【証例1】にもありましたように,このビールの発売は1970(昭和45)年,東郷平八郎のラベルのものはその翌年です。
これを裏付けるように Tampere 在住Jari Niemelä さんのホームページ中には,日露戦争(1804-1805年)前後にそれらしき記述はまったく見出せません。
(※ Jari Niemelä さんは2016年8月13日亡くなり,ホームページは既に閉じられています。)
Jari Niemelä さんからはこのホームページの要訳の許可を頂いております。
タムペレのビール醸造業の歴史は,現在でもレストランや小規模醸造所に引き継がれている。まだ Amiraali ビールを覚えている人が沢山いるが,もう既に思い出の中だけになってしまった。また,Tähti (星の意)ビールを覚えている年寄りも多くいるが同様に記憶の中だけになってしまった。
これらのビールを造っていたのは,タムペレの飲料業の牽引車であり,数年前につぶれた Pyynikki である。
1849年 Thomas Clayhills がビール醸造を企画するも計画段階で中止。
【 工場の写真 】
1903年 Tampere 郡の禁酒法が敷かれ,各工場が NÄSIJÄRVEN OSAKE OLUTTEHDAS の名の元に連合した。この時,PYYNIKKI が最大の工場であった。 【 Tähti ビールの写真】
1931年 アルコール度数が1.6%から2.25%に上がったが売上は当初の期待ほどではなく,経営環境は変わらず厳しかった。 Amiraali oli erikoinen olut. Amiraali は特徴的なビールだった。 Amiraali は100%麦芽使用の中部ヨーロッパ風ビールで,まろやかな口当たりであった。甘すぎると評する人もいた。地元ビールよりも他地域のビールを尊重する風潮もあったためタムペレっ子の中にはまずいという人もいた。 ビール職人 Wolfgang Paulus は3週毎にミュンヘンからビール酵母を輸入した。もう1つの特徴的なことはその香りであった。 これらもさることながら,特徴的な最たるものはラベルであった。ズラリ並んだラベルを考えただけで,なんと懐かしいことか・・・。ラベルの一つ,特にトーゴーのラベルには,おかしな話がある。 かつて日本の前首相,中曽根康弘氏がフィンランドを訪問した。訪問の最後に日本食レストランに前述の東郷のラベルが貼ってあるタムペレ産缶ビールを大量に運び込んだ。その後しばらくして”トーゴービール”という名で日出ずる国で豪華な(貴重な)ビールとして売り出された。トーゴーのラベルのみ注文があり,それ以外のラベルは見向きもされなかった。 1985年 Pyynikki は Sinebrychoff(全国的シェアを持つ大ビール会社)に買収された。ビール醸造は,Kerava 工場に移り,Amiraali の物語は1992年終わる。悲しい哉!
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以上見てきてお分かりのように,もし,Amiraali が1905年日露戦争後から独立(1917年)にかけてに作られたものであれば自ずとそのあたりに詳細な記述があるはずです。Amiraali の記述が出てくるのは上の文では1953年以降で,この点から見ても Amiraali の発売は第2次大戦後だと分かります。
(Jari Niemelä さんのこのページの執筆は1997年で,Amiraali の味を良く覚えている Tampere 在住者に向けてAmiraali は良かったなあ,と懐古の念をこめて書かれたもので,書き手,読み手が分かっている1953年以降の年代を明記せず書いているため,Amiraali の発売年について敢えて触れておりません。)