秘めた心

 朝のしんと張り詰めた空気を切り裂くように、槍が踊る。槍の刃が朝の曖昧な光を反射して鈍く光りながら、びゅんびゅんと風を切った。計算されつくした動きは舞踊のように軽やかで、どこか力強さを持っていた。動き続ける刃の残像が見えるかのような素早さで攻撃を繰り出し、槍を持つ人物──子龍は槍の先を鋭く見つめる。
 敵がいることを想定しているかのような動きは無駄が無い。細まった瞳が、刃から離れ前を見つめる。強い視線は、刃の切っ先を突きつけるかのように威圧感を持って空を見つめていた。空気を切る音が朝焼けの空に響き、──そして突如として途切れる。

「ぐ──」

 低くうなるような声音が、子龍の唇から漏れる。武人らしい僅かに焼けた肌の色が、今や真っ白になっていた。踊っていた槍は動きを止め、ただ静かに子龍の手のひらから垂れ下がっている。刃は地面をこすり、音を立てる。その振動に痛みが増幅し、子龍は手のひらから槍を落としそうになった。すぐに手のひらへ力を込め、槍が地面へと落ちるのをくいとめる。不意に力を込めたせいだろうか、左腕に激痛が走り、その痛みに子龍の眉間に皴が寄る。丹精な表情が、今や苦悶の色に染まっていた。

「……く……」

 痛みは断続的に子龍の身体を苛む。無意識に左肩に右手を沿え、子龍はその場にずるずると崩れ落ちそうになる身体を必死で持ちこたえようと努力をした。

 静かな朝だ。そこら中に設置された天蓋からは、出てくる人物など一人も居ない。朝もやが薄くかかる時間に、起きて来ていたのは子龍ただ一人だった。誰も居ない、誰も起きていない。そんな時間に、子龍は槍の鍛錬を、いつだって一人で行っていた。子龍がそんな朝早くから鍛錬していることを知っている人は玄徳等少数の武将を除いては、全くといっていいほど居ない。
 荊州の城に居たときも、子龍は朝早くから鍛錬を行っていた。自身が玄徳軍の中では一番未熟者だと知っており、その上身長も低いものだから、そこを補うためにも、と鍛錬の時間は誰よりも長かった。適度な疲労感を得られるまでは、ずっと、子龍は休む間も無く鍛錬をした。

 荒い呼吸を整えながら、子龍は槍の先を見つめる。朝もやに濡れた刃の先に、空の青が美しくうつっていた。瞳を細め、それを見つめる。何の感慨も浮かないままに、何故かそれを呆然と見つめ、それから力が抜けたかのように子龍はその場に片膝をついた。朝の地面は冷たく、子龍の衣服から熱を奪う。

 鍛錬を、しなければいけない。膝を叱咤するように、子龍は自身の腿を軽く叩いた。鍛錬をしなければ、守れない──。
 子龍の脳裏に花の顔が浮かぶ。僅かに困ったような表情を浮かべたそれを思い返した瞬間、子龍は胸を何か鋭いものでつつかれたような痛みを覚えた。


 ──困ると言われた。花の言葉を思い返し、子龍は微かに自嘲する。彼女は私に守られたくないのだと言っていたのに、私は何をやっているのだろうか。
 怪我をした日の夜、子龍はいつものように鍛錬をしようと、見つからないように森の奥へと歩を進めていった。誰もついてきていないと思っていた。普段ならば、誰かが自分をつけてきていることなど、わかっていたはずだったのに──、子龍は顔をしかめる。
 あの日は疲れがたまっていたのだろう、花の存在に気付かなかった。もし、あの時、子龍をつけていたのが花ではなく敵であったならば、子龍は今ここに居ないだろう。身体の痛みに、精神が擦り切れていたからなのかもしれない。痛みを押してまで槍の鍛錬をしていたところを花に見つかってしまった。
 後方に回れ、という言葉が花の口から飛び出したとき、子龍は言いようのない感情が胸の内にわだかまるのを感じた。言葉が胸中の中で溢れ、だというのに言葉にならない。吐き出そうとした言葉が全て喉の奥にはりついたかのようだった。喉が渇いて、仕方が無かった。

 言葉を言われた瞬間、目を逸らし、それから何をしているのだと花ともう一度視線を合わせた。花の視線には強い感情が揺れており、その瞳を見ていると何故か子龍の心も揺れた。そして、その動揺を押し隠すことも出来ずに口を開いてしまった。迷惑なのですか、と問うべきではなかったのだ。そうしたら、彼女の口からあんな残酷な言葉を聞かなくてもすんだというのに。

 子龍の脳裏を言葉が回る。花から貰った沢山の言葉たちだ。彼女の口にしたことを、争いなくして平和を実現すると言う言葉をしっかりと実践しようとする花に、自身も力を貸したかった。いや、彼女を助けたかった。一人で色々なことをしようとする花を、守りたかったのだ。

