月下

 花がこの世界に留まると決めてから数週間が過ぎた。玄徳軍と仲謀軍の同盟は保たれており、強固なものとなったそれは、孟徳へのけん制となっているのだろう。孟徳軍は静かに息を潜めていた。機を狙っているかのような、もしくは兵力を蓄えているかのような不気味な沈黙に玄徳・仲謀軍内には緊張が走りつつあったが、それでも僅かな平穏に人々は喜んでいるようだった。
 花もむろん、その一人だった。

 空の色は暗く、雫をぽつりぽつりと垂らしたような満天の星空が広がっていた。花の住んでいた現代のように星の光を邪魔するものがないからか、星は競いあうように夜空を着飾っていた。その中心に、大きな月がぽっこりと浮かんでいる。星と月の灯りの下、花は廊下の手すりへ指を這わせてほうと息を吐いた。
 眠れないからと、静かに音を出さぬようにと外に出てきたが、正解だった。美しい星空を頭に焼き付けるように見つめる。足元をちらりと見ると、余りの星の輝きに影が出来ていた。

 時折吹く風は冷たい。吐き出す息は僅かに白く濁り、花の視界を時折不透明にした。手すりに乗せた手のひらがかじかんで、花は暖を取るように手のひらを擦り合わせた。

 ふと、軽い音が花の耳朶を突いた。誰かが歩いてくる音のように聞こえ、花は緩慢に視線を向けた。視線の先には曲がり角があり、音はそこから聞こえてくるようだった。
 誰だろう。ぼんやりとそんなことを考えて、花は角を注視する。そして満を持して現れた音の正体に、苦笑を浮かべた。

「仲謀」
「花。何やってるんだよ、こんなところで。時間も遅いっつーのに……、寝ろ」
「寝たかったんだけど、なんだか目が覚めて」
「ふうん」

 怒られるだろうかと発した言葉に、仲謀は僅かにしかめつらを浮かべながら花の傍へ寄ってきた。吐き出す息は僅かに白く、夜の遅さと冷たさを表していた。

「風邪引くぞ」
「仲謀こそ。私は大丈夫。外套もあるし……」

 仲謀から貰った外套の裾を引っ張りながら花は軽く微笑む。無理はしていないのだろうが、きっと寒いのだろう、鼻の頭が微かに赤らんでいるのを見つめ、仲謀は静かに眉をひそめた。

「俺様がこんな寒さだけで風邪をひくわけがないだろ」
「そうだよね。もふもふしてるし」
「もふ……」

 悪気は無いのだろう。笑顔で言い切られた言葉に対してか、仲謀は眉を僅かに動かす。怒っているようにも、そして何故か悲しんでいるようにも見える表情を浮かべるものの、それを一瞬で消し去り仲謀は花の横に並び、空を眺めた。

「今夜の月は大きいな」
「うん。お月見とか出来そうだよね」

 小さく漏らした言葉に頷き、花はそっと仲謀の横顔を眺め見る。すっと細められた青色を滲ませている瞳は、月を眺めているようにも見え、そしてその向こうにある何かを眺めているようにも見えた。
 金色の髪の毛は風が吹くたびにさらさらと踊り、星明りをきらきらと照り返す。引き締められた唇は、言葉を紡ぐことはなかった。どこが芸術品めいた仲謀の横顔を見つめていると、ふと花の視線に仲謀のそれが絡まってきた。優しい色が瞬時に仲謀の瞳を彩る。

「月見か。いいな。お前は月見、したことあるのか」
「あんまりしてないかな。仲謀は?」
「俺様も──」

 苦笑いに似た笑みを浮かべ、仲謀は頷き、それから素晴らしいことを思いついたとでも言うかのような輝かんばかりの笑みを浮かべた。

「月見、するか」
「えっ」
「玄徳との同盟も強固になったし、孟徳が直ぐに攻めてくるって感じでもねーし、月見開くのだって誰も文句言わないだろ。お前はしたいのか?」

 しっかりと返答を求めるように紡がれた言葉に、花は鼻白んだ。月見は確かに出来るならしたい。けれど、それが仲謀やひいては仲謀軍に対しての我が侭のように思え、花は言葉をつぐんだ。仲謀の真摯な視線を感じながら、花は困ったように間延びした声音を零す。
 それに対してだろうか、仲謀は僅かに笑い声を漏らした。

「……なんで笑うの」
「お前のことだからどうせ色々考えてんだろうなとか思ったら笑えた」
「な──っ」

 どこかからかうような口調の仲謀に、花は言い返そうと言葉を口内で膨らませるが、それは声にはならなかった。花を見つめる仲謀の視線が、余りにも穏やかだったからなのかもしれない。
 風船がしぼむように勢いを無くす言葉を喉の奥底へ沈めながら、花は軽く首を振った。

「困るよ。最近、仲謀どんどんかっこよくなってく」
「当然だろ。俺様なんだからな」
「…………」

 きっぱりと告げられた肯定の言葉に口をすぼめながら、花は手すりを掴む手のひらに小さく力を込めた。
 ──なんだか言い負かされているような気がする。前まではちょっとでも意に沿わない行動をすると、わあわあ怒ってきたのに。

 生意気な弟のような存在だと思っていた仲謀をちらりと見て、それから花は視線を空へ向ける。花がこの世界に残ると決め手からというもの、仲謀は見る間にどんどんかっこよくなっていく。容姿の端麗さもさることながら、それ以上に精神的にかっこよくなっていく仲謀を傍で眺めながら、花はなんとなく置いていかれるような一抹の不安を覚えた。顔を伏せる。

