<宮城谷 三国志>  2011年1月20日 日記より


読んだ。 

現行 第9巻まで、全て読み終わりました。 
エピソードでは、いわゆる「五丈原」の手前くらいまで。 

どこまで書く気なのかは、ちょっとわかりませんが、 
9巻の後半は、遼東へ舞台が移る頻度が高く、 
公孫淵のエピソードを詳しくやっておりますので、、 
少なくとも、諸葛亮と共に終了という感じではなさそう。 

たーだ、宮城谷センセは、描きたい事を描いた後は、 
その人物の寿命が如何に残っていようと、 
読者が、如何に後の活躍を楽しみにしていようと、 
瞬殺になるケース多いので注意が必要w 


さて、面白いか。 
これは、 
三国志の小説としては、ひじょ〜〜に面白いです。 
まさに、宮城谷昌光にしか書けない三国志。 
オイラは大満足。 

ただし、評価の難しい所でして、 
「初めての三国志」小説としても、 
「初めての宮城谷作品」としても、 
この『三国志』はお勧めは致しかねます。 

理由は簡単。 
三国志における一通りの展開や、 
人物像を知った上で読んだ方が圧倒的に面白いから。 
もう一つ、 
普段の宮城谷昌光作品は、もうちょっと親切だよという事を 
先に知って欲しいからw 

そのどちらも当てはまらない状況だと、 
あるいは、途中で投げるんじゃないかな? 


宮城谷センセの小説にはいくつかの特徴がありまして、 

数多の資料を読み解き、検証を交えつつ独自の解釈から物語を創造する 
いわゆる「歴史小説」としての側面はもちろん、 
実在人物の言動から逆算を行い 
「ならば、こういった青年時代を送っていたに違いない」と過去に遡り、 
説得力のある人物構成を行う想像力。 
つまり、創作としての小説家の側面もあります。 

読者が心を躍らせるような冒険譚や、 
手に汗握る怒涛の展開で魅了する事ができるの作家です。 
それは、『重耳』や『楽毅』『奇貨居くべし』などを読めば一目瞭然。 

それが、今回の『三国志』ですと、 
そういう物語的な手法は極力抑えられ、 
敢えて、淡白な人物譚の連続という形に終始しております。 

新しい人物が登場するたびに、 
「この人は××出身で、○○で過ごし、△△な経歴を持ち、 
□□というエピソードがある事からも、極めて◎◎な人物であろう」 
みたいな語り口で、読者の好奇心を満たしてくれるわけです。 

これは、誰が登場しても同じ。 
一般に馴染みのない人物であろうと、 
三国志界の超メジャー人物であろうと、 
エピソードの大小はあれど扱いは同じ。 
ですから、小説として読むと 
かなり、面食らうスタイルだと思います。 

元々、そういった短編集にこそ、魅力的な作品が多い方なのですが、 
今回のソレは、長編小説の一要素で書かれている事なので、 
普段よりも、非常〜に淡白で短いんですよ。 
全ての人物を単体で物語が成立する程には、 
掘り下げてくれるわけではないので、 
どうしても単調で退屈になる時がある。 
まして、ストーリーから寄り道する形で挿入されますからね。 

とにかく、登場人物の多い作品ですから、 
ある程度は仕方がないのでしょうがね。 

テーマは一貫してます。 
「人」 
「生き様」ですよ。 
名臣/悪臣列伝と思っていただければ結構。 
主役は、皇帝でも時代でもなく、 
生まれては消え行く数々の人間なのです。 

それが、 
目に映る物を信じるしかない霊帝であったり、 
全てを捨て続ける男 劉備であったり、 
最後の使者としての董卓の必然であったり、 
時代の移り目の象徴としての袁紹であったり、 

それをあくまで読者の『三国志』という知識の上で、 
独自性で読ませるスタイルです。 
当たり前ですよね。 
"あの"宮城谷昌光が、わざわざ三国志を書くとなれば、 
こーなるのは必然です。 

ただ、オイラは 
それに付随する淡白さを著者のせいだとは思いません。 
つまり、こういった手法を取る上での 
三国志という素材の限界ではないだろうか? 
そもそもが誤り。 

例えば、楚漢戦争の時代を描くなら、 
「四面楚歌」という言葉一つをとっても、 
現代の日常用語として、未だに伝わっている程に、 
傑出した人物の生き様や、時代の象徴が有るのに対し、 
三国志は、その意味に限れば(誤解しないでね)、 
「大した時代ではない」と言わざるを得ないのではないだろか。 

まして、著者が最も得意とする 
諸子百家全盛の春秋時代、戦国時代であれば、 
それこそ、儒家であり、老家であり、法家であり……etc 
とにかく、峻烈に生き抜いた者勝ちの 
豪華絢爛なエピソードのオンパレード。 
そーなると、どーも『三国志』界におけるエピソードは、 
同じ土俵では、インパクトが薄いという一点に尽きると思う。 
孟子や殉子レベルの強烈さが何処にも見当たらない。 


事実、第一巻の冒頭に颯爽と現れる 
楊震の「四知」に纏わるエピソードに適うだけの衝撃が、 
その後、数千ページを読んだ上でも、 
まだ一つも出てきていない。 

ならば、 
本当にこのスタイルで書く題材だったのか? 
これがオイラの結論ですね〜 

だって、物語として素直にも 
宮城谷センセは書けますからねw 

これが始まる数年前に、 
北方謙三がブームを起こしたばっかりだったのも、 
少しは方針に影響したのかなーとか思ったりも。 


冒頭の繰り返し。 
あくまで、 
「こういう解釈で読む三国志も面白い」という 
三国志ファン。 
「宮城谷が三国志を書いたらこーなるんだな」という 
宮城谷ファン。 

この両面で楽しむ小説ではないでしょうか。 


他の小説を刊行しつつ、 
必ず年に一冊、ライフワークとして書いているようですので、 
全然、アリだと思います。 

誤解無きように言っときますが、 
普段の他作品は、 
全く白紙の状態から読んでも最高に楽しめます。

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