「迷惑……か……」

 ぽつりと呟いた言葉は子龍の胸に深く突き刺さる。身体の痛みよりも、花から突きつけられた言葉の方が何倍もの痛みをもって子龍の心に深く傷をつけていた。心が軋む。花を守りたいと思った信念が、花の傍に居たいと思った感情が、重みを持って子龍の心へ圧し掛かっていた。

 自分は後方に回されてしまったが、きっと花は前線へ行ってしまうのだろう。花はそういう人だと子龍は確信していた。そうすれば、誰が彼女を守るというのだろうか。花を守ることを誰かに任せるなどと、子龍には到底思いつかなかった。

 私が守りたい。けれど花殿は迷惑だと言う。けれど、守りたい。彼女を守るのは自分だけでありたい──。
 子どもじみた感情が子龍の胸中にわだかまる。脳裏には花の姿ばかりが思い浮かぶ。子龍とは全く違う華奢な体躯だ。きっと、敵兵に襲われたらひとたまりもない。抵抗のすべを、彼女は持っていないのだ。嫌な想像が頭を巡り、子龍は咄嗟に頭を振った。よくわからない感情や言葉、想像ばかりが子龍の胸中に浮かんでくる。子龍はその感情たちを持て余すことしか出来なかった。

 力の抜けた足をもう一度叱咤し、子龍は立ち上がる。僅かに髪の毛が湿り気を帯びていた。朝の湿気を、吸ってしまったのかもしれない。頬に軽く張り付いた髪の毛を手で払い、子龍は槍を構える。瞳は強い感情を秘め、静かに空を見つめていた。守るためには、強くならなければ、ならない──。浅く息を吸うと、朝の張り詰めた空気が肺腑に染み渡る。腰を低く下ろした途端、子龍の背中によく聞く声が響いてきた。

「おーい、子龍、何をやっているんだ」
「あなたは……」

 低くした腰を上げ、振り返り、子龍は声をかけてきた人物を見る。その人物は、子龍が仕官してきてからの顔なじみでもある、玄徳軍の武将の一人だった。男は愛想の良い笑みを浮かべて、だが僅かに心配そうな色で表情をかげらせながら、子龍の傍に寄ってきた。背の高い男を見上げるような形になりながら、子龍は男と視線を合わせる。自分以外にも朝早くに起きてくる人物が居るなんて、と僅かに驚きながら、子龍は会釈をした。

「おはようございます」
「ああ。おはよう。で、何やっているんだよ。子龍、お前肩を怪我して──」
「はい。ですが、心配には及びません。大丈夫です」

 子龍が仕官してから、何かとよく突っかかってくる男だった。言うなれば家族のように親身に子龍のことを心配してくれる男であり、花と一緒に居るところを、何故かよくこの男にからかわれた。子龍は男との僅かな記憶を手繰りつつ、はっきりと言葉を紡ぐ。男が、大丈夫なわけないだろう、と呆れたように言うのが聞こえた。

「軍師殿にも後ろに下がって支援しろと言われていただろう。お前がすることは朝早くから鍛錬するよりも、傷を少しでも早く治し、後方の支援に努めることではないのか?」
「……、ですが、私はもう大丈夫です」

 伏目がちに言葉をしっかりと呟く。子龍は男と目を合わせず、そのまま槍の持ち手に力を込めた。男に背中を向け、槍を構えようとした動作を、男の手が止める。子龍の右肩を男が掴んだのだ。

「おい、止めろ、子龍。軍師殿の言うことが聞けないのか」
「……花殿は、私に訓練するな、とは言われませんでしたが」

 子龍は男を鋭く睨み、それから槍を構えようと腰を低く下ろした。てこでも動かない、といった様子の子龍の表情に、男は軽く苦笑をする。男が腰につけた鞘が、僅かに音を立てて揺れた。

「自分の身体のことは自分がよくわかっているんじゃないのか、子龍。今のお前は弱い。そこらへんの新兵と戦っても負けるだろう」
「…………」

 男の言葉に、子龍は丹精な表情に不機嫌な感情をあらわにする。確かにその通りかもしれない。子龍の動作は今やのろのろとしたものであり、普段の素早い攻撃をすることができない。きっと新兵と戦っても、槍の太刀筋を見極められ、全て受け流されるだろう。肩に走る激痛で、少しでも動作が止まってしまったら、その時が子龍の最期になるのかもしれない。
 それでも、と頭の中を声にならない言葉が回る。それでも、鍛錬をしなければならない。──鍛錬を、したい、のだ。そうでなければ。続く言葉は、言葉にならずに水泡のようにはじける。

 男が観念したかのようにため息を漏らす音が、子龍の鼓膜を揺らした。視線を向けると、真摯な瞳と視線が合う。黒い瞳だった。花の持つ瞳の色とは全く違うというのに、その瞳に花の瞳が重なった。男の瞳に浮かぶ感情が、森で鍛錬していたときに、子龍を止めた花の瞳に浮かんだそれと、酷似していたからなのかもしれない。