「……仲謀に置いていかれないように私も頑張らなくちゃって思うんだ」
「なんだよ急に。そんなこと思ってたのか。変な奴」

 呆れたような声音に、花はそっと表情に影をしのばせた。僅かな不安が水面に広がる波紋のように心を侵食する。自分でもよくわからない類の不安を抱えながら、花はこれではいけないと首を振った。

「変、かな。でも、私も頑張るよ。戦の無い世の中を作るために、することは沢山あるから」

 伏せていた顔を上げ仲謀を見ると、青色の眼差しを見つけるよりも早く大きな手のひらが視界に入った。花は驚き、その場から素早く身を引いた。仲謀。小さな声で、そして僅かな疑問を混ぜて花が言葉を口にすると、仲謀は決まり悪そうに手のひらを下ろした。その視線がうろうろと宙をさ迷う。

「な、なに? 仲謀」
「──べ、別に。その、お前が変なこと言うし、変な顔してるから」

 慰めようと思って。早口に紡がれた言葉が耳朶をふるふると突く。僅かに上ずり、そしていつもよりも大きな声量で紡がれた言葉は冷たい夜にしんと響く。

「慰めるって……」
「その、……あ、頭撫でてやろうと思ったんだよ! 悪いか!」

 怪訝そうに見つめる花の視線から逃れるように仲謀は顔を逸らすと、腕を組んで苛立たしげに言葉を紡ぐ。

「そ、それをお前が急に俺様の方を向くから……しかも逃げるとか、信じられねえ。ありえないだろ」
「頭って……」

 頭を撫でる、という行為はなんだか仲謀に似つかわしくなく思え、花は首を傾げる。この世界に来てからというもの、頭を撫でてくる存在は決まって玄徳だったからなのかもしれない。
 訝しげな色を表情に浮かべながら花は仲謀を見つめる。それに気付いたのだろう、仲謀は眉間にしわを寄せて不機嫌に言葉を言い放った。

「なんだよ」
「なんだか、仲謀に頭を撫でられるなんて思ってもみなくて」
「……なんでだよ。俺様が頭撫でようとするのはなんかおかしいのかよ」
「ううん。頭撫でるっていうと、なんだか玄徳さんが思い浮かんで……だからなのかも」

 初戦の夜、優しく頭を撫でられたのを思い出して花は僅かに微笑む。直後、花の頭に仲謀の手がのしかかってきた。強く頭を押さえつけられるような形で前のめりになった花の頭で、大きな手のひらが乱暴に動く。

「な、なにするの、仲謀」
「うるせえ! 俺様の前で他の男の話をするなんて良い度胸してるじゃねえか……」

 静かに怒りを孕んだような声音に花は面食らう。顔を上げられないようにと力をかけられた頭の上で、仲謀の手のひらは依然として乱暴な動作を続ける。

「お前はもっと危機感ってものを持て! いいか、玄徳さんだからとか甘っちょろいことを言うな!」
「ちゅ、仲謀、声が大きい……」

 花の制止の声も聞かず、仲謀は言葉を続ける。

「俺様以外の誰にも触らせるな、ふれるな、わかったか」
「意味がわからないよ……。仲謀、横暴すぎるよ」

 ようやく仲謀の手のひらが離れ、花は顔をあげた。不満げに表情を曇らせた花を、仲謀は瞳をすっと細めて見つめる。何かを探る様な視線に花の身体が硬直する。何かを言おうと開かれた唇は、けれど言葉を紡ぐことなく閉ざされる。
 二人の間に静かな沈黙が訪れた。僅かに風が木々を揺らし、木々の梢が囁くように葉を震わせる音が聞こえる以外、何も聞こえない。空に浮かぶ月はこうこうと二人を照らし、柔らかな影を作り出していた。

「……とにかく、お前は俺様だけを見てればいいんだよ」
「──仲謀」

 切々とした声音で紡がれた言葉に、花は視線を落とす。仲謀だけを見ていることは、今は叶わないことを花は知っていた。花が一番に、そして今見つめるべきものは、この国の平和だ。そのことを、仲謀はわかっているのだろう、失言してしまった、と言うかのように顔をしかめた。
 花が仲謀に私だけを見て、ということは出来ない。それは仲謀から花へも然りだろう。二人には共通の到着点があり、そこに到着するまでは二人で見詰め合っているわけにはいかない。

「月見」

 不意に静寂を切り裂くように、仲謀が言葉を発する。端的なものいいを補足するように、仲謀は言葉を続けた。

「月見するか。いや、するぞ。大小や尚香も喜ぶだろうしな。最近は色々気の重くなるようなことが続いたし、他のやつらだって喜ぶだろ」
「うん。しよう」
「そうときまれば、明日にでも準備しはじめるか」

 腕を組み、先ほどとは全く違う不遜な表情を浮かべ、仲謀は笑う。それに呼応するように花も頬を緩めた。

「でも、大丈夫かな」
「大丈夫だろ。玄徳軍の奴らも呼べるなら呼びたいが、多分無理だろうな。あいつらもあいつらでやることがあるだろうし……」

 何かを含むような言葉に、花は仲謀を見つめる。青い瞳は花を一身に見つめてきていた。何か、花に言葉を求めているようにも、切望しているかのようにも見える瞳に花は言葉を無くす。
 少しの時間が経ち、仲謀は、僅かに目を細め、からかうように言葉を口にした。

「だから玄徳さんが居ない、とか言うなよ」
「言わないよ。私は仲謀が居てくれるなら、それで良いよ」
「──お前なあ」

 呆れたような声音に、花はかすかに微笑んで返す。仲謀は僅かに面食らったような表情を浮かべ、その後ほんのりと頬を染めて、花と同じように嬉しそうに微笑んだ。
 二人はお互いの心を確かめ合うように、小さな声で笑いあった。

(終わり)

2010/4/3