君の星 星々の瞬く空が広がっていた。肌にまとわりつく空気は柔らかく、寒くもなければ暖かくもない、不思議に心地の良いものだった。眼下には城の壁が広がり、そのずっと先には草原が広がっている。草原と星空が交わるところまで視線を向け、それから孔明はひときわ大きく輝く星へ目を向けた。 ひときわ大きく輝く星、それは玄徳の星ではない。孟徳の星だ。天下に一番近いところにある彼の星は見るものを惹き付けるような明るさを持って天に輝いている。孔明は睨むようにその星を見つめた。 玄徳の星とは全く対照的な輝きを持つ星だ。孟徳の星が夜空にうるさく輝いているようなものだとしたら、玄徳の星は力強く、その場で必死に輝いているようなものに感じられる。その場その場で素晴らしい輝きを見せる孟徳、忍耐強く、だが力強い光を持つ玄徳、どちらが天下を取るのか。仲謀のことも考えなくてはならない。星を辿り、星を見つめ、星を詠みながら孔明は視線を目映い空へ滑らせる。その瞳が玄徳の傍に、小さく控えめに輝く星を捕らえる──。 瞬間、不意に孔明の集中が途切れた。音を無くしていた耳に音が舞い戻り、生ぬるい風が頬を濡らすのを感じ、孔明は小さく息を吐く。 音がした。声がした。孔明は見張り台から身体を乗り出し、音の主を探す。その人は、すぐに見つかった。 孔明の胸の奥で、何かが柔らかな明かりを灯す。僅かに緩む頬をそのままに、孔明は身を乗り出したままゆるく手を振った。気付くだろうか。誰かを探しているのだろう、声の主はその場できょろきょろと周りを見渡しながら控えめに名前を呼ぶ。 「師匠──」 僅かに不安そうに紡がれた言葉に、孔明はそっと柳眉を垂らした。花。小さな声音で孔明が呟く。きっと聞こえないだろうと、甘い感情を乗せて紡いだ言葉だった。それが風に乗って届いたのだろうか、それとも静かすぎる夜だったから響いたのだろうか──花の視線が上がり、孔明のそれと交わる。驚いたように瞳を見開く花の様子がおかしくて、孔明はますます笑みを深めた。手をひらひらと振りながら、からかうように言葉を紡ぐ。 「どうしたのさ。こんなところで何をしているんだい」 「師匠……、師匠こそ。何をしているんですか」 疑問を伴った声音で、やはり密やかに言葉が紡がれ、孔明は軽く笑う。初めて姿を現し、話したときのことを思い返しながら、孔明は猫のような笑みを浮かべて軽い口調で言葉の穂を継いだ。 「質問に質問で返さないでください」 花が一瞬、息を呑むように黙りこむ。孔明は、憤慨するかのように見える表情を浮かべながら唇を突き出して拗ねる花の姿を見つめた。孔明からは花の表情がよく見える。だが、きっと花からは孔明の表情は逆光によって余り見えていないだろう。それに感謝をしながら、孔明は軽く笑った。きっと、こんなにだらしない笑みを浮かべてばかりいる姿を見せたら、失望されてしまうだろう。 「──なんてね。星を見ていたんだ。読む、というべきかな。これからのこととか、色々考えなくちゃならないこととかあるからさ」 「星を、ですか」 「うん。でももう良いや。ねえ、花も登っておいで。君と、ちょっと話したいことがあるんだ」 「私と……」 頷く。孔明は指先で見張り台に続くはしごを指差した。 「そこのはしごを登っておいで。間違っても、滑って落ちちゃった、なんてことにならないよう、気をつけてね」 「師匠……」 拗ねたような声音が孔明の耳朶をつく。柔らかな声音は孔明の鼓膜を揺らして、そっと空気へと溶けていく。それにどうしてか心地の良さを感じながら、孔明は花が登ってくるのを待った。 生暖かい空気を循環させるように羽扇で自身を軽く扇いでいると、花が登ってきた。見張り台はそこまで大きくはない。花と孔明が居るだけで窮屈になってしまうそれに呼んだのは過ちだったのかもしれないと、孔明は苦いものを表情へ滲ませた。 こんなに近くにいられては、困る──。自身の中にゆらゆらと浮かぶ恋情を抑えこみながら、孔明はいつものように柔らかな笑みを浮かべた。 「星が綺麗ですね」 「君、同じことばかりを言うね。前にも言ったことを言うなんて、おバカさんなのかな」 「師匠は酷いです……」 むくれた声音が孔明の鼓膜を震わせる。孔明は答える代わりに気付かれないように花へ手を伸ばし──だが逡巡して手を下ろす。変わりに羽扇を持った手のひらで、星空をさした。 「星は天命。