「瑞鶴」

瑞鶴は日米開戦当初から第一線で活躍し、昭和19年10月25日の最後まで勇戦奮闘した空母である。

数多くのエースたちも乗り組んだ瑞鶴は好敵手であったアメリカの空母エンタープライズからは"ビッグE"という尊号を奉られていたという。

 瑞鶴は姉妹艦の翔鶴に1ヶ月遅れ、昭和16年9月25日に完成して直ちに5航戦に編入され、飛行機隊は九州各基地に分散して訓練を開始した。

 初陣は真珠湾攻撃で、第1波攻撃隊制空隊には、佐藤大尉の指揮する零戦6機が参加したが、空戦の機会はなく、艦爆隊と協同してカネオヘ飛行場を銃撃し、

32機以上の在地機を炎上させた。第2波攻撃には参加せず、延べ29機をもって母艦上空の哨戒に当たった。

 12月24日内海西部に帰着した瑞鶴は、翔鶴とともに、17年1月から南方作戦支援に出撃、4月上旬にはセイロン島攻撃に参加した。

とくに9日のトリンコマリ攻撃には、牧野大尉の指揮する艦戦10機が艦爆19機を直衛して加わり、英戦闘機との空戦で20機を撃墜したが、牧野大尉をふくむ艦戦2機を失った。

 5航戦は内地への帰航の途中、MO作戦を支援することになり、馬公、トラック経由でソロモン列島線へ出撃、

5月7、8日両日にわたり、世界で最初の空母対空母の決戦である珊瑚海海戦を展開した。

8日塚本大尉の指揮する艦戦9機のうち6機は翔鶴の雷撃隊を、3機は瑞鶴の雷撃隊を援護して米機動部隊を援護して米機動部隊攻撃に参加、

敵上空で阻止幕を作って待機していた戦闘機と空戦し、「各隊各機勇戦奮闘」して29機(うち不確実3)を撃墜した。

一方、来襲した米艦載機群を迎えた直衛戦艦10機(指揮官 岡島大尉)も健闘して、戦闘機13、雷撃機6、艦爆5、計24機(うち不確実2)を撃墜、

いずれの場合も不時着水1機のほか味方の損失なしという輝かしい成果をあげた。

 5月末5航戦の両艦は本土に帰還し、飛行機隊は南九州で訓練に入ったが、瑞鶴はミッドウェー作戦で敗退した機動部隊の収容を援護するため、6月15日内海西部を出撃、

千島南方洋上を行動して25日大湊に入港、ふたたび内海に復帰した。

 解隊した1航戦の残存操縦者を吸収して再編された新機動部隊(第3艦隊)は、7月14日に発足、瑞鶴は1航戦に編入され、

飛行機隊(艦戦27、艦爆27、艦攻18)は鹿屋および佐伯で練成につとめた。

8月米軍のガダルカナル島反攻が開始されるに及び、瑞鶴は翔鶴とともに内海を出撃、ソロモン海域に進出した。

24日の第二次ソロモン海戦は、一撃だけで双方とも離脱して不徹底のままに終わった戦闘であった。

日高大尉の率いる艦戦6機は、第1次攻撃隊を援護して米空母攻撃に向かい、空戦によって6機を撃墜したが、わが方も牧野1飛曹以下3機を失った。

ついで28日から9月4日まで、1航戦の艦戦30機は、ブカ島に進出して数次のガ島攻撃に参加、瑞鶴も日高大尉以下15機が参加したが、詳細は不明である。

機動部隊はさらに9月10日トラックを出撃して、ガ島北方を行動し、陸軍の総攻撃に策応したが、総攻撃は失敗し、敵艦隊もわが攻撃圏内に出現せず、

23日トラックへ引きあげた。

 しかし再度の総攻撃を支援するため、機動部隊は再び10月11日トラックを出撃、26日ガ島北方洋上で米機動部隊と対決した(南太平洋海戦)。

第一次攻撃隊には、白根大尉の指揮する瑞鶴艦戦8機が艦爆隊を直掩して米空母群を攻撃、敵戦闘機14機を撃墜した。

ついで第二次攻撃隊には重見勝馬飛曹長の率いる艦戦4機が出撃、空戦により9機を撃墜したが、攻撃隊の被害も少なくなかった。

一方、延べ27機をもって母艦上空の直衛にあたり、来襲した敵艦爆6機を撃墜、南太平洋海戦を通じて艦戦の被害は小山内飛曹長以下5機であった。

 その後、瑞鶴は11月9日呉に帰着して整備と再編にあたったが、18年1月17日内海を出撃してトラックに進出、ガ島撤退作戦協力のため、納富大尉の指揮する艦戦隊36機を

1月29日ラバウル、ついでブイン基地に推進し、3次にわたる撤退部隊の上空支援にあたり、空戦で約40機を撃墜した。

作戦の成功により、瑞鶴隊は2月17日トラックに復帰した。

 ついで「い」号作戦参加のため、第3艦隊飛行隊は4月2日から18日までラバウルに進出して、ガ島、オロ湾、モレスビー、ラビ攻撃に参加、

瑞鶴艦戦隊は13機(うち不確実5)撃墜の戦果をあげ、わが方も3機を失った。作戦終了後、瑞鶴はトラックを発して5月8日内海に帰り、修理完成した翔鶴を併せ、

飛行機隊の訓練にあたり、7月15日トラックに進出して。10月28日「ろ」号作戦の発令により、1航戦飛行機隊は11月1日トラックからラバウルに進出した。

瑞鳳をふくみ総機数152機で、うち艦戦は翔鶴、瑞鶴が各24機、瑞鳳18機計66機であった。

 翌2日トロキナ岬沖の敵艦船攻撃を手始めに、瑞鶴艦戦隊は13日復帰するまで、連日の進攻、迎撃戦に健闘し、

この間、撃墜47機(うち不確実19)の戦果をあげたが、わが方も名指揮官納富大尉以下8人を失った。

11月13日1航戦飛行機隊は、2週間で120機、搭乗員の約半数を消耗してトラックにひきあげたが、一部(艦船隊は21人)は瑞鶴派遣隊としてラバウルに残留し、

中川健二大尉の指揮下に翌年1月末まで奮戦した。一方、ドラックに復帰した1航戦戦闘機隊26機は、休養する間もなく、26日ルオット島に進出したが、

12月5日米艦載機群の空襲で大打撃を受け、10機を失って7日トラックに引きあげた。

 こうして飛行機隊再建のため、翔鶴、瑞鶴の2空母は12日トラックを発して本土へ帰投したが、翌19年2月15日瑞鶴飛行機隊は削除され、

新設の601航空隊に吸収、再編された。そして瑞鶴は6月のマリアナ海戦に出撃した。

瑞鶴は歴戦の間に1発の被弾も受けない稀に見る武運に恵まれた空母であったが、10月25日捷号作戦に出撃、主力部隊のレイテ湾突入を助けるためのオトリとなり

米艦載機群の攻撃を受け、ついに比島東北海面で沈没した。



関連書籍等

「空母瑞鶴の生涯」 豊田穣 著