岩本徹三 中尉

岩本徹三は日中戦争、太平洋戦争を通じて日本海軍戦闘機隊のトップ・エースである。

そのおどろくべき7年間にわたる活動の記録は、戦後になって自身の詳細な戦闘日記と証言者によって明らかにされた。

深追いせず、一撃して離脱するという「ヒット・アンド・ラン」方式の戦法に徹した技巧派の彼は、

 1916年(大正5年)北海道で警察官を父に、男3人、女1人の4人兄弟の三男として生まれた。

益田農林学校のころ、若い徹三はその強い自己主張と自説を曲げぬ頑固さ、実直さで教師を辟易させている。長じてその性格は軍隊時代の上官にも示された。

農家を継ぐことを嫌った岩本は、1934年(昭和9年)7月大学の受験を断念し、こっそりと海軍を受験した。

のちにそのことを聞かされた両親は、農業の担い手を期待していたためにひどく落胆したという。

 水兵となった岩本徹三は、これに飽き足らず、さまざまな特典のある搭乗員を希望して難しい転科試験を受け、合格。

1936年(昭和11年)12月に操縦練習生過程を卒業した。未来の「エースのなかのエース」の片鱗は初出撃のときからみられた。

1938年(昭和13年)2月25日、岩本一空曹は第12航空隊付として南昌攻撃で銃火の洗礼を浴びるが、この時彼は爆撃機の掩護作戦中であった。

イ-15とイ-16からなる敵部隊の攻撃を受けた22歳の岩本一空曹は、混戦のなか4機の敵機を撃墜し、1機不確実撃墜の戦果をあげた。

さらに4月29日の漢口上空の空戦ではぶたたび4機を落とし、多数撃墜者として塚原二四三司令より司令賞を授与された。

 1938年9月、岩本一空曹は日本に戻り、佐伯航空隊の所属となった。その時点で14機を撃墜しており、日本海軍戦闘機隊のトップ・エースであった。

その後岩本一飛層は空母「瑞鶴」に乗り組み、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争を迎える。

真珠湾攻撃の際には、攻撃部隊が発進したあとの空母上空の直衛任務についた。

12月24日に「瑞鶴」はいったん本土へ戻るが、その後インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加した。

ミッドウェイ海戦の大敗ののち、搭乗員の大量養成が必要となったため、1942年(昭和17年)8月に大村航空教官として本土に戻る。

岩本飛曹長が新人搭乗員の育成に励んでいたころ、ニューブリテン島のラバウル航空隊はかろうじてアメリカ軍の大規模な攻撃に耐えていた。

米陸軍第5、第13航空軍は大量の零戦を撃墜し、搭乗員の消耗は日本にとって危険な水準まで迫っていた。

そのようななかで岩本飛曹長は11月、支援のために15機の零戦を率いてラバウルに向かうことを命じられた。

253空付となってふたたび戦場に立った岩本飛曹長は、部下とともにほぼ毎日、アメリカ軍と対峙することになる。

11月17日、岩本飛曹長はブーゲンビル島トロキナ攻撃の際にはじめてF4Uコルセアと遭遇する。

このコルセアはVF-17(第17戦闘飛行隊)「ジョリー・ロジャース」所属機であった。日本軍のトロキナ攻撃は成功しなかったが、岩本飛曹長はコルセア2機を撃墜した。

 新年になるとアメリカ軍の攻撃はさらに激化し、2月16日から17日にかけて日本海軍の要衝トラック島は敵機動部隊の激しい攻撃を受けた。

この結果、飛行可能なラバウルの航空機はすべてトラックに引き上げるやいなや、毎日のように空襲してくるB-24の迎撃にあたることになった。

岩本飛曹長は1944年(昭和19年)6月に本土へ帰還したが、10月には台湾、フィリピンをめぐる戦いにかり出される。

戦局はほとんど絶望的で、実り少ない海岸線の上陸部隊や敵飛行場への単機夜間攻撃に出撃し、最後にふたたび本土へもどった。

1945年(昭和20年)初頭、岩本少尉は203空付となり、沖縄作戦の支援のため九州でB-29や艦上機の邀撃にあたった。

戦争の最末期には岩国にあって、神風特別攻撃隊に出撃する若い搭乗員の訓練任務について終戦を迎える。

 敗戦に絶望した岩本少尉は戦後、なかなか時代に適合できなかったといわれる。

偉大な撃墜王は1955年(昭和30年)、戦時中に受けた背中の傷を何度も手術した結果の敗血症によって、38歳の若さで世を去った。

岩本徹三は詳細な日記をのこしたが、それによると彼の撃墜記録は次のようなものである。

グラマンF4Fワイルドキャット7機、P-38 4機、F4U 48機、P-39 2機、P-40 1機、グラマンF6Fヘルキャット 29機、リパブリックP-47サンダーボルト 1機、

ノースアメリカンP-51マスタング 1機、スパーマリン・スピットファイア4機、ドーントレス48機(さらに30機のドーントレスを爆弾により地上で破壊)、

ノースアメリカンb-25ミッチェル8機である。

 ラバウルから戻った時点で彼は142機の撃墜を主張していたが、トータルでは202機の撃墜、26機を協同撃墜、22機が未確認で地上で2機を破壊、2機を大破させたという。

戦後の研究者によれば、岩本中尉の撃墜数は80機程度、とされているが、いずれにせよ、いまとなっては実数を調べるとはできない。


関連書籍等

「零戦撃墜王」 岩本徹三 著