「子龍、俺とちょっと手合わせをしないか」
「あなたと、ですか」
「ああ。子龍が俺に勝てば、軍師殿に掛け合って子龍を前線に置くようにと進言してみようじゃないか。どうだ?」
「…………」

 子龍にとって思いもがけない言葉だった。真意を測るかのように子龍は男を鋭く見つめる。僅かな間を置き、子龍は浅く息を吸った。

「……受けて立ちます。ここでは目立ちますから、森の方へ行きましょう」
「いや。ここで良いだろう。直ぐ終わる」

 軽い調子で紡がれた言葉に、子龍は若干の苛立ちを覚える。だがそれを表情に出すことなく、自身の槍を構えた。相手の男が、腰につけていた刃を抜く。手合わせ、と言うには物騒なまでの剣呑な雰囲気が二人の間に流れていた。

「それでは、よろしくお願いいたします」
「ああ」

 男の言葉が口から出ると同時に、子龍は男へ向かって突進する。間合いに入ったところですぐに槍の切っ先を振り払うように動かした。男が剣で子龍の槍を受け止める。硬質な音が響き、二人の得物の刃がかち合って、はじかれた。子龍は素早く槍を構え直し、相手の男へ向かって攻撃を繰り返した。横なぎをし、返し刃で斜めに槍を振るう。空気を切り裂くような音が響き、刃がぶつかる高い音が響いた。相手に息をつく暇さえ与えない猛攻は、子龍の得意分野である。一撃一撃は軽いが、それでも何十、何百と打ちつけられては相手の体力は消耗していく。その上素早く繰り出される槍の太刀筋が読めず、受け流すことも難しい。

 だが、男は子龍の攻撃を難なく剣の刃で受け止めて見せる。耳に痛い音ばかりが朝もやに煙る空に響き、子龍の焦りは太刀が受け止められるごとに増加していく。
 このまま攻撃が続けば──。肩は既に鈍痛を訴えており、早めに決着をつけなければならないのは明らかだった。

 勝たなければいけない。勝てば、花殿にも自身の傷は心配するまでのことではないと理解してもらえる。そうすれば、以前のように守ることが出来る。
 守りたい。──私が。

 瞬間、子龍の肩を激痛が襲う。僅かに手のひらから力が抜けた。その瞬間を狙っていたのだろうか、男の顔に意地の悪い笑みが浮かび、次の瞬間、子龍の槍は空へと飛び去っていた。男の剣が、子龍の喉にひたりとつけられる。

「俺の勝ちだな」
「…………」

 子龍は身動きできず、男の顔を見つめる。呼吸は荒れ、肩に響く痛みに僅かに額が汗ばんだ。槍は遠くへ投げ飛ばされ、手に取ってもう一度反撃を試みることが出来る距離にはなかった。

「わかっただろう。今のお前は弱い。軍師殿のことは俺や他の者に任せ、お前は後方に居ろ。指揮官は今やお前ではない、俺だ。命令なのだから、聞けるな?」

 返答を待たずして、男は子龍に背を向けた。その背中を、子龍は呆然と見つめる。鞘へしまわれる刃の鈍い光が、子龍の目をさす。

 男は強かった。信頼できる腕を持っているだろう。男になら、花のことも任せられるだろう。男はきっと、花のことをしっかりと守ってくれる。少なくとも、いつもの力が出せない自分よりは。
 理解していた。けれど、と子龍はその場に膝をついた。荒かった呼吸は整えられ、今や正常に戻っている。肩の痛みも、鈍いものへと変わっていた。

「──任せられるものか……っ」

 血を吐くように言葉を紡ぎ、子龍は拳を握る。強い感情の氾濫が心の中で起こり、美しい顔立ちが歪む。握った拳が震えた。
 花殿を守りたい。玄徳様に命じられたからではない、私が、私の意志で花殿を守りたい。他の誰にも任せることなど出来ない。子龍の喉に声にならない言葉がはりつく。

「私は彼女を守りたい──」

 やっとのことで吐き出された言葉は、子龍の心を表すかのように強く、しっかりとしたものだった。子龍はその場から、顔を上げて花の眠る天蓋を見すえる。
 あの天蓋に彼女は眠っている。おそらく、安らかに寝ているだろう。どこでも眠れるのだと、前に花が誰かと話しているのを聞いたことがあった。花を、明日も、そして明後日も、安らかに眠っていられるようにしたい。明日の憂いも無く、痛みに苦しみうなされることもないように、守りたい。どれよりも何よりも、子龍の心を占める感情はそれだけだった。

「花殿の傍に、居たい」

 子龍の視線が、すっと花の天蓋から遠ざかり、投げ飛ばされた自身の槍へと向かう。子龍はその場に立ち上がり、そのまま自身の槍のもとへ歩を進めた。手に持つと、どっしりとした武器の重みが手のひらに伝わってくる。

 決意を秘めたような瞳が、まっすぐに槍を見つめていた。

(終わり)

2010/4/10