星は人の巡り──命だ。人には星が一つ一つ分け与えられている。人が死ねば星も消える。だから綺麗なのかもね、って前に言ったことを覚えている?」 「覚えてます」 「そう。なら良かった。それまで忘れられていたら、師匠として弟子を育て間違えたのかなあと思うことになるところだったよ」 微かに頬を持ち上げて、孔明は羽扇を下ろす。花が小さな声で育てられてませんし、と言うのが風にのって孔明の耳朶を濡らした。 ──そうだね、君はいつだって一人で成長してきた。 胸中で呟いた言葉は、思ったよりも僅かな重みを持って孔明の心にのしかかる。視線を伏せ、眼下に広がる城の壁を見つめる。夜闇の黒に侵されたそれは、普段とは違う印象を孔明に与える。そっと地の果てへ視線を注ぐ。孔明は小さく息を吐きながら、意味もなく視線をさ迷わせていた。ふと、その視線が花へ向かう。 花の視線は空高くへ向けられていた。星明りのもとに照らされる彼女の姿は、孔明のようであり、孔明のようではない。 細く呼吸する音が、風の吹く音に混じって時たま聞こえる。華奢な肩が呼吸に合わせてだろうか、小さく上下するのを見ながら孔明は言葉を紡いだ。 「君は星を読めないんだよね」 「はい。星を読む、なんて私の世界にはありませんでした」 「そっか。じゃあ、君の星がこの大きな夜空の中のどこにあるのかも、わからないんだね」 花の視線がつと下がり、孔明に向かう。驚きにほのかに見開かれた瞳が、いつもよりきらきらと輝いているように見えて孔明はそっと息を零した。彼女の瞳にうつりこんだ星空をじっと眺める。 少しの間を置いて、花はやはり驚いたような声音で言葉を発した。 「あるんですか。私の星なんて」 「あるよ。ちゃんとある。そこから君の天命を読み取ることだって出来るよ。……ボクはね」 孔明は頭の後ろで腕を組み、意地の悪い笑みを浮かべた。 「君には、読めないけれど」 「え、ど、どれですか、私の星──」 「それを言ったら面白くないだろ。自分で探してみることだね。ついでにボクの星も探してみなよ。玄徳様のものや、孟徳のものもね」 細く息を吐き、瞳をすっと細めた。無意識に星を探し、孔明は軽く苦笑する。 「星を見るだけで色々なことがわかるようになるといいんだけどね。君にはもう、きっと必要ないから」 「え……?」 「んー。まあ星読むのは君にはまだ早い、ってことかな。ははは」 場を濁すように孔明は笑い声を零し、それから組んでいた腕を下ろす。花は納得がいかないような表情を浮かべていたが、それでも追求しても孔明が答えを出すとは思わなかったのだろう、視線を伏せた。 ちょっとかわいそうなことをしたかな。花の表情を見て、孔明の表情にも苦い色が浮かぶ。 星読みは彼女には必要ない。孔明はほんの僅かに頭を垂れる。戦乱の世の中で住むというのなら、そして軍師を続ける必要があるというのなら、星読みの技術だって必要になるだろう。でも、彼女には必要なんてないのだ。 花は帰るのだから。 「──それじゃあ、師匠の星だけでも教えてください」 「ボクの星?」 「そうです」 花の真摯な瞳と、孔明の視線が交差する。教えない。舌を出してそう言って、意地悪をしてやろうか、なんて考えが浮かんだが、孔明はそれを直ぐに打ち消した。 ボクの星。自身の星の姿を思い返し、孔明はほぼ反射的に手のひらでとある星を指差していた。 「……あれ、だよ。あれがボクの星」 「そうなんですか? なんだか儚い、ですね」 「そうだね。でもボクの星が玄徳様よりも輝いていたらそれはそれで駄目だろ?」 額に皴を寄せ、孔明は腰に手をあてた。胸を張るような格好をし、孔明は猫のような瞳を細めて笑う。 「それよりも、おまじないは効いたようだね」 「おまじ、…………」 花が言葉を無くす。急激に真っ赤に染め上がる頬を見つめ、孔明は喉をかすかに鳴らして笑った。 「顔が真っ赤だ」 「……、おまじな、あの、おまじないは、その、効いたと思います」 「そう。それなら良かった」 うろたえる様を見つめていると、孔明の胸中に僅かな気持ちが湧き上がってくる。その感情が言葉に表れるよりさきに、孔明は気持ちに蓋をした。紐で何重にも縛り、もう現れてこないように──。それでも滲んでくる暖かな感情を、ため息と共に地面へと落とす。 「後は、季玉様が簡単に降伏してくれると良いんだけどね。