信頼、信用


「孟徳さんって、どこに居るんでしょうか」

 花は僅かに首をかしげ、薄い茶色の瞳をしばたかせながら、自身の目の前に居る人物を見つめる。真摯な瞳でじっと見つめられ、花の目の前に立つ人物は困ったように視線をさ迷わせた後、呆れたようなため息と共に言葉を吐き出した。

「何故俺に訊く」
「元譲さんなら知っているかな、と思って……」

 悪びれもせずに紡がれる言葉に、花の前に立つ人物──元譲は頭を振った。孟徳の居場所など知るはずもない。政務室に居るのでなければ、そこらへんをふらふらとしているのではないだろうか。心の中で言葉をめぐらせ、どれを言うこともなく、元譲は空へ視線を滑らせる。空の青は今やすっかり朱色に侵されている。ゆっくりと地面へ歩を進める太陽の作る影は長く、回廊に立つ元譲と花の影が細く伸びて重なっていた。太陽を背にするようにして立つ花の表情は僅かに暗い。華奢な肩、そこから伸びる体は柔らかな線を描いている。きっと孟徳に会いに行こうと執務室まで向かい、孟徳が居ないことに気付いて探しまわって今に至るのだろう。僅かに荒れた息遣いが元譲の耳を突く。
 知らん、と一喝してここから逃げ去ろうとも考えるが、それは直ぐに出来ないことなのだと元譲は悟った。──己の服をしっかりと掴む花の手のひらをむげに振り払うことは、元譲には出来ない。

 元譲は不安げに表情を曇らせる花を見つめ、それから極力優しい声で言葉を零した。

「あいつのことだ、自室で執務をしていないのであればどこかへ遊びに行っているのだろう」

 元譲の必死に紡ぎだした言葉に、花の表情は晴れない。伏し目がちになった瞳は可憐さをたたえており、市井に居る女と同じようで、全く同じではない。彼女の瞳はへりくだることを知らない瞳だと、孟徳が嬉しそうに言っていたのを思い出しながら、元譲はため息と共に言葉を吐き出した。

「あー、へらへらしながらきっとお前のところに戻ってくるだろうから、そんなに心配しなくてもいいと思うが」
「そうでしょうか」
「そうだ。もしも」

 元譲は言葉を切り、詰めていた息を吐く。花の前だと緊張してしまうのは、変なことをして泣かせでもしたら孟徳からどのような仕返しがくるか、それが不安で仕方が無いからなのだろうか。そのようなことをぼんやりと頭の隅で考えながら、元譲は僅かに頬を緩め、言葉を紡ぐ。

「密偵などに襲われたとして、あいつは無事に帰ってくる男だ。信頼してやれ」
「密偵、ですか」

 夕日に染められた頬が、さっと青くなるのが見え、元譲は自身の言葉の選択に間違いがあったことを悟った。失礼する、と言ってその場をすぐに去ることが出来たならどれだけ良かったのだろうかと、自身の服を掴む手のひらを恨めしげに見つめる。
 きっと花は追求してくるだろう。そういった危険に孟徳が晒されているのか、どうなのか。訊かれれば、はぐらかすことは可能だが、聡い娘だからきっと直ぐに元譲の嘘に気付くだろう。そうして孟徳自身へ訊きに行くのかもしれない。そうなると、孟徳は元譲に追求しにくるだろう。おどろおどろしい雰囲気の笑みを浮かべながら。その様子が安易に想像出来て元譲は頬をひきつらせた。

 花の指先に力が込められるのがわかった。強い視線で見据えられる。

「密偵って、そういう人に孟徳さんが襲われる可能性があるってことですか」
「……」

 元譲は頭を素早く動かす。なんと答えるのが最良なのかと、色々と考えるが答えは見つからない。答えあぐね視線をさまよわせているうちに、花の表情がくもっていく。

「……帝位は良い方向へ考えるって言っていたのに、どうして」
「──あいつはよくわからない男だから、な」

 孟徳の言葉は曖昧だ。嘘をついていないにしても、色々な方向に感じ取ることの出来る言葉を紡ぐ。孟徳の言葉は、薄い膜で一枚、二枚と何十にも覆い隠しているかのようなのだ。嘘のように聞こえる本当の言葉を信じられる人間は居ないのだろう。もう誰も信じないと言っていたくせに、気に入った人間に対しては自身から本当の言葉しか漏らさず、信じてもらおうと心の奥底であがいているようにも見える行動を取る。元譲は小さく息を吐き、花をしっかりと見つめた。眼光は、花を射るように鋭い。

「言葉を交わすと他人は不安になる。お前も、不安になったことがあるだろう。あいつはそういう男だ。のらくらしていて、つかみどころがない」

 不意に、衣擦れの音が元譲の耳を叩いた。後方から聞こえたそれは、気配をおしかくすかのように静かに空気へ溶ける。きっと花の耳には届いていなかっただろう。
 元譲はちらりと音が聞こえた場所へ視線をやる。後方、曲がり角のようになった場所をそっと見つめ、それから直ぐに花へ視線を向けた。花の表情を暗い。眉毛が八の字のように垂れ下がっており、なんだか泣きそうにも見えた。

「お、おい──」

 泣くな、という言葉は喉の奥にへばりつき、言葉にはならなかった。元譲はどうすることも出来ずに花を見つめ、小さく咳払いを零した。

「そ、その、だが、孟徳はだな、嘘をつかない」
「知っています」

 知っているんです。続くように紡がれた言葉はか細く、元譲は焦燥を覚えた。どうしようもない感情がぐるぐると頭を回り、言葉は形にならない。何をすることも出来ず、元譲はただ花を見つめた。伏せられたまつ毛が僅かに湿っていて、夕日を浴びて僅かに輝いている。まなじりが赤いのは、泣くのを堪えているのだろうか。

「全く嘘のない言葉というのは、時に嘘のように聞こえる──、だろう」
「……はい」
「孟徳はお前を信頼している。信用ではない。お前も孟徳を信頼しているのだろう。孟徳にとっては、密偵が送られようが何されようが、それで十分なんじゃないかと俺は思うが」
「元譲さんは?」

 不意に紡がれた言葉に、元譲は息を止める。何を言っているのだろうか、と困惑に満ちた視線を投げかけると、真摯な感情を秘めた瞳と視線が合う。
 花の、桜色の唇が開き、言葉を零す。

「元譲さんは……」

 自身でも訊きたいことが固まっていないのだろう。しどろもどろに紡がれた言葉は小さく、頼りない。頭の中で色々と考えているのだろうか、言葉に詰まった花は、元譲から視線を逸らし地面へと瞳を下ろした。

「俺は孟徳の傍に、昔から居るからな」

 言外に色々な感情を秘めた言葉を、優しい声音で呟くように言う。花がぱっと視線を上げ、それから蕾が綻ぶような笑みを浮かべた。柔らかな笑みだ。どこか孟徳の笑みと通じるところがあるように思える。似たもの同士なのだろうか、と元譲は花を見つめた。

「そうですよね。すみません、変なことを訊いて」
「いや。それより、孟徳は良いのか? 俺では役に立たなくてすまんな」
「いえ、あの、ありがとうございます。元譲さん」

 花の晴れやかな笑顔を目に、元譲はつられるように頬を持ち上げた。花は笑顔をそのままに、一度会釈をすると朗らかに言葉を発する。

「もう少し、探してきます」
「ああ。俺も孟徳を見つけたら、お前が探していたと言っておく」
「ありがとうございます」

 純粋な気持ちでのみ紡がれた感謝の言葉に、元譲は胸の奥底を柔らかなものでくすぐられるような感情を覚えた。わいてきた喜びを、唇の端にのみ乗せる。花はもう一度会釈をすると、元譲に背を向けて回廊を走り去ってしまった。花の小さな背中が消えるまでを見送り、それから元譲はすぐさま踵を返し、先ほど音が聞こえた回廊の曲がり角へと足を進めた。
 角を曲がった、途端、赤色が目に入り元譲は顔をしかめた。

「孟徳。どうして出てこなかったんだ」
「ばれてたか。しょうがないだろ、出れなかったんだ」

 悪びれた様子を見せず、微かに笑みを零して言葉を紡ぐ男、──孟徳に元譲は盛大なため息を零す。

「ばれているに決まっている。むしろ花が気付かなかったほうが不思議だ」
「花ちゃんは普通の女の子だからね」

 花が向かっていった方向を目を細めるようにして見つめ、孟徳はゆるく微笑む。いつくしむような笑顔に、元譲はため息を押し殺した。

「……花がお前を探していたぞ」
「知ってる。ちょっと逃げてみたんだ」

 朗らかに紡がれた言葉に、元譲は呆れたような表情を浮かべた。逃げてみたとはどういうことなのだと、孟徳の言葉を噛み砕いて理解しようと試みるが、答えを導き出すことは出来なかった。何故逃げるのか。疑問の感情が表情に出ていたのだろうか、孟徳はすっと視線を横へ逸らし、言葉を紡ぐ。

「俺にもよくわからない。ただ、彼女に追いかけられてみたいなあ、と思ってさ」
「意味がわからんぞ、孟徳」
「俺にもよくわからないんだって」

 横へ逸れた視線が、元譲をしっかりと見つめる。困ったような表情を浮かべた孟徳の言葉に、嘘はないようだ。人を見透かす、けれど優しげな瞳が細くなるのが見える。孟徳は腕を組み、困ったように、そしてどこか苛立たしげに言葉を紡ぐ。

「彼女と居ると自分でもなんだか突飛な行動をしたくなる」
「耄碌するにはまだ早いぞ」
「わかっているさ。けれど自分でも止められそうにない」

 孟徳の表情は僅かな苦渋に彩られている。ただ、その表情の片隅に、僅かな幸せを見つけ出し、元譲は目を見張った。困っているような、けれどそれと同様に何故か嬉しそうな感情を言葉に乗せ孟徳は言葉を口ずさむ。

「大切にしたいし、優しくもしたい。けれど、時折意地悪もしたくなる」
「……そんなことを俺に言われても困る。花に言え」
「言えるわけないだろ。それこそ意地悪したいなんて言ったら逃げられてしまうだろうが。馬鹿か?」
「あいつは逃げないと思うがな」

 ぽつりと呟いた言葉は孟徳にも聞こえていたようだった。孟徳はにわかに表情をゆがめ、元譲を睨むように見つめる。

「なんだか花ちゃんとすごく仲良いみたいだな、元譲」

 つらつらと述べられた言葉は、低く冷たい温度を持っていた。まるで罪人を尋問するかのような鋭い視線と声が、元譲を射すくめる。強い視線に呆れたような表情を浮かべ、元譲は息を吐く。

「相談されるだけだ」
「俺はあまり相談されない。これはおかしいんじゃないか? なんで強面の元譲が俺よりも相談されるんだ」
「……さあな」

 ぶつぶつと尚も言い募ろうとする孟徳から視線を逸らし、元譲は回廊の先を見つめる。山にかかった太陽は燃えており、目をやくように赤い。それを目を細めて、視界に焼き付けるように見つめながら元譲は花のことを思い返した。

 花から元譲はよく相談されるが、それは大概孟徳に関することばかりだ。それをこの男は知っているのだろうか、と元譲は孟徳をちらりと横目で見つめる。もしも知っていてこのような質問をするのであれば、のろけたいのだろうか。げんなりとしてしまう。元譲は肩を落とし、それから言葉を紡ぐ。

「そんなに気になるなら花に直接訊けば良いだろう」
「はあ? 出来るわけないだろ!」

 強く紡がれた言葉に元譲は息巻く。何を言えば良いのか、何を言えば孟徳が満足するのか、元譲には全く理解出来なかった。長い付き合いを経ているが、それでも俺にはまだ孟徳のわからないところが多いのかもしれない、と元譲は心中ごちる。
 何を言うでもなく元譲はその場に立ち、孟徳から繰り出される言葉を無心に聞くしかなかった。大半が愚痴で構成された、ねちねちと元譲の精神をいたぶるような言葉を聞き流しながら、元譲は孟徳の顔を見る。孟徳はどこか拗ねたような表情を浮かべていた。

「……花ちゃんに頼って欲しいんだけどなあ」

 愚痴の合間、ぽつりとはじき出された言葉に元譲は苦笑を零した。珍しく弱気な幼馴染を気遣うように、言葉を発する。

「あいつはお前のことを頼っているさ。誰よりもな。信じているんだろう」
「……信じたいさ。信じて、いたい」
「ならそれで良いじゃないか。あいつだってお前のことを信じている」

 いつになく悲痛な声音に、元譲はなだめるような言葉を零す。孟徳がうろんげに元譲を見つめ、それから嬉しそうにぱっと笑みを浮かべた。ただ、そこに潜む悲しみを見つけてしまい、元譲は視線を落とす。

 信じて欲しい。信じていたい。けれど信じていたくない。信じて裏切られるのはごめんだ。だから──試す、のだろうか。元譲は胸中で言葉を零し、孟徳の心中を慮る。

「信じているんだ。けれど怖くなるし、苛立つ。これは一体なんなんだろうな、元譲」

 孟徳が肩をすくめ、どこかを見据えるように瞳を細めた。苛立ちをどこかに発散しようとしているのだろうか、沓の先で地面を軽く叩き、腕を組む姿はどこか子どもが拗ねているようにも見える。だが、その苛立ちは刺々しいものではなく、どこか柔らかいものに似ていた。苛立っている、けれどそれを心地よくも感じているかのように見え、元譲はまじまじと孟徳を見つめた。それに気付いた孟徳が眉をひそめる。

「……なんだ、元譲」
「いや。なんでもない」

 孟徳の瞳が、すっと逸れた。なんでもないことはないだろう、と言いたげに唇が開き、そして閉ざされる。嘘がばれたのだろう。孟徳は逸らした瞳をもう一度元譲へ向けると、意地悪く笑みを浮かべた。

「まあいい。どうせ元譲に訊いてもろくな答えなんて返ってこないと思っていたしな」
「……なら訊くな」
「万が一にも気の利いた答えが返ってくるかも、と期待してたんだよ」

 期待を裏切ってすまん、などと言えるわけもなく元譲は孟徳から視線を逸らした。夕日の光が目に染みる。燃えるような火を、間近で見せ付けられているような気分になり、元譲は目を細めた。孟徳が微かに笑う気配を感じ、けれど孟徳へ視線を向けることはせずに元譲は口を開く。

「花を探しに行ってはどうだ」
「花ちゃんが探しているのに俺まで探しまわったらすれ違うかもしれないだろ。俺はここで花ちゃんを待つことにする」

 優しげな声音で紡がれた言葉に、元譲は思わず視線を孟徳へ向ける。孟徳の顔には笑みが浮かんでいた。とろけそうなほどに頬を緩ませ、にやにやと──少なくとも元譲にはそう笑っているように見える笑みで表情を彩っている。沓の先で地面をこつこつと苛立ち紛れに叩いていたときに浮かべていた表情とはまるで違う。子どもが浮かべる、外聞を気にしない笑みと似ていた。

「……執務はちゃんとしろよ。俺は戻る」
「はいはい」

 言うなり、孟徳は手をひらひらと振る。さっさとどこかへ行け、とでも言うようだと元譲は呆れたような笑みを浮かべたが、何を言うこともせずに踵を返した。少し歩いたところで、背中を孟徳の言葉が叩いた。

「花ちゃんに会ったら、ここに居る、って言っておいてくれ」
「わかっている」

 ひらひらと手を振り、そのまま足を緩めずにその場を去る。自分の室へ戻るためにと進めていく道筋の途中、花の姿は見なかった。
 きっと自力で見つけだしたのだろう、花はそういうヤツだ──。浮かんだ考えがすんなりと心の淵へ落ちていく。元譲は僅かな暖かい感情を胸へ水泡のように浮かんでくるのを感じ、僅かに頬を緩めた。

(終わり)
2010/5/8