この東郷アミラーリ・ビールがフィンランド独立に関連しているという記述はまったく間違っております。
 これと並び、1904−05年の日露戦争におけるロシアの敗北と、フィンランド独立との関係を強調する記述もあります。
 以下にヘルシンキ大学歴史学教授であるマッティ・クリンゲ博士を引用しながら、フィンランドの歴史を明らかにしたいと思います。

 スウェーデンからの譲渡による、ロシアのフィンランド併合には二つの歴史的意味があると考えられます。ひとつは、フィンランド国民に受け入れられていた文化・社会的システムをそのまま保持できたということ。その一方で、新しい枠組みの独立した国家を結果的に生み出したということです。この意味においては、フィンランド国民は、考えうる最善の結果を得たと言っていいでしょう。すなわち、ティルジット会議の決議を踏まえた形で権力構造の改革を成し遂げたのです。

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 アレキサンドル皇帝はフィンランド国民の共感と忠誠心をすばやく獲得することができました。それはロシア正教やロシア社会の封建制を強要せずに、フィンランド人に平和を保証したからです。

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 フィンランド人は本筋においてロシアに対して忠誠を尽くしました。その後、1878年にはフィンランド部隊はトルコとの戦争に参戦し、1904−05年の日露戦争では、職業兵士ならびに志願兵が日本軍と戦ったのです。※1)

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 スウェーデン統治からロシアの自治大公国となったことは、フィンランドにとって結果的にさまざまな利点をもたらすものであり、とりわけ、そのほぼ百年後の1917年には独立を達成しました。独立の背景となった理由にはいくつもの要因を考えることができますし、それについて書かれた歴史書や論文などを研究することによって、歴史的考察は深められなければなりません。しかし、現段階において、日本の何点かの書物に喧伝されているように、日露戦争(1904−05年)におけるロシアの敗北がフィンランド国家独立の誘因となったという明確な論拠を見出すことはできません。むしろ、フィンランド人は日露戦争で、ロシア側の兵士として参戦し、日本軍と交戦しています※1)。

 …

 これは1914年の第一次世界大戦時も同じでした。しかし、その頃には、ロシアに対する忠誠心は失われており、フィンランドはロシア帝国にとって問題児的存在となっていました。にも拘わらず、1809年以来の自治や社会秩序はそのまま継承されていました。しかし既に顕在化していた両国間の冷え切った関係によって、1917―18年、世界大戦やロシア革命といった、フランス革命を彷彿とさせる事件が重なり、また、ヨーロッパ諸国が新たに誕生した時期に、ロシアからの独立の道を選ぶこととなったのです。

 …

 日本とフィンランド両国は、事実をふまえた正確な情報に基づき判断を下すことの重要性を十分に認識し、その正しい歴史認識があってはじめて誠実で友好的な関係を構築できるものと信じます。

(2000.12.04)   

フィンランド大使館

 

※1)1809〜1917年の大公国時代には,ロシア帝国陸軍将軍と海軍提督だけでも約500人のフィンランド人がいたというページがここにあります。
 この中には,対馬海戦で運よく逃げ延びてフィリピンに辿り着き,敗走の罪で収監された後,バルチック艦隊隊長に返り咲いた巡洋艦オレグ(Oleg)のオスカー・ヴィルヘルム・エンクヴィスト(Oskar Wilhelm Enqvist)艦長や陸軍騎兵隊のカール・グスタフ・エミール マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)将軍などのほか,対馬海戦でケガをしたロジェストヴェンスキー提督に替わってその後指揮を執ったアンデルス・ヴィリニウス(Anders Wirenius)提督代理等々,陸軍・海軍のフィンランド人職業軍人約26名が日露戦争に参戦しています。

 

 

 長々とお話してきましたが,これでお分かりいただけたでしょうか。

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