まあ、季玉様については心配ないだろう」 「そうでしょうか……」 「心配? 玄徳様のことが? それとも、季玉様のことが、かな」 意地の悪い問いかけをした、と孔明自身もよくわかっていた。花の表情は見る間に暗くなる。伏せられた目蓋が白く、おおよそ孔明の持つそれとは全く違った清廉さを称えていた。 花の言葉を待つ間、孔明はじっと花の顔を見つめていた。最初に出会った時はとても頼りになりそうな、しっかりとした表情を浮かべていた。花が話すたびに会話に登場する、全幅の信頼を寄せているであろう師匠が羨ましかった。彼女の言う師匠になったら、彼女はボクのことを好きになってくれるのだろうかと、必死で努力をした。 いつ好きになったかは覚えていない。きっと出会ったときから好きだったのだ。そして、その感情は色あせることなく、孔明の胸中を満たしている。 好きだ、とその言葉を口に出すことはない。一度消えてしまった彼女が、再度自身の目の前にあらわれた。それだけで、孔明は十分だった。一度現れて、消えて、もう一度現れた彼女は戻りたいと言った。ならば、と孔明は意思を固めた。 ──花を元の世界に戻す意思を。 風が途切れる。花の声が、孔明に届いた。 「わかりません。どっちも心配なのかもしれません……」 「うん。そっか。それなら良いんだ」 花らしい答えだと、孔明は表情に喜色を浮かべた。その途端、花の焦ったような声音が続いて耳朶を叩いた。 「それに、師匠のことも心配です」 予想もしていなかった花の言葉に、孔明は軽く目を見開き、それから困ったように苦笑を浮かべた。 「ボクの何が心配だっていうのさ。弟子は師匠を信頼するものだよ。それに、ボクを心配するくらいなら自分の心配をしな」 「……そうですよね。なんだかおかしなことを言ってすみませんでした」 花の微笑みに孔明も微笑を返す。その時、ひときわ大きな風が吹き、花の外套を躍らせる。肩までかかった栗色の髪の毛が、さらさらと柔らかな線を描いて揺れた。 「それじゃあ、私、そろそろ部屋に戻りますね」 「うん。おやすみ」 「師匠はまだ戻らないんですか」 疑問に濡れた声音に孔明は笑みを浮かべて返す。「やることがあるからね」 「それをやってから、ボクは戻ることにするよ」 孔明の言葉を聞いてだろうか、花は一瞬だけ逡巡するような表情を見せた。おそらく、孔明の傍に居るべきか迷っているのだろう。その迷いを断ち切ってやるために、と孔明は言葉を続ける。 「君に風邪を引かれたら困るんだ。ボクの言っていること、わかるだろ?」 「……はい。おやすみなさい、師匠」 「おやすみ。良い夢を見るんだよ」 孔明の言葉の真意にすぐ気付いたのだろう。花は軽く笑みを浮かべて頷くと、そのままはしごを降りていってしまった。自室へと足早に歩を進める花の背中にゆるく手を振り、孔明はその場に脱力するかのように腰をずるずると下ろした。 「……花」 小さく呟いた声音に言葉は返ってこないが、孔明はそれでも良いと肩をすぼめた。唇には押さえきれない笑みが、じんわりと滲んでいた──。 「……明、孔明」 深夜。いつものように見張り台へ登り、孔明は星を見る。星を眺め、辿り、意味を読む。いつものように作業を繰り返し、行くべき道を読み取り、その天命を悟り、玄徳のためになるための考えを、時間を惜しまずに考えていた。その孔明の耳朶を、爽やかな声音が、突く。孔明は空へ向けていた視線を下ろし、はしごを登ってきた人物へと向ける。 「玄徳様。どうしたのですか、執務は──」 「終わった。終わって、ちょっとお前に相談したいことがあったんだが、部屋に居なかったろう。だから探しにきたんだ」 こんなところに居たんだな。呆れたように紡がれる言葉に、孔明は羽扇で口元を隠して微笑む。 「それはそれは、すみませんでした。星を読んでいたんです」 「星を、か。それで、何かわかったのか」 「はい。これからの行く先が──」 孔明は目を伏せる。玄徳が見張り台から乗り出して星々を眺めるのをちらりと横目で見て、それから羽扇をすっと夜空へさしだした。 「あれが玄徳様の星です」 「そうなのか。いや、どうにも俺にはこういうことはわからなくてな……。星から何かを読み取るというのも、なんだか信じがたいが──」 玄徳は申し訳なさそうに眉根を寄せ、だが、と言葉を続ける。 「孔明、お前が言うことには信頼を置いている。お前が星から何かを読み取ると言うのなら、きっとそうなのだろうな……」 目映そうに目をほそめて玄徳は空を眺める。それを見つめ、孔明自身も目を空へと向けた。玄徳の星を眺める。力強い星だ。だが、これから先もそのように輝いているかどうかは──。孔明は首を振る。……それを輝かせ続けるのが自分の、軍師である自分の仕事だろう。 天下が三分され、僅かに平和になったとは言え、これがずっと続くとは限らない。それは天からも読み取れたことだった。──望んでいる、永遠の平和にはまだ程遠い。 「最近は、仕事が増えてかなわないな。孔明、お前には色々と世話になってしまって、申し訳ない」 「何を言うんですか。玄徳様を支えるのがボクの役目です。そのためなら徹夜の一度二度三度くらい、どうってことはないですよ」 言葉に秘められた皮肉に気付いたのだろうか、それともただ単純に申し訳なく思っているのか。玄徳は困ったような表情を浮かべた。 「孔明は全部一人でやっているから、負担もすごいだろう。弟子でも取ったらどうだ」 「いえ。ボク一人で大丈夫です。それに、ボクは、彼女以外に弟子を取るつもりはありません。玄徳様もそれはおわかりでしょう」 「花か……。……花は、どこかで元気にやっているんだろうな」 柔らかな声音で紡ぎだされる言葉に孔明は瞬きをする。 「そうですね。彼女の住む国は希望で溢れています。きっと、戦のことなど忘れて楽しんでいると思います」 そっと呟く言葉は夜の闇へ溶けていく。 花が自身の世界へと帰ってから、もう何十日も経った。芙蓉姫から、孔明は何度も責められている。会うたびに、「何故勝手に花を帰したのですか。お別れくらい、私にだってさせてくれてもいいでしょうに」と、睨みつけながら言われるのだから孔明にとってたまったものではない。 あの時で無いと駄目だったのだ。孔明は一人、嘆息を零す。あの時で無いと、これ以上は、自分の我慢が限界になりそうだった。 花は居なくなる存在なのだと何度も言い聞かせていたというのに気持ちは留まることを知らなかった。会うたびに惹かれていく。話すたびに衝動が強くなる。 花はこの世界に居ないのだと、花と話すたびに何度も自身に言い聞かせた。限界だった。益州を手に入れ、僅かながらも平和が訪れたとき、二人で町へ出かけたとき、恋人同士が食べるという飴をどんな思いで食べたか。 孔明の鼓動が早くなる。花のことを考えるといつもそうだ。自身の表情に苦い色が浮かぶのが、自分でもよくわかり、孔明は咄嗟に羽扇で自身の口元を隠す。 「……それなら、良い。花には平和が似合うからな」 「そうですね。彼女には平和な国がよく似合います」 孔明は、つと視線を空へ向ける。玄徳の星の傍に儚く輝いていた、花に孔明の星はどれかと問われ指差した星はもう、無い。 あれは孔明の星ではない。花の星だった。花が居なくなり、あの星も消えた。それは当然のことだ。星は天命であり、人の命の輝きである。人が消えれば、その人の星も消える。わかっていた。わかっていたのに。 孔明は無意識のうちにその星を、探してしまう。 「……本当に良かったのか」 「何がですか」 「──花を帰して。俺は、お前のことだからてっきり……」 「彼女の希望を潰してまで、ボクは彼女をここに引き止めたくはありません。彼女の希望は、ボクが潰すべきではない。師匠として、弟子の可能性を潰すのは──」 孔明は息を吐く。星を探すのを止め、玄徳をしっかりと見つめた。 「弟子の可能性を潰すのは、ボクはしたくありません」 「……そうか。無粋なことを訊いてしまって、すまなかった」 「いえ。それより、玄徳様は明日も執務があるでしょう。お休みになられてはいかがでしょうか」 遠まわしに拒絶するような物言いに、玄徳は苦笑を浮かべたまま、頷いた。 「そうだな……。……孔明、お前も寝ろよ」 「もう少し星を読んでから寝ようと思います。……おやすみなさいませ」 「ああ。おやすみ」 言うなり、はしごを直ぐに降りていく玄徳の姿を視界の端に納めてから孔明は空を眺めた。 「……──」 吐息と共に零した言葉は消えていく。それでも良かった。天には花の星が見えない。だが、花の星は孔明の記憶の中に根ざしている。それで、よかった。 瞳を閉じると、花の星が目蓋の奥でゆっくりと流れた。 (終わり) 孔明の好感度足りないBADEND非常に萌えました 2010/4